落とした杖の行き先
西の練習場には、朝から踏まれた土の匂いが残っていた。石造りの見物席の下に、修理を待つ標的が積まれている。新しい防護柵には王都の工房の名があり、その横では、上級生が古い杭の傾きを手で直していた。
三か月後の救助予選に向けて朝練習を終えた班が、練習場の外を通っていく。ディディはその担架を見送り、昨日ユズに取られた肩の辺りをこすった。運ぶ練習だけでは、本戦で旗を奪う相手の手を止められない。今日は、その動きを見に来た。
「こっち、こっち!」
パウロが席から手を振った。ディディとユズが上がると、彼は隣の空いた場所を叩く。
「先生の隣より、ここからの方がよく見えるぞ。今日はあの杖の先輩と、盾の先輩が戦うんだってさ」
「先輩たちの名前は覚えてないの?」
ユズに聞かれ、パウロは下の二人を指した。
「まだ聞いてねえんだよ。でも、どっちの話をしてるかは分かるだろ?」
下にいたのは、用具係の上級生ミリアムだった。栗色の三つ編みを襟へ入れ、今日は作業前掛けを外している。細長い杖の柄に、布を巻き直していた。用具室で貸し出している魔法具と同じ、番号入りの杖だ。
その指が、柄にはまった二つの輪を別々に回す。杖先から細い風が出て、足元の小石を一つだけ転がした。彼女は小石の止まった位置を確かめ、片方の輪をわずかに戻した。
相手のオスカルは、肩幅のある男子生徒だ。短い黒髪、擦れた赤い上着、縁を補修した丸盾。足元の穴熊が土をかくと、盾の下端が地面から少し離れた。
「その杖、昨日俺が使ったときは砂を吹き飛ばすだけだったぞ」
オスカルの声に、ミリアムは杖を軽く掲げた。
「輪を両方とも端まで回すからよ。強くすれば当たるわけじゃないわ」
「軍の試験でも、そんなに鈴から離れて守るつもりか?」
オスカルがミリアムの立つ場所を指した。
「私の守り方まで心配しなくていいわ」
「手加減してくれって言われても、もう遅いからな」
「ええ、遠慮しないで」
彼女の背後と、オスカルの背後に、鈴のついた細い柱が一本ずつ立っていた。審判の上級生が杖で二つを示す。
「相手側の鈴を鳴らせば勝ち。顔への攻撃は禁止。外の柵を越えたら止める。いいな?」
二人がうなずいた。
ミリアムは杖の先を軽く下げた。銀色の小さな羽根が柄の中で回り、足元の砂が輪を描く。親指が輪の刻みを一つ送ると、砂の輪だけが小さくなった。杖先は動いていない。
鐘が鳴った。
彼女が横へ走る。オスカルも同じ側へ動いた。
ミリアムの杖から、白い筋が伸びる。土の上に細い線が走り、鈴の柱へ向きを変えた。
盾が、その前へ入った。
打ちつけられた風が散り、盾の端で砂が跳ねる。オスカルは顔を隠したまま一歩進んだ。穴熊が前脚を打ち、彼の横に土壁が起き上がる。
「横から回れなくなった!」
パウロが身を乗り出す。
ミリアムは杖を持ち上げた。砂の線が土壁を登る。
オスカルが盾の角度を変えると、その先でも白い風が弾けた。
「上もだめか」
「ミリアム先輩、横も上も一度ずつ試したわね」
ユズの言葉に、ディディは彼女を見た。
「下から行くってことか?」
「まだ分からないわ。でも、盾ばかり見ていたら、オスカル先輩がどこへ近づいているか見落としそう」
昨日、自分はマリーを追いかけて負けた。
ディディは穴熊へ向きかけた目を戻した。オスカルの靴が土壁の隙間へ入る。盾だけが迫っているのではない。彼自身が、ミリアムを鈴から遠ざけていた。
ミリアムは後ろへ跳び、杖の輪を親指で戻してから短く振った。
風が土壁の端を削る。
欠けた土が落ちるより早く、オスカルはその内側へ踏み込んだ。
近い。
ミリアムが右へ逃げようとする。盾の縁が、その手の下へ押し入った。
金属が触れる音。
杖が飛んだ。
「杖を弾き飛ばした!」
パウロが立ち上がった。
杖は地面で跳ね、二人の横に転がった。オスカルは盾を彼女へ向けたまま、ミリアム側の鈴へ進む。
彼女は杖を拾わなかった。
右の靴が、柄を踏んだ。
踏み潰すのではなく、くるりと向きを変える。
杖の先が土壁の隙間を向いた。
ディディは、銀の羽根がまだ回っているのを見た。
盾に手を押し上げられたとき、彼女の指は柄の小さな突起を押していた。羽根の回転が徐々に遅くなる。ミリアムは杖先の向きを靴で直し、羽根が止まる寸前に足を離した。
地面すれすれに、砂が走る。
オスカルが振り向いた。
盾を戻す。その一瞬だけ、穴熊の前を自分の足で塞いだ。
白い筋が土壁の切れ目を抜けた。
柱の根元で上を向く。
鈴が鳴った。
澄んだ一音が、パウロの立ち上がった体を止めた。
「……今鳴ったの、オスカル先輩の鈴か?」
「そうよ。ミリアム先輩の勝ちね」
ユズが答えた。
審判がミリアムの側へ杖を上げる。彼女は今度こそ、落とした杖を拾った。
オスカルは自分の柱を確かめた。鈴はまだ、かすかに揺れている。
「杖を手放したから、もう風は出せないと思ったんだが」
「あの突起を押すと、一呼吸遅れて出るのよ。拾っていたら間に合わなかったわ」
「……盾を構えたせいで、足元の杖が見えてなかったな」
彼は穴熊の前から足を引いた。獣が鈴の方へ歩き、柱の根元をかいだ。
「次は杖を落としたくらいで油断しないぞ」
「私も、次は落とされないようにするわ」
ミリアムが手を差し出した。オスカルは盾を下ろして握り返す。勝った彼女も、負けた彼も、まだ次の場所を見ていた。
見物席から生徒が降り始める。
パウロは座ったまま、盾があった所を指した。
「俺なら、キングに土壁を飛び越えさせて、あの鈴を狙わせるけどな」
「あなたも一緒に行ったら、自分の鈴を守る人がいなくなるわよ」
「じゃあ俺は鈴のそばに残る。キングだけで行かせればいいだろ」
「その間に先輩が攻めてきたら、あなた一人で防げる?」
「……見に来たのに、俺まで負けてるな」
ディディは笑い、席を下りた。
ミリアムが防護柵の内側で、杖の柄についた土を拭いている。
「片づけを手伝ってもいいですか」
「ありがとう。それなら鈴の柱を運んでくれる? 杖は熱を持っているから、まだ触らないでね」
ディディは、伸ばしかけた手を引いた。
強そうな物へ触れれば、少しは自分も強くなる気がしていた。それでは、何が起きたかを見に来た意味がない。
柱を抜き、ミリアムの持つ布袋へ鈴を入れる。
「手を離していたのに、最後の風も曲がりましたよね?」
「曲がり方は、この輪で先に決めておくの。最後は地面をまっすぐ進んで、先で上を向くようにしたのよ」
彼女は冷めた柄を指し、二つの輪を見せた。刻みの縁だけ、色が薄くなっている。
「杖を落としても、その設定は残るんですね」
「ええ。でも、向きがずれたら鈴の横を通るだけ。足で合わせるのは、もうやりたくないわ」
「オスカル先輩が鈴へ向かった隙を狙ったんですね」
「ええ。拾うより早く撃てると思ったの。でも、先に私の鈴へ届かれるところだったわ」
彼女は紙に何行か書き、杖の番号を確かめた。用具室の台帳と同じ書き方だった。
「試合の結果だけじゃなくて、杖のことも書くんですか?」
「地面に落としたあとで使ったでしょう。どんな使い方をしたか、点検する人に伝えておくの。次に借りる人が困らないようにね」
ディディは布袋を持ち上げた。
鈴は音を立てずに収まっていた。
動物舎の角を曲がると、覆いの掛かった台が運ばれてきた。車輪が石の継ぎ目を越え、布の下から白い羽根が一本こぼれる。
台には止まり木がなかった。
逃げ道を探す気配も、近づくなという細い感覚もない。
ディディは、鈴の袋を持ったまま道を空けた。
【改稿のお知らせ/2026年10月18日】
ミリアムが魔法具の扱いに長けていることが伝わるよう、実習の描写を加筆しました。
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