↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
26/31

殿下より先に呼ぶ名前

 入学して二週目、イリディエル寮の前庭に紫の天幕が立った。白い石柱の間には冬の陽が差し、庭師の掃いた道を、泥のついていない靴が次々と渡っていく。馬車で来た客たちは、生徒の制服より先に、壁に刻まれた寄付者の紋章を見上げていた。


「あの椅子、座っていいのか?」

「招待客の席よ。あなたはこっち」


 ユズに袖を引かれ、ディディは天幕の外へ回った。今日は寮生が魂獣と取り組む課題を見せる公開実演だ。彼女から見に来てほしいと言われていた。

 レムルスは通路を避け、石柱の陰へ伏せる。ユズの猫、マリーは、庭に置かれた三つの低い台を順番に嗅いでいた。


「取った紐を、あの籠へ運ぶの。私が手を出せない場所からでも回収できるようにしたくて」

「大会の争奪戦でも使うのか」

「本戦はまだ五か月以上先でしょう。それまでに、取った物を途中で放り出さなくなればね」


 マリーは台の下で、落ち葉を押さえた。


「それは籠に入れなくていいのよ」


 ユズがしゃがむと、黒い大鴉(おおがらす)が頭上を横切った。白い砂利へ降り、猫から離れた所で翼をたたむ。

 続いて来た女性は、灰色の髪を細く編み、紫の外套を襟まで整えていた。イリディエルの担任、レティシア・ヴェイルだ。年季の入った手袋で籠の縁を確かめ、ユズへ向き直る。


「三番目の台を、さっきより近づけたのね?」

「はい。最後だけ、飛び降りた後で紐を離してしまうので」

「では、その距離でやってみなさい。終わったら、なぜ近づけたのかも自分で説明してね」


 先生が順番を呼ぼうとしたとき、毛皮の襟を立てた客が近づいた。


「殿下のご実演から拝見できませんかな。次の訪問がありまして」


 庭の奥で、王女アーロフが白銀の隼を腕に載せていた。金の髪に落ちた羽毛を取り、こちらを見る。付き添いの男は、もう彼女の前から椅子を動かし始めている。

 ユズの指が、籠の持ち手に残った。


「準備のできている生徒から行います。殿下は三番目です」

「ですが、王家からいただいた設備のお披露目でもあるでしょう」

「設備については、私からご説明いたします。実演はこちらの席でご覧ください」


 レティシアは客のために椅子を引いた。声を強めることも、退いて通り道を空けることもしない。

 男は懐中時計をしまった。


「私も、まだ隼の手入れが済んでおりませんわ」


 アーロフが言い、腕を持ち上げた。隼はくちばしを背へ差し込んでいる。


「どうぞ、先にお始めになって」


 ユズは籠を置いた。

 ディディは何か声を掛けようとして、やめた。励ます言葉より、自分がどく方が先だった。猫の帰り道から二歩離れる。


「それでは、ユズ。お願いします」


 マリーが最初の台へ跳んだ。

 赤い紐をくわえ、二つ目へ。小さな足が縁にそろう。客席の誰かが拍手しかけ、猫の耳がそちらを向いた。

 その瞬間、天幕の裾が風をはらんだ。

 三番目の台に、紫の影が大きく落ちる。マリーは身を縮めたまま、跳ばなかった。


「マリー。こっちよ」


 ユズが籠のそばで呼ぶ。

 猫は紐をくわえ直した。後ろ脚が、台の端へ寄っていく。

 ディディの足が動きかけた。以前の練習なら、あの影の向こうへ回ってやったかもしれない。

 けれど、ユズはこちらを見ていない。


「マリー、まだ下りなくていいわ。そこにいてね」


 彼女は籠を持ち上げ、天幕の影から外れた砂利道へ移した。三番目の台の向こうではなく、二つ目の横だ。


「こっちへ下りておいで。籠もここに持ってきたわよ」


 マリーの鼻が向く。足元の砂利を見て、今度は低く跳んだ。

 着地した猫を追って、ユズもしゃがむ。紐の端が地面につく前に籠を寄せるのではなく、猫が顔を上げるのを待った。

 赤い紐が、中へ落ちた。


「よし。ありがとう」


 ユズの声の後から、拍手が来た。

 マリーは籠の隣へ座り、何でもないように前脚を舐め始める。


「それなら、最後の台は初めから外しておけばよかったのでは?」


 客席から問われ、ユズは立った。


「練習では使えていました。でも、今日は天幕の影が動いていたから、同じようにはいきませんでした」

「予定とは違ったわけですな」

「はい。籠へ持ち帰ることはできました。台を全部渡る練習は、場所を確かめてから続けます」


 レティシアは途中で答えを足さなかった。客がもう一度頷いてから、次の生徒を呼ぶ。

 ユズは籠を抱え、ディディの所へ戻った。


「最後の説明、ちゃんと伝わったかしら?」

「伝わったと思うよ。紐もちゃんと持ち帰れたし。俺は途中で手を出しそうになったけど」

「手を出したら、あなたにも紐を籠まで運んでもらってたわよ」

「口で?」

「手でいいわよ。そこまで猫に合わせなくても」


 二番目の実演が始まる。ユズは空いた台へ腰を下ろし、ようやく肩から力を抜いた。

 アーロフの番には客の大半が立ち上がった。ディディの位置からは、人の背中の間に白い翼が見えた。それでも、ユズが運んだ紐は籠に残っていた。


 片づけのとき、レティシアが記録用の紙を持ってきた。


「今日の実演を寮の掲示にまとめます。紐を持ち帰れたことだけでなく、途中で手順を変えた理由も載せるから、後で確認してね」

「私の名前もですか」

「もちろん。あなたが考えたことでしょう」


 ディディは、取り消した申込の控えを思い出した。


「名前を載せたくない人がいたら、どうするんですか」


 先生の筆が止まる。


「名前がなければ、誰が考えて取り組んだのか伝わらないわ。別の人の成果だと思われたら、本人のためにもならないでしょう」

「でも、見られたくないこともあるんじゃないかって」


 その先にジズーの名を出すのはやめた。

 レティシアはしばらく彼を見ていたが、客に呼ばれて振り返った。


「まずはユズ本人に聞きましょう。ユズ、今日の実演をあなたの名前で掲示して構わない?」

「はい。最後の台を使わなかったことも、書いてください」


 先生が名前を書いた。

 ユズはその横で、自分の説明が終わるまで立っていた。

 寮へ戻ると、庭でフィオナとゴライアスが待っていた。先に約束した担架の練習だ。ディディは鞄を置き、低い方の持ち手を握った。

 石敷きの角で、ゴライアスが足を止める。担架の布が斜めに張った。


「僕だけ先に曲がると、そっちを引っ張っちゃうね」

「俺が外側を回る分、もう少し待ってくれ。フィオナ、俺たち二人が見える所から声をかけてもらえるか?」

「ここなら見えるよ。人形を落とす前に言ってね」

「落ちてから言うつもりはないよ」


 空の担架でも二度やり直した。三度目で角を曲がれたので、六キロの練習用人形を載せる。フィオナの声で二人が止まり、持ち直してから進む。今度は布の中の人形がずれなかった。


「これなら、帰り道に曲がり角があっても運べそうだね」


 ゴライアスが担架を下ろした。ディディは袖で額を拭き、庭の先を見た。

 部屋の窓辺にジズーがいた。こちらと目が合う前に、本へ顔を戻す。ディディは呼び止めず、次の一回に備えて人形の紐を確かめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。