帰り道まで
学園南の演習場には、春を待つ水の匂いがした。浸水広場の縁で職人が冬の覆いを巻き取り、模擬街区の石畳を、荷車の轍にたまった泥ごと洗っている。入学から二か月。南門の掲示板には、来月の救助予選に向けた練習枠が、朝から晩まで埋まっていた。
白い救護所の前で、ディディは担架の結び目を最後に引いた。
「今日は二十分で区切ってもらう。診療所を出た後、別の人形を取りに行くところまでやりたい」
「見学じゃなくても、いいのか?」
ジズーに向けて言い足すと、外套の襟から目だけがこちらを向いた。
「……練習だけなら」
「うん。申込は別にする」
フィオナが受付の紙を示した。今日の参加者を書く欄だけで、予選の申込書は出していなかった。ジズーは短く自分の名を記し、筆を戻した。
ゴライアスが、地面へ置かれた砂時計を覗き込んだ。
「これをずっと見てる人は、いなくていいんだね」
「わたしが持っていくよ。止まったときに確かめればいいんでしょ」
フィオナは小さな時計を肩掛けの袋へ収めた。普段の六キロ人形は戻し、今日は二十五キロを使う。ディディが持ち上げたとき、同じ布のたわみ方がまるで違っていた。
用具係のミリアムは、四人とレムルスが門の内側へ入ったところで、受付の時計を返した。
「始めて。今日は診療所の奥の部屋が開いているわ」
南門から左へ二十メートル。診療所の巻上げ木戸は、前より軽く上がった。ゴライアスが外から紐を持ち、ディディとジズーが担架を通す。フィオナはトンボから降り、狭い廊下の角を先に曲がった。
「右の部屋だよ。足元に布が落ちてるから、先に端へ寄せるね」
レムルスは入口で一度立ち止まった。床板の隙間に、掃除の水が残っている。ディディが脇を空けると、狼は乾いた壁際を選んで通った。
人形を寝かせる。縄を胸と腰へ回す。以前なら結び終えたところで運び出していたが、今日はディディが一度持ち上げ、ずれないことを確かめた。
「そっちの角を曲がったら下ろす。ゴライアスは、俺たちが外へ出てから持ってくれ」
「分かった。戸は、この留め具に掛けておくね」
ジズーは返事をせず、持ち手を上げた。背中を壁へぶつけない程度に翼を畳み、角ではディディが向きを変えるまで待っている。
外へ下ろした担架を、ゴライアスが両側から持った。フィオナが足元の縄を拾い、蟻たちが戸口から戻ってくる。四人で救護所へ着いたとき、ミリアムは三十と書いた札を立てた。
「五分半。人形を預けても、時計は止まらないわ」
「まだ十四分以上ある」
ディディは北の鐘楼を見た。救護所から道なり九十メートル。六メートルの踊り場なら、ゴライアスの頭より少し上だ。
「あそこを運べれば、合わせて百点になる。先に鐘楼へ行ってみよう」
「倉庫を見るって言ってなかった?」
「今の運び方なら、間に合うかもしれない。近くまで行って確かめよう」
フィオナは袋から時計を出した。砂の残りを見て、もう一度しまう。
南の通りから中央の広場を抜け、四人は北へ進んだ。鐘楼へ近づくほど、踊り場の床の下がよく見えた。人形は外縁ではなく、手すりの向こう、壁際へ寝かせてある。
ゴライアスが腕を伸ばしかけ、途中で止めた。
「届くけど、上が見えないよ。これで掴んだら、人形の腕を引っ張ってしまうかもしれない」
「わたしが見てくる」
トンボがフィオナを載せて上がった。踊り場の入口で翅を止め、細い脚を石に掛ける。
「縄はまだ掛かってないよ。上で担架に載せてから下ろさないと。ゴライアス、人形を受け取るとき、手すりに腕が当たらない?」
「それも、ここからだと分からないんだ」
ディディは折返し階段へ片足を置いた。担架を縦にすれば運べるか。上で広げる場所はあるか。人形を載せた後、またこの角を曲がれるのか。
滑車は借りていなかった。
縄だけで下ろすとしても、上で重さを支える者と、下で受ける者が要る。フィオナ一人へ任せる重さではない。ゴライアスが受け取れる位置まで、安全に出す方法も決まっていなかった。
「あと何分?」
「十一分。ここへ戻ってくるんじゃなくて、救護所まで戻るんだよ」
フィオナの声が上から落ちた。
ディディは手すりへ目を上げた。すぐそこに七十点がある。ここまで来たのに、何も持たず引き返すのか。
「……帰りは走れないぞ」
ジズーは空の担架を持っていた。行きは片手で持てるが、人形を載せれば、もう片手を空けることさえ簡単ではない。
ディディは階段から足を下ろした。
「鐘楼はやめる。フィオナ、戻ってきてくれ。倉庫へ向かおう」
「いきなり全部を試すの?」
「入口まで見て、運べる方から出す。無理なら、人形を動かさず帰る」
言ってから、ゴライアスにも顔を向けた。
「さっきみたいに、届くから大丈夫だとは思わないようにする」
「僕も、持てるかどうかだけじゃなくて、どこで受け取るかを先に見るよ」
東へ曲がると、浸水広場の水が見えた。幅十二メートルの水面を北へ二十メートル進んだ向こうに、倉庫の黒い窓がある。西側の石橋へ、ゴライアスが片足を乗せた。
「僕が人形を持って渡っても大丈夫だって、受付で確かめたよ。橋の先は、屈まなくても通れそうだ」
フィオナはトンボで水面を横切った。北側の窓辺へ降り、室内を覗く。
「人形は棚の上。窓から出せそうだけど、わたしだけじゃ棚から担架へ移せない。西の戸口まで来て」
そこには、水の入っていない通路が残っていた。ゴライアスは戸口の外で膝をつき、ディディとジズーが中へ入る。蟻の群れが棚の脚を登っていった。
レムルスは水の匂いを嗅ぎ、入口へ戻った。ディディは追って来いとは呼ばなかった。
「そこで待っててくれ。戻るときに戸口を空けてな」
人形の肩と腰を蟻たちが支える。ディディとジズーが下で受け、床へ置いた担架に寝かせた。棚の高さは腰ほどだったが、腕にかかる重さで歯が合わなくなった。
縄を回す指が、先ほどより遅い。
「フィオナ、胸のところを見てくれ。布を挟み込んでないか」
「こっちが折れてる。今、伸ばすね」
時計を見ようとした手を止め、彼女は布を直した。急がせる言葉が喉まで上がったが、ディディは結び目を引く方へ戻った。
人形をずらさず戸口へ出す。外の乾いた場所へ下ろし、ゴライアスへ渡した。
その間にジズーが、残った縄を束ねていた。
「……忘れるな」
渡された縄は、ディディが借りた物だった。
橋へ戻ると、南の救護所は小さく見えた。ゴライアスの歩幅ならすぐでも、ほかの三人が走れば担架の横へついていけない。彼は何度も足を止め、足元の蟻たちが揃うのを待った。
中央の広場の角で、市場へ向かう道が分かれる。
ディディはそちらを見なかった。
「このまま帰ろう」
救護所の布の下へ人形を下ろす。フィオナがトンボを肩へ戻し、レムルスがディディの足元へ来た。ゴライアスが最後の蟻を確かめ、ジズーが門をくぐる。
そこで、ミリアムが時計を伏せた。
「二十一分六秒。八十点分は運べたけれど、今日は時間切れね」
「一分六秒、間に合わなかったのか」
「そう。鐘楼へ寄った分だけではないわ。倉庫を出てからも、随分立ち止まっていたでしょう」
フィオナが時計を出した。最後の砂は、袋の中で落ち切っていた。
誰も、もう一度だけ計り直してくれとは言わなかった。
ディディは図の鐘楼へ引いた線を消した。倉庫から帰る線は消さず、橋のたもとと曲がり角へ印を付ける。
「次は診療所と倉庫にしよう。戻る道も含めて、最初から決める。市場を足すかは、それができてからだ」
「帰りに止まった所で、僕が皆を待てる場所も決めておこうか」
「うん。ゴライアスにゆっくり歩いてもらうだけじゃ、駄目だった」
ジズーは自分の道具を返却台へ置いた。
「……次は、遠回りするなよ」
ディディが顔を上げたときには、もう背を向けていた。次も出場してくれる、と書き換えてはいけない。だが、来週の練習を尋ねる言葉は、今度こそ本人へ向けて言える。
返した担架の布には、二体分のくぼみが残っていた。ディディはそれを掌で伸ばし、次の班が来る場所へ立て掛けた。




