引雷通脈
動物舎の南窓から、雪解けの水が一滴ずつ落ちていた。入学からひと月半。薪を節約するようになった朝でも、飼育係の洗い桶には薄い氷が張る。ディディは桶の縁を木べらで叩き、割れた氷を排水溝へ押し流した。
灯尾栗鼠は、もうその音で隠れなくなっていた。
「今日は遅かったな、って顔をするなよ。俺にも朝の授業があるんだから」
決められた量の木の実を皿へ入れる。栗鼠は枝から降り、ディディの手が離れるのを待って、一粒をさらった。近づいてきても、撫でようとはしなかった。前に一度手を伸ばしてから、二日も奥の箱から出てこなかったのだ。
次の給餌当番が来るまでに、寝床の敷材を替えることになっていた。小屋には仕切りがあり、隣の空いた囲いへ移ってもらえば掃除ができる。
ディディが移動用の木戸を引くと、半分ほどで止まった。
「あれ。昨日はここまで上がったのに」
戸の裏で金属が鳴る。もう一度引こうとしたところへ、栗鼠が枝を駆け下りてきた。隙間へ鼻を入れ、引き返す。尾の光が、いつもより細かく瞬いた。
ディディは紐を止めた。
通りたい、という向きだけは伝わってくる。だが、何が引っかかっているかまで、栗鼠が教えてくれるわけではなかった。
「そっちはまだ駄目だ。今、人を呼ぶから」
呼ばれて来た飼育係は、白い傷のある眉を寄せた。昨日までと同じ前掛けに、今日は大きな木の匙を挟んでいる。紐を持つ手を代わり、戸を支える留め具を確かめた。
「自分で直そうとしなくてよかった。押し戻した拍子に、下へ落ちることがあるからね」
「掃除は後にしますか」
「そうしよう。獣を追い回してまでする仕事じゃない」
係が元の枝へ戻れるよう餌皿を寄せたとき、栗鼠は木戸の金枠に尾を触れさせた。ぱち、と音がして、戸の奥の小さな爪が動く。すぐに元へ戻った。
ディディは爪から目を離せなかった。
箱の留金を開けた実習でも、あれくらいしか動かなかった。大きな力が足りなかったのではない。力を通す先が、途中で外れていた。
「今の、見えましたか。尾が触れたときだけ、奥が動きました」
「そうだね。先生が来たら、そのまま話しておくれ」
魔法動物学の教師ベレミン・ロスは、次の実習の見回りで廊下へ来たところだった。飼育係の説明を聞くと、戸の下に木の支えを入れ、ディディを脇へ退かせる。指で留金をこじ開けるのではなく、枠の端の覆いを外した。
中の細い金属片は、端が浮いていた。
「修理係を呼ぶ。戸はこのまま支えておきなさい」
「導杖で、あの浮いたところまで通せませんか」
言ってから、自分の声が早くなっていたことに気づいた。
ベレミンはディディを見た。
「栗鼠を捕まえるつもりなら、やめておきなさい」
「捕まえません。こいつが枠に触れたときだけなら。触らなかったら、やりません」
「何を動かしたい?」
「あの爪です。戸全部を押し上げようとはしません」
教師は少し考え、飼育係に予備の囲いを開けてもらった。栗鼠が嫌がれば元の寝床へ戻れる。戸が上がった場合には、隣の枝へ移れる。どちらにも人の手を置かないよう言ってから、実習棚の短い導杖を取り出した。
「これは先端の二股で、細い経路をつなぐ型だ。まず、私が留金を押さえる。君は乾いた握りから手を出さない」
「はい」
「術を見せるために、獣をここへ呼ぶ必要はない。掃除は後でできる」
念を押され、ディディは頷いた。早くやらせてほしいとは言わなかった。
導杖は、以前の実習で持った物より短い。魂獣の代わりに人の力を外へ通す細工が握りの奥にある、と習った。けれど今日は、自分の雷で爪を弾こうとしているのではない。枠に落ちる栗鼠の放電を、ほんの少し先へ渡そうとしていた。
教師に指された二か所へ、先端を合わせる。
栗鼠は枝の上で木の実をかじっていた。
ディディは待った。戸の向こうに餌を増やしておびき寄せることも、枝を揺することもしない。腕が重くなると一度杖を戻し、握り直した。
「それでいい。待つ間まで構える必要はない」
ベレミンに言われると、かえって肩へ力を入れていたことが分かった。
やがて栗鼠が枝を降りた。尾は暗いままだった。金枠を嗅ぎ、元の囲いへ戻りかける。
ディディも杖を下げた。
そのとき、尾の先が一度だけ光った。
手を急がせた。先端が枠をかすめ、音だけが跳ねる。留金は動かなかった。
「追わない」
教師の声に、伸びかけた肘を戻す。
栗鼠は箱の屋根へ登っていた。目を合わせず、前脚を舐めている。ディディは杖を膝の上へ下ろした。
「俺が近づきすぎました」
「今のは君にも見えただろう」
「はい。次は、ここから動かしません」
言いながら、次がなければそれで終わりだと思った。戸を直せるのは自分だけではない。奥では飼育係が、修理係へ渡す覆いのねじを皿に集めている。
栗鼠が戻ったのは、その皿が机へ置かれた後だった。
いつもの餌場へ向かう途中で、枠に前脚を置く。ディディは二股の先を合わせたまま息を吐いた。近くへ寄ろうとしなかった。
細い光が金属を走った。
杖の先がびりりと震える。握りを強く締める代わりに、浮きかけた先端を元の位置へ戻した。光は二股の間で消えず、その先の爪へ届いた。
かちり、と鳴った。
教師が戸を持ち上げた。隣の枝へ、茶色い体がすり抜けていく。
「開いた」
口から出たのは、それだけだった。
栗鼠は振り向かなかった。新しい囲いの隅に残っていた殻を拾い、食べられる物でないと分かると落とした。
ディディが杖を見下ろすと、先端にはもう何もなかった。
「もう一度、できるでしょうか」
「今日は終わりだ。留金が開いたのだから」
教師は杖を受け取り、枠から離した。ディディの指が開くまで待ってから、握りを点検する。
「力を作ることと、来た力を通すことは違う。今、君ができたのは後の方だ」
「こいつと契約できたわけでも、ないんですよね」
「それを確かめるために呼び戻すのか?」
ディディは隣の囲いを見た。栗鼠は腹を枝に乗せ、もうこちらを見ていなかった。
「……呼びません。掃除してきます」
その日は、敷材を運ぶ仕事が余分に残った。技を使えたから当番が終わるわけではない。飼育係から空の袋を渡され、ディディは膝で袋の口を広げた。
修理係が来るころには、床は乾いていた。
寮へ帰ると、フィオナが翌週の練習枠を書き写していた。救助予選まで、あとひと月半。紙の余白へ今日のことを書こうとして、ディディは手を止めた。
「留金を開けられたから、倉庫の扉にも使えるかなって思ったんだけど」
「同じ留金なの?」
「まだ見てない。それに、栗鼠が来なければできない」
「じゃあ、先に扉を見よう。わたし、窓の幅も測りたい」
ディディは練習の紙から別の頁へ移った。成功したことと、次に当てにしていいことは、同じではなかった。
見出しだけは少し大きく書いた。
引雷通脈。雷を引いて、細い道へ通す。
ジズーが向かいの寝台から一度だけ顔を上げた。
「……名前は立派だな」
「中身も、そのうち追いつくよ」
言い返してから、ディディはその下に、留金一つ、と書き添えた。
窓辺でレムルスが伸びをした。栗鼠のために入口で待っていた狼へ、今度はディディが戸を開けた。
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