表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い結婚七年目、夫が初めて私の名前を呼びました。  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/10

第6話 王宮の沈黙

カーライル公国に来て、十日が経った。


南翼の窓から見える庭の景色を、私は、もう、覚えてしまった。

朝、いちばん早く陽が当たるのは、東の門のそばの石榴の木。次に当たるのは、噴水の縁に座る石の天使の右肩。最後に陽が落ちるのは、西の壁際の、薔薇の蔓の絡まる古い格子。


ヴァレンティア公爵邸の北翼では、覚えるべき景色など、ひとつも、なかった。

覚えるべき景色がある朝、というものを、私は、二十五になって初めて、知った。



「アリア様」


朝の執務室で、ユリウスは、私の名前の呼び方を、また、半歩だけ近づけていた。

机の向こうから、彼は、薄い革表紙の冊子を、私の方へ、ゆっくりと滑らせた。


「お願いしたきことが、ございます」


冊子の表には、何も書かれていなかった。けれど、開く前から、私には、それが何か、わかっていた。

複式の符牒が並ぶ、宰相府の財務記録だった。


「我が国の宰相府は、十年来、一つだけ、構造的な欠陥を抱えております」

「……はい」

「戦略を立てる人間はおります。けれど、戦略の実行可能性を、現場の数字で検証できる人間が、おりません。私一人では、足りないのです」


ユリウスは、そこで、いったん、言葉を切った。

切ってから、低い声で、続けた。


「あなたに、私の補佐をお願いしたい。給金、地位、滞在の身分、すべて正式に、宰相府の名で発令いたします。お受けいただけるかどうか、お返事は、いつでも構いません」


私は、冊子の表紙に、指を、置いた。

表紙の革は、ひんやりと、滑らかだった。


お返事は、いつでも構いません。


七年、誰にも、聞かれなかった種類の言葉だった。

急かさない、という言葉だった。


私は、ゆっくりと、頷いた。


「お受けいたします、カーライル様」


ユリウスの右手が、机の上で、ほんの少しだけ、握りしめられた。

それから、ゆっくりと、開かれた。

握りしめたことに、本人は、たぶん、気づいていなかった。



同じ刻、ヴァレンティア王国、王宮議場。


セドリック・ヴァレンティア公爵は、議場の中央に、立っていた。


円卓の周りには、六人の重臣が並び、その奥の上座には、王が一人、肘をついて、黙ったまま、彼を見ていた。

円卓の上には、両国の関税協定の原本と、改定案の写しが、開かれていた。


「セドリック」


王の声は、低かった。


「第七条の解釈について、貴公自身の言葉で、申し述べよ」


セドリックの唇が、開いた。

開いたまま、言葉が、出てこなかった。


第七条。

読んだことが、あるはずだった。何度も。妻が机の上に広げていたのを、後ろから、何度も、覗いたことがあった。

覗いて、内容には、踏み込まなかった。

踏み込む必要が、ないと、思っていた。

妻が、いたから。


「……第七条は」


ようやく、彼の声は、続きを探した。


「両国の北部交易における、毛織物の、」


「毛織物ではない」


円卓の左端から、年若い書記官が、静かに、訂正した。


「第七条の品目は、塩でございます、閣下」


議場の空気が、ひとつ、ざわつき、すぐに、ふたたび、静まった。

静まり方が、寒かった。


セドリックは、手を、卓の縁に、置いた。

置いた手が、震えそうになるのを、彼は、力で、抑え込んだ。


そのとき、議場の扉が、開いた。

入ってきたのは、白髪の老人だった。

ヴァレンティア公爵家の家令ベルナール。彼の腕には、紐で束ねられた、七冊の薄い冊子と、漆塗りの小箱が、抱えられていた。


「家令ベルナール、奥様より預かりおきましたる、七年分の手控え帳と、当主印の委任記録を、ここに、持参いたしましてございます」


老人の声は、震えていなかった。


セドリックは、ベルナールを、見た。

ベルナールは、主人を、見なかった。

見ずに、ただ、王の方へ、深く、頭を下げた。


王の指が、卓の上を、こつり、と、一度、叩いた。

それだけで、議場の中の、誰かの、息が、止まった。



その夜、カーライル公国宰相邸、食堂。


長い樫の食卓の、上座にユリウスが座り、私は、その斜め向かい、客人の隣に座っていた。


客人は、隣国南方からの老侯爵だった。白い髭を蓄え、若い時分に北方の戦で武功を立てた、と、執事のグスタフから事前に聞いていた。

食事の途中、老侯爵は、銀の杯を傾けながら、ふと、ユリウスの方を見て、軽く、笑った。


「カーライル殿。今宵のご令嬢は、たしか、昨年離縁が成ったばかりの、ヴァレンティアの未亡、いや、失礼、元夫人でいらしたかな。冬の盛りに、北の冷えた家から、随分と暖かい場所へ、お移りになったものだ」


軽口だった。

悪意ではなかった。たぶん、本人にとっては、年寄りの世間話だった。


私は、銀のフォークを、皿の縁に、そっと、置いた。

七年、こういう類の言葉には、慣れていた。北翼の冷えた廊下で、もっとひどい言葉も、たくさん、聞いた。

だから、私は、何も言わなかった。返事を、用意する必要もない、と思った。


返事を、用意したのは、ユリウスだった。


「侯爵閣下」


低い声が、食卓の端から、静かに、聞こえた。


「お言葉、訂正いただきたい点が、二つございます」


老侯爵が、眉を、上げた。


「ほう?」

「一つ。アリア様は、本日付でカーライル公国宰相府の、財務補佐官に正式に就任されました。我が宰相府の名にかけて、彼女の身分は、もはや『元夫人』ではなく、『補佐官アリア・モンフォール卿』でございます」


私は、フォークを置いた手を、膝の上で、握った。

握った指が、自分でも気づかぬほど、冷たかった。


「もう一つ」


ユリウスの灰青の瞳が、ちらりと、私を見た。

見て、すぐに、老侯爵に戻った。


「冬の盛りに、北の冷えた家から、暖かい場所へお移りいただくために、私は、七年、待ちました」


食卓の上の銀器が、ひとつも、音を立てなかった。


老侯爵は、白い髭の下で、しばらく、口を、半分開けたままだった。

それから、ゆっくりと、銀の杯を置き、両手を膝の上に揃えて、深く、頭を下げた。


「……失礼、いたしました。カーライル殿。卿、アリア卿」


私は、その「卿」の音を、初めて、自分の名前のあとに聞いた。

聞いた瞬間、自分の唇の両端が、貝のように、ぴたりと、閉じてしまった。


(……お返事を)


頭の中では、わかっていた。庇われた礼を言うべきだ、と。「卿」と呼ばれた名乗りに応えるべきだ、と。

わかっていたのに、唇が、動かない。


仕方がないので、私は、もう一度、ただ、深く、頭を下げた。それを返事の代わりにした。

七年間、誰にも褒められたことのない人間が、人前で褒められると、こうなる。私は、自分のものとは思えない自分の首筋の硬さを、二十五歳にして、初めて、知った。


ユリウスは、老侯爵の方を、もう、見ていなかった。

私の銀の皿の縁の、桃の砂糖煮の二切れを、見ていた。

私のために、用意された、二切れだった。


私は、その二切れを、ゆっくりと、口に運んだ。

甘さは、十日前と、同じだった。

けれど、十日前より、ほんの少しだけ、温かかった。



食事が終わり、客人たちが下がった後だった。


執事のグスタフが、廊下の暗がりから、音もなく、私の前に進み出た。

彼の手には、小さく折りたたまれた、紙切れが一つ、握られていた。


「アリア様。ヴァレンティア家の、家令ベルナール殿より、密かに」


私は、紙を、受け取った。

廊下の燭台の下で、開いた。


ベルナールの、几帳面な、けれど震えた字で、たった三行が、書かれていた。


『奥様。

本日、ヴァレンティア王宮にて、第七条につき、公爵閣下、お答えになれませんでした。

前公爵夫人マルグリット様が、奥様宛に、近く、私的の書状を一通、送られるご様子。お気をつけくださいませ。』


王宮にて、お答えになれませんでした。


私は、その一行を、二度、読んだ。

二度読んでも、胸の中に、勝ち誇るような気持ちは、湧かなかった。

ただ、ああ、そうだろうな、と、思った。

七年分の照合表を、十日で、誰も読めるはずがなかった。


私は、紙の最後の一行を、もう一度、読んだ。


『マルグリット様が、奥様宛に、近く、私的の書状を一通、』


(……お義母さま)


胸の奥で、何かが、ほんの少しだけ、揺れた。

一度も、私の名前を呼ばなかったあの人が、いったい、今さら、私に、何を、書こうというのだろう。


廊下の燭台の炎が、ふっ、と、揺れた。


私は、紙を、燭台の火に、近づけて、燃やした。

灰が、石の床に、ひとひら、落ちた。

私は、その灰を、絹の靴の先で、そっと、踏んだ。


南翼の自分の部屋の扉の前で、私は、立ち止まった。

扉に手を置く前に、もう一度、振り返って、廊下の奥を、見た。

廊下の奥の、執務室の方角だけが、まだ、ほんのりと、明かりが灯っていた。


(……まだ、お仕事を)


私は、自分の部屋の扉を、開けなかった。

代わりに、ゆっくりと、廊下を、執務室の方へ、歩き出した。


七年、誰かの執務室の扉を、自分から叩きに行ったことなど、一度も、なかった。

今夜、初めて、そういう夜が、来ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ