#014 ゲームオーバー後の世界
午後の授業は、ほとんど記憶に残っていなかった。
半分眠りながら……ただただ、静かに起きていた最悪の展開に残り半分の意識が奪われ、そしてうなだれていた。
『私……すでに自分のキャラクターデータ、消しちゃってますから』。
確かに久保はそう笑顔で言っていた。
――つまり、深山へのあの誓約を久保はもう消すこと自体出来ないということを意味していた。
必要な鍵を、目の前でマグマの海に投げ捨てられたような気分だった。
もしかしたらもう一度同じ名前で同じステータス設定でまったく同じキャラクターを久保が制作すれば、あの誓約の一文を消すことも出来るのかもしれないが、正直それでもまずあり得ないと思うほど可能性としては低い気がする。
……その上であの悪魔のような久保が、絶対に消さないとまで断言しているのだ。
そんな久保が協力を惜しまず深山のためにトレーラーに駆けつけてお金を払い、もう一度まったく同じキャラクターを作り、深山の目の前まで行って言われたように誓約の一文を指で消す……だって?
もはや、絶望するしかないような状況だった。
――いや、もう断言しよう。現実的じゃない。それは。
それならまだ『久保がキャラクターを消した瞬間、あの誓約が消えている』と微かな希望を持つ方が遥かに現実的だ。
「……」
でも現実は、俺の席から左にふたつ、前にひとつズレたところにある深山の席は今もこうして空席のまま。
すでに誓約の文章は消えていて、そのことに深山が今も気が付いていないだけという可能性もあるが……あまりその確率は高そうではない気がする。
例えば『交渉失敗した』と俺は伝えたが、1対3の交渉ではなく1対1の交渉が3つなのだから、部分的に成功しているかもしれないと頭の切れる彼女ならそこまで考えが及びそうだ。
少なくともこう考える以上は、俺が深山ならその可能性に気が付いて必ず確認していると思う。
そもそもにおいて誓約が無効となるルールの観点から考えても、苦しい。
『・死へと導く場合』
『・実行不可能な場合』
『・意味不明な場合』
『・内容が重複する場合』
『・内容が矛盾する場合』
『・内容を否定する場合』
『・内容を改変した場合』
『・60日間が経過した場合』
……誓約が無効となる条件は、要略すると確かこんな内容だった。
つまり『入力したキャラクターが死亡または削除された場合』みたいなニュアンスの条件は存在していないのだ。
これならまさに呪いのように、死後も発揮し続けると考えるほうが自然だ。
「はぁ……」
もう、泣きたい気分だ。
自分で言うのも変な話だが、だから今の俺みたいに心を腐らせて途方に暮れるのも、仕方ないだろう。
正直、万策尽き果てた。完全にこれじゃゲームオーバーだ。
ここから出来ることなんて何があるんだろう?
消化試合のさらに負け試合に途中登板するピッチャーみたいな気分だ。
あとはもう、どうやってこれからの深山の二ヶ月間をフォローしてあげるのかという点と――
「深山の親に……どう説明しよう……」
――連絡方法について、悩んでいた。
久保を説得できる可能性があるまでは連絡を保留していた。
なぜならいつ帰れるか、によって内容が大きく変わるからだ。
例えば今夜とかなら『実はプチ旅行してて帰りの電車が――』みたいな当たり障りの無い理由で強引に誤魔化すことも不可能じゃないからだ。
でもこれがあと二ヶ月なら、どうだ?
それを代理で告げる俺は、もはや誘拐犯にしか思われないだろう。
どう考えても不自然過ぎる。
それならいっそ、警察に通報のほうがマシだ。
久保たちを犯人として吊し上げることを優先せず、深山救出の速度を第一に考えるなら『トラブルで抜け出せなくなっている』みたいな表現になるだろうか。
それなら『自己責任』『一切介入しない』と放任の姿勢を貫いてるEOE運営側もさすがに警察の要請に応じるだろうか?
「一度……深山に確認、かなぁ」
警察沙汰にすることを念のため本人に確認しておこう。
まあ親がすでに警察に相談している可能性は高いわけで、俺からの通報と名前が一致すれば動いてくれるように思う。
ただしそれは『誘拐』とか『監禁』とかそういう事件として、だ。
……大がかりなことになりそうだった。
「……はぁー」
もう一度ため息を落とす。
全然ダメだ。ベストは尽くしているつもりだが、何一つ上手く行かない。
思い返せばこの数日、一度でも成功したと言える交渉はあったのだろうか?
世の中ってのは本当に複雑に出来ている。
人それぞれの思惑っていうのは簡単に俺なんかの想像を超えていて、とてもコントロールできるような代物ではないと痛感した。
踏み込めば踏み込むほど、そこには人の心の奥深さを感じた。
一見すると単純なことでも、ひとつひとつにそれなりの意味合いが存在してる。
あまりに思案が行き届かない自分の頭の足りなさに、泣けてくる。
……もう、打ちひしがれるしかなかった。
「あの……さ……コーダ」
「ぁん?」
ふと伏せていた顔を上げると、そこには岡崎が立っていた。
どうやらいつの間にか最後のHRも終わって、放課後に突入していたらしい。
「キモイんだけどぅ……」
「お前、いきなり失礼過ぎるだろ」
「だって……普通こういう時って、速攻で問い詰めてくるじゃん? でも、いつまで待ってもコーダ来ないし……もう放課後だし……モヤモヤしてて、キモイ」
「…………」
「な、なんだよぅ……!」
「岡崎……お前ってさ。自分勝手で考え足りなくて、その上に主体性がなくて酷いヤツだけど――」
「はぁ!?」
「――ちゃんと空気が読めるし、筋を通すよな」
「な……なんだよ、それっ」
見るからに困惑しているようだった。
久保から比較すると凄くシンプルで……だから嫌いになり切れない。
「……良かったら、聞かせてくれないか?」
「何を」
「1年の時、岡崎が深山を虐めた理由」
「……っ」
一気に岡崎の顔が曇る。
「その……昨日イジメた理由、じゃなく?」
「ああ、そっちじゃなくて、1年前の話」
「どうして……そんなことっ、わざわざコーダにっ」
「反省してるんじゃなかったのか? 俺はてっきりそう思ってたんだけど」
「してるけどっ……昨日のことは……やり過ぎたけど……ごめん」
「謝るのは俺じゃなくて、深山にな?」
「そうだけど……マジ、ごめん」
理由まではわからないけど、どうやら岡崎なりに思うことがあるらしい。
彼女なりに真剣に謝罪しているようだった。
「ならやっぱり1年前のこと、聞かせてくれ」
「だからっ、それ、関係なくネ……?」
「凄くある」
「……どして?」
「岡崎のことを嫌うか許すか決める、俺の中での大事なポイントだから」
「ぅ……」
「空気が読める岡崎なら意味、わかるだろ? つまり俺はたぶん岡崎のことを嫌いになりたくないんだ。だから納得するために、その理由が聞きたい」
「そ、そういうのっ、メント向かっていうなっ……ハズいっ」
「お前が恥ずかしがって、どーするよ」
「うぅー……コーダってさ――」
「ぁん?」
「――……何でもない。ムカつく」
勝手にムカつかれてしまった。
「まあいいや。実際にこうして話してみると感じるんだけどさ……岡崎、お前が深山を虐めたってのが、正直よくわからない」
「何で? 深山姫って良くも悪くも目立つじゃん。言うこと言うし。アタシみたいなのがムカついても普通じゃん?」
「いや、それ逆だろ?」
「へ?」
「俺の記憶が正しければ……今のあの深山って、岡崎が虐めた後に出来たと思う。それまではそこまで目立たなかったし、ズバズバ前に出て発言する人間じゃなかったと思ってる。もっと静かで、お嬢様っぽくしてて、教室の隅で本を読んでいるような感じだった」
「へぇ~」
超ニヤニヤしてる岡崎。
「なんだよ、コーダもチェックしてたんじゃん?」
「……まあ、それなりには」
今ならわかる。たぶんその1年近く前の、大人しいお嬢様っぽいのが本来の深山のスタイルであり……EOEでの泣き虫で弱気な『ミャア』のほうが素だ。
本当は『さん』『君』付けで相手を呼びたいけど、舐められるから呼び捨てにしてる。
そんなぎこちなさが違和感として深山に漂っていたことに今さらだが俺は気が付いていた。
つまり岡崎からの虐めを経験して、防衛対抗策として今の深山が形成されたのだ。
……そこまでは状況から推察出来た。
だからもっとその先が理解したくて、岡崎にこうして質問している。
「そんな大人しい深山を、どうして岡崎は虐めた?」
「…………」
「どうした。話しづらいなら、場所を変えるか?」
「んーん……ここでいいけど」
自分の前髪を何度も何度も撫でて、視線を泳がせる岡崎。
「その、さ……これ、アタシの勝手な感想だからさ……深山姫のいないとこであんまし言いたくない」
やっぱり岡崎は筋を通すし、本質としては優しい人間だと思った。
だからこそ、どうしても聞きたい。
「わかった。これから岡崎が話すのは、ただの岡崎側の言い分だ。嘘や誇張が入ってるかもしれなくて、真実じゃないかもしれない。そう思って聞くから。だから岡崎の思うまま、正直に話してくれないか?」
「ん…………」
うつむいて沈黙する岡崎。そして。
「――ある日……突然、深山から……アタシ睨まれた」
「え?」
「そう。意外じゃん? あのころの深山は地味で大人しくて、アタシとは全然関係なくて……それまで深山なんてヤツがいることも意識してなかったぐらいなのに、突然マジで睨まれた」
深山の純粋なあの瞳は、見る人によってはこれ以上なく鋭く感じると思う。
でもたぶんそういう意味じゃなくて、本当に睨んでたのだろう。
それは察知することに長けている岡崎の言うことだから信じられそうだった。
「それでもアタシ、最初はスルーしてたんだよ? 気のせいかもって……でも、毎日毎日、ずっと睨まれて……アタシ、凄くイライラしてて……」
「それで、キレた?」
「ん…………何考えてるのかわかんなくて……アタシのこと嫌いだって、その感情だけめちゃくちゃ伝わってきて…………どうしようもなくてっ」
――ポタッ。
「そしたらいつの間にか、アタシのまわりは敵だらけじゃん? いつの間にかアタシだけ悪者扱いになっててっ……追い込まれてっ、追い込まれてっ…………」
――ポタッ……ポタッ。
俺の机の上に、滴が落ちている。
俺はそれを見ないようにしていることぐらいしか出来なかった。
「アタシ……本当に、悪かったのっ……? 虐めたの、は……悪かった。マジでそれはアタシが悪い。だからちゃんと謝った……でも…………でもさ?」
細かく揺れる岡崎の頭に、ポン、と軽く手を置いた。
「ぐずっ……優しく、するなぁ……アタシは、深山の、敵、だぁ……悪者なんだから……コーダがそうやるの……おかしい、からっ」
「そうだな。どうあっても虐めた事実は間違いないし、昨日だってその鬱積から復讐したのは大きな間違いだ。実際にはそんな酷い誓約を書いてないが、それでも鈴木や久保に同調した罪は重い。悪いのはお前だ」
そう言いながら、俺は泣いている岡崎の頭を撫でることを止めない。
「だからぁ……マジ、止めてっ……マジ、泣く、からぁ……」
もう泣いてるのに、不思議なことを言うヤツだ。
「お前のやったことは間違ってるし、許せない。そういう人間には腹が立つ」
「ん…………ごめん」
でも俺は、自分の非を認めて悔いる人間は、嫌いじゃない。
「岡崎……お前ってさ、良いヤツだな」
「ほへ? な、なんで……今ので、そういう話……??」
泣くのも忘れて、目を丸くしてぽかんとしている岡崎の表情があまりに間抜けで、つい笑ってしまう。
岡崎が基本的に優しくて良いヤツだって理解できる。嫌いじゃない。
同時に愚かで主体性が薄く、状況に簡単に流されてしまうヤツだ。嫌いだ。
本当に人っていうのは複雑で、一筋縄ではいかない。
こうして簡単に矛盾したまま成立してしまう。
「はっはっは」
「こ、こらぁ……っ、人の頭、気安くっ、ポンポン叩くなぁ……!」
「ありがとう。ずいぶん俺の気持ちは救われたよ」
「もぅ、わけわかんないよぅ、コーダ、わけわかんないっ!!」
「そうか。岡崎って犬っぽいんだな?」
「何だよ、それぇ……!!」
善悪とか関係なくて主人にべったりで、目の前のことにすぐに夢中になって、キャンキャン騒いでて、物凄く駄犬っぽい。
駄犬が興奮のあまり噛みついちゃったって考えると、なんか『仕方ないなあ』と思えてくるから不思議なものだった。
相手を見下した凄く失礼な考え方だけど、それぐらいはかわりに許してもらおう。
しかし妙な組み合わせだ。犬っぽい岡崎に、シマウマみたいな――
「――ん?」
遠くで何かの小さな騒ぎ声が聞こえて、不意に意識が持って行かれる。
「ケンカ?」
「いや……そうでもないらしい」
ハスキー掛かった女の子の叫び声が少し聞こえたが、別に喧嘩というわけでも無いようだ。すぐに騒ぎは収束する。
「何?」
「さあ?」
互いに少し首を傾げて不思議がる仕草があまりにシンクロしてて、互いに自然と笑い合ってしまった。
「――なあ。岡崎って下の名前、何て言うんだ?」
「え……『あい』だけど、何で?」
「どういう漢字で書くんだ?」
「逢瀬の逢…………だから、どして?」
「岡崎逢か。意外と真面目っぽい名前だな」
「なんかムカつくんですけどっ!?」
名前というのは不思議だ。
忽然と、そこに個人がいることの認識が強まる。
目の前に岡崎逢がいる。
『あいちゃん』なんて小さい頃は親に天使のように可愛がられたんだろうな。
彼女の今まで生きて来た道の、想像が広がる。
……だから俺は、特に下の名前で呼ぶのが苦手だった。
親しすぎる。距離が近すぎる。
他人なのに、他人じゃないような気持になってくる。
それは許せない憎い相手も、正しく憎めなくなる。
相手の評価が冷静に下せない怖さがあった。
「はぁ……」
……ああ、だからつまり。
岡崎への憎しみは、名前を聞いた段階で俺の中で静かに幕が引かれたのだろう。
岡崎のやったことは人として認めちゃいけない。
でも同時に、本人が悔いて省みるなら、いつか許さなきゃいけない。
俺は悪魔じゃないんだから。
そこは別けなきゃいけないんだ。
「――え、なになに? 香田と岡崎とか不思議な組み合わせじゃん」
「お前らって仲良かったっけ?」
たぶん岡崎が泣いている辺りから注目が集まっていたのだろう。
楽しそうに俺らが会話しはじめて、気にしていた人たちが集まってくる。
「っていうかさっき、岡崎さん泣いてなかった?」
「え、えーと? あははっ」
そこをズカズカ聞いてくる人がいて、ちょっと驚いてしまった。
俺なら絶対にスルーするところなんだけどな……。
案の定、岡崎も困った風に笑って誤魔化してる。
まあ急に仲良くなっていることも含めて、無視できないほど不自然だと感じたのだろう。
さて、どうやって助け船を――
「告って、見事に玉砕って感じぃ?」
「は、い?」
目を白黒させるというのは、まさにこのことかと思い知った。
まわりから『きゃーっ』なんて黄色い悲鳴が巻き起こっている。
「コーダ、好きな人がいるんだってさ。ちぇ~」
「…………」
確信するが、絶対に岡崎は俺のことが好きではない。間違いない。
それはこの『してやったり』の岡崎からの視線だけでも露骨にわかる。
さっきの犬っぽいと言ったことへの復讐のつもりだろうか?
単に俺を困らせて楽しんでるだけのようだった。
「だからさ、ま、すっぱりあきらめて。友達でよろしく~って感じ?」
「……ああ」
悔しいが、確かに今のこの状況を説明するにはもってこいの言い訳だった。
俺の考えてた他の選択肢だと、岡崎が泣いていたことへの説明が難しい。
仕方ないので同調するしかなかった。
「でもどうして香田なわけ?」
「ほへ?」
「香田のどんなところに惚れたのさ?」
「え、えええっ!?!?」
後先考えないで発言するからそういうことになる。
ざまみろ。もっと困れ。
「そ、そのぅ……ゲーオタなとこぉ? アタシ、ゲームのこと興味あるからさ、詳しそうな香田なら、優しく教えてくれるかなーって?」
「……おい」
しどろもどろな岡崎を楽しんでいたのもつかの間。
俺にゲーオタの烙印を押そうとするとんでもない発言は看過できない。
……いやまあ、否定も難しいのだけど。
「え、うっそ……香田ってオタクだったのぉ? 確かにいつも暗そうで――」
「ちょっと!! コーダのこと悪く言わないでよっ!!!」
「――え。あ……ごめん」
バァン、と両手で机を叩いて露骨に敵意をむき出しにする岡崎。
「え。あ……あれ……その、ほら? これは……好きな人をゲーオタとか悪く言われるとムカつくあの感じ??」
「いや、岡崎。お前が最初にゲーオタって言い出してるし」
支離滅裂過ぎて、思わず頭を抱えてツッコミを入れる俺だった。
ほんとに岡崎は理屈じゃない。
「え。あれ? そう?? あははっ?」
駄犬過ぎて頭が痛い。
……ああ、でも岡崎のまわりに人がいるのも、理解できる気がする。
とにかく人懐っこいんだ、こいつは。
「はい、岡崎。『ごめんなさい』は?」
「うー……コーダ、ごめん」
「馬鹿か。謝る相手が違うだろ」
「あ、そか。岡安、ごめん~」
もはやコント状態に突入してて、さっきの空気も一蹴しドッと笑いが溢れてる。
「ぎゃはははっ、マジ自分でも超ウケるぅ~!」
「なあ岡崎。友達になるならひとつだけ条件がある」
「はい?」
「悪いが、その下品な笑い方はだけはやめてくれ」
「…………っ」
そう言われて露骨にムスッとする岡崎。
黙ってるってことは、了承したってことなんだろうけど。
まあ……言い方、ちょっときつかったかな。
「せっかく可愛いんだから、もったいないだろ」
後出しだが、それっぽい理由をこじつけておく。
途端にまた『きゃーっ』なんて黄色い悲鳴みたいなのが巻き起こっていた。
「はぁー…………やっぱコーダってさ」
「何だよ」
「――……何でもない。超ムカつく」
ぷいっ、と頬を膨らませてそっぽを向く岡崎だった。
俺から言わせてもらえばこんな社交辞令ひとつで騒ぐほうがおかしいし、そもそも俺のことが好きとか取り繕うために嘘を言いだしてる岡崎の方に問題があると思う。
俺はその設定に乗って利用しているだけだ。
「なあ、香田くん。ひとつ質問いいかい?」
「ん? ああ、いいけど」
そう物腰柔らかく言いだしたのは、さっきも見かけたサッカー部副部長の高井。
我ながらそれしか説明する肩書が無いのかと呆れるが、本当にそれ以外の情報がまったく無いのだから仕方ない。
「岡崎さんを振った理由は、好きな人がいるから……だよね」
「…………そうだけど」
不本意だけど、もうそういう設定になっているからそう返事をするしかない。
「もしかして香田くんの好きな人って、深山さんだったりする?」
そして三度巻き起こる、黄色い悲鳴。
……ああ。もう少し情報があったことを思い出した。
そういやサッカー部副部長の高井は、深山玲佳のことが好きだった。
これは確認するまでもなく公然の秘密として教室内に周知されているだろう。
それぐらいには露骨に毎日アプローチしていた。
「……」
あともうひとつ、今日から情報が更新されている。
悪魔に目をつけられている気の毒な人、だ。
今も遠くから、その悪魔が突き刺さるような濁った視線でメガネ越しにこっちを見ている。
……ああ、メンドクサイ。
「違うよ」
だから俺はそう返事をした。
それは嘘と言えるほどには、自分の心と離反していない。
深山のことを異性として好きだと言い切れるほどには、俺の気持ちは定まっていない。
それはもしかしたら、誓約で強制的に気持ちを聞いてしまったから……という罪悪感も手伝っているかもしれない。
深山が俺のことを好きだから、俺も深山を好きになる?
来るものは拒まず……何だかそれは、深山の身体が目当てみたいだ。
俺は深山の赤裸々な告白を聞いて性的に興奮した。それだけだ。
「本当に?」
「ああ、本当に違うよ。安心してくれ」
――だから、違う。
まだそこまで俺の気持ちは追いついていない。
それより今はとにかく、困っている深山を助けてあげたい。
それが出来るのは俺しかいない。
そんな逃れられない使命感で、俺の心は満たされていた。
……であれば、あの悪魔に少しでも刃向かうべきだとそう思った。
すべて向こうの思惑通りに――つまり深山と俺をくっつけて、高井を掠め取ろうという計画には、加担しない。
高井の深山への気持ちを閉ざすわけにはいかない。
これはいつか、あの悪魔と取引する材料になるかもしれないんだ。
「はははっ、やだな、何に安心するんだい?」
白々しい返事を聞き流しながら、俺は考えを巡らせていた。
――例えばこういうのはどうだろう?
『お前の好きな深山を虐めて苦しめてるのはあの久保だ』と高井に告げることを臭わせて、悪魔を脅すのは。
……ああ、無意味なのか。
どっちみちキャラクターを削除した久保には、深山の誓約を消せない。
ただ鈴木が休んでいる理由を俺の暴力行為だと皆に言いふらされるだけか。
であれば――
「高井。むしろ個人的に応援するよ。必要であれば協力する」
――案の定、遠くの悪魔の眼光がさらに鋭くなっていた。
でも大丈夫だろう。
こんなことぐらいで向こうは『俺が鈴木を殴った』というカードは切らない。
もしそんな蛮行に出たら報復として俺は今、こうして築いたパイプを使って、高井に久保の悪魔のような陰湿さを告げるからだ。その先は泥沼だ。
だから、互いに切り出さない限りは、互いにこのカードは切らない。
いや、切れない。
リスクに対してのリターンがあまりに割に合わない。
すでにそういう膠着状況になっていると認識した。
「香田くん……話したことなかったけど君、良いヤツだったんだなぁ!」
――さて、それは果たしてどうなんだろう?
深山は俺のことを好きでいてくれているらしい。
それを知っててこんなことを言い出す俺は、きっと酷い人間だ。
「~♪」
裏の事情を知ってる岡崎はやたら上機嫌にニヤニヤとこっちを見ている。
意外だった。
侮蔑の視線ぐらい覚悟していたので、正直、救われた気がした。
「香田くん、僕とID交換をしよう!」
ポケットから板状の携帯を取り出しながら高井が笑う。
「え。ま、まあ、いいけど……」
「あーっ、私もっ、私もっ!!」
「ねえねえ、ここのみんなでグループ作ろうよぅ」
「それ良いじゃん!」
便乗して不自然なぐらい複数の女の子たちが群がってくる。
もしかしたら教室全員のIDコンプリートを目標としてたりして、本当に俺のIDを欲しがっている人も中にはいるのかもしれないが……まあ正直、大半は人気者の高井のIDが目的だろう。
結局ここに集まる全員が対象の『§2A放課後会§』なんて謎のグループに参加することになってしまった。
「……」
家族ぐらいしか登録してない俺のリストの中でこのグループ名はあまりに浮いており、思わず眉をしかめながらしばし眺めてしまう。
「――じゃあ香田くんの好きな人は、誰なんだい?」
俺の好きな人が深山じゃないと知って心の余裕でも生まれたのか、高井が唐突にそう笑顔で追及してきた。
「え、ええ~……??」
なんで男女集まって公開の恋バナなんてしなきゃいけないんだ?
いや、確かに高井にそれっぽい返事をしたのは俺だけどさ……。
「このグループだけの秘密にするからぁ!」
「えー、あたし興味あるぅ!」
「ほらほら、言っちゃえよっ」
「香・田! 香・田っ!」
名前も知らないようなやつらからも、そんな風にはやし立てられる。
二言目には誰が好きだとか、嫌いとか、そんなゴシップ話ばかり。
こういうノリが苦手で今まで関係を断っていたというのに……むしろその渦中に立たされているという今の自分の状況が、あまりに信じられない。
「あーっ、それアタシも超気になるぅ~。っていうか聞く権利あるし~?」
こら、そこの駄犬。
「えーと……参ったなぁ……」
いっそ、そこの悪魔の名前でも出してやろうかと一瞬考えた。
それは最高に効く嫌がらせだろう。
しかし、もしそのままカップルにさせられてしまう雰囲気にでもなってしまったら……と考えて、自分のその愚かな発想を慌てて否定した。
それは最低過ぎる。悪夢だ。悪寒が止まらない。
むしろそれだけは俺が心から勘弁願いたい状況だと切に願った。
なので――
「えーと……その。違う学校の子でさ」
――当たり障りのない架空の女の子をでっち上げることにした。
嘘とバレないよう、必然的に身近な人間である設定は避けておく。
「へえ~。違う学校とか香田やるじゃん……それでどんな子?」
「いや、その……こう……」
まありにふわふわしてる自分のイメージ。
これじゃすぐに馬脚をあらわしてしまう気がした。
この学校にいない女の子で――
「――少しちっちゃくて……でも気が強くて、グイグイ来る感じ?」
もはやイメージの候補として出てくるのは必然だった。
悪いことをしてしてしまい……意識的に考えないようにしていた、彼女のことを話してて色々と思い出す。
「こう、何でも話せる雰囲気の子でさ、意外と義理堅くて……真面目で」
……また会いたいなぁ、と心からそう思った。
会って、悪かったって謝りたい。
また楽しい話をしたい。
別におっぱい揉めなくていいから。
というかあの恥ずかしい告白を今さらだが否定したい。
「はいはいご馳走様っ! まさかお堅い香田からそんな話が聞けるなんてねぇ」
「へ……堅い?」
そう思われていたことは、少し意外だった。
「……へぇー」
「なんで不満そうなんだよ、お前が」
さっきまではやし立てていた中のひとりである岡崎が口を尖らせて俺を見上げていたものだから、もはや必然のようにツッコミを入れる。
「だってアタシ、コーダのこと好きなわけだしぃ?」
そういやそういう設定だった。
周囲の人間が俺たちのそんなやり取りに笑った、その瞬間だった――
「――ごめんくださーい! 香田孝人、いますかぁ!?」
どばぁんっ、と勢いよく開け放たれる教室のドア。
少しハスキー掛かった可愛い声が、西日を受けて茜色に染まるこの教室に響き渡る。
「……へ?」
呼ばれた俺は、ゆっくり振り返った。
「香田、いたぁぁ!!」
見慣れない茶色の制服を着た、ちっちゃな女の子が俺を指して叫んでいる。
どうでもいいが、肩ぐらいまでの長めのツーサイドアップってのは個人的にかなり好みだ。
ああ、だから、その。つまり、彼女は。
「りんこ……?」
片道50キロどころじゃなかった。
彼女の義理堅さを、どうやら俺はずいぶん甘く見ていたようだった。





