ただの狼
暮れ残る光が、学園の廊下を三色に染めていた。
色硝子のアッシュが掲げる雷の下を、赤い襟章の生徒たちが駆けていく。紫の花をつけた少女が、その足音に眉をひそめた。神々と英雄を描いた窓の傍らには、去年の寮対抗戦の得点が貼られている。
「見とけよ、ディディ! 来年はあそこ、俺の名前も載るからな!」
パウロが階段から叫んだ。
「まず遅刻の記録に載らないようにね」
ユズの声に、赤い襟章の列から笑いが上がる。
ディディも手を振り、緑の花の案内へ向き直った。
「デイビッド・デイビス」
広間の扉の前に、ファラが立っていた。
「学園長がお呼びだ。そちらの狼も連れてきなさい」
伸ばしかけた足が止まる。
さっきまで胸元に収まっていた緑の花が、借りてきたもののように思えた。
「……何か、間違いがあったんですか」
「それは中で聞くといい」
ファラは扉を押した。ディディは、レムルスと顔を見合わせてから、その後を追った。
***
「その狼は、君の魂獣ではないね」
椅子に座るより先に、セルビウスが言った。
ディディの手が、レムルスの毛を掴んだ。
扉が閉まる。部屋には学園長とファラしかいない。窓辺の白いフクロウが、金の瞳をこちらへ向けていた。
「……はい」
誤魔化す言葉を探す前に、声が出た。
「子どもの頃から一緒にいるんです。儀式で会ったんじゃないし、魔法だって――」
「使わせたことはない?」
「使ったところを、見たことがありません」
指に力が入っていることに気づき、手を開いた。
「でも、レムルスを外へ出すなら、俺も」
「座りたまえ。家族を取り上げるために呼んだのではない」
セルビウスが椅子を示した。
机の端には、ソール村と書かれた封筒がある。
「スパルタスは、推薦すべき生徒を間違えない。私も、選ぶ生徒を間違えたつもりはない」
「魂獣がいなくても?」
「君には、ほかの者が持たぬものがある」
ディディは老人の顔を見た。
白い髭の奥に、わずかな笑みがあった。からかっている様子はない。それでも、自分の後ろに別の生徒が立っていないか、確かめたくなった。
窓辺で、フクロウが羽根を浮かせた。
ディディはそちらを見た。胸の内側へ、外へ向かって引かれるような感覚が届く。
「あの子、外に出たいみたいです」
ファラが窓へ手を掛けた。留め具が外れると、フクロウは音もなく夜の庭へ飛び出した。
ディディは、窓を見たまま固まった。
「勝手なこと、言いました?」
「いや。そろそろ出してやろうと思っていたところだ」
セルビウスは椅子へ腰を下ろした。
「いつから分かる?」
「いつからって……レムルスとは、ずっと。ほかの動物も、怒ってるとか、近づいてほしくないとか。そういうのが、なんとなく」
「言葉で?」
「いえ。俺がそう思っただけ、ってこともあると思います」
「では、ここで確かめていこう。君が感じたものを、今よりはっきり掴めるように」
老人は、そこまでしか言わなかった。
ディディは少し待った。自分の身体に何があるのか、どんな魔法の名がつくのか。続きは出てこなかった。
「それって……すごいことなんですか」
「人が何年も掛けて学ぶことを、君は出会ってすぐに感じ取る。それをどう育てるかは、君次第だ」
セルビウスは、緑の襟章へ目を向けた。
「動物に好かれるだけで終わるか。ともに困難を越えられるようになるか」
「一緒に、戦うことも?」
「学ぶ価値はあると思わんかね」
ディディの手が、膝から浮いた。
パウロにはキングがいる。ユズにはマリーがいる。二人は、これから自分の魂獣と強くなっていく。
その後ろを追うしかないと思っていた。
自分にも、まだ使い方を知らないものがある。
レムルスが椅子の脇へ伏せた。ディディは、その背へそっと手を置いた。
「俺、卵を取り返したいんです」
「推薦状にも、そうあった」
「あのとき、俺は何もできなかった。あいつらが戻ってきたって、今の俺じゃ……」
喉が止まった。
卵の殻から溢れた光が、目の奥に残っている。自分が守ろうとしていたものに、自分のほうが守られた。
「では、ここで強くなりたまえ」
セルビウスの声が、途切れた言葉を越えた。
「焦って追えば、同じ相手に同じことをされる。獣を知り、自分にできることを増やすのだ。次に手が届いたとき、今度こそ離さずに済むように」
「……そのために、ここにいていいんですか」
「君は何のために来た?」
ディディは封筒を見た。それから、自分の胸元の花へ触れた。
「取り返すためです」
「ならば、明日の授業から始めよう」
机の上へ、時刻表が差し出された。
ディディは両手で受け取った。
そこにあるのは、まだ読んだことのない科目の名前だ。さっきまでなら、周りについていけるかどうかを数えていたと思う。
今は、一つでも早く覚えたかった。
***
「レムルスのことは、ほかの生徒には?」
立ち上がりかけて、ディディは尋ねた。
「必要な教員には私から伝える」
ファラが答えた。
「だが、入学のたびに生徒全員の事情を読み上げる習慣はない。廊下で尋問されるつもりで歩く必要もない」
ディディは息を吐いた。
扉へ向かったところで、セルビウスに呼び止められる。
「もう一つ」
背筋が伸びた。
「初日から夕食を逃さぬように。学ぶにも、強くなるにも、腹は空く」
「そこはパウロが得意です」
「では、彼に負けぬように」
ディディは、今度こそ笑った。
廊下へ出ると、時刻表を畳んでポケットへ入れた。足元のレムルスが、鼻で膝を押す。
「分かってる。お前の分もだろ」
銀狼が先に歩き出した。
ディディはその隣へ並んだ。扉の向こうから、夜の草の匂いと、まだ知らない仲間たちの声が届く。
襟元の緑の花を、もう隠したいとは思わなかった。




