待つ狼
朝の鐘がやむと、講義棟の回廊に靴音が戻ってきた。高窓から差す光が、壁に刻まれた英雄の剣を照らしている。その下では、歴史の小試験を終えた生徒たちが、神々の名前より最後の設問について言い争っていた。
「渡河に使った物を二つって、船は駄目なのか?」
「船が足りなかったから橋を架けたんでしょう」
背後でユズに捕まったパウロの声が遠ざかる。ディディは試験用の筆をしまい、渡り廊下へ出た。
ジズーは中庭へ下りる階段の手前にいた。背の翼を体へ寄せ、他の生徒が通り終わるのを待っている。
「ジズー。今、少し話してもいいか」
返事はなかった。けれど、彼は階段へ足を出さなかった。
ディディは一段分の距離を空けた。
「大会の申込を勝手に出してごめん。お前に聞かないまま、四人分の名前を提出した」
ジズーの目が、手に持った鞄へ落ちる。
「……まだ消してないのか」
「これから先生の所へ行く。先に、お前に謝りたかった」
「……先に消して」
用意していた言葉が止まった。
一緒に練習できたから。また手を貸してもらえたら。その先の言葉は、どれも謝った後で頼むつもりだったものだ。
「……そうだな。今日、取り消す」
フィオナが廊下の柱の陰から出てきた。駆け寄りかけて止まり、ディディの横に立つ。五十センチほどの体を背伸びさせても、ジズーの顔はずっと上だった。
「名前を書いたのはわたしなの。先に四人で申し込んでおけば、後で一緒にやってくれると思った。ごめんなさい」
ジズーは彼女を見下ろした。
「……勝手に名前を使うな」
「うん。勝手には書かない」
彼は階段を下りた。ディディは追いかけなかった。足元にいたレムルスも、一度こちらを見てから、その場に座った。
残った二人で、担任室へ向かう。
「わたし、昨日でも謝れたよね。今日まで待たなくても」
フィオナが言った。
「俺も謝れたはずだ。話しかけたら、また断られると思って避けてた」
「でも、何も言わずに申込を残してたら、勝手に出したままだもんね」
ディディは鞄の口を閉めた。中には、練習で使った短い縄が一本入っていた。うまく結べた所を見せれば、話を始められる気がして持ってきた物だった。
今日は出す用がなくなった。
マルグレア寮の担任サリエルは、戸口に立て掛けられたほうきをよけて二人を迎えた。緑の法衣の袖には白い羽毛がついている。窓辺の白鳩が、紙の山から少し離れた止まり木で首を回した。
「申込を取り消したいんです。ジズーに聞かずに出しました」
先生の手が書類の上で止まった。
「あのとき、四人で練習していたから、本人も出るものと思ったわ。全員に確認するべきだったわね」
「診療所で手伝ってくれただけです。大会に出るとは言ってません」
サリエルは引き出しから申込用紙を取り出した。
四つ並んだ名前の一番下に、ジズーの名がある。フィオナの文字だと、今なら一目で分かった。
「一人を消せば、この班の申込は成立しなくなる。四人で受ける予選だから、三人のまま出場することはできないわ」
「分かってます。班ごと取り消してください」
答えた後で、ディディはフィオナを見た。
彼女も頷いた。
「わたしも、それでお願いします」
先生が用紙へ線を引いた。練習した時間まで消えるわけではない。それでも、四人の名前を横切る線を見て、ディディは指を握った。
「予選は入学から三か月後、本大会は半年後。募集はまだ続くから、四人の意思がそろったら、改めて申し込みなさい」
「練習用の担架は、返した方がいいですか」
「貸出期限までは使っていいわ。練習と出場の申込は別よ。延長したいなら用具係へ相談してね」
サリエルは取消しの控えを書き、元の用紙と重ねて日付を確かめた。
ディディはその小さな紙を受け取った。賞品の魔法具も、旗印戦の会場も、さっきより遠くなった気がした。けれど、勝手に書いた一行を残して近づきたくはなかった。
昼休み、二人は寮の庭で借りた道具を拭いた。
ゴライアスは植込みの向こうの石敷きに座り、担架の布を両手へ渡して干している。大きな指に掛ければすぐ乾きそうでも、布を引っ張りすぎないよう、端には余裕を残していた。
「今日の練習は、どうする?」
「運ぶ練習は、また三人でやろう。今日は道具を手入れして、いつでも返せるようにしておこう」
ディディは濡れた縄を巻きながら答えた。
レムルスが鼻先を上げる。回廊の向こうからジズーが戻ってきた。
「取り消した。先生にも、俺たちが勝手に出したって話した」
ディディは控えを、庭の低い卓へ置いた。差し出して受け取らせる代わりに、文字の向きを彼の方へ向ける。
ジズーは足を止め、紙を読んだ。
「……分かった」
それだけ言って、部屋へ向かう。
フィオナが口を開きかけたが、縄の輪へ目を戻した。ディディも、続きを求める声を出さなかった。
「……その棒、倒れるぞ」
戸口から声がした。
ディディが振り向くと、ジズーはゴライアスの脇に立てた担架の棒を見ていた。布だけ抜いたため、二本が壁へ斜めに寄り掛かっている。その下でフィオナが縄を拾おうとしていた。
ジズーはフィオナの頭上へ傾いた棒を見て、近い方を押さえた。ディディがもう一本を受け取り、二人で石敷きへ寝かせる。
「ありがとう。気づかなかった」
ジズーは棒から手を離した。フィオナが礼を言う前に、部屋の戸が閉まった。
助けてくれた。
だから今度こそ、と考えかけた自分に、ディディは気づいた。たった今、取り消したと伝えたばかりなのに。
「乾いた方の端から縄を巻こう。まだ濡れてる所は、広げておけばいいよ」
彼はフィオナへ言い、石の上へ腰を下ろした。
レムルスが隣へ来て、腿へ顎を載せる。ディディは片手で耳の後ろを掻いた。部屋の中は静かなままだった。
乾いた所から、少しずつ縄を巻いた。
今度は戸を叩く用事を、無理に作らずにいた。




