最初の一体
動物舎の先に、小さな町があった。煙突はあるのに煙は上がらず、店先の看板には品物の値段が書かれていない。割れた窓の向こうで教員が人形の腕を直していた。王都の市場なら朝から荷車が行き交う通りを、ここでは制服姿の生徒が担架を抱えて歩いている。
南の門の前には白い天幕があった。救護所だ。門から奥の鐘楼までは百メートルほど。右の通りには水が光り、左には崩れた石壁を模した瓦礫が積まれていた。
「あっちの鐘楼が七十点か。上から見たら、道が分かりそう」
フィオナがトンボの背から身を乗り出す。
「今日は診療所だろ。近い所からやろうって決めたじゃないか」
「分かってるよ。見ただけ」
門から左へ二十メートル進んだ所に、白壁の平屋があった。入口には巻き上げ式の木戸が下り、小さな横窓が一つ開いている。戸の幅は一メートルほど。ゴライアスは屋根を見下ろして足を止めた。
「ぼくは外で待つね。屋根を持ち上げちゃ駄目なんだよね」
「建物を壊すのは駄目って、先生が言ってたよ」
「それなら、ここまで運んできてもらおう」
受付の上級生が、戸口へ六キロの練習人形を抱えてきた。
「今日はこの一棟を使っていいよ。人形は奥の部屋に置く。時間も得点も計らないから、まず外へ出して、あの天幕まで運んでみて」
「本番も同じ所にいるんですか?」
「五つの建物の位置は変わらない。人形の部屋と通れる入口は当日の図で確認して。練習で覚えた場所に必ずいるとは限らないよ」
隣の通りを、青い甲羅の亀が歩いていた。背に固定した人形を、生徒二人が両側から確かめている。水の広場で試してきたらしい。濡れた足跡が、救護所まで続いていた。
「橋を通らなかったんだな」
「わたしたちも、倉庫へ行くときに試してみようよ」
フィオナは診療所の横窓へ近づいた。トンボから降り、窓の桟へ足を掛ける。相棒の体が縮むと、細い翅が肩の横をすり抜けて室内へ入った。
「中を見るだけにしてくれよ。人形は俺も入って運ぶから」
「うん。持ち上げないで待ってる」
ディディは入口へ回った。木戸の脇には縄が垂れている。上の滑車を通り、戸の上端につながっていた。
引くと木戸が上がる。縄を緩めると、また下りた。
「ここに巻いて留めればいいのか」
壁に二本角の金具がある。ディディは縄を回し、ほどけないように結び足した。手を離しても木戸は動かない。
ゴライアスに担架を渡してもらい、中へ入った。レムルスが後ろから続く。
戸口から奥の部屋まで六メートル。途中の仕切りが横へ張り出し、担架を真っすぐ運び込むことはできなかった。フィオナが仕切りの向こうから手を振った。
「こっち。寝台の脇にいるよ。帰りはこの角で曲がらないと」
ディディは空の担架を縦にして運び、寝台の横へ下ろした。レムルスが人形の足を嗅ぎ、すぐに顔を背ける。
「人じゃないって分かるか。俺たちは、助けるつもりでやるからな」
人形を布へ寝かせる。フィオナに反対側の縄を渡してもらい、胸と腰を固定した。
持ち上げようとして、ディディは向こうの持ち手を見た。ゴライアスは入れない。フィオナに大人用の担架の片側を任せるつもりもなかった。
「ゴライアス。奥の方を、蟻たちに持ってもらえないか?」
「いいよ。そっちの持つ高さを見せて」
黒い列が戸口を越えてきた。担架の後ろ脚へ集まり、布を揺らさず持ち上げる。ディディは前を持ち、少しだけ歩いた。
「待って。角を曲がるときは、俺の方を大きく回す」
人形の肩が布の中でずれた。いったん下ろし、縄を締め直す。フィオナが先へ行き、棒の先が壁へ当たる前に知らせた。
戸口まで出ると、ゴライアスが外から担架を受け取った。
「ここからは、ぼくが持てるよ」
蟻たちが下りる。ディディは両手を振ってから、木戸の縄へ戻った。
結び目が解けない。
「開けるときには、あんなに簡単だったのに」
引けば引くほど、戸の重みで縄が締まる。指を差し込もうとしても入らない。フィオナが横からのぞいた。
「開けたまま帰っちゃ駄目?」
「借りた所は戻してって言われただろ」
「担架を下ろしてから、ぼくが戸を持ち上げようか」
ゴライアスが地面を見た。そのとき、回廊の方から短い声がした。
「……締めすぎだろ」
ジズーだった。街区の外を通る道から、こちらへ入ってくる。脇には本を抱え、黒い翼を背へ寄せていた。
「縄が解けなくなったんだ。戸の重さが掛かってるからかな」
「……一回だけだぞ」
本を窓台へ置き、ジズーは結び目より上の縄を引いた。木戸がわずかに上がり、縄が緩む。
「……今、ほどけ」
ディディは輪を引き抜いた。ジズーが縄を戻すと、戸がゆっくり下りた。
「ありがとう。次は、外せる結び方を習ってくる」
返事はなかった。ジズーは本を取り、掌についた縄の毛を払った。
「一体は出せたね。これを救護所へ運べば三十点?」
「今日は練習だから点にはならないよ。本番なら、あと五十点は必要なんだ」
ディディはゴライアスの持つ担架を見た。軽い人形を一体出すだけで、何度も立ち止まった。向こうの鐘楼へも行くつもりだったフィオナは、もう空を見ていなかった。
寮の担任サリエルが、南門から受付票を持ってきた。
「ここにいたのね。予選の受付番号です。四人とも、当日はこれを持って――」
ジズーが紙を取った。
自分の名前を見たあと、三人の顔を順に見た。
「……誰が書いた」
フィオナの尾が地面へ下りる。
「わたしが書いたの。今週の受付が昨日までだったから、先に出しておこうと思って……」
「提出したのは俺だ」
ディディは答えた。フィオナ一人を前へ残せなかった。
「お前に聞く前に出してしまった。悪かった」
ジズーは紙をサリエルへ返した。
「……俺の名前、消してください」
先生は三人を見た。
誰も、さっき手伝ったからとは言わなかった。
ジズーは担架をまたがず、遠い方へ回って出ていった。
救護所までは二十メートル。ゴライアスは人形を抱えたまま、ディディが歩き出すのを待っていた。
ディディは解けた縄から手を離した。紙へ名前を書く方が、相手に頼むよりずっと簡単だった。
【改稿のお知らせ/2026年10月18日】
救助練習の場面を改稿し、題名を「橋の真ん中」から「最初の一体」へ変更しました。旧会場図は取り下げています。




