マルグレア寮
並木のトンネルを抜けると、マルグレア寮が現れた。
寮というより、森と建物が溶け合った庭園。木製の回廊には蔦が絡み、低い灯りがハーブの香りを揺らしている。中央の泉が月を溶かし、波紋が葉裏まで光を運んでいた。
「……いい匂い」
ディディは深く息を吸う。湿った土と葉の匂い――それだけで胸の重さが少し軽くなる。
横ではレムルスが静かに座り、金の瞳で回廊の影を見張っていた。
「ようこそ、マーガレットの庭へ」
緑の法衣を纏った女性がほほ笑む。
「マルグレア寮担任教師のサリエルよ、よろしく。騒がしくしない、根のない噂は広げない、夜の塔に理由なく近づかない。これが基本ね。部屋は……ええと、デイビッド君は――」
がらがらがらがら――。
回廊の柱がぐらりと鳴り、寮全体が小さく震えた。次の瞬間、巨大な影が明かりを隠す。
「う、うわっ、ごめん! 違うんだ、転ぶつもりはなかったんだ!」
壁みたいな巨体が前のめりに倒れ、床板が「ぺきぺきぺき」と多重で悲鳴を上げる。
身長五メートルほどの筋肉の大木、そして顔は真っ赤――巨人が震える手で床板をそっと元に戻そうとしていた。
彼が窮屈そうにしていないことが、この建物が様々な種族を受け入れていることを象徴しているようだった。「どうりで扉や天井がやけに高いわけだ」とディディは納得した。
「なおらない……!」
どうやら、巨体が暴れることまでは想定していないらしい。
「直さなくていいから動かないで!」
サリエルが慌てて杖を振ると、純白の鳩が現れ、木目がざざっと逆流し、床板が元どおりにつながった。
「す、すみません……あの、ときどき足の置き場が迷子に……」
その足元に、ぴょこんと跳ねる小さな影。
全身を覆うのは、陽の粒を閉じ込めたみたいな金褐色の毛並み。毛先は柔らかく光を弾き、動くたびに“もふっ”という音が聞こえそうだ。
頭には丸い獣耳があり、内側は淡いピンク。眉よりも先に耳が反応して動くのが特徴だ。目はビー玉みたいに大きく、虹彩は澄んだ若草色。瞳の奥に夜目特有の反射がある。腰から伸びるしっぽは彼女の体より大きく、ふわふわの塊。感情が高ぶると、綿菓子みたいに広がり、静まると毛を畳んで膝に巻きつける。
「ゴライアス、そこ! そこがダメ! 床の弱点! わたしの重さでわかるから!」
「フィオナ……。君の重さは軽すぎて参考にならないと思う……」
「なにおう! このサイズで情報密度は高いの!」
言い争い(という名の一方的な身長差コント)を、レムルスが鼻でふん、と笑ったように見えた。
「新入生さんたち、まずは部屋を。大部屋になるけど、カーテンで区切れるから」
サリエルが先に立ち、木の回廊を進む。
大部屋の扉を開けると、植物の匂いに混じって羽の粉のような香りがした。
窓辺の影に、すでに深い紺色の翼を持つ少年が座っている。
薄い横顔、伏せた睫毛。こちらを見ない。話もしない。気配だけを空気の向こう側へ滑らせている。
「同室のジズー君よ」
サリエルの紹介に、彼はわずかに顎を引いた。それが挨拶のすべてだった。
「よろしく!」
ゴライアスが高い天井に頭をこつんとぶつけつつ手を伸ばす。
返事はない。代わりに、窓の外で夜鳥が一度だけ鳴いた。
「無愛想な奴」フィオナがつぶやく。
サリエルはやわらかく言い、出入りの手順や消灯の時間、非常ベルの場所を説明して回廊へ戻っていった。
***
「よし! 荷ほどきタイム!」
フィオナは自分のリュックの中に入りかける勢いで潜り、次々と小物を取り出しては棚に並べる。
「これが踏み台A、こっちが踏み台B、こっちは――超合金踏み台スペシャル! 五メートルの巨人にも対応!」
「対応はしないと思う……」
ゴライアスが小声で突っ込む。
「じゃあ心で対応して!」
ゴライアスは寝台を恐る恐る指先で押した。
みし。
押すのをやめる。
みし……。
「大丈夫だって、座ってみなよ」
ディディが笑って、寝台の脚に当て木を差し込む。
「これで……どう?」
ゴライアスがそっと腰を下ろす。
ぎ……ぎ……(耐えてる)。
「すごい……座れた……!」
「“座れた”で感動できるの、君の才能だな」
ディディが苦笑する。
レムルスは部屋の隅で伏せ、静かに呼吸していた。ディディが毛並みを梳くと、狼は目を細める。
(――ここにいていい)
言葉にならない合図が、指先から胸に染みた。
「ねえ、ディディ」
フィオナが顔を覗かせる。
「その魂獣、かっこいい。名前は?」
「レムルス。……家族みたいな存在」
どうやら、レムルスは周りからは魂獣に見えているらしい。ディディにとっては都合がいいので、黙っておくことにした。
「家族か、いいね。大事にしなよ。」
窓辺のジズーの肩が、ほんの少しだけ動いた。
視線は落としたまま、彼は窓の外の闇を見ている。
***
消灯前、自然と「自己紹介でもしようか」という流れになった。
木の壁が月明かりを吸って、部屋の空気はゆるく温かい。
最初に動いたのは、もちろんフィオナだった。
しっぽをぱたんと一振りし、ベッドの上にぴょんと飛び乗る。
「はいはい! トップバッターはわたしね!」
毛並みがふわっと広がり、金色の粒が宙に舞う。
彼女の動きは小さいのに、森の中の小動物が跳ねるみたいに場を明るくする。
「名前はフィオナ! 見ての通り、小人族!私たちはマリサスト族って呼ぶけどね。小さい毛皮って意味よ!好きなものは冒険とお昼寝!嫌いなのは棚の高い場所と、朝の鐘!」
「故郷のクルムランドで生まれ育ったんだけど、うちの一族は森に縛られてるから、外の世界も見たかったんだ。だから学園に来た!で、来る途中でこいつと出会ったってわけ!ほら、次はあんたの番よ!」
ゴライアスは巨大な手で膝を抱え、恥ずかしそうに。
「ゴライアス。巨人族の末裔。……いろいろあって、故郷を追い出されたんだ。それで、フィオナと出会ってここに連れてきてもらった。ここに来たら友達ができるかと思って。仲良く……できたら、嬉しい」
(ふつうはお前が連れていく側だろ……)と改めてその巨体に圧倒されながらディディは思う。
「いいねぇ!」とフィオナがしっぽで彼の足をぽんと叩く。
「うわあ!やめてよ!驚かされるのは苦手なんだ……」
「その巨体でびびりなのか……」
ディディはやれやれと言った感じで口を開く。
「デイビッド・デイビス。みんなにはディディって呼ばれてる。動物と遊ぶのが好き。 ……小さい村の外には、世界がどんな顔をしてるのか分からなかった。
ここなら――何か、見つけられる気がする。そんな気がしてる」
それだけ言うと、胸が軽くなった。
沈黙が落ちる。
やわらかい沈黙。木が眠る前に吐く息みたいな、湿り気のある静けさだ。
その静けさの中で、ジズーが小さく、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
「……うらやましい」
誰もうなずかず、誰も振り向かない。
ただ、レムルスだけが耳をぴくりと動かした。
***
消灯。
外では、夜の草がすりと擦れ合い、泉がひとつ波を打つ。
ディディは寝台の上から天井の木目を数え、目を閉じる直前、レムルスの鼻先が手を押した。
今夜は、眠ろう。根を下ろすみたいに。
森は、最初の夜の眠りを、やさしく受け止めた。




