王女が借りたい本
学園の図書館では、高い窓から入る午後の光が、机の上をゆっくり渡っていた。羊皮紙の古い書物には鎖がつき、新しく刷られた薄い本には貸出日を記す紙が挟まっている。壁に並ぶ英雄たちは剣と杖を掲げ、読み終わらない課題を抱えた生徒たちを見下ろしていた。
寮対抗魂獣競技大会の本戦は入学から半年後、その予選は三か月後だ。朝の練習では橋を渡れたが、ジズーに名前を消してほしいと言われた。四人で出る競技なのに、今のままでは受付にも立てない。
それでも、歴史の課題を出さなくてよくなるわけではなかった。
ディディは入口に近い絵の前で足を止めた。
白い川に橋が架かり、その上で男が旗を振っている。
「フランクの凱旋……これなら書けそうだな」
「それは『渡河』よ。『凱旋』の絵なら反対側の壁にあるわ」
机から声がした。
金の髪を高く結い、紫の寮章をつけた少女が、開いた本の上からこちらを見ていた。寮分けの場で名前を呼ばれた王女、アーロフ・ロウ・ヴァレンホールだ。背筋の伸びた座り方も、そのときと変わらない。
ディディは絵の下の札を読んだ。
「本当だ。旗を振ってるから、帰ってきたところだと思った」
「川の向こうにも人がいるでしょう。これから渡るの」
「先に札を見ればよかった」
アーロフは本へ目を戻した。その表紙に、波の上で鍋を掲げる男が描かれている。
『帆なし船の船長』。
歴史書には見えなかった。
けれど、王女の読んでいる物をのぞき込むために来たわけでもない。ディディは『英雄行軍史』を棚から抜き、少し離れた席へ置いた。
課題は、絵に描かれた出来事を選び、教本と比べて気づいたことを書く、というものだった。早く終えれば、夕食までに借りた用具を返しに行ける。泥地を通るか、遠回りするか。今朝はそこまで試せなかった。図も、もう一度見ておきたい。
「殿下。こちらにいらしたんですね」
机の間へ、茶色い髪の男子生徒が入ってきた。磨いた靴、曲がりのない襟、腕に抱えた厚い本。同じ紫の寮章をつけている。
「王都で推薦されている本を探しているのですが、どれから読めばいいでしょうか。殿下は、小さい頃からお読みになっているのでしょう?」
「ええ。もちろん」
アーロフが立った。
ディディの机へ来ると、今開こうとしていた歴史書を持ち上げ、自分の本をその場所へ滑らせる。
「こちらを先に読むところだったの」
彼女は歴史書を抱え、男子生徒へ向き直った。
ディディの前には、鍋を持った船長が残された。
……交換するとは、一言も聞いていない。
「第一章からでよろしいですか」
「そうね。先を急ぐより、まず第一章をじっくり読むといいわ」
アーロフは落ち着いた声で答えていた。
ディディは本を返してくれと言いかけたが、男子生徒が本の題名と章の番号を熱心に書き留め始めたので、その隙間を逃した。
仕方なく、船長の本を開く。
船を持たない男が、港で『船長募集』の張り紙を見つける。名乗りを上げれば、いよいよ冒険が始まると思ったのに、渡されたのは皿の山だった。
『皿洗いを募集しておられたのでは?』
『船長を募集している。皿も洗う船長だ』
ディディは唇を押さえた。
次の頁で、男は皿を洗いながら出港を命じる。店主は、まず床を掃いてからにしろと答える。
「……船を持ってないじゃないか」
アーロフがこちらを見た。
「その場面では、まだ船を持っていないの」
男子生徒も顔を向ける。
「まだ、というのは?」
「行軍には段階があるということよ」
王女は歴史書の頁をめくった。逆向きではなかったが、読んでいた場所からずいぶん飛んでいた。
ディディは続きを見ないよう本を閉じた。しかし、皿洗いでどう船を手に入れるのかは、少し気になった。
「第一章では、どこに注目して読めばいいでしょうか」
「……全部、大事だと思うわ」
男子生徒の鉛筆が止まった。
アーロフは一度、歴史書を机へ置いた。
「ごめんなさい。私も今、課題のために借りたところなの。読んだふりをして教えるのはよくないわ。貸出係に相談した方が、あなたの課題に合う本が見つかると思う」
彼は数秒、手元の紙を見ていた。
「そうでしたか。お邪魔しました」
一礼して、受付へ向かう。途中で、本の表紙を確かめ直していた。
アーロフは彼の背中を見送り、ディディの机へ戻った。
「その本、返してくれる?」
「俺の歴史書も返してくれよ」
二冊が元の持ち主の前へ戻る。
ディディは歴史書を開いたが、さっきの第一章の終わりだけが頭に残っていた。
「この船長、ちゃんと船を手に入れられるのか?」
「そこまで教えたら、読むところがなくなるでしょう」
「皿洗いだけで一章終わったぞ」
「二章は、もっとひどいわ」
言ってから、アーロフは本の端を持ち直した。
「……続きの巻もあるのよ。どの巻も一冊ずつしか置いてないけど」
ディディは椅子を引き、距離を空けたまま隣の机に座った。
「読み終わったら、俺も借りていい?」
「それなら、読み終わったら返すわ。最初の巻から借りるのよ」
「ずいぶん続いてるんだな。全部読むつもり?」
「途中でやめたら、船長が皿を洗って終わってしまうもの」
彼女はもう表紙を隠さなかった。
「あの人にも、それを勧めればよかったんじゃないか」
「王家で勧められている本を聞かれたのよ」
「王家の人が読んでる本なら、間違ってはいないだろ」
アーロフはすぐには答えなかった。
表紙の船長の顔に、人差し指を置く。
「私が選んだ物を、王家が選んだ物にされるのは困るわ」
ディディは歴史書を自分の方へ引いた。
ジズーの名を勝手に書いた用紙を思い出した。一緒にやりたかった。その言い分を、本人に聞くより先に紙へ通してしまった。
「じゃあ、王家じゃなくて君のお勧めとして読んでみるよ」
「……それなら、いいわ」
課題の紙に、ディディは『フランクの渡河』と書いた。
旗を持つ英雄、川岸の獣、人々を照らす三つの光。村の教会で聞いた物語と結びつくと、絵の中の小さな顔まで見たくなった。
「何を書けばいいんだろう。教本と同じに見える」
「橋の下は見た?」
アーロフが絵の隅を指す。
梁の下に、肩で木を支える人たちがいた。旗より暗い色で、小さく描かれている。
「この人たちも、一緒に渡ったのか」
「教本には、橋を補って一行を通した、とあるわ」
ディディはその行を探した。ほんの一行だった。
今朝のゴライアスの手ほど大きくは描かれていない。それでも、橋の上だけ見ていたら、この人たちを紙へ書くことはなかった。
『橋を支える人が描かれている。旗を持つ人だけでは、向こうへ行けないと思った』。
書いてから、少し子どもっぽいかと思った。でも、消さなかった。
帰りに、二人は別々の本を貸出係へ渡した。
アーロフの本に、返却日の紙が挟まれる。
「じゃあ、その日は空けておくよ」
「本が戻る日よ。私の予定じゃないわ」
「分かってるって」
王女は冒険小説を抱え、ディディは歴史書を抱えた。
壁の英雄の下を、二人は同じ出口へ歩いていった。




