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白い結婚七年目、夫が初めて私の名前を呼びました。  作者: 九葉(くずは)


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第8話 雪の国境

朝の執務室で、ユリウスは、いつもの位置に立っていた。


机の上には、見慣れぬ封筒が一通、置かれていた。

封蝋は、深い緋色。三日月の徽章ではなく、王冠と月桂樹だった。

カーライル王家の、正式の封蝋だった。


「アリア様。昨夜、王家より、この書状が、宰相府宛てに届きました」


私は、机の前に進み出た。

ユリウスは、自分でその封筒を持ち上げ、両手で、私に差し出した。


私は、封を、その場で、切った。


『カーライル公国王、ヴィルヘルム四世より、アリア・モンフォール卿へ。

そなたの北部財務調整の手腕、ならびに七年に及ぶ両国関税協定の実質の起草者であることを、宰相ユリウス・カーライルの正式の上申により、承知いたしおる。

そなたが、我が国の宰相と婚姻を結び、永くカーライルに留まることを、王家として、強く、望むものである。

返答は、そなた自身の言葉で、聞きたい。』


私は、便箋を、机の上に、そっと、戻した。


「カーライル様。これは、貴方様の、ご差配ですか」

「……上申は、私が」


低い声は、そこで、いったん、止まった。


「ですが、王家のお言葉は、王家のものでございます。私が、命じてお書かせするものでは、ございません」


私は、頷いた。


『そなた自身の言葉で、聞きたい。』

七年、誰にも、そう言われたことが、なかった。


「お返事は、少しだけ、お時間をいただきますわ」

「いつまでも、お待ちいたします」


ユリウスは、それだけ、答えた。



午後、私は、宰相府の小部屋にこもって、第七条の運用案を、一気に書き上げた。


七年分の照合表を、頭の中から、引き出して並べた。北部の塩、東の毛織物、南方の保存果実、それぞれの季節ごとの相場と、両国の徴収率の差。書きながら、私は、ヴァレンティアの北部の村の、あの夏の、桃の素焼きの器の感触を、何度も、思い出した。


筆を置いたとき、窓の外は、薄い夕暮れになりはじめていた。


部屋の扉が、控えめに、叩かれた。

執事のグスタフが、白い顔で、立っていた。


「アリア様。国境の関より、急ぎの伝令にございます。ヴァレンティア公爵、セドリック様が、ただお一人、馬で関所まで参られ、『元妻アリアに、ひと目だけ会いたい』と、お申し出にございます」


私は、しばらく、何も言わなかった。

驚きは、なかった。

ただ、もう一度、遅い、と、思った。



同じ刻、カーライル公国国境の関。


セドリックは、雪の降りはじめた関所の門の外に、立っていた。


馬は、ヴァレンティアの境界の向こうに、繋いできた。

胸には、革の鞄が一つ、抱えられていた。中には、屋根裏の長持から持ち出した、二百通あまりの便箋の束が、入っていた。

返したい、わけではなかった。あれは、彼の妻が、書き、隣国の宰相が、書いた、二人のものだった。彼が、返せるものでは、もう、なかった。

それでも、抱えて、来た。

抱えていなければ、ここまで、足が、動かなかった。


関の役人は、彼を、丁重に、しかし、毅然と、止めていた。


雪が、彼の外套の肩に、薄く、積もりはじめた。


アリア。

アリア。アリア。アリア。

こんなに簡単な音だったか。こんなに、舌が、勝手に、動く音だったか。

七年、なぜ、これを、一度も。

わからない。今となっては、本当に、わからない。



夕暮れの宰相邸の玄関で、私は、外套を、自分の手で、羽織った。


ユリウスは、玄関の段の上に、立っていた。

止めない人だった。

止めない、ということが、彼の、いちばん、誠実な、応援だった。


「カーライル様」


私は、振り返らずに、声だけ、置いた。


「私の足で、参ります」

「……はい」


低い声が、頷いた。

それから、半呼吸の間を置いて、続いた。


「アリア様。お戻りに、ならぬのですか」


私は、玄関の段の上で、ようやく、振り返った。

ユリウス・カーライルの灰青の瞳は、夕暮れの中で、いつもより、ほんの少し、子供のような色を、していた。


私は、笑った。

七年で、いちばん、深く、笑えた。


「戻りますわ。日が落ちる前に」


ユリウスの肩から、目に見えて、力が、抜けた。

抜けた、ということに、本人は、気づいていなかった。



国境の関の、こちら側。


雪は、ふんわりと、足首の高さまで、積もっていた。


私は、関所の門の内側で、立ち止まった。

門の外、二十歩ほど離れた雪の中に、黒い外套の男の影が、ひとつ、立っていた。

七年、同じ屋根の下にいた人の影だった。

横顔は、見えなかった。


私の隣には、いつのまにか、白髪の老人が、立っていた。


「ベルナール」


私は、家令の名を、呼んだ。


老人は、深く、頭を、下げた。

下げたまま、上げなかった。彼の頬を、雪混じりの風が、撫でた。


「奥様。よく、よくぞ、ここまで」

「ベルナール。一つだけ、お願いを、聞いてくださる?」

「何なりと」


私は、門の外の、雪の中の人影を、見なかった。

見ずに、家令の、白髪の頭の上だけを、見ていた。


「あちらの方に、たった一言だけ、お伝え願いたいの」


私の声は、震えていなかった。


「『七年、お疲れさまでした。

私の名前は、もう、別の方が、毎日、呼んでくださいます。』


以上です」


ベルナールの、頭を下げた老いた肩が、雪の中で、ほんの少しだけ、震えた。

震えた肩を、私は、最後まで、見ていた。

それから、ゆっくりと、踵を返した。


門の内側の、私の馬車が、もう、用意されていた。

御者の青年が、扉を開けて、待っていた。


(……振り返らない)


私は、自分に、そう言い聞かせた。

振り返るほどのものは、もう、私の七年の中に、ひとつも、残っていなかった。


馬車に乗り込み、扉が閉まる直前、ベルナールが、雪の中を、門の外へ、ゆっくりと歩み出していくのが、見えた。

あの一言を、自分の主だった男に、自分の口で、届ける。

それで、十分だった。

私は、そこに、立ち会わなくてよかった。



関所の門の外。


雪の中で、セドリックは、白髪の老家令が、自分の方へ、ゆっくりと歩いてくるのを、見ていた。


ベルナールは、彼の三歩前で、止まった。

止まって、一度、深く、息を吸った。

それから、低い、けれど、よく通る声で、伝言を、述べた。


『七年、お疲れさまでした。

私の名前は、もう、別の方が、毎日、呼んでくださいます。』


セドリックは、その一言を、聞いた。

聞いた瞬間、彼の足の裏の、踵のあたりだけが、ぐらりと、地面から離れた気がした。

膝ではなかった。喉でもなかった。踵だった。

人間は、いちばん遠いところから、崩れる。彼は、初めて、それを知った。


胸に抱えていた革の鞄が、ずるりと、雪の上に、落ちた。

落ちた拍子に、紐が、ほどけた。

中から、二百通あまりの便箋の束が、雪の上に、ばらりと、こぼれた。


雪が、その上に、ひとひら、ふたひら、積もりはじめた。


彼は、しゃがんで、便箋を、拾わなかった。

拾う資格が、ないことを、ようやく、知っていた。

ただ、雪の積もるにまかせて、彼は、長いこと、そこに、立ち尽くしていた。

ベルナールも、同じ場所に、頭を下げたまま、立っていた。


雪は、二人の肩の上に、少しずつ、平等に、積もっていった。



馬車の中。


私は、揺れる窓の幕の内側で、押し花の手帳を、胸に、両手で、抱いていた。


外は、もう、暗かった。

カーライルの空に、星が、ひとつだけ、出ていた。


(……戻ったら)


私は、心の中で、ようやく、その先を、口にした。


(王家のお返事を、書こう)


書く言葉は、もう、決まっていた。

書く相手の、灰青の瞳の色も、机の上の桃の数も、全部、決まっていた。


馬車の窓に、自分の顔が、ぼんやりと映っていた。

七年ぶりに、自分の顔が、自分のものに、見えた。


私は、左手の薬指の、銀の指輪を、そっと、撫でた。

指輪の表面は、まだ、まっさらだった。

まっさらな円環の上を、私の指先が、円を描くように、ひと撫で、した。


数字が、一つ、刻まれるのを、私は、まだ、待っていた。

明日の朝、自分の口で、はじめて、自分から、ある名前を、呼ぶつもりだった。


馬車は、雪のない、薄い水色の夜の街道を、宰相邸の方へ、ゆっくりと、進んでいった。

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