第三話 秘密の庶民体験、始めます
翌日の放課後、俺は昇降口で玲華を待っていた。
昨日の約束をきちんと覚えているかどうか少し不安だったのだ。何しろ相手は鷹司玲華だ。今日になって「やはりあれは冗談でした」と言われても、それはそれで筋が通ってしまう立場の人間だった。
昇降口の柱にもたれて時計を気にしていると、生徒たちが次々と帰っていく。部活へ向かう掛け声や、友人同士のはしゃぐ声が遠くから聞こえてくる。そんな中、俺だけが場違いにそわそわしていた。
だが玲華は約束の時間ぴったりに現れた。制服姿のまま、鞄を一つだけ持って。
「お待たせしました」
「本当に来るとは思いませんでした」
「約束は約束です。それに」
玲華は少し声を落とした。
「一般生徒の生活を知ることは、生徒会長として必要なことだと判断しました」
その言い訳めいた理由づけに俺は思わず笑いそうになった。昨日あれだけ真剣に頭を下げておいて、今更「必要だから」はないだろう。だが、玲華の表情はあくまで大真面目で、本人はきっと本気でそう思っているのだろうと分かるから、余計におかしかった。
「じゃあ、生徒会長として、コンビニに行きましょうか」
「コンビニ、ですか」
「一番身近な庶民の場所ですから」
商店街の一角にあるコンビニに入ると、玲華はまず入り口で立ち止まった。自動ドアが開いたことに、わずかに肩を震わせている。
「これは……」
「センサーで開くだけです。驚くことじゃないですよ」
「わ、分かっています」
平静を装う玲華だったが、店内に入ってからもその挙動は忙しなかった。陳列棚を端から端まで眺め、商品を一つずつ手に取っては、まるで美術品でも鑑定するような真剣な顔で観察している。棚と棚の間を移動する足取りまで、どこか儀式めいて見えた。
「これは、何でしょうか」
「それはカップ麺です」
「知っています。ただ、種類がこれほど多いとは思っていませんでした」
棚には十種類以上のカップ麺が並んでいる。玲華はその一つ一つを手に取り、パッケージの成分表示までじっと読み込んでいた。まるで契約書を精査する経営者のような真剣さで、たかがカップ麺の裏面表示に向き合っている。
「鷹司さん、カップ麺食べたことあります?」
「……ありません。ただ、以前どこかで、高級料理人が特別な技術で作る料理だと聞いた記憶があります」
「それ、たぶん誰かにからかわれたんだと思います」
「……そうなのですか」
真顔で驚く玲華に、俺は今度こそ笑いをこらえきれなかった。誰がそんな嘘を吹き込んだのか知らないが、その人物には後で会って感謝の握手をしたい気分だった。おかげで最高に面白いものが見られる。
次に玲華が手に取ったのは買い物かごだった。持ち手を両手で握りしめ、どこか不慣れな様子で腕にかけている。傾け方が浅く、放っておいたら中身が滑り落ちそうだった。
「かごは、こう持つものなのですか」
「持ち方合ってますよ。普通です」
「そう、ですか」
安心したような、それでいてどこか誇らしげな顔をする玲華。かご一つ持てたことがそんなに嬉しいのかと思うと、なんだか妙にくすぐったい気持ちになった。学年首席の称号よりも、今この瞬間のかごの持ち方の合格判定のほうが、彼女にとって重要らしかった。
レジに並んでいるとき、玲華はおにぎりの棚からツナマヨとおかかを一つずつ選んで会計に加えた。レジの店員が淡々とバーコードを読み取っていく様子すら、玲華は興味深そうに見守っていた。
会計を終えて店の外に出ると、玲華はさっそくおにぎりの包装フィルムと格闘し始めた。
「……この、開け方が分かりません」
「ここに数字が書いてあるので、順番通りに剥がすんです」
「数字?」
「1、2、3って印刷されてるでしょう」
玲華はしばらくフィルムを睨みつけていたが、やがて1番のシールを見つけ、慎重に引っ張った。だが途中でフィルムが変な方向に破れてしまい、海苔がぐしゃりと崩れる。
「……失敗しました」
その声には、生徒会の議案が否決されたときのような重々しさがあった。たかがおにぎりの包装なのに。
「大丈夫ですよ、味は変わらないので」
玲華は少し悔しそうな顔をしながらも、崩れたおにぎりを丁寧に頬張った。口の周りに米粒がついているのにも気づかず、真剣な顔で咀嚼している。
「美味しいです」
「よかったです」
「次は、綺麗に開けられるようにします」
たかがおにぎりの包装に、そこまで本気になる必要があるのだろうかと思ったが、玲華の性格を考えれば納得もできた。彼女はきっと何事も中途半端にできない性質なのだ。弓道で全国大会に出るような人間が、包装フィルムひとつに手加減できるはずもなかった。
商店街を歩きながら、玲華はコンビニで見た商品の名前を一つずつ確認するように口にしていた。「肉まん」「アイスクリーム」「電子マネー」。まるで新しい単語を覚える留学生のようだった。時折、俺の顔を横目でちらりと見ては、発音が合っているかを確かめるような素振りさえ見せた。
「その確認、何のためにしてるんですか」
「忘れないようにです。次に来たときに困らないように」
その返事の生真面目さに、俺はまた笑いそうになった。
その様子を見ているうちに俺は玲華をからかうことをやめていた。彼女は本当に何も知らないだけなのだ。それを馬鹿にするのは違うと思った。むしろ、これだけ真剣に、これだけ丁寧に、世界の当たり前を一つずつ拾い集めていく姿を見ていると、こちらの背筋まで正されるような気持ちになった。
俺が自然に教えることを続けていると、玲華の表情から次第に緊張が抜けていくのが分かった。肩の力が抜け、時折こちらに向ける表情にも柔らかさが混じり始めていた。
そんな帰り道、商店街の一角で小さな声が聞こえた。
「お母さん……お母さん、どこ……」
声の主は五、六歳くらいの男の子だった。周囲をきょろきょろと見回し、今にも泣き出しそうな顔をしている。夕暮れの人混みの中で、その小さな背中がやけに心細く見えた。
俺が声をかけるより早く、玲華が男の子の前にしゃがみ込んでいた。制服のスカートが地面に触れることも気にせず、目線を子供の高さまで下げている。
「大丈夫。落ち着いて話してくれる?」
その声はコンビニで戸惑っていたときとは違う、驚くほど落ち着いた響きだった。声のトーンが一段低く、それでいて温かい。俺はその変化にわずかに面食らった。
「お母さんと、はぐれちゃったの」
「どこではぐれたか、覚えている?」
「あっちの、八百屋さんの前……」
男の子が指さした方向を確認すると、玲華はすぐに周囲の状況を頭の中で整理し始めた。視線が素早く動き、周囲の建物の配置を確認しているのが分かった。
「この商店街の防犯カメラは、確か入り口付近と中央の交差点にありますね。八百屋の場所から考えると、お母さんはまだこの周辺にいる可能性が高いです」
そう言うと玲華は近くの店の店主に声をかけ、迷子の放送を頼んだ。てきぱきとした指示は、まるで生徒会の会議を仕切っているときのようだった。数分前まで包装フィルムと格闘していた同一人物とは思えない、切り替えの早さだった。
数分後、放送を聞いて駆けつけた母親が男の子を見つけて抱きしめた。安堵の涙を流す母親の姿に、周囲の店の人々も自然と笑顔を見せている。
「本当にありがとうございます」
「無事でよかったです」
玲華はそう言って丁寧に頭を下げた。母子が立ち去るのを見送りながら俺は改めて思った。
玲華の頼もしさは肩書きだけのものじゃない。
困っている人を前にしたとき彼女は誰よりも冷静に誰よりも早く動く。それは学園での生徒会長としての姿と少しも変わらなかった。カップ麺の値段も知らず、おにぎりの包装ひとつでつまずくような人が、こういう場面では誰よりも頼れる存在になる。そのギャップに、俺はいまだに慣れきれずにいた。
「鷹司さんって、本当にすごいですね」
「当然のことをしただけです」
「その当然が、なかなかできないんですよ」
玲華は少し照れたように視線をそらした。
「……笹岡くんこそ、私に色々教えてくれています。当然のこと、しているだけです」
妙な言い合いになりかけたところで、二人とも同時に黙り込んでしまった。夕方の風が商店街のアーケードを吹き抜け、どこかの店の暖簾が小さく揺れた。
夕暮れの商店街を並んで駅まで歩く。今日一日で、玲華の知らない世界が少しだけ広がったような気がした。
駅の改札前で別れる直前、玲華が珍しく自分から口を開いた。
「笹岡くん」
「はい」
「次は、どこへ連れていってくれるの?」
その声には昨日までの意地の張った様子はなかった。ただ純粋に次を楽しみにしているような響きだった。夕焼けを背にしたその表情は、学園で見るどんな笑顔よりも自然に見えた。
俺は少し考えてから答えた。
「ファミレス、行ったことあります?」
「……ありません」
「じゃあ、次はそこにしましょう」
玲華は小さくうなずくと改札を抜けていった。今度はもう迷うことなく。カードをかざす手つきにも、昨日にはなかった慣れが見て取れた。
その後ろ姿を見送りながら俺はふと思う。
この「庶民体験」は思っていたよりもずっと楽しいものになりそうだった。




