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白い結婚七年目、夫が初めて私の名前を呼びました。  作者: 九葉(くずは)


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第7話 屋根裏の手紙

執務室の扉の前で、私は、しばらく、立っていた。

叩く前に、自分の指先が、冷たくないか、確かめた。冷たかった。

冷たいまま、叩いた。


「どうぞ」


低い声が、すぐに、返ってきた。

扉を押したとき、ユリウスは、机の向こうに座ったまま、顔を上げて、ほんの一瞬、目を、瞠った。


「アリア様」

「夜分に、申し訳ございません。ご一緒に、第七条を、もう一度、読ませていただいてもよろしくて?」


私は、出来るだけ、業務の声で、言った。


ユリウスは、何も問い返さなかった。

机の脇に置かれた椅子を、昨日と同じように、自分の手で、引いた。


私は、隣に、座った。


机の上で、二人の指先が、同じ書類の同じ行を、追った。

触れ合いはしなかった。

ただ、紙の上で、私の細い影と、彼の長い影が、ほんの少しだけ、重なった。

指の影だけが、もう、夫婦のように、慎ましかった。


(……私、いま、笑ってしまいそう)


笑わなかった。

笑うかわりに、低い声で、第七条第二項の符牒を、読み上げた。

ユリウスは、一度も、口を挟まなかった。

聞いている、ということだけが、横顔から、伝わってきた。


時計の針が、深い時間を指したころ、ユリウスは、立ち上がって、長椅子の上に畳まれていた灰色の外套を、取ってきた。

私の肩に、それを、そっと、掛けた。

言葉は、ひとつも、なかった。


外套は、彼の体温を、まだ、覚えていた。

私は、それを、押し返さなかった。

押し返さない、ということを、自分に許すのに、七年かかった。



朝。


執事のグスタフが、銀盆の上に、一通の封筒を載せて、私の朝食室に現れた。

封蝋は、ヴァレンティア公爵家のものではなかった。

赤い、古い形の封蝋。前公爵夫人の、個人の印だった。


『アリア・ヴァレンティア 殿』


宛名の綴りは、正しかった。

最後の一文字が、夫の手紙のように、間違ってはいなかった。

正確に、私の名前を、書いていた。


(……ああ、そう)


胸の奥で、私は、ひとつ、頷いた。

あの人は、知っていたのだ。私の名前を。正確に。七年、知っていた。

知っていて、呼ばなかった。


封を、切った。

中の便箋は、一枚きりだった。


『アリア。

お前が今、隣国の宰相の屋敷で、何をしているか、私はすべて存じております。

セドリックは、お前の戻りを待っています。母として、申し上げます。家具は家具の場所へ、お戻りなさい。

お前の未来は、ヴァレンティアの北翼にしかありません。

マルグリット』


私は、その一枚を、二度、読んだ。

二度読んでから、ゆっくりと、二つに折り、机の端に、置いた。


家具は、家具の場所へ。


(……七年、ようやく、認めたのね)


私は、一度だけ、低く、笑った。

泣かなかったのは、もう、泣くようなことでは、なかったからだった。



同じ刻、ヴァレンティア公爵邸。


セドリックは、屋根裏の梯子の前に、立っていた。


母の私室の奥、誰も上がらない場所だった。子供の頃に一度だけ、玩具を取りに上がって、母にひどく叱られたことがあった。あれ以来、二十年以上、彼はその梯子を、登ったことが、なかった。


ベルナールが、梯子の下で、燭台を捧げていた。

老家令の手は、震えてはいなかった。


「家令」

「はい、閣下」

「母上は、今、どちらに」

「南の応接間にて、お一人で、お茶を召していらっしゃいます」


セドリックは、頷いた。

頷いて、梯子に、足をかけた。


屋根裏の床は、埃で、白かった。

燭台の光が、低い梁の影を、ゆっくりと、揺らした。

奥の壁際に、古い樫の長持が、置かれていた。錠前は、新しく付け替えられたばかりの、まだ磨かれた真鍮の色だった。

二十年以上、誰も上がらない屋根裏に、新しい錠前。

それだけで、答えは、決まっていた。


ベルナールが、梯子の下から、小さな鍵を一つ、差し上げた。


「奥様より、いつか必要になる日のため、と、預かっておりました」


セドリックは、鍵を、受け取った。

受け取った手が、震えそうになるのを、もう、抑えることが、できなかった。


長持を、開けた。


中には、便箋の束が、紐で括られて、年ごとに整理されていた。一年につき、ひとつ。それが七つ、長持の底に、几帳面に並んでいた。


セドリックは、いちばん上の便箋を、震える指で、抜き取った。

宛名が、書かれていた。


『カーライル公国宰相 ユリウス・カーライル様』


差出人。


『ヴァレンティア公爵夫人 アリア・ヴァレンティア』


便箋を、めくった。

低くて、几帳面な、けれど時折ためらうような、女の字が、並んでいた。

妻の字だった。


『拝啓 カーライル様

本日、ご提案いただきました北部の堰の修繕に関する第三案について、私から一点だけ、申し上げたきことが、』


七年前の、初夏の、日付だった。


セドリックは、便箋を戻した。戻したつもりだった。指が紙の縁を二度、三度、撫でていた。戻せていなかった。

別の束を引き寄せる。違う字。低くて短い、男の字。

どこかで見た。

どこで。

どこで見た。

ヴァレンティアの北の関の、あの関税協定の改定案の。あの。あの、宰相の。

膝が、勝手に床に落ちた。落ちたのに、痛みは、来なかった。痛みのかわりに、後頭部のあたりが、しん、と、空になった。


別の束。今度の宛名は、


『アリア・ヴァレンティア様』


差出人。


『ユリウス・カーライル』


便箋。

日付は、同じ初夏。


『拝復 ご令室

先のお手紙、たしかに拝受いたしました。第三案について、私からも一点、申し上げたく、』


それ以上、読まなかった。

読まなくても、わかった。


二人は、七年、会話をしていた。

彼の屋敷の、彼の机の上で、彼の妻が書き、隣国の宰相が返した、ただの業務文書だったはずのものが、すべて、ここで、止まっていた。

どちらにも、届いていなかった。

止めていたのは、彼の母だった。


セドリックは、束のいちばん下に、小さく折りたたまれた、別の紙が一枚、挟まっていることに、気づいた。

抜き取って、開いた。


母の字だった。


『この女が、隣国の宰相と、文を交わしている。

息子に、知らせてはならない。息子は、この女に、心を寄せてはならない。

息子の父が、妻を愛したことで、国政を誤った。

息子は、同じ轍を、踏ませない。

私は、母として、それだけを、果たす。』


紙の縁が、いつのまにか、彼の指の中で、握り潰されていた。



応接間に降りていったとき、母は、いつもの位置に、座っていた。


赤い天鵞絨の長椅子。湯気の立つ紅茶。窓辺に活けられた、季節外れの、温室の薔薇。

セドリックが束を抱えて入っていったのを、母は、ちらりと見て、そのまま、目を逸らした。


逸らしただけだった。

何も、言わなかった。

弁解も、否定も、しなかった。

それが、何より、雄弁な答えだった。


「母上、これは。これ。

これが、なぜ、ここに。

なぜ、ここに七年分。

七年分、」


言葉が続かなかった。言葉が続かなかった、というより、自分の口の中の唾が、急にどこかへ消えていた。


母の唇が、ようやく、ほんの少しだけ、動いた。


「父の轍を、踏ませたく、なかったのです」


それだけ、だった。

それ以上、母は、何も言わなかった。

言わずに、紅茶のカップを、ゆっくりと、持ち上げ、口元へ運んだ。

カップの縁が、わずかに、震えていた。


セドリックは、束を、応接間の卓の上に、置いた。

置いたまま、しばらく、立ち尽くした。


それから、ベルナールの方を、見た。


「家令」

「はい、閣下」

「馬を、用意してくれ」

「……行き先は」

「国境だ」


ベルナールは、頭を、深く下げた。

下げた頭の下で、老人の唇が、ほんの少しだけ、動いた。

何かを、堪えていた。


セドリックは、もう、母の方を、見なかった。

見ずに、応接間を、出た。


外では、また、雪が、降りはじめていた。



カーライル公国、宰相邸南翼。


私は、机の端に置いた、マルグリット様の便箋を、もう一度、手に取った。

取って、ゆっくりと、燭台の火に、近づけた。

紙の縁が、赤く、ゆっくりと、縮んでいった。


『家具は、家具の場所へ』


その一行が、火の中で、最後まで、消えなかった。

最後の一文字が灰になったとき、私は、ようやく、息を、吐いた。


執事のグスタフが、扉の外で、控えめに、声をかけた。


「アリア様。閣下が、お呼びにございます」


私は、立ち上がった。

肩には、昨夜の灰色の外套が、まだ、掛かったままだった。

押し花の手帳が、胸元で、紙の重さを、確かに、伝えていた。


廊下に出ると、窓の外、はるか北の空の方角だけが、薄く、雪雲で霞んでいた。

雪雲の向こうから、誰かが、馬を駆って、こちらへ向かっていることを、私は、まだ、知らなかった。

知らないままで、いいような気が、ふと、した。


私は、執務室の方へ、足を、進めた。

廊下の絨毯の、月桂樹の銀の蔓を、絹の靴の先が、ひとつずつ、踏んでいった。

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