見ているだけのはず
マルグレア寮の庭では、日なたの霜から先に消えていった。石敷きの継ぎ目を水が流れ、洗濯当番の干した靴下が、緑の寮旗より低いところで風を受けている。入学して三週目の休み。春の救助予選まで、まだ二か月以上あったが、用具室の担架は朝のうちに半分が貸し出されていた。
「そこを曲がったら、花壇の横まで行こう。今度は人形を載せたままで」
ディディが言うと、ゴライアスは屈んだまま頷いた。借り直した担架には、六キロの練習用人形が寝ている。フィオナは花壇の縁に立ち、二人の持ち手を交互に見た。
「ゴライアス、そこで待って。ディディが外側を回ってからだよ」
「分かった。ディディ、急がなくていいからね」
布を斜めに引かず、角を曲がれた。
門のそばで靴音が止まったのは、そのときだった。
「来てくれたんだ」
ジズーは外套の内側へ翼を収め、脇に本を挟んでいた。返事の代わりに庭を見渡し、洗濯籠から離れた石段へ座る。
ディディは、こちらへ来いと言いかけて飲み込んだ。今日は見てもらうだけだ。
「今、曲がり角を運ぶ練習をしてる。ここからは、ゴライアスが一人で持てるように渡すつもりなんだけど」
人形の足側へ回ろうとして、ディディは止まった。両手はまだ持ち手を握っている。ゴライアスが反対の手を伸ばせば、担架の頭側が少し下がる。
「待って。そっちを持ち直す前に、俺の方を――」
「こっちを放すと、頭が下がるよ」
「わたしが支える? ……その高さだと、届かないな」
五十センチほどの体を伸ばしたフィオナの指先は、担架の布にやっと触れるだけだった。トンボが肩から飛び立ったが、彼女は呼び戻す。
「急に大きくしたら、干してある靴下にぶつかっちゃう」
石段で本が閉じた。
「……一度、下ろせば」
ジズーは膝の上から本をどけ、立った。
ディディも足元を見た。石敷きには水が流れている。花壇の土には昨夜の雨が残っていた。運ぶ先ばかり決めて、途中で手を離せる場所を見ていなかった。
「あそこの軒下なら乾いてる。そこまで戻ろう」
「後ろ向きに歩くより、向きを変えた方がよさそうだね」
ゴライアスが言う。ディディは頷いたものの、肘から先が重くなっていた。人形は軽い練習用のはずなのに、止まって相談している時間の方が腕にこたえた。
ジズーが隣へ来た。
「……そっちを持つ」
ディディの左手の外側で、同じ棒を握る。手を放していいか目で確かめると、ジズーはわずかに顎を引いた。
空いた手でディディが軒下の桶を寄せ、フィオナが足元の縄を片づけた。二人で担架を下ろすと、布の中の人形はほとんど動かなかった。
「ありがとう。ずっと持ってると、こんなに腕が重くなるんだな」
ジズーはもう石段へ戻っていた。
「……長く話すからだ」
「それは本当にそうだと思う」
ディディが手首を回すと、フィオナが軒下の壁に背をつけた。
「運びながら相談するより、ここで決めればよかったね。ゴライアス、ここからなら両側を持てる?」
「うん。でも、出口の柱に肘が当たりそうだ。僕は外にいて、そこまで運んでもらった方がいいかな」
ディディは柱と、五メートルある友人の肩を見比べた。人が通れる場所と、ゴライアスが屈んで両手を使える場所は違う。
軒の外の石敷きを拭き、そこを受け渡しの場所にした。二度目は最初からそこへ下ろす。ゴライアスが担架の左右を確かめて持ち上げるまで、ディディは布の端を押さえていた。
「これなら、診療所から出した後も渡せるね」
「次は市場も見てみたい。診療所だけじゃ三十点だから、予選を通るには別の場所へ行かないと」
「市場と合わせても七十点だよ」
フィオナが指を折った。ディディは口を開きかけ、数え直す。
「……そうだった。まず市場を運べるか調べて、それから組み合わせを決めよう」
「八十点を取る前に、数え方で落ちるところだったね」
ゴライアスが担架を下ろすと、三人の間で声がこぼれた。ジズーは笑わず、本の頁をめくった。ただ、帰ってはいなかった。
庭の影が長くなる前に、練習を終えた。
ディディは道具の控えへ、乾いた受け渡し場所を探す、と書いた。手伝った者の欄を作ろうとして、筆を止める。
「今日は、ここまで。見てくれて助かった」
ジズーは本を外套へ入れ、階段へ向かった。次も来るかとは聞かなかった。代わりに、三人で借りた物を数え直した。
その後の給餌当番で、ディディは動物舎へ回った。
窓から入る光が、湿った床に細長く落ちている。餌桶を運ぶ車輪の音に、鳥たちが次々と首を伸ばした。レムルスは入口の外へ待たせる。狼が見えると、食べるのをやめる鳥もいた。
燈喉鷺の囲いで、若い一羽が魚をくわえた。
喉が動く。魚を落とし、また拾う。
「まだ欲しいんだろ。次は小さいのに――」
桶へ伸ばした手を戻した。
あの実習台で見た袋は、息の通り道ではなかった。自分の書いた記録には、欲しがることと、飲み込めることは別だとある。
鳥は三度目も魚を落とした。
「係の人を呼んできます。この囲いには、まだ餌を足さないでください」
隣の当番へ頼み、ディディは廊下を走った。
戻ってきた飼育係は、袖をまくった年配の女性だった。前掛けの紐に小さな鋏を下げ、右の眉には白い古傷がある。彼女はすぐ囲いへ手を入れず、餌桶を外へ出した。
「何回、落とした?」
「三回です。取ろうとはするんですけど、飲めていませんでした」
「ほかの鳥に追われていた?」
「いいえ。あの端で、一羽で食べてました」
係は頷き、奥の職員を呼んだ。二人で仕切りを立て、若い鷺だけを別の囲いへ移す。ディディは桶を持ったまま、戸の外へ退いた。
「喉に何か詰まってるんですか」
「まだ分からない。口の中を確かめてからだよ。見たことは当番帳にも書いておいて」
答えを先に決めずに済んだことだけ、今は自分で分かった。
記録を渡し、空いた桶を洗っていると、背後で乾いた音がした。
隣の小屋の金網を、栗鼠が駆け上がっている。尾の先に黄色い光がちらつき、留金へ触れた瞬間、ぱちりと小さく跳ねた。
「そっちも餌が欲しいのか?」
栗鼠はディディを見ず、棚の木の実へ鼻を向けた。近づこうとすると、網の奥へ引っ込む。
「灯尾栗鼠だよ。今の音がしても、面白がって留金を触らないこと」
飼育係が洗い場を通りながら言った。
ディディは伸ばしかけた指を、濡れた桶の縁へ戻した。
栗鼠はそれを見届けるように網へ戻り、今度は音を立てずに木の実をかじり始めた。




