第5話 桃と、関税の話
目覚めたとき、窓の外が、白くなかった。
私は、しばらく、天井を見ていた。
見覚えのない、高い、淡い乳色の天井。漆喰の縁に、細い金の蔦の彫りが走っている。
ヴァレンティア公爵邸の北翼の、節くれだった樫の梁ではなかった。
身体の下のシーツが、温かかった。
水差しの水も、凍っていなかった。
(……ああ。そうだった)
私は、昨日のことを、ゆっくりと、順番に思い出した。
雪。馬車。国境の関。深い紺の扉。執務室。桃。
便箋の束。
舌の下のあたりが、まだ、少しだけ、ざらついていた。
ざらつくのは、たぶん、まだ、ざらつかせておいたほうがいい。慌てて治してしまうと、何か大事なことを見失う気がした。
枕元の小さな鈴を、私は鳴らさなかった。
代わりに、自分で寝台を降りて、自分で着替え、自分で髪を結った。
七年、ずっと、そうしてきたことだから。
◇
朝食室には、誰もいなかった。
長い樫の食卓の、いちばん端の一席にだけ、白い布が敷かれ、銀の食器が並べられていた。私一人のための席だった。
パンと、温かいスープと、卵と、薄く切られた燻製の肉。そして、皿の真ん中に、小さな桃の砂糖煮が、二切れ。
私は、それを、見た。
冬の盛りに、桃。
昨日の執務室の籠に、丸ごと三つ。今朝の食卓に、砂糖煮で二切れ。
他国からの賓客への歓待の品としては、確かに、最上級ではあった。
ただ、それにしても、出てくる速度が、早すぎる気がした。
「おはようございます、アリア様」
朝食室の入口から、執事のグスタフが、両手を腹の前で組んで、入ってきた。
「お目覚めはいかがでございましたか」
「ええ。とても、よく」
「桃は、お口に合いますでしょうか」
私は、銀のフォークを、いったん置いた。
そして、白髪の老執事を、まっすぐに見た。
「グスタフ。一つ、伺ってもよろしくて?」
「何なりと」
「桃は……いつから、こちらの厨房に常備されておりますの?」
老執事の目尻が、ほんの少しだけ、また、皺を作った。
昨日、玄関で出迎えてくれたときと、同じ皺だった。
答えるかわりに、彼は、深く、一礼した。
「主より、ご質問がございましたら、執務室でお答えするように、と」
私は、それ以上、訊かなかった。
◇
執務室の扉は、昨日と同じように、内側から開いた。
ユリウス・カーライルは、机の向こうに立っていた。今朝の彼は、紺ではなく、深い灰色の上着を着ていた。胸元の三日月の徽章だけが、昨日と同じだった。
「アリア様」
呼ばれ方が、昨日より、半歩だけ、近かった。
「モンフォール様」ではなく、名前の方を、選んだ。
私は、膝を折って礼をした。
「カーライル様。ひとつ、お伺いしたきことがございます」
「……どうぞ」
「執務室の桃と、朝食の桃と、両方について」
ユリウスの右手が、机の縁に置かれた。
昨日、震えていた手だった。今朝は、震えていなかった。代わりに、長い指が、ほんの少しだけ、机の縁を、押さえるように力をこめた。
「お答えは、二つございます」
低い声が、ゆっくりと、続いた。
「一つは、業務上の答えです。カーライル公国は南方との交易路を持っており、冬でも保存の利く果実は宰相邸の常備品とされております」
「もう一つは?」
「……七年前から、桃だけを、絶やさぬよう、厨房に申しつけております」
私は、呼吸が、止まった。
止まったまま、続きを、待った。
ユリウスは、私の目を、見ていなかった。
机の上の、自分の手の甲を、見ていた。古い切り傷の痕がある、その手の甲を、見ていた。
「七年前の夏、北部の堰の前で、若い令嬢が、農夫の差し出した桃を、受け取らずに、ただ礼だけを返しておられたのを、馬上から、お見かけいたしました。受け取らない理由を、令嬢は、こう仰いました。『この夏の不作で、村に残っている桃の数は、私が今ここで聞いた村人の数より、少ない。私が一つもらえば、誰かの子の分が、一つ減る』と」
「……」
「私はその日、宿に戻って、馬の背に乗せたままになっていた、自分の昼食用の桃を、一つ、取り出しました。取り出して、見つめて、それから、食べられませんでした」
「カーライル様」
「以来、私の机の上には、いつも桃が置いてあります。あなたの代わりに、誰かの分を減らさぬための、私の、」
ユリウスは、そこで、言葉を切った。
切ったまま、しばらく、続きを言わなかった。
言えなかったのか、言わないと決めていたのか、わからなかった。
私は、執務室の絨毯の柄を、見ていた。
深い紺地に、月桂樹の蔓が、銀の糸で縫い取られていた。
その蔓の一筋を、目で追いながら、私は、ようやく、思い出した。
七年前の、あの夏の朝のこと。
堰の前。日に焼けた農夫たち。差し出された、桃の入った素焼きの器。私が断った、そのときの、自分の喉の渇きまで。
あの場に、馬上の客が、何人かいたことも。
顔は、見ていなかった。
私の知らないところで、私の言葉を、覚えていてくれた人がいた。
それも、七年。
うなじの後ろが、ふっと、温かくなった。
温かさが、ゆっくりと、首筋を撫でて、消えた。
私は、その温度を、すぐには名前で呼ばないことにした。
名前で呼んでしまうには、まだ、何もかも、早すぎた。
「……お話、ありがとうございました」
それだけ、言った。
ユリウスは、ようやく、顔を上げて、私を見た。
そして、ほんのわずかに、目元を緩めた。
七年で初めて、と、彼の表情が、語っていた。
◇
その時だった。
執務室の扉が、控えめに、しかし、急いた音で、二度叩かれた。
「失礼いたします、閣下。火急の使者が」
執事のグスタフが、白い顔で、入ってきた。
彼の後ろから、雪と泥にまみれた外套の若い男が一人、息を切らせて、ふらつく足で進み出てきた。
ヴァレンティア領の、街道を半日駆け通してきた使者の顔だった。
「カーライル公国宰相閣下に、ヴァレンティア公爵家家令ベルナールより、急ぎの口上を申し上げます」
ユリウスの背筋が、すっと、伸びた。
「申せ」
「本日未明より、ヴァレンティア領北部の関にて、貴国との関税協定の運用に齟齬が生じております。我が領主セドリック・ヴァレンティア公爵閣下、第七条および第十二条の解釈につき、貴国の改定案との照合がつかず、北部の交易が一時、停止しております。家令ベルナールより、『協定原本の照合者は、奥様お一人にございました』と、」
第七条。第十二条。
昨日の朝、薄紫の押し花の下にあった、あの条項。
私が、最後に判を押した、あの書類。
(……あら)
私は、思った。
驚きは、なかった。納得だけが、あった。
七年、私が一人で照合してきた条項を、引き継ぎなしで放り出されたら、止まるに決まっていた。
止まらないわけが、なかった。
ユリウスは、使者に、低く、命じた。
「街道の関にすぐ通達を出せ。今日明日の運用は、こちらで負担する。ヴァレンティア家からの正式回答を、三日待つ」
そして、私の方を、ほんの一瞬だけ、見た。
見て、すぐに、視線を外した。気を遣ったのが、わかった。
私の事情を、人前で、絡めない人だった。
私は、息を、ひとつ、整えた。
「カーライル様」
「はい」
「三日では、足りませんわ」
ユリウスの眉が、ほんの少しだけ、動いた。
「七年分の照合表は、ヴァレンティア公爵家の書斎の、いちばん奥の引き出しの中にございます。鍵は、家令ベルナールに、昨日、預けてまいりました。けれど、表の読み方は、複式の符牒の意味は、誰にも、お教えしておりません」
「……」
「三日では、誰も、読めません。三十日でも、難しゅうございますわ」
ユリウスは、何も言わなかった。
言わずに、ただ、低く、頷いた。
頷いた目の奥が、ほんの少しだけ、笑ったように、見えた。
気のせいかもしれなかった。気のせいでない気も、した。
◇
使者が下がり、執務室に静けさが戻った直後だった。
執事のグスタフが、もう一度、扉のところに立っていた。今度は、銀の盆を捧げ持っていた。
盆の上には、一通の手紙が乗っていた。
「アリア様。先ほど、別便で、ヴァレンティア公爵家より、お手紙が」
私は、盆に近づいた。
封筒の表には、見慣れた、けれど、ぎこちない、角ばった字で、私の名前が書かれていた。
『アリア・ヴァレンティア 殿』
ヴァレンティア。
昨日、捨ててきたはずの、姓だった。
封蝋は、ヴァレンティア公爵家の、鷲の紋章。
私は、封筒を受け取った。
受け取ったまま、開けなかった。
ユリウスが、机の向こうから、静かに言った。
「お読みになりますか」
「……いいえ」
私は、首を、横に振った。
「読まずに、お返しいたします。封を切らずに、戻すのが、この国の作法でございましょう?」
「はい。離縁の成立後の、最初の文書に対しては」
私は、頷いた。
そして、封筒の表書きの、自分の名前の、姓の部分を、指先で、そっと、なぞった。
ヴァレンティア。
角ばった、ぎこちない字。
七年同じ屋根の下にいたはずの男の字を、私は、今朝、初めて、ちゃんと見た。
ふいに、私は、笑いが、こみあげた。
声には、出さなかった。
ただ、唇の端だけが、ほんの少し、上がった。
「カーライル様」
「はい」
「この方、私の名前の綴りを、間違えていらっしゃいますわ」
封筒の表書きの『アリア』の、最後の一文字が、別の字になっていた。
七年同じ屋根の下にいた人が、最後の最後の手紙でようやく書き、そして書き間違えた、その文字だった。
ユリウスは、ほんの一瞬、息を止めた。
それから、低い声で、ただ、こう言った。
「……お返ししましょう。封を切らずに」
私は、頷いた。
窓の外、カーライルの空は、今朝も、薄い水色のままだった。
桃の砂糖煮の甘さが、まだ、舌の奥に、ほんのりと、残っていた。




