一度だけの手伝い
入学からひと月が過ぎた朝、学園南の救助演習場では、鐘のない鐘楼が白い空を区切っていた。石畳の下で排水ポンプが鳴り、窓のない家の壁には、昨日の班が付けた泥の手形が残っている。壊れた街を何度でも作り直す職人たちが、今日は市場の天幕を外していた。
春の予選まで、およそ二か月。南門の白い救護所には、練習枠を待つ生徒が道具を並べている。
「今日は市場だけにしよう。人形をここまで運び終わったら、次の班に代わる」
ディディは受付で借りた図を、ゴライアスにも見える高さへ持ち上げた。南門から西の通りを四十メートルほど進んだ所に、市場がある。東の浸水倉庫へは、そこから街区を横切らなければならない。
「倉庫なら、わたしが窓まで飛べるよ。でも、着いてから人形を下ろすところがまだ分からないんだよね」
フィオナは図の東側を指した。肩に止まった小さなトンボの脚が、襟の縫い目をつかんでいる。
「先に見に行く?」
「見学の時間にしよう。今日は市場を借りてるから、あれもこれもやると、また帰りが分からなくなる」
ディディが図をたたむと、背後の柵にもたれていたジズーが体を起こした。
今朝、三人が出かける支度をしていたとき、部屋の戸を押さえて待っていたのだ。来てくれるのかと尋ねると、「……昼まで」とだけ答えた。
受付には、三人の練習と一人の見学で届けてある。
「荷物は、そこの棚へ置けるって」
フィオナが教える。ジズーは返事をせず、本を棚へ入れた。
市場の入口では、別の班が人形を運び出していた。
蔓を伸ばす獣が倒れた屋台の脚を引き、二人の生徒が下へ滑り込ませた担架を引き出す。外で待つ残りの二人が受け取り、救護所へ向かった。屋台を持ち上げた獣は、主人に呼ばれるまで動かなかった。
「あの班は、上から持ち上げるんだね」
「僕も、それならできそうだけど」
ゴライアスが自分の手を開いた。
市場の広場は十メートル四方ほどあったが、人形の周りは倒れた屋台と石の塊で狭くなっていた。五メートルある彼が外から腕を伸ばせても、人形をつかむ指の先までは見通せない。
用具係の上級生ミリアムが、移動できる石の白印を確かめてから道を空けた。
「今日は軽い練習用を置いたわ。本番の二十五キロに替える前に、出せるか試して。壁と柱は壊さないでね」
「この石は動かしていいんですか?」
「白印のある物はいいわ。下の物を抜けば、上の物も動く。それは自分たちで確かめて」
彼女は広場の外へ退いた。計時用の砂時計には手を触れなかった。
ジズーも見学用の柵の外に残った。
フィオナがトンボへ跨がると、その胴が彼女を載せられる大きさに伸びた。倒れた屋台の上を回り、向こう側へ降りる。
「人形は見えるよ。足が布に引っかかってる。大きな石をどける前に、この布を外さないと」
ディディは瓦礫の間へ膝をついた。レムルスも鼻を寄せたが、細い隙間の奥までは入ろうとしない。人形を見つけてもらう必要はなかった。彼は狼を自分の後ろへ戻し、布の端を引いた。
動かない。
屋台の脚が布を踏んでいる。力を込めると、人形の靴が一緒に引かれた。
「ゴライアス、屋台を少しだけ上げてもらえるか。こっちの脚で布を踏んでる」
「どの脚? 僕の方からだと、二本とも重なって見えるよ」
フィオナが手を振りかけて、止めた。誰に何が見えるか、庭で間違えたばかりだった。
「わたしが屋台の外へ出てから、踏んでる脚を指すね。ディディも手を抜いて」
二人が離れたのを見て、ゴライアスが屋台の枠を支えた。
その足元から蟻の群れが進み、脚の下の土が小さく盛り上がる。土が脚を受け止めると、彼は持ち上げるのをやめた。枠を横へ滑らせないよう、両手だけを残す。
「今なら、布を引けると思う。大きく動かさないからね」
ディディは外側から布の端を引き、踏まれていた部分を抜いた。フィオナが人形の靴から布を解く。
それでも担架は入らなかった。人形の横にある白印の石が、持ち手の通る場所を塞いでいる。
「僕の蟻に、そっちの石を運ばせようか」
「待って。屋台の脚の下にもいるだろ。そっちは残しておいてくれ」
「うん。全部を呼ぶつもりはないよ」
ゴライアスはディディを見るために顔を下げた。屋台の枠を握る手は動かさない。
言い返されて、ディディはようやく自分の声の強さに気づいた。任せると言いながら、何もかも自分で止めようとしていた。
「ごめん。石が動くときは、先に教えて」
「分かった。僕も、そっちの足が見えないから、離れたら言ってほしい」
蟻たちは石の下へ潜り、縁を少しずつ浮かせた。見た目よりはるかに重いはずの塊が、群れの上を滑るように動く。
空いた場所へディディが担架を入れ、フィオナと人形を寝かせた。胸と腰を留める縄は、庭で何度も結んだものだ。今度は先に、人形を下ろす広場の乾いた場所を指した。
「そこまで出して、一度置こう。ゴライアスは屋台から手を離せるか確かめてからでいい」
蟻の一部が担架の後ろへ回る。前をディディが持ち、屋台の隙間から進んだ。
持ち手が石に当たる。
横へずらせば、フィオナが通った隙間へ棒の先を出せそうだった。だが、そちらには返すためにまとめた縄が置いてある。
ディディは片手を離しかけた。
「……先に下ろせ」
柵の向こうから声が来た。
ディディは手を戻した。担架を静かに下ろし、縄を拾う。その間にフィオナが狭い出口の外へ回った。
「ジズー、外へ出すところだけ持ってもらえる?」
頼んでから、ディディはミリアムを見た。
「練習なら交代していいわ。本番は登録した四人だけよ」
ジズーは柵を回ってきた。短い溜息をつき、担架の空いた持ち手を握る。
「……一度だけだ」
ディディは反対側を持った。二人で横へ向きを変えると、棒の先が石を避けた。蟻が後ろを支え、人形は広場へ出た。
下ろしてから、ゴライアスが受け取る。ジズーは縄の端を踏まないよう跨ぎ、元の柵へ戻っていった。
救護所までの四十メートルは、ゴライアスが運んだ。フィオナが前を行き、ディディは布の傾きを確かめながら隣を歩いた。
白い天幕の下へ人形を置くと、腕より先に膝の力が抜けた。
「市場は四十点だよね」
「今日は点はつかないよ」
「分かってる。でも、ここまで運べるのは分かった」
フィオナが言い直す。ディディも人形の靴をそろえた。
「次は本番の重さでやろう。今日と同じ速さで出せるとは限らないし」
「僕は、屋台を支える手と運ぶ手を、一度に使おうとしてたね」
ゴライアスが掌についた土を払った。
ディディは図の診療所と市場に小さく丸を付け、その横に七十と書いた。まだ足りない。けれど、足りない場所が前よりはっきりしていた。
ジズーは先に棚から本を取っていた。誘い直す言葉の代わりに、ディディは昼の鐘が鳴る前に用具を返すと告げた。
帰りに給餌当番で動物舎へ寄ると、灯尾栗鼠が網の奥から顔を出した。ディディは近づかず、職員に渡された木の実を決められた皿へ入れる。
栗鼠は彼が退いてから取りに来た。
今日は、尾の先から音がしなかった。ディディはそれを触っていい合図にはせず、空の桶だけを持って戸を閉めた。




