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#013 悪魔

 ――というわけで、第二章突入です。

 

 ご挨拶が遅れました。中村ミコトと申します。こんにちは。

 ここまでの第一章12話、『この地の果てにようこそ』をお付き合い頂きありがとうございます。

 もしお気に召して頂けてたら幸いです。

 以後もこのノリでエスカレートしていくばかりです。


 ここまで読んで下さったならご理解頂けると思いますが、本作品は誓約を用いた心の発露を起因として、人の心の有り様を題材にしている側面があります。

 昔の偉い学者さんも言っておりましたが、人の心の本質を紐解く上では当然ながら性や暴力の問題についても決して避けては通れません。どうしたって心が解放されたら、ついてまわってしまう。

 なので本作では必要最低限な範囲の中で、真面目に取り扱う所存でございます。

 時にそれがやや扇情的だったり酷く偏見に満ちたまま描かれていたりしておりますが、どうか眉をひそめず読んで頂けると幸いです。


 あと、もうひとつ。

 ごくごく当たり前なお話ですが、作中のあらゆる言動は主人公たちの立場で発せられたありのままの感情や考え方でして、そこから導かれる答えや主張が物事の本質に迫る真実であるかはまた別の問題です。

 彼らはまだ高校生で、良くも悪くも清らかで真っすぐ過ぎで、当たり前のようにいくつもの間違いを繰り返します。

 なので寛大な心と温かい目で見守ってやって頂けたら幸いです。

 どうか、許してやってください。

 最初から完璧な人間などこの世の中には存在しないのですから。


 何だか堅苦しくなってしまいましたね。

 では第二章『Initialize』スタートです。

 彼ら彼女らの心の中、ちょっとだけお見せします。


 宜しければ第三章の冒頭でまたお会いしましょう。



「――はぁ……はぁ……っ……」


 コンビニで回収した自分の自転車に乗って朝霧の立ち込める中、ようやく自宅前まで到着した俺は、ハンドル部分に突っ伏してしばらく荒い呼吸を落とした。

 ここまで本当に全速力だった。

 今はたぶん午前5時前ぐらいだろうから、軽く4時間以上の強行軍だ。そりゃ息も切れるし汗だくにもなる。

 本当はさっさと自分の部屋に戻ってベッドにでも倒れ込みたいところだが、荒い息のままでは気配で家族に気づかれてしまいそうで怖い。

 なのでせめて息が整うまでこうしている訳だ。


「ふぅ……よし……っ……」


 ようやく呼吸も整って、同時に気だるい疲労感が押し寄せてくる。少し頭を左右に振って無理やり覚醒させると自転車から降り、そのまま手で押しながら自宅の小さな門を潜る。


「――孝人か」

「っ!!」


 カラカラと微かな音を鳴らしながら裏庭まで自転車を押しているところでそう不意に呼び止められて、思わず背筋を伸ばし、直立した。


「と……父さん。起きてたんだ……」

「ああ」


 ゴルフ好きは無意味に早起きでこういう時、本当に困る。

 どうやら裏庭の狭いスペースで素振りをしていたようだった。PWと書いてある短めなゴルフクラブを手にして、こちらへと振り返っていた。


「……」

「どうした。裏の勝手口なら開いてるぞ」

「う、うん……」


 我関せず、という感じで淡々と再び素振りを始める父さん。

 こういう朝帰りってのは生まれて初めてなもので前例も無いのだが、しかしさすがにお説教のひとつぐらいは飛んでくるものだと思っていたので……戸惑いを隠し切れない俺だった。


「その……自分の首を絞めるようだけど、問い詰めないのかなって」

「ああ。そのつもりだったが、お前の清々しい顔を見たらどうでも良くなった」

「ははは……」

「ま。親としての責務ぐらいは果たそうか」


 父さんは杖のようにゴルフクラブを畳ぐらいの小さな人工芝の上に突き立てて、軽くため息を落とす。


「……はい」

「孝人。後ろめたいことをしているのか?」

「ううん」

「そうか。なら、それでいい」


 ゴルフクラブの握り方でも悩んでるのか、何度も握り直したり構え直したりと首を傾げながらの検討を再開しつつ、そんな端的な返事だけをしていた。

 俺は自転車を所定の場所に停めると、真っすぐにそんな父さんへと向き直る。


「……人助けをしてます」

「そうか」


 むしろもっと釈明の場が欲しくて、自分から聞かれてもいないようなことを補足説明する俺だった。


「まだ……その人を助けられなくて。だからもう少し、こんなことが続くかもしれないです。心配を掛けてごめんなさい」

「わかった。まあ母さんには俺からも口添えしておこう」

「……お願いします」


 少し頭を下げて、そして父さんとすれ違うようにそのまま家の裏へと向かう俺。


「――孝人」

「っ! はい!」

「ま。中庸ちゅうようにな」

「……うん」


 最後に父さんの口癖の言葉を受け取ると、静かに家の中へと入って行く。


「はぁ……何はともあれ……シャワーだな」


 汗だくのこのシャツを脱ぎ捨てて着替えたい。

 浴室へと直行した。


 ――キュッ……。


 服を脱ぎ捨てて浴室に飛び込み、レバーを上げてシャワーの栓を開放すると、すぐに程よい熱さの温水が頭上から一気に降り注ぐ。


「はああぁぁ……」


 堪らない。まとわりついていた汗と共に疲れまで流れ落ちていくようだった。

 思わず深いため息が漏れる。


「ふぅ…………中庸、か」


 さっきの父さんの口癖を俺もつぶやく。

 ――中庸。ほどほど良い按配。

 それは例えば、このシャワーのようなものだ。

 人にとってシャワーの温度というのは高ければ高いほど良いという訳がなく、当然ながら『気持ち良い』と感じる適温というのが確かに存在している。

 これは完全に父さんからの受け売りだが、物事にはすべてに『最適』という概念が存在しており、その最適で立ち止まれる判断力と勇気が大切なのだという。

 人というのは得てして限界まで挑戦しがちである。

 それが世間で美徳とされている節もある。

 しかし状況や身の丈もわからずに盲目的に突き進んでしまうその行為はただの暴走であり、単なる思考停止でしかないと父さんは唱えていた。

 状況的に必要であれば立ち止まり、ほどほどで良しと判断する考え方。

 それが中庸という哲学の考え方だ。


「鈴木の一件とか……刺さるなぁ……」


 あの時、たぶん鈴木を追い詰め過ぎた。

 もっとほどほど逃げ出さない程度で止めるべきだったのかもしれないし、もっと尊重する方向に舵を切るべきだったのかもしれない。

 つまりは自分自身の怒りを優先させて、立ち止まれなかった。

 まだ父さんの言う中庸を本当の意味では理解できていないのかもしれないが、でもつまりそれは『大人になる』ということな気がした。

 世の中は、一方的な勧善懲悪みたいな単純な物語ではない。

 悪いやつらにもそれなりに言い分はあるだろうし、反対もまたしかり――


   ――兄さん


「……っと、すみか」


 突然届いた背後からの妹の声に、思考停止を余儀なくされた。

 シャンプー中なので振り返るのも難しいが、確かに擦りガラスの向こうには未の独特な髪の色だけがちらりと見えた。


   ここにバスタオル……置いておきます


「ああ、サンキュ」


   あと兄さんの汗だらけの服……

   この洗濯カゴに入れるのやめて下さい

   私の服まで汗臭くなります


「悪ぃ。じゃあ動かしておいてくれ」


   …………嫌です。触りたくない


 淡々とそれだけ言い残すと未の色が擦りガラスから消える。パタン、と戸が閉まる音からして脱衣所から出て行ったようだった。


「相変わらず、何考えてるんだか……」


 基本的に俺を嫌ってるはずなんだが、でもこうしてバスタオルを持ってきてくれたりとそれなりの接点は未側からも持ってくれている。

 たぶん家の中で確執が生まれないよう、妹なりに無理に配慮しての結果なのだろうが……例えば今も汗臭いから一緒に入れるなと文句を言うが、しかしそこから結果的に動かさなかったりと日々その言動には多くの矛盾を含んでて扱いきれない。

 未のあの独特な見た目と相成って、本当に人形みたいでまったく考えを読み取れないのが本音だった。


「っと……NGワード」


 俺にまったく悪気は無いのだが、しかし思わず禁句を思考に含めてしまった。うっかり本人を前に、口に出さないよう気を付けなければ。


 ――キュッ。


 シャワーの栓を閉じ、汗も疲れも余計な考えも洗い流すと浴室を素早く出る。

 このまま身だしなみを整えてすぐに教室へ向かうことにしよう。

 岡崎はともかく、優等生の久保は早くから教室に来ているはずだ。


「……これでいいんだよな?」


 未が用意してくれたバスタオルを頭から被り、ワシャワシャとそのまま髪を乾かしながら独り言を口にする。

 教室で、クラスメイトとして対面し、話をする。

 それが俺なりに考えたベストだった。

 例えば昨晩、倉庫の前であのままあいつら3人が出てくるのを待ち構える手もあったと思う。

 でもあんなことのあった直後に、人のいない夜道で待ち伏せても警戒心を煽るばかりで良い答えを導くことは出来ないという判断だった。

 俺自身がそうだったが、あの非日常感はなかなか抜けない。

 また鈴木との激しい言い合いの中の流れで殴り合いなんて発展してしまっては、今度は確実に俺こそが犯罪者になってしまう。

 それより互いに少し頭を冷やし、現実に戻って教室で軽く挨拶を交わしたりして、そして深山の座っていない机を前に冷静に話すべきと考えた。

 ……うん、これで間違ってないと思う。


「――ん?」


 ふと、漂ってきた甘い匂いに違和感を覚える。

 改めて確認すると、頭から被っていたものは未のバスタオルだった。

 また間違えてアイツから嫌悪されるのかと一瞬憂鬱にもなったが、しかしこのバスタオルはそもそも未のヤツが用意してくれたものである。


「ああ、なるほど」


 俺のバスタオルは目前のバーに掛けられて乾されていた。たぶん父さんか誰かが俺のを間違って使ってて、それを見かねた未が出血大サービスで貸してくれたということみたいだ。

 熟れた葡萄のような品のある、未の、甘い甘い匂い。

 なんだか罪悪感みたいなものが込み上がってきたので、まだまだ髪は濡れているが未のバスタオルをそのまま隣のバーに掛けて乾しておく。

 たぶん母さんがすぐに洗うだろうけど、しかし湿ったまま放置して臭くなったりしたら悪いしな。


「っと、時間無いか」


 半乾きの髪へと乱暴にドライヤーをかけながら歯を磨いたりと身支度を手早く進めると、そのままキッチンに行って冷蔵庫から牛乳をコップ1杯分と冷たいままのソーセージを取り出して胃袋に流し込み、そして自分の部屋で慌ただしく制服に着替えた。


「未。バスタオル、サンキューな」


 妹の部屋のドアを軽く一度だけノックしてそう言い残すと、来るはずもない返事を待つのも時間が惜しく、そのまま玄関を飛び出した。


「そういや母さん、まだ寝てるのか」


 というか、むしろそれが常識的に考えて普通。まだ午前5時台なのだから。

 超早起きな父親や超夜更かしな妹がちょっとおかしいだけの話だ。

 玄関を出て自転車を再び家の前まで引っ張り出したところで携帯スマホを取り出し、先手を打って母さんに一言詫びを送信しておくことにした。


「――うげっ」


 今の今まで気が付かなかったが、母さんから昨晩の日付で怒り大爆発なスタンプが連発して送信されていたようだった。

 お返しで大げさなほどダイナミックに土下座しているスタンプを送る。

 ……既読はつかないから、やっぱりまだ寝ているらしい。


「よし。とりあえずは向かおう」


 俺は自分の自転車に跨り、そのままの勢いでペダルを踏んだ。


 ◇


 午前6時過ぎの学校は、想像よりずっと賑わっていた。

 帰宅部の俺からすると信じられないが、早朝練習をしている吹奏楽部の連中の、音楽にもなっていない気の抜けた楽器の音出しが断続的に響き、野球部からは気合いの入った掛け声やバッドの乾いた金属音が耳に届いてくる。

 廊下からも時折、楽し気な声と慌ただしい足音が届いて寝ている俺をその度に叩き起こしていた。

 朝練が日常となっているクラスメイトからすると、さぞかしこうして自分の机にうつ伏せになって寝ている俺の姿は異様に映っていたことだろう。

 きっと『そんなに眠いなら無理に登校しなきゃいいのに』なんて思ったはずだ。

 しかし誰一人として寝ている俺を起こしたりはしなかった。


「ふぁ……っ」


 またひとり、クラスメイトの男子がカバンを乱暴に教室の自分の机の上に投げ出して走り去って行く。

 部活に遅刻したのだろうか? それとも俺みたいに何か用事があって早くに登校したのだろうか?

 いつの間にか7時も過ぎ、タイミング的にはそろそろ朝練に無関係な気の早い生徒も現れるような時間帯になっていた。


「――あれ。香田くん、おはよう」

「……」


 いきなりの真打登場だった。

 いや、それだとまるで主人公みたいだ。真のボス、ぐらいにしておこうか。


「寝てる……?」

「いや。起きてる」

「きゃっ!?」


 別に不意を突くつもりはさらさら無かったが、妙に驚くクラスメイト。

 もしかしたら昨晩の俺の蛮行がまだ鮮明に脳裏に映っているのかもしれない。


「今回は後頭部、いきなり殴ってこないんだな」


 まあそれは、俺も同様だった。まるで殴られたところを押さえるようにぼりぼりと頭を掻きながら、ゆっくり身体を起こした。

 ついでにその勢いのまま席を立つ。


「おはよう、久保サン」


 もはや『さん』付けもしたくないような相手だからこそ、取って付けたように強調して付けてやった。

 目の前には、エルフ耳が無いかわりにメガネを掛けている彼女の姿がある。

 そういやアクイヌスはメガネを掛けていたわけで、あの世界で装備不可能というわけでもないのだから……つまりこのメガネ姿は彼女にとって不本意ということなのだろうか?

 ふと、そんなことに一瞬だけ考えを巡らせる俺だった。


「ぷっ……やだっ。ゲームと現実、一緒にしないでよ」

「そうだな、すまんすまん、寝ぼけていたみたいだ――」


 ふあっ、とわざとらしくあくびを漏らすと。


「――ゲームが現実に影響を与えたりしたら、ダメだよな」


 一体どれだけの影響を与えられるかも定かではないが、片眉を吊り上げて皮肉めいた言葉をひとつ、くれてやる。


「……何か言いた気ですね?」

「全部言う必要があるのかよ」

「うん、全部聞かせて欲しい……私、勘違いされてそう……」

「はぁ。よく言うよ、まったく」


 今ならあの時、鈴木がボヤいていた本当の意味を理解出来る。

 だからこのセリフは、それに対するある種のリスペクトに近かった。


「卑劣な言葉の語尾に『w』とか付ける悪趣味な人間って、お前みたいな性格のヤツだったんだな」

「言ってる意味、全然わかんないです……」


 彼女の本質を正確に理解して、ため息が漏れる。


「岡崎がバラすのを未然に防いだつもりなんだろうけど……久保サンなんだろ? 深山に『ログアウト出来ない』なんて最も酷い誓約を与えた人間は」

「…………身に覚え、ないんですけど」

「いや。間違いなくあの悪意の塊のような誓約を書いたのは、お前だ」


 昨日の段階でここまで思考が廻らなかったのは、完全に俺の失態だった。

久保くぼ敦子あつこ』は優等生で善良なクラスメイトだと頭から信じ込んで、違う可能性を情けないことに頭から排除してしまっていた。

 自分の都合の良いように、知らず情報を歪めてしまった。

 そのツケはあの通り、俺自身の足りない頭で払わされてしまったわけだ。


「失礼なこと、言ってますが…………何か根拠って、あるんですか?」


 このおどおどとした態度はきっと演技ではないのだろう。

 きっと今も心臓が飛び出そうなぐらい俺に恐怖しているに違いない。

 でもそういう小心さと、内に秘めている悪意とは別けて考えなきゃダメだった。

 むしろ表立って実行できない小心者こそ、その報復は卑屈で陰湿になるぐらい想定するべきだとここから学んだ。


「別にそんな複雑な話でも無いだろ? 『今さら、やめれない』と言ったんだ」

「……はい?」

「昨日散々話して理解したが、そんな『ら抜き』を使うのは岡崎だけだ。だから一番当たり障りのない『質問に沈黙つかって逃げれない』なんてぎこちない文を書いたのも、必然的に優しくて同調圧力に弱い岡崎だ」


 一番見誤ったのはこの点だった。

 取り乱した鈴木をなぐさめて、インターバルを取ろうとしたのは岡崎だった。話を真っすぐに聞いてくれるのも岡崎で、鈴木の恫喝に簡単に屈したのも岡崎。

 たぶん本能的には俺もそこは理解してて、だから取っ掛かりとしてまず最初に岡崎を選んでチャットで連絡したのだろう。

 彼女のまるでテンプレートみたいな……いや、まるで依存先の鈴木みたいな似た口調に引っ張られて、性格の本質を正しく掴めてなかった。


「深山から、最初の1行目に『魔法は自由に受け取れる』なんて無意味な誓約を書き直したのは鈴木だったと聞いている。そもそも罰ゲームとして一人一文ずつ誓約を書くと言いだしたのも鈴木なのだから、それは当然、鈴木から『質問には事実を正確に話して』と誓約を書き始めたと考えるのが自然だろう。これは深山の本心を知って激昂していたその反応からも窺い知ることが出来る」

「……びっくりした。香田くんってそんなにおしゃべりだったんですね……?」


 まさに久保の本質を体現している返事に思えた。


 きっと久保敦子は、自分から動かない。便乗して楽をしたがるタイプだ。

 リスクを他人に擦り付けて、陰に隠れて、責任からひたすらに逃げ回る。

 言い換えるなら、そこで生じる当然の嘘や矛盾をそのまま容認する人間だとも言えるのだろう。

『自分は嘘つきじゃない』なんて変なプライドに振り回されて否定してる限りは逃げ切ることなど不可能だからだ。嘘や矛盾に対する覚悟が出来ている。

 つまり、彼女は非常に悪質だ。


「全部聞かせろと言った本人が、よく言うよ、まったく」


 なので、もう一度繰り返してやる。


「それで?」


 あくまで会話の主導権は奪いに来ない。ずっと受け身。


「深山に与えた、あの悪魔のような誓約を消せ。すぐにだ」

「どうして……?」


 まるで恫喝を受けている被害者みたいな弱々しい目で俺を見上げる久保。

 本当に今さらだが、俺は人を見る目が無さすぎると痛感する。


「どうして、って……」


 考えが足りない。全然足りない。

 もっともっと考えなきゃダメだ。

 こんな情けない人間じゃ、深山を救えない。


「――犯罪を犯しているから。それ以上の理由が必要か?」

「それって、どんな犯罪なの?」

「言っただろ、監禁――」


 不意に手で俺の返事は遮られる。


「ああ、いいや……ほかの人が来たみたいだから」


 久保が言うように、教室にふたりの男子が入ってきて少し勘ぐったような視線を俺たちに向けていた。

 ……久保と噂なんて勘弁してくれ、と心からそう思って距離を取る。


「じゃあ香田くん、また」


 何事も無いように笑う久保の笑顔を見て、反吐が出そうだった。


 それから間もなくして、わらわらと大勢のクラスメイトが教室に入ってくる。

 朝練をしていた部活のやつらも合流して、いよいよ見慣れた教室の風景に変化しつつあった。


 でも、HR直前の5分前ぐらいから少し普段と変わってくる。

 クラスの中心的人物――深山玲佳の席が未だに埋まらないからだった。

 いつもの深山なら、とっくに来ている時間なのだろう。

 事情も知らない周辺のやつらは口々に深山の体調を心配していた。

 そう。身体の弱い彼女が休む時というのは、当然そこに結び付けられるのだ。


「あっ……ぅ……」


 わざわざ自己申告してくれた。チャイムが鳴る直前に岡崎が教室に入ってきて、そして俺の顔を見つけるとそんな声を出して大げさに怯えていた。

 顔を伏せて自分の席へと向かう。


 ――キーンコーンカーンコーン……。


 チャイムが鳴って、いよいよ深山が来ていないとクラスが騒然となる。

 このクラスでの深山の地位をこんなことで改めて実感した。

 その陰で、日常的にサボることの多い鈴木の席も空いていたが……俺以外、誰も気に留めている様子は無い。


 結局この日、鈴木が教室に姿を現すことは無かった。


 ◇


「――久保、サン」


 昼休み。

 お手洗いにでも向かうつもりだったのか、ひとりで教室を出た久保をそれとなく追いかけて、人もまばらな廊下で声を掛ける俺。


「……何ですか」

「俺の言いたいことぐらいわかるだろ」

「わからないです」


 はぁ……と息をついてから、めげずに再度話を切り出す。


「深山の誓約、消してくれ」


 そう、俺は当然のように諦められる立場に無かった。

 彼女が折れるまで何度でも交渉する覚悟だ。


「どうしてですか?」


 再び彼女から同じ質問が返ってくる。


「だから、お前のやってることは、犯罪だから」

「違います……そういう意味じゃないです」

「え?」


 久保は自分のメガネの位置を指先でちょっと整えながら、いかにもつまらなそうにぼやく。


「どうして、そんな必死なんですか? 深山さんはあなたの恋人なんですか?」

「いや……そんなことは無いけど……」

「では、恩を売って好かれたいから? ……ああ、最初から好かれてるのだからそんな努力、必要ありませんでしたね」


 まるで汚いものでも見るかのように目を細めて眉間にしわを寄せている。


「じゃあ、どうして? 赤の他人でしょう? どんな得があるんですか?」

「……それはきっと、俺でなければ解決できないから」


 不思議そうに首を傾げる久保に、言葉を続けた。


「損得じゃなくて……客観的に自分の置かれている立場を考えて、動ている」

「ふぅん……凄く立派で胡散臭い理由、ありがとうございます」


 よっぽどメガネの座りが悪いらしい。一度顔から外して、指先でメガネの可動部分を弄りながら久保が話す。


「――ま、でも……基本的にそういうの、嫌いじゃないや」


 メガネを外している久保は、敬語を口にしていなかった。


「うん、そう……私ね、香田くんのことは別に嫌いじゃないから特別にサービスで言ってあげる」

「ん?」


 彼女がここで初めて明らかな会話の主導権を握った。

 まさに特別、なのだろう。


「まずね、香田くんは犯罪だって頑張って言ってるけど……そう単純じゃないと思うの。明確な証拠が無きゃそんな簡単に警察も動かないと思うよ……?」

「……どうして」

「ゲームの中のトラブルは自己責任、でしょ。リスクを承知して事前に同意したのだから、騙されるというのも単純にゲームに負けただけの話だと思う」

「……」


 ゲーム内のトラブルは自己責任。

 それはEOEを始める前の注意事項でも確かに言及していた。


「そもそも、香田くんはどうするつもり?」

「何が?」

「私があの誓約の文を書いたと、どうやって立証する気なの?」

「……素直に答えるつもりはない」

「強がっても無駄無駄。どう考えても無理でしょ、それ……あはっ」


 勝利を確信した久保が、にんまりと笑った。


「私思うんだけどね……何を書かれるのかもわからないのに、誓約紙なんてものを相手に委ねる行為自体があまりにも愚かじゃないのかなぁ……?」

「……だから。それを利用して悪魔みたいな文を書いた本人が、よく言うよ」

「私もそれ……同じことを思う」

「ぁん?」

「香田くんも……こっち側の人間、でしょ?」

「……一緒にするな。不快だ」


 露骨に嫌悪感を表すと、伝播したように久保も眉をひそめた。


「鈴木さんや岡崎さんを、愚かだと見下してるくせに。一方的に暴力で否定したくせに、それを言うんだ?」

「……」


 その言葉を否定はしない。


「考えの足りない人間が、自分の悪質さを自覚しないまま周囲に毒を振りまくの……不快なくせに」


 いつぞやの、鈴木と岡崎の下種な雑談をふと思い出す。


「……ああ。不快だよ。それがお前と一緒だって? どこらへんが?」

「深山玲佳」


 その名の彼女と真逆な……酷く濁った瞳で久保は切って捨てた。

 それだけで充分に伝わった。

 俺にとっての鈴木や岡崎のように、久保にとっての深山は不快なのだ。

 だから暴力による否定も辞さないという理屈だ。


「深山は……違う。鈴木や岡崎じゃない。彼女は正しい。ちゃんと自分の行動や影響を自覚して、責任も取っている」

「香田くんから見た深山玲佳は、そうなんだろうね…………気分悪い」


 そう吐き捨てる久保は、鈴木とはまた違う質の負の感情を見せていた。

 鈴木が激しい怒りや恨みだとするなら、久保は静かな嫌悪。あるいは侮蔑。

 ……そう直感するに余りあるものがそこにあった。


「そろそろ話を戻そう。深山の誓約を消してくれ」

「だから、どうして?」

「もうその堂々巡りの質問には答えない。いいから深山の誓約を消せ」

「断ったら……どうするの? 鈴木さんみたいに力任せに殴るの? それともそれ以上の乱暴なことを、嫌がる私にするつもりなの?」

「……」


 俺は答えない。それが正解だと判断する。


「そこは否定して欲しかったなぁ……私、これでも本当に香田くんのこと買ってるんだよ? がっかりさせないでよ」

「いいから消せ」

「嫌。殴られるかもしれないから……そしてさっき言ったように香田くんのことは別に嫌いじゃないから、親切心で先に伝えておくけど――」


 くすりと小悪魔のように笑う久保。


「――鈴木さんの今日休んだ理由、みんなに言いふらしちゃうよ?」

「は?」

「香田くんが馬乗りになって、鈴木さんの顔面を何度も殴ったのが休んでる理由だって、そう真実を伝えちゃうけど?」

「真実じゃないだろ? そういう久保は、俺の後頭部を殴打したって皆に言って欲しいのか」

「あ。やっと呼び捨てにしてくれた」


 そう言って嬉しそうに笑う久保。心底腹立たしい。


「憎い敵に『さん』付けなんて……聞いてて気持ち悪いよ、香田くん」

「そういうお前も『くん』付けだろうが」

「言ったじゃない。私は香田くんのこと、別に嫌いじゃないって」


 くすくす笑い続ける久保。


「ダメだな香田くん……本当にがっかりしたよ。他人と自分の違いぐらい、ちゃんと理解して分別してよ?」

「タチが悪いな、久保は。最低だ」

「それは勝てない相手への賛辞と解釈しておくね?」


 くっくっくっ、と笑いを堪えるのに大変そうだった。


「全然ダメ。さっきの殴打の主張もダメ。だって香田くん、全然元気じゃない? もしその主張を盾にするつもりだったなら、最初から頭に包帯ぐらい巻いて来なきゃお話にもならないよ?」


 敵からこんなことを言われているこの状況が、最も屈辱的だった。


「それじゃせいぜい一方的に殴られてる鈴木さんを助けるためにやった……っていう私の口実に利用されちゃうだけだよ」


 久保は勝ち誇ったように、手にしていたメガネを戻すと優しく微笑む。


「――絶対に消さないです。絶対に」

「……」


 俺はもう、絶望に言葉が出なくなっていた。


「私に命令したいなら、強姦でも何でもして恥ずかしい写真でも撮ればいいんじゃないですか? まあ、香田くんにそんな勇気があるとは思えませんけど」

「……そんなことは、やらない」

「そうですよね? 犯罪だと訴えてる本人が犯罪しちゃ、本末転倒ですものね? 本当は自分に正義なんてなくて、ただの自己満足だとはっきり自覚してしまいますもんね?」


 まるで子供みたいにはしゃいでる。

 どうやら俺は、よっぽど嬉しい返事をしたようだった。


「――そうだ。私に好かれる努力をしてみてはいかがですか? 愛の告白なんてされたら、私も心が変わるかもしれませんよ?」

「もしそうなったら、立ち直れないほどこっぴどく振るくせに、よく言う」

「あはっ、バレてしまいましたか。上手ですね、香田くん。私、今、凄く上機嫌ですよ?」


 ニコニコと微笑み続ける久保を眺めていると、吐き気に近いものが込み上がる。


「……なあ、久保にとって深山はそこまで悪質だったのか?」

「はい?」

「本当に、そこまでするほど悪質だったのか?」

「あぁ……香田くんは想像力がちょっと足りないみたいですね」

「どう足りないか、言ってみろ」

「先に質問にお答えすると……NO。深山さんは不快な存在というだけであってそこまで悪質ではないです。強いて言えば運が悪かっただけ――」

「――このっっ……!!!」

「っ!?」


 抱いたのは、純粋な殺気だった。

 それこそここがEOEだったら鈴木の時のように感情に任せて、その頭をカチ割っていたかもしれない。

 実際は拳が少し引かれただけで……何も暴力行為が起きてはいないが、しかしそれだけで久保は身体を震わせていた。


「い……痛いのは、やめてください……好き、じゃないです……」

「ハッ」


 苦笑とも唾棄ともため息ともつかないような曖昧なものを吐き出して、どうにか自制する俺。

 おちょくっているのか、本心なのかさえもわからない。

 それこそ暴力へと誘導するための演技である可能性までありうる。この女なら。

 とにかく、憎い敵の弱点を露骨に見せられて堪らない心境だった。


「たぶん……香田くんは考える順番を間違ってます……」

「順番を、間違えてる?」


 胸を押さえて身体の震えを抑制しようとしている久保の仕草は年相応の女の子らしく、それがまた認めたくない感情となって俺を苦しめる。


「深山さんという存在が私にとって不快なのは事実ですが、同時に我慢出来る範囲のことでした。だから彼女の傘下に入った。深山さんのほうが可愛いし、人望も厚くて人を引き付けるカリスマ性があるもまた事実ですから……」

「なら、どうしてこうなった」

「そう。最初にそっちに理由を求めて固執するから理解が進まないんです」


 久保は、胸を押さえていた自分の手のひらをぼんやり眺めてつぶやく。


「そうじゃない……EOEというあのゲームの仕組みが悪いんです。人の心を操れるなんてルールがあったら……閉ざしていた心の蓋が開いてしまうの、仕方ないじゃないですか」

「ゲームのせいにするな! それはお前の――」

「あの深山玲佳が泣いて追い詰められてるんですよ? この教室から追い出せる……こんな最高の状況、止められるわけ無いじゃないですか……!」


 なんというか……決定的に歪んでて、手遅れだと感じる。

 罪悪感とか皆無で、むしろ快感すら覚えている相手に同情や常識を用いて説得するとか、もはや不可能とすら思えた。


「悪魔かよ、お前」

「はい……それで結構です。ありがとうございます」


 興奮して紅潮したまま、満足気にうなずく久保。


「礼とか言うな……気持ち悪い」

「それは言いますよ。本当に助かっているのですから」

「……助かる?」

「ええ。そうやって香田くんが非難すればするほど、不思議なぐらい私の心は安心します。私は確かに悪魔のような、気持ち悪く酷いことをしているのだって」

「狂ってるぞ、お前……」

「ありがとうございます。はい……狂ってる。知的で常識人の香田くんにそこまで言われるほど残酷で重大なことを『私が』『あの深山玲佳に行った』のだと、強く自覚することが出来ます。嬉しいです……凄く充実します」

「……」


 もはや、何も言えない。

 罪を訴えても、罵っても自らの『偉業』を確信させて喜ばすだけだった。

 つまりそれは裏を返すと、彼女にとっての深山という存在の大きさを感じた。


 暴力で恫喝どうかつするのも、たぶん負け。

 俺の正当性なんて吹き飛んで、ただの犯罪者にさせられてしまう。

 むしろ久保から暴力を望んで誘導している節まで感じ取れた。


 そしてその上できっと俺が暴力を振るったら、それで心底恐怖した彼女は納得してしまうだろう。

 自分の『偉業』への清算が終わった、と。代価は支払われた、と。

 そんな身勝手な納得なんて、許さない。


「本当にありがとうございます。香田くん。こんなに……こんなに充実するとは思ってなかったです。やって良かったって、心から確信できると思わなかった」

「反吐が出そうだ……」

「やっぱり私……香田くんのこと、嫌いじゃないです」

「嫌ってくれ、たのむ」

「――だからこれは本当にサービス。私からの心からのお礼。絶対に最後の最後まで出すつもりの無かったカードを特別に見せてあげます」

「カード……?」


 久保は満足気に大きくうなずくと。


「私……すでに自分のキャラクターデータ、消しちゃってますから」

「――……は?」

「香田くんならその意味、もう理解してますよね?」


 笑顔のまま、そう言い切った。


「最後の最後……希望に縋りつこうとする香田くんを突き落とすために秘密にしようと思ってましたが……私もダメですね。嬉しくてついバラしちゃいました!」


 確信する。彼女は本当に悪魔だった。

 あまりの怒りに、全身がわなわなと大きく震える。


「っ……わ、私のこと……殴りますか?」

「殴らねぇよ……」

「怖くて嫌ですが……でもだから、残念です」


 この拳をその顔面にめり込ませたら、どれだけ気持ちいいだろうか?

 止めてと泣き叫ぶまで殴り続けたら、どれだけ解放されるだろうか?

 そのメガネを踏みつけて粉々にしてやる。

 頭の中の、想像の俺はすでに獣となって襲っていた。


「――あれ、久保さん?」

「あ。高井さんっ!」


 弾かれて背後へと振り返ると、そこにはサッカー部の高井が歩み寄っていた。

 軽い足取りで久保がその高井の元へと駆け寄る。


「ねえ……突然だけど久保さんって深山さんの住所、知ってる? 僕、見舞いに行きたいんだけどさ」

「知ってるけど……でも高井さん……今は深山さんをそっとしてあげたほうがいいと思うの。具合悪いなら無理させちゃうよぅ?」

「ああ……まあ、そうなのかな」

「あっ、じゃあ良かったら深山さんのお見舞いの品、ふたりで放課後買いに行きませんか?」

「え。でも見舞いはやめておいたほうがいいって――」

「うん。だから手紙を入れて郵送で届けてもらうの。そのほうが深山さんも変に気を遣わないでしょ?」

「う、うん……まあ」

「あーっ、もしかして高井さんってば、深山さん家に行ってみたいんだぁ?」

「いやっ、そんなことはないよっ? あははっ」

「それじゃ香田くん。深山さんの住所、教えてくれてありがとう」

「――へ?」

「え? そうなの? 彼、なんでそんなこと……」

「ふふふ~、それはちょっと……秘密、かなっ? ね?」

「…………」

「あ。怒らせちゃった! 香田くん、秘密漏らしてごめんなさーい! さ。高井さん、行こうっ?」

「あ、ああ……」


 チラチラと何度もこちらを振り返りながら、サッカー部の副キャプテンである長身の高井は、悪魔に手を引かれて向こうへと連れていかれる。


「……」


 俺は今さら何も言葉が見つからず、ただ茫然とその背中を見送るだけだった。



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