授業初日
朝、マルグレア寮の鐘が一度だけ鳴った。
居住区の廊下は木の香りが濃い。壁には蔦の節と呼ばれる継ぎ目が並び、触れると仕切りが音もなく動き、四人部屋を一続きの大部屋にも、個室四つにも変えられる。
今朝は仕切りが閉じていて、各部屋から衣擦れと水音が漏れていた。
廊下に出てマルグレア寮の食堂に向かった。 扉をくぐると、長卓が二列。奥の炉では大鍋が唸り、湯気が梁を撫でてゆく。
蜂蜜と黒パンと山羊乳の匂いが重なり、朝の森みたいに甘い。調理台は木工職人の仕掛けで、使わないときは壁に吸い込まれる折り畳み式だ。
「……うん、今日のパンは当たり!」
フィオナが踏み台を重ねて、ぱたぱたと卓上へ。毛並みが朝日にふくらみ、耳がぴくりと動く。
「ディディの分、はい! 蜂蜜は一滴だけ! 食後に眠くなるから!」
「今日は寝ないよ、てか一滴って少なすぎ......」
「“寝ない”って宣言する人ほど最初に落ちるの!」
彼女は自分の身長ほどある黒パンを器用に裂き、皿に配っていく。
ゴライアスはそっと椅子に腰を下ろした。椅子の脚が根を伸ばすようにきしりを吸い、形を変えて安定する。
「おかわりって、朝からあり……?」
「あり。でも重くなると床が怒るよ。昨日、廊下がぶすっと鳴ってたでしょ」
「鳴って……た……?」
「うん、たぶん不満の音!」
ディディが笑い、レムルスが炉のそばで静かに座る。金の瞳が火加減を見守っていた。
窓の外では庭師が刈った草に朝露が光り、鐘が二度目を打った。
「今日の一限、魔法動物学だよね」
フィオナが蜂蜜の壺を抱えて訊く。
「ああ。担当はベレミン先生。上級生の噂、聞いた?」
「聞いた聞いた。なんでも、自分の魂獣を解剖して論文を書いたとか」
「自分の魂獣を!?」
「”狂気のマッドサイエンティスト”って呼ばれてるらしいよ」
ディディは思わずスープを吹きかけ、フィオナが腹を抱えて笑った。
ゴライアスは目をぱちぱちさせ、まじめに言う。
「怖い先生……なのかな?」
「いや、授業は面白いらしいよ。魂獣の仕組みには人一倍詳しいんだって。怖いけど、ちょっと見てみたい」
フィオナは頷き、尻尾をゆらゆらと揺らす。
「そういう人、嫌いじゃない。“狂ってるけど正しい”って感じ、ちょっとワクワクする」
「二限は契約論。クロード先生だ」ディディが言った。
「ああ、あの黒板三枚使って一行説明する、ってやつ」
「理詰めにされて頭パンクするなよ、ゴライアス」
ゴライアスがパンを口に運びながら頷く。
「……どっちも、怖いけど楽しみ」
そのとき、蜂蜜の壺が傾いだ。
ディディの手より早く、レムルスが鼻先で底を押し戻す。
ころん、と安全地帯。狼は何も誇らず、ただ座り直した。
「助かった! レムルス、今週のヒーロー決定!」
フィオナが叫び、ゴライアスもほっと息を吐いた。
窓辺では、灰色の翼を持つジズーが静かにパンを割っている。言葉はない。けれど翼が一度だけ震え、〈わかった〉という合図に見えた。
「食べたら片づけて、講義棟ね。ベレミン先生、遅刻者は“被験体”扱いって聞いたよ」
「ひぃっ!被験体は嫌だ……」
ゴライアスが真顔で言い、周囲からは笑みがこぼれた。
葉の影が卓を揺らし、焼きたての香りがもう一度ふくらんだ。
森の寮の朝が、音もなく背中を押す。




