猫だけ見ていた
放課後の庭では、噴水の水に寮の旗が揺れていた。植込みを刈る庭師の脇を、獣を連れた生徒が通り、石畳には杖の先で付けた練習の印が残っている。食堂の鐘までの短い時間も、ここでは誰かの上達に使われていた。
ディディが図書館から戻ると、ユズが細い飾り紐を二本持っていた。
「歴史の課題は終わった?」
「終わった。橋を支える人のことを書いた」
「まだ橋?」
「今度は絵に描かれた橋の話だよ」
ユズは片方の紐を自分の肩へ留めた。
肩口を軽く引けば外れる結び方だった。もう一本を、ディディに差し出す。
「争奪戦の練習、付き合ってくれない? 相手のこれを先に取ったら勝ち。大会みたいに大勢じゃないけど、私もマリーと一緒に動けるようにしておきたいの」
「ここで?」
「あっちの、人が通らない所でやりましょう。顔をつかんだり、服を引っ張ったりするのは禁止ね。逃げて庭の外へ出るのもだめよ」
マリーがユズの腕から降り、植込みの縁へ跳び乗った。
レムルスは石の階段に腹をつけたまま、こちらを見ている。
「私だって、あなたたちの練習を見ているだけじゃないんだからね」
ユズは靴のつま先で地面を確かめた。走る邪魔になる小石を、一つだけ拾って脇へ置く。
ディディは飾り紐を肩へ結んだ。
「俺だって、負けに来たわけじゃないぞ」
「じゃあ、始めましょう」
マリーの耳が向いた。
ディディはそちらへ目を動かす。植込みの葉の間に、細い尻尾が見えた。
「合図は?」
「もう始まってるわよ」
ユズの手が肩へ伸びた。
ディディは半歩退いた。指先が紐の端をかすめる。
「先に言えよ!」
「言ったでしょう、始めましょうって」
ユズが来た方へ手を伸ばすと、彼女は横へ抜けた。村で一緒に走った頃より、体を引くのが速い。ディディが追いかける前に、マリーが植込みから飛び降りた。
足元に小さな影。
ディディは踏まないように進路を変えた。
その間に、ユズが背中へ回った。
「後ろ!」
自分で言ってから振り向く。
彼女の手を避けた拍子に、紐が頬へ当たった。まだ付いている。
「自分で教えてくれるのね」
「確認だよ!」
マリーは石畳の端に座った。追いかけたいような、待っているようなものが、ディディへかすかに届く。
村でも、あの猫は虫や紐へ飛びついた。次にどこへ跳ぶか、全部分かるわけではない。それでも、動き出す前に身を縮める気配は拾える。
ユズが植込みの方へ下がった。
ディディは間合いを詰める。
右の葉が揺れ、マリーが跳んだ。
胸の辺りで、細い糸が引かれるような感じがした。ディディは左へ向きを変えた。猫はさっきまで彼の足があった場所を走り抜ける。
「おっと」
ユズの紐が見えた。
手を伸ばす。彼女が肩を引き、ディディの指は空をつかんだ。
「惜しかったな」
「取ってから言いなさいよ」
二人とも、言葉の終わりに息が混じった。
噴水の縁に置いた課題の鞄が、少し遠くなっている。ディディは次の足を置く場所を見た。乾いた石。葉の影。マリーが戻ってくる細い通り道。
猫の方へ、体を向けすぎない。
次に来たら、その反対へ出る。
「ちょっと待って。マリーの足に何か絡まりそう」
ユズが言った。
ディディは構えを解いた。彼女はマリーを呼び、足の間に絡みかけた紐の切れ端を拾った。植込みから落ちたらしい。
「これ、食べたら困るもの」
猫が拾った物へ鼻を伸ばす。ユズはそれを鞄へ入れ、しゃがんだまま猫の前脚を確かめた。
「やめる?」
「続けましょう。あなたも少し休めたでしょう?」
ディディは答える前に、自分の肩を見た。
紐は残っている。まだ、勝てる。
ユズが猫を気遣っている間に、自分は先にそれを確かめていた。
彼女は立ち、もう一度距離を取った。
「今度はちゃんと合図するわね。……始め!」
ディディが踏み込む。
ユズは植込みの近くへ退き、そこから動かなかった。紐の端が、手を伸ばせば届きそうな所で揺れる。
マリーが葉の上へ跳び乗った。
首を低くし、ディディの右側へ目を向ける。
来る。
何かを追いたい感覚が、皮膚の近くを走った。ディディは右へ出るふりをし、左足で向きを変えた。
猫が空いた場所へ下りる。
避けられた。
ユズまで、あと一歩。
彼女が右へ退けば、紐をつかめる。左へ逃げるなら、腕を回す。
ディディは手を伸ばした。
ユズは逃げなかった。
前へ出た。
伸ばした手首の下へ、彼女の頭が入る。肩をつかもうと腕を戻したときには、もう自分の肩が軽くなっていた。
ユズの指に、飾り紐が垂れている。
「私の勝ち」
ディディは足を止めた。
マリーは植込みの下で、飛んできた葉を前脚で押さえていた。
「今のは、マリーを避けられたのに……」
「マリーを避けたら、私にも勝てると思った?」
ユズは自分の肩の紐を外した。
「あなた、私が動いてもマリーの方ばかり見ていたわよ」
「……足元へ飛び込んでくるから、踏まないようにしないと」
「それは分かるけど、あなたの紐を取ろうとしているのは私でしょう?」
ディディは、彼女の靴を見た。
始める前、小石をどけた場所。その上をユズは踏んでいた。猫が動く前から、彼女は自分で近づく足場を選んでいたのだ。
「もう一回」
「今日は一勝したから終わり」
「勝ち逃げかよ」
「次までに考えてきて。私も、あなたに取られないように考えるから」
ユズは二本の紐を重ねてたたんだ。
ディディはもう手を伸ばさなかった。卵を取り返したい自分は、卵を奪った人間の動きを見なければならない。動物が教えてくれるものだけで、その手まで止められるわけではなかった。
「明日の上級生の模擬戦、見に行こうと思う。救助予選を通って本戦へ行けたら、今度は相手の生徒とも戦わなきゃいけないから」
「私も行くつもり。場所は知ってる?」
「中庭じゃないのか?」
「西の練習場よ。掲示板は最後まで読みなさいよ」
ディディは鞄を取りに戻った。
レムルスが階段から降り、靴へ鼻を寄せた。朝の練習でついた土が、革の縫い目に残っている。
「猫にも狼にも、靴ばかり見られるな」
「人にもよ。片方だけ土がついてるもの」
ユズがマリーを抱き上げた。猫は彼女の腕に収まり、取った紐を見ようとして顔を伸ばした。
「これは食べ物じゃないわ。私が取ったの」
ディディはその手と、こちらを向いた彼女の顔を見た。
「次は見てろよ」
「あなたが、よく見ていらっしゃい」
食堂の鐘が鳴った。
今度は猫の動きではなく、ユズが歩き出す足を見てから、ディディも庭を出た。




