返事のない喉
動物実習室の窓は北を向いていた。白い光が石の台に落ち、床へ流した水は細い溝を通って庭へ消えていく。壁には病気を防ぐ祈りの札と、器具を洗う順を描いた紙が並んでいた。祈りだけで済ませず、手も洗う。それが、生き物を預かる学園の仕事だった。
同じ日の午後も、窓の外では大会の練習が続いていた。担架を運ぶ生徒たちの掛け声が、獣舎の方へ遠ざかる。ディディは鞄を置き、実習台の前へ立った。
中央の台に、あの白い羽根の持ち主がいた。
燈喉鷺。喉の袋を淡く光らせる鷺だと、板に書かれている。
今日は、その光がない。
「この鷺は、長いあいだ学園で飼われていた」
魔法動物学の教師ベレミン・ロスが、台の覆いを折った。義手の金具は外さず、その上へ洗った布を巻いている。
「昨日の朝、止まり木の下で死んでいるのが見つかった。記録では老衰とされているが、今日は解剖して体の中を調べる。世話の記録も見ながら、どんな状態だったのか確かめよう」
ディディは鷺の顔を見た。
細い嘴。閉じた瞼。羽の端に、少し土がついている。
眠る鳥なら、寄れば身を縮める。レムルスも眠っているときには、触る前から耳を動かすことがある。
何も、来なかった。
「こういう実習では、死んで見つかった鳥だけを使うんですか?」
口に出すと、隣の生徒がこちらを向いた。
ベレミンは首を横に振る。
「いつもそうとは限らん。今日はこの鳥を使うが、別の授業で扱う標本にも同じ事情があるわけではない。確かめたいときは、その都度聞くんだ」
ディディは台の札を読んだ。
発見時刻と、最後に食べた餌の量。その下に、飼育係の名前がある。
昨日まで、誰かが食事を量っていた。
「二人で切り進め、一人が体を支えてくれ。残りの一人は、見つけたことを記録するんだ。刃物を扱うのが難しい者は、見学に回ってもよい。途中で席を離れるときは、必ず器具を台へ置くように」
フィオナが身を乗り出した。
「小さい動物も、同じ所に袋があるの?」
「動物によって違う。似た場所にあっても働きが違うことがあるから、袋の名前だけ覚えて分かったつもりにならないようにな」
彼女は頷き、袖を留めた。
寮では、木の実を割る刃も大きいと言っていた手だ。今は自分に合う小さな器具を選んでいる。
ディディの前にも、刃が置かれた。
取ろうとした指が、台の縁へ戻った。
助けたいものを、わざわざ開く。
この鳥はもう死んでいる。それは分かった。だが、分かったからといって、喉へ刃を当てる自分の姿が、すぐにはつながらなかった。
「俺が記録をつけてもいいかな」
言うと、フィオナがこちらを見た。
「うん、お願い。器具を持ちながらだと書けないし、あとでまとめようとしても忘れちゃいそう」
眼鏡をかけた同級生が、切る役の椅子を引いた。緑の袖を肘までまくり、手首に器具が当たらないか確かめる。
「じゃあ、僕が切るよ。席を替わろうか。その椅子からなら図も見えると思う」
ディディは紙とペンを受け取った。
席を変えれば、終わるまで見なくても済むかもしれない。その考えが浮かんだまま、椅子を台の方へ向けた。
最初の切れ目は小さかった。
羽を分けると、その下の皮は薄い。向かいの生徒が鳥の胴を支え、フィオナが切れ目の端を持ち上げる。眼鏡の同級生が刃を置き直した。
「このまま引っ張ると、下の膜まで破れそうだよ」
「少し手を緩めてくれる? 先生、この膜を残して切ればいいんですか」
ベレミンが確かめる。彼が先に手を取って全部を済ませることはなかった。
ディディは、二人が止めた箇所を図へ写した。
喉の下に、平たい袋が現れた。
生きていれば、そこが光るのだろうか。半透明の膜に細い筋が通り、白い羽とは違う色をしていた。
「この袋には、息をためるんじゃないかな」
ディディは言った。
「息を吸うと、この袋が膨らむってこと?」
「うん。喉のすぐ下にあるから、声を出すときにも使うのかと思って」
フィオナは袋から視線を上げた。
「じゃあ、この細い管は、どこへ行くんだろう」
ベレミンが壁の図を外し、台の横へ置いた。
息の通る道は、袋の後ろを通っていた。ディディが線を一本たどると、さっき指した物から離れていく。
「あれ、息の通り道はこっちか。袋にはつながってないんだな」
「そうだ。その袋には、餌から得た成分を一時的にためている。喉の光を作るのにも関わっているが、息の通り道とは別なんだ」
ディディは書きかけた線を消した。
鳥が生きていたら、何か感じて分かるつもりだった。空腹なのか、近づいてほしくないのか。それを拾えれば、目の前の袋も分かったことにしていたかもしれない。
フィオナが図と体を交互に見た。
「この袋が悪くなっていても、鳥は餌を欲しがるんですか?」
「欲しがることはある。だが、食べたいからといって体が受けつけるとは限らん。餌をねだる様子だけで判断してはいけないんだ」
ディディは、札の餌の量をもう一度見た。
少なくなった日にも、鷺は餌を欲しがったのだろうか。
「ディディ、今の話も書いておいてくれる? 餌を欲しがってたら、わたしもあげちゃうと思う」
フィオナに言われ、余白へ短く書く。
『欲しがることと、飲み込めることは別』。
字の下に、小さな雫が落ちた。器具を洗った同級生の袖からだった。
「ごめん」
「大丈夫。まだ字は読めるし、ここで乾かしておこう」
紙を台の端へ移す。
実習は続いた。ディディは所々でペンを止め、見えなかった部分をもう一度聞いた。羽の数まで、全部書けばよいわけではない。自分の考えを、見たことの欄へ混ぜないようにした。
終わるころ、白い羽は元の位置へ揃えられた。
ベレミンが覆いを掛ける。生徒たちは器具を洗い、使った椅子を戻した。
「記録は、来週の給餌当番でも使う。置いて帰らず、班で保管しなさい」
ディディは紙を乾かし、鞄へ入れた。
台を離れるまで、一度も鳥から何かが届くことはなかった。そこから、魂があるとかないとか、先生は何も言わなかった。ディディも、答えを書けるとは思わなかった。
廊下で、パウロが待っていた。
「キングの餌を取りに行くんだけど、一緒に来るか? ……お前、顔色が悪いぞ。どうした?」
「さっき、実習で鷺を解剖したんだ。俺は記録をつけてただけなんだけど、見てるだけでもきつくて」
「ああ、今日だったのか。少し座って休むか?」
「いや、大丈夫。……餌を欲しがってても、食べさせちゃいけないことがあるんだな」
パウロは手に持った器を持ち替えた。
「先生が言ってたのか? 俺は逆に、キングが餌を残すと困るんだよ。腹がいっぱいなのか、具合が悪いのか、こっちを見てるだけじゃ分からないだろ」
「俺も、分かってるつもりになることがある。この間の猫だって、近づいていいと思ったら引っかかれたし」
ディディが頬の傷へ指を近づけると、パウロはその手を見た。
「それで頬に傷があるのか。……今度キングが食べなかったら、俺も勝手に決めつけないで先生に聞いてみるよ」
実習室の中で、水の流れる音がした。
ディディは鞄の紙を、曲がらないよう押さえた。
「待たせてごめん。俺も餌を取りに行くよ」
「じゃあ、器を一つ持ってくれ。キングの分だから、途中で食うなよ」
「食べないって」
動物舎の方から、生きている鷲の声が聞こえた。
二人は、いつもの給餌口へ歩いていった。




