殿下より先に呼ぶ名前
入学して二週目、イリディエル寮の前庭に紫の天幕が立った。白い石柱の間には冬の陽が差し、庭師の掃いた道を、泥のついていない靴が次々と渡っていく。馬車で来た客たちは、生徒の制服より先に、壁に刻まれた寄付者の紋章を見上げていた。
「あの椅子、座っていいのか?」
「招待客の席よ。あなたはこっち」
ユズに袖を引かれ、ディディは天幕の外へ回った。今日は寮生が魂獣と取り組む課題を見せる公開実演だ。彼女から見に来てほしいと言われていた。
レムルスは通路を避け、石柱の陰へ伏せる。ユズの猫、マリーは、庭に置かれた三つの低い台を順番に嗅いでいた。
「取った紐を、あの籠へ運ぶの。私が手を出せない場所からでも回収できるようにしたくて」
「大会の争奪戦でも使うのか」
「本戦はまだ五か月以上先でしょう。それまでに、取った物を途中で放り出さなくなればね」
マリーは台の下で、落ち葉を押さえた。
「それは籠に入れなくていいのよ」
ユズがしゃがむと、黒い大鴉が頭上を横切った。白い砂利へ降り、猫から離れた所で翼をたたむ。
続いて来た女性は、灰色の髪を細く編み、紫の外套を襟まで整えていた。イリディエルの担任、レティシア・ヴェイルだ。年季の入った手袋で籠の縁を確かめ、ユズへ向き直る。
「三番目の台を、さっきより近づけたのね?」
「はい。最後だけ、飛び降りた後で紐を離してしまうので」
「では、その距離でやってみなさい。終わったら、なぜ近づけたのかも自分で説明してね」
先生が順番を呼ぼうとしたとき、毛皮の襟を立てた客が近づいた。
「殿下のご実演から拝見できませんかな。次の訪問がありまして」
庭の奥で、王女アーロフが白銀の隼を腕に載せていた。金の髪に落ちた羽毛を取り、こちらを見る。付き添いの男は、もう彼女の前から椅子を動かし始めている。
ユズの指が、籠の持ち手に残った。
「準備のできている生徒から行います。殿下は三番目です」
「ですが、王家からいただいた設備のお披露目でもあるでしょう」
「設備については、私からご説明いたします。実演はこちらの席でご覧ください」
レティシアは客のために椅子を引いた。声を強めることも、退いて通り道を空けることもしない。
男は懐中時計をしまった。
「私も、まだ隼の手入れが済んでおりませんわ」
アーロフが言い、腕を持ち上げた。隼はくちばしを背へ差し込んでいる。
「どうぞ、先にお始めになって」
ユズは籠を置いた。
ディディは何か声を掛けようとして、やめた。励ます言葉より、自分がどく方が先だった。猫の帰り道から二歩離れる。
「それでは、ユズ。お願いします」
マリーが最初の台へ跳んだ。
赤い紐をくわえ、二つ目へ。小さな足が縁にそろう。客席の誰かが拍手しかけ、猫の耳がそちらを向いた。
その瞬間、天幕の裾が風をはらんだ。
三番目の台に、紫の影が大きく落ちる。マリーは身を縮めたまま、跳ばなかった。
「マリー。こっちよ」
ユズが籠のそばで呼ぶ。
猫は紐をくわえ直した。後ろ脚が、台の端へ寄っていく。
ディディの足が動きかけた。以前の練習なら、あの影の向こうへ回ってやったかもしれない。
けれど、ユズはこちらを見ていない。
「マリー、まだ下りなくていいわ。そこにいてね」
彼女は籠を持ち上げ、天幕の影から外れた砂利道へ移した。三番目の台の向こうではなく、二つ目の横だ。
「こっちへ下りておいで。籠もここに持ってきたわよ」
マリーの鼻が向く。足元の砂利を見て、今度は低く跳んだ。
着地した猫を追って、ユズもしゃがむ。紐の端が地面につく前に籠を寄せるのではなく、猫が顔を上げるのを待った。
赤い紐が、中へ落ちた。
「よし。ありがとう」
ユズの声の後から、拍手が来た。
マリーは籠の隣へ座り、何でもないように前脚を舐め始める。
「それなら、最後の台は初めから外しておけばよかったのでは?」
客席から問われ、ユズは立った。
「練習では使えていました。でも、今日は天幕の影が動いていたから、同じようにはいきませんでした」
「予定とは違ったわけですな」
「はい。籠へ持ち帰ることはできました。台を全部渡る練習は、場所を確かめてから続けます」
レティシアは途中で答えを足さなかった。客がもう一度頷いてから、次の生徒を呼ぶ。
ユズは籠を抱え、ディディの所へ戻った。
「最後の説明、ちゃんと伝わったかしら?」
「伝わったと思うよ。紐もちゃんと持ち帰れたし。俺は途中で手を出しそうになったけど」
「手を出したら、あなたにも紐を籠まで運んでもらってたわよ」
「口で?」
「手でいいわよ。そこまで猫に合わせなくても」
二番目の実演が始まる。ユズは空いた台へ腰を下ろし、ようやく肩から力を抜いた。
アーロフの番には客の大半が立ち上がった。ディディの位置からは、人の背中の間に白い翼が見えた。それでも、ユズが運んだ紐は籠に残っていた。
片づけのとき、レティシアが記録用の紙を持ってきた。
「今日の実演を寮の掲示にまとめます。紐を持ち帰れたことだけでなく、途中で手順を変えた理由も載せるから、後で確認してね」
「私の名前もですか」
「もちろん。あなたが考えたことでしょう」
ディディは、取り消した申込の控えを思い出した。
「名前を載せたくない人がいたら、どうするんですか」
先生の筆が止まる。
「名前がなければ、誰が考えて取り組んだのか伝わらないわ。別の人の成果だと思われたら、本人のためにもならないでしょう」
「でも、見られたくないこともあるんじゃないかって」
その先にジズーの名を出すのはやめた。
レティシアはしばらく彼を見ていたが、客に呼ばれて振り返った。
「まずはユズ本人に聞きましょう。ユズ、今日の実演をあなたの名前で掲示して構わない?」
「はい。最後の台を使わなかったことも、書いてください」
先生が名前を書いた。
ユズはその横で、自分の説明が終わるまで立っていた。
寮へ戻ると、庭でフィオナとゴライアスが待っていた。先に約束した担架の練習だ。ディディは鞄を置き、低い方の持ち手を握った。
石敷きの角で、ゴライアスが足を止める。担架の布が斜めに張った。
「僕だけ先に曲がると、そっちを引っ張っちゃうね」
「俺が外側を回る分、もう少し待ってくれ。フィオナ、俺たち二人が見える所から声をかけてもらえるか?」
「ここなら見えるよ。人形を落とす前に言ってね」
「落ちてから言うつもりはないよ」
空の担架でも二度やり直した。三度目で角を曲がれたので、六キロの練習用人形を載せる。フィオナの声で二人が止まり、持ち直してから進む。今度は布の中の人形がずれなかった。
「これなら、帰り道に曲がり角があっても運べそうだね」
ゴライアスが担架を下ろした。ディディは袖で額を拭き、庭の先を見た。
部屋の窓辺にジズーがいた。こちらと目が合う前に、本へ顔を戻す。ディディは呼び止めず、次の一回に備えて人形の紐を確かめた。




