先生の夕飯
入学して最初の週末、マルグレア寮の共同炊事場には、煮える玉ねぎの匂いが満ちていた。庭へ開く高い戸の向こうで泉が暮れ残りの空を揺らし、回廊の灯りが一つずつともる。王都から魔法具の調理炉が届いても、寮の大鍋は昔からのすすを底につけたままだった。
「これで足りると思ったんだけど」
ディディが袋から最後の芋を出すと、ゴライアスは鍋と自分の椀を見比べた。
「僕の分は少なくしていいよ。この鍋じゃ、みんなの分が足りないと思う」
「お前の椀に一杯よそったら、鍋が空になりそうだもんな」
「汁は残ると思う」
「俺たちだって具も食べたいよ」
踏み台に上がったフィオナが、両手で抱えた人参をまな板へ置いた。
「わたしの分を減らしても役に立たないからね」
ディディは袋を逆さにした。土しか落ちてこなかった。
食堂で食べる方が早かった。けれど、ゴライアスが故郷で食べていた芋の煮込みを作れると言ったので、今夜は四人部屋の者で材料を分けて買ってきたのだ。ジズーには食べるかだけ聞いた。返事は「……後で」。庭に面した端の席に座っているが、包丁も鍋も渡してはいない。
「貸せる物があるわよ」
戸口から声がした。
寮の担任サリエルが、両腕で黒い鍋を抱えていた。緑の法衣の裾を結び、肩にはいつもの白鳩を載せている。
「廊下まで、鍋が小さいって聞こえたわ。これならどうかしら。以前、炊事当番が使っていた鍋なの。少し底がへこんでいるけれど」
「先生、その鍋の中に何か入ってるよ」
フィオナの声に、サリエルが鍋を傾けた。
底から小さな靴下が落ちた。
「……道具入れにも使っていたわね」
「煮なくてよかった」
ディディは靴下を拾い、洗い場から遠い棚へ置いた。
先生が鍋を洗っている間に、ゴライアスは食堂の配膳口へ追加の芋を受け取りに行った。ディディも籠を持ってついていく。戻ると、炊事場の小さな不具合が、一つずつ消えていた。
ぐらついていた椅子の脚。欠けた椀の縁。外れかけた棚の取っ手。
白鳩が棚から先生の腕へ戻るたび、淡い光が木や陶器へしみ込んだ。
「それは俺が、明日直すつもりでした」
ディディが椅子を指すと、サリエルは水滴を袖で払った。
「早い方が座れるでしょう。芋はそちらへ置いて。人参も、もう少し小さくすると火が通りやすいわ」
「小さくしてるよ。わたしには、これ一本が丸太なんだから」
先生が包丁を取る前に、フィオナは人参を自分の方へ寄せた。
サリエルは手を止め、今度は鍋の取っ手へ目を向ける。
「ここも少し緩んでいるわね。もう一度だけ、お願い」
差し出した指へ、白鳩は乗らなかった。水差しの縁へ移り、胸の羽を膨らませた。
ディディの喉の奥に、息を詰めるような感覚が触れた。彼は包丁を置いた。
「先生、鳩が休みたがってるんじゃないですか」
「さっきまで元気だったのよ。……でも、今日はよく頼んだわね」
サリエルが腕を下げると、鳩は棚へ飛んだ。すぐに鍋から湯気が上がり、翼を開いて高窓へ移る。窓は閉まっていた。
ディディは外へ出られるよう、庭の戸を押し開けた。
「……戸にぶつかるぞ」
端の席のジズーが言った。
ジズーは戸の外を指し、それから高窓へ目を移した。
外を見ると、上級生が薪を積んだ手押し車を曲げてくる所だった。ディディは戸を戻し、頭上の窓を見た。留金は自分の背より二つ分ほど高い。
「ゴライアス、上の窓を開けてもらえるか?」
「うん。鍋から手を離すから、そっちで押さえてくれる?」
ディディが鍋を炉の中央へ寄せる。ゴライアスは白鳩へ手を伸ばさず、隣の窓だけ開いた。
冷たい空気が入る。鳩はしばらく窓枠を歩いてから、屋根のある回廊の横木へ移った。
「追わなくていいんですか」
「そこなら雨も当たらないわ。水と餌を置いておきましょう」
先生は小皿を取り、ゴライアスへ渡した。
ディディには、あの感覚が何だったかまでは分からない。煙が嫌だったのか、何度も飛ばされたせいなのか。鳩は水を飲むと、背へくちばしを埋めた。
鍋の中で、芋が白く崩れ始めた。
「先生も、一緒に夕飯を食べませんか?」
「戻ってからいただくわ。先に、この取っ手を――」
「取っ手を直すのは明日でいいですよ。鍋はここに置いたまま、椀によそえますから」
ディディは長いひしゃくを見せた。ここから椀へよそえば、鍋を卓へ運ぶ必要はない。
サリエルは取っ手を見たまま、しばらく動かなかった。
「わたしの人参も、今から細かくできないよ」
フィオナが鍋を覗く。
「先生の分だけ、大きいのを入れてあげる」
「それは……楽しみにしていいのかしら」
先生は、ようやく椅子へ腰を下ろした。
ゴライアスが味を見て塩を足し、ディディが椀へ分ける。ジズーの分は近くまで運び、本人が手を伸ばした所で渡した。彼は卓の端に座ったまま食べ始めた。
「救助の練習は、週に何回くらいできる?」
フィオナが、今度はディディとゴライアスへ尋ねた。
「まずは週に二回くらいにしようか。給餌当番と重ならない日にすれば、続けられると思う」
「僕は、魔法動物学の課題を先に終わらせたい。夜になると字が見づらくて」
「じゃあ、その授業の日は外そう」
「次は庭で、担架を持って曲がる練習をしない?」
フィオナが匙を置いた。
「まっすぐなら運べたけど、角を曲がったとき、わたしが声をかけるのが遅かったでしょう」
「僕も、ディディが曲がる前に進んじゃった。まず空の担架で合わせたいな」
「じゃあ、それができたら練習用の人形を載せよう。最初から全部やろうとしないでさ」
ディディは皿の脇の紙に、二人の空いている午後を書き込んだ。四人目の名前を埋める欄は作らなかった。
サリエルが頷いた。
「予選まで三か月近くあるわ。毎日詰め込むより、続けられる日を決めなさい。本大会までは半年あるけれど、授業はその間も続くのよ」
フィオナは口を開き、ジズーの方を見かけて、鍋へ目を戻した。
「この煮込みも、また作ろうよ。次は最初から芋をたくさん用意してさ」
「靴下は買わなくていいぞ」
「それは私が片づけておくわ」
サリエルが立ち上がりかける。ディディは棚の靴下を取って、洗い物とは別の籠へ移した。
戻ってくると、先生は椀へ口をつけていた。
回廊の白鳩はまだ戻らない。開いた窓から見える横木で、片足を羽の中へしまっている。
先生の椀に、最後の大きな人参が残った。
今夜はそれを食べ終わるまで、誰も先生に用事を頼まなかった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。続きが気になったら、ブックマークや「いいね」などのリアクションをいただけると励みになります。




