第6話 王宮の沈黙
カーライル公国に来て、十日が経った。
南翼の窓から見える庭の景色を、私は、もう、覚えてしまった。
朝、いちばん早く陽が当たるのは、東の門のそばの石榴の木。次に当たるのは、噴水の縁に座る石の天使の右肩。最後に陽が落ちるのは、西の壁際の、薔薇の蔓の絡まる古い格子。
ヴァレンティア公爵邸の北翼では、覚えるべき景色など、ひとつも、なかった。
覚えるべき景色がある朝、というものを、私は、二十五になって初めて、知った。
◇
「アリア様」
朝の執務室で、ユリウスは、私の名前の呼び方を、また、半歩だけ近づけていた。
机の向こうから、彼は、薄い革表紙の冊子を、私の方へ、ゆっくりと滑らせた。
「お願いしたきことが、ございます」
冊子の表には、何も書かれていなかった。けれど、開く前から、私には、それが何か、わかっていた。
複式の符牒が並ぶ、宰相府の財務記録だった。
「我が国の宰相府は、十年来、一つだけ、構造的な欠陥を抱えております」
「……はい」
「戦略を立てる人間はおります。けれど、戦略の実行可能性を、現場の数字で検証できる人間が、おりません。私一人では、足りないのです」
ユリウスは、そこで、いったん、言葉を切った。
切ってから、低い声で、続けた。
「あなたに、私の補佐をお願いしたい。給金、地位、滞在の身分、すべて正式に、宰相府の名で発令いたします。お受けいただけるかどうか、お返事は、いつでも構いません」
私は、冊子の表紙に、指を、置いた。
表紙の革は、ひんやりと、滑らかだった。
お返事は、いつでも構いません。
七年、誰にも、聞かれなかった種類の言葉だった。
急かさない、という言葉だった。
私は、ゆっくりと、頷いた。
「お受けいたします、カーライル様」
ユリウスの右手が、机の上で、ほんの少しだけ、握りしめられた。
それから、ゆっくりと、開かれた。
握りしめたことに、本人は、たぶん、気づいていなかった。
◇
同じ刻、ヴァレンティア王国、王宮議場。
セドリック・ヴァレンティア公爵は、議場の中央に、立っていた。
円卓の周りには、六人の重臣が並び、その奥の上座には、王が一人、肘をついて、黙ったまま、彼を見ていた。
円卓の上には、両国の関税協定の原本と、改定案の写しが、開かれていた。
「セドリック」
王の声は、低かった。
「第七条の解釈について、貴公自身の言葉で、申し述べよ」
セドリックの唇が、開いた。
開いたまま、言葉が、出てこなかった。
第七条。
読んだことが、あるはずだった。何度も。妻が机の上に広げていたのを、後ろから、何度も、覗いたことがあった。
覗いて、内容には、踏み込まなかった。
踏み込む必要が、ないと、思っていた。
妻が、いたから。
「……第七条は」
ようやく、彼の声は、続きを探した。
「両国の北部交易における、毛織物の、」
「毛織物ではない」
円卓の左端から、年若い書記官が、静かに、訂正した。
「第七条の品目は、塩でございます、閣下」
議場の空気が、ひとつ、ざわつき、すぐに、ふたたび、静まった。
静まり方が、寒かった。
セドリックは、手を、卓の縁に、置いた。
置いた手が、震えそうになるのを、彼は、力で、抑え込んだ。
そのとき、議場の扉が、開いた。
入ってきたのは、白髪の老人だった。
ヴァレンティア公爵家の家令ベルナール。彼の腕には、紐で束ねられた、七冊の薄い冊子と、漆塗りの小箱が、抱えられていた。
「家令ベルナール、奥様より預かりおきましたる、七年分の手控え帳と、当主印の委任記録を、ここに、持参いたしましてございます」
老人の声は、震えていなかった。
セドリックは、ベルナールを、見た。
ベルナールは、主人を、見なかった。
見ずに、ただ、王の方へ、深く、頭を下げた。
王の指が、卓の上を、こつり、と、一度、叩いた。
それだけで、議場の中の、誰かの、息が、止まった。
◇
その夜、カーライル公国宰相邸、食堂。
長い樫の食卓の、上座にユリウスが座り、私は、その斜め向かい、客人の隣に座っていた。
客人は、隣国南方からの老侯爵だった。白い髭を蓄え、若い時分に北方の戦で武功を立てた、と、執事のグスタフから事前に聞いていた。
食事の途中、老侯爵は、銀の杯を傾けながら、ふと、ユリウスの方を見て、軽く、笑った。
「カーライル殿。今宵のご令嬢は、たしか、昨年離縁が成ったばかりの、ヴァレンティアの未亡、いや、失礼、元夫人でいらしたかな。冬の盛りに、北の冷えた家から、随分と暖かい場所へ、お移りになったものだ」
軽口だった。
悪意ではなかった。たぶん、本人にとっては、年寄りの世間話だった。
私は、銀のフォークを、皿の縁に、そっと、置いた。
七年、こういう類の言葉には、慣れていた。北翼の冷えた廊下で、もっとひどい言葉も、たくさん、聞いた。
だから、私は、何も言わなかった。返事を、用意する必要もない、と思った。
返事を、用意したのは、ユリウスだった。
「侯爵閣下」
低い声が、食卓の端から、静かに、聞こえた。
「お言葉、訂正いただきたい点が、二つございます」
老侯爵が、眉を、上げた。
「ほう?」
「一つ。アリア様は、本日付でカーライル公国宰相府の、財務補佐官に正式に就任されました。我が宰相府の名にかけて、彼女の身分は、もはや『元夫人』ではなく、『補佐官アリア・モンフォール卿』でございます」
私は、フォークを置いた手を、膝の上で、握った。
握った指が、自分でも気づかぬほど、冷たかった。
「もう一つ」
ユリウスの灰青の瞳が、ちらりと、私を見た。
見て、すぐに、老侯爵に戻った。
「冬の盛りに、北の冷えた家から、暖かい場所へお移りいただくために、私は、七年、待ちました」
食卓の上の銀器が、ひとつも、音を立てなかった。
老侯爵は、白い髭の下で、しばらく、口を、半分開けたままだった。
それから、ゆっくりと、銀の杯を置き、両手を膝の上に揃えて、深く、頭を下げた。
「……失礼、いたしました。カーライル殿。卿、アリア卿」
私は、その「卿」の音を、初めて、自分の名前のあとに聞いた。
聞いた瞬間、自分の唇の両端が、貝のように、ぴたりと、閉じてしまった。
(……お返事を)
頭の中では、わかっていた。庇われた礼を言うべきだ、と。「卿」と呼ばれた名乗りに応えるべきだ、と。
わかっていたのに、唇が、動かない。
仕方がないので、私は、もう一度、ただ、深く、頭を下げた。それを返事の代わりにした。
七年間、誰にも褒められたことのない人間が、人前で褒められると、こうなる。私は、自分のものとは思えない自分の首筋の硬さを、二十五歳にして、初めて、知った。
ユリウスは、老侯爵の方を、もう、見ていなかった。
私の銀の皿の縁の、桃の砂糖煮の二切れを、見ていた。
私のために、用意された、二切れだった。
私は、その二切れを、ゆっくりと、口に運んだ。
甘さは、十日前と、同じだった。
けれど、十日前より、ほんの少しだけ、温かかった。
◇
食事が終わり、客人たちが下がった後だった。
執事のグスタフが、廊下の暗がりから、音もなく、私の前に進み出た。
彼の手には、小さく折りたたまれた、紙切れが一つ、握られていた。
「アリア様。ヴァレンティア家の、家令ベルナール殿より、密かに」
私は、紙を、受け取った。
廊下の燭台の下で、開いた。
ベルナールの、几帳面な、けれど震えた字で、たった三行が、書かれていた。
『奥様。
本日、ヴァレンティア王宮にて、第七条につき、公爵閣下、お答えになれませんでした。
前公爵夫人マルグリット様が、奥様宛に、近く、私的の書状を一通、送られるご様子。お気をつけくださいませ。』
王宮にて、お答えになれませんでした。
私は、その一行を、二度、読んだ。
二度読んでも、胸の中に、勝ち誇るような気持ちは、湧かなかった。
ただ、ああ、そうだろうな、と、思った。
七年分の照合表を、十日で、誰も読めるはずがなかった。
私は、紙の最後の一行を、もう一度、読んだ。
『マルグリット様が、奥様宛に、近く、私的の書状を一通、』
(……お義母さま)
胸の奥で、何かが、ほんの少しだけ、揺れた。
一度も、私の名前を呼ばなかったあの人が、いったい、今さら、私に、何を、書こうというのだろう。
廊下の燭台の炎が、ふっ、と、揺れた。
私は、紙を、燭台の火に、近づけて、燃やした。
灰が、石の床に、ひとひら、落ちた。
私は、その灰を、絹の靴の先で、そっと、踏んだ。
南翼の自分の部屋の扉の前で、私は、立ち止まった。
扉に手を置く前に、もう一度、振り返って、廊下の奥を、見た。
廊下の奥の、執務室の方角だけが、まだ、ほんのりと、明かりが灯っていた。
(……まだ、お仕事を)
私は、自分の部屋の扉を、開けなかった。
代わりに、ゆっくりと、廊下を、執務室の方へ、歩き出した。
七年、誰かの執務室の扉を、自分から叩きに行ったことなど、一度も、なかった。
今夜、初めて、そういう夜が、来ていた。




