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白い結婚七年目、夫が初めて私の名前を呼びました。  作者: 九葉(くずは)


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第4話 初めての顔

国境の関には、雪がなかった。


馬車が停まると、外から、軍靴の音が一斉に揃った。

窓の幕を、御者の青年がそっと持ち上げる。革鎧の関守たちが、街道の両脇に並び、深く頭を下げているのが見えた。一人ではない。十人。いや、もっとだった。


私は、思わず息を止めた。

他国の貴婦人を一人迎えるのに、これほどの礼を取る関は、見たことがない。


御者の青年が、御者台から、控えめに振り返った。


「宰相閣下より、関の長へ前々から通達が出ております。『モンフォール男爵令嬢の通行に際しては、最上位の客人として遇すべし』と」


最上位の。

私は、繰り返さなかった。胸の中で、その響きを、しまった。


(……いったい、いつから?)


通達は、今朝、急に出せるものではない。少なくとも数日前。あるいは、もっと前から。

私は、自分の旅程を、宰相閣下に正式に伝えたのは、つい三日前のはずだった。

合わない。


馬車が再び、滑らかに走り出した。

国境を越えると、不思議なことに、空が薄い水色になった。雪は、もう、舞っていなかった。



カーライル公国宰相邸は、街の北の小高い丘の上にあった。


灰色の石の館。蔦の絡まる古い壁。けれど扉だけは、新しく塗り直されたばかりの、深い紺色だった。三日月と月桂樹の徽章が、新しい釘で打ち直されている。

扉の前で、白髪の執事が、両手を腹の前で組み、待っていた。


馬車の段を降りる手を、執事が差し出した。私は手袋越しに、その手を取った。


「ようこそ、おいでくださいました。アリア様。私はカーライル家執事のグスタフと申します。あなた様のお部屋は、館の南翼にご用意してございます。陽の入る、いちばん暖かいお部屋でございます」


陽の入る、いちばん暖かい部屋。

七年、私が住んでいたのは、ヴァレンティア公爵邸の北翼だった。陽はほとんど入らず、冬は窓辺の水差しが朝までに凍る部屋。私はそれを、当主夫人の部屋だと思い込んでいた。誰もそうではないと教えてくれなかったから。


私は、グスタフの目を、見た。

老執事は、ほんの少しだけ、目尻に皺を作って微笑んだ。


「主が、お待ちでございます」



執務室の扉は、ゆっくりと、内側から開いた。


部屋の真ん中に、大きな樫の机が一つ。机の向こうに、男が一人、立っていた。


長身。短く刈った黒髪。仕立てのよい紺の上着。胸元に三日月の徽章。年は、たぶん、三十を少し過ぎたくらい。


顔の細部は、初めて見るのに、どこか、馴染んでいる気がした。


なぜだろう、と思って、すぐに気づいた。

あの、低くて短い、几帳面な字を書く人の顔だ。ああ、こういう顔の人が、ああいう字を書くのか。

納得が、先に来た。


「カーライル様」


私は、丁寧に、膝を折った。

七年ぶりに、自分が「ヴァレンティア公爵夫人」ではない場で、礼を取った。


男は、動かなかった。

動かなかった、と言うより、動けなかったように、見えた。


私は、顔を上げた。


ユリウス・カーライルの瞳は、深い、灰がかった青だった。

その瞳が、私を見ていた。

ただ、見ていた。


何も、言わなかった。


部屋の中の暖炉が、ぱちり、と薪を弾いた。

その音だけが、しばらく、執務室の中の唯一の音だった。


「……お会いできて」


ようやく、低い声が、言葉を選びながら、こぼれた。


「七年、長かった」


私は、自分の唇が、開きかけて、止まったのがわかった。


業務上の挨拶。

そう受け取るには、その声は、低すぎた。低くて、わずかに、震えていた。

言葉の最後の、横棒の終わりが、ためらうように落ちる、あの字と同じ震え方だった。


私は、咄嗟に、用意してきた言葉を返した。


「こちらこそ、長らくお世話になっております。三度の関税協定の改定、つつがなく進められましたのは、」


そこまで言って、私の声が、詰まった。


ユリウス・カーライルの右手が、机の上で、ほんのわずかに、震えていた。

有能で、冷徹で、隣国の若き宰相と謳われる人の手が、初対面の他国の女に対して、震える、道理がなかった。

道理がないのに、震えていた。


私は、続きの言葉を、忘れた。



「……どうぞ」


ユリウスは、机の脇に置かれた椅子を、自分の手で引いた。


執事も、従者も、その場にいたはずなのに、自分で引いた。

私が腰を下ろすまで、彼は椅子の背に手を添えていた。手の甲に、薄く、古い切り傷の痕が一つ、走っていた。

椅子に座った私の前に、ユリウスは机を回って戻り、自分も腰を下ろした。


机の上には、書類は一枚も置かれていなかった。

ただ一つ、革表紙の分厚いファイルが、机の中央に置かれていた。


革は、深い紺色。背の部分が、ほんの少しだけ、擦れて色が薄くなっていた。何度も、何度も開かれた本の擦れ方だった。


ユリウスは、そのファイルの上に、長い指を、そっと置いた。


「アリア・モンフォール様」


旧姓で、もう一度、呼ばれた。


「お渡ししたいものがございます」


彼の指が、ファイルの表紙を、ゆっくりと開いた。


便箋だった。


中には、薄い、何百枚もの便箋が、日付順に、几帳面に綴じられていた。

私は息を呑むのも忘れて、それを見つめた。

いちばん上の一枚の右上には、七年前の、初夏の日付が、書かれていた。


『拝復。先日いただきました貴領北部の堰の修繕に関する書面、たしかに拝見いたしました。第三案について、私から一つだけ、申し上げたきことが、』


字は、知っていた。

あの、低くて短い、横棒の終わりがためらうように落ちる、あの字。


便箋の二枚目。

日付。

拝復。


三枚目。

日付。

拝復。


四枚目。五枚目。六枚目。


(……これは)


私の指が、ファイルの縁に伸びて、止まった。


「これは、全て」


ユリウスの声は、低く、ゆっくりと、続いた。


「あなた宛てに、私が書いた、返事です」


「……返事?」

「七年前から、今朝までの分を、すべて」


返事。

返事って、今、なんて。

七年。私が、誰にも届かないと思って、書いていた、あれが。

あれが。

耳の後ろが、すっと冷たくなった。冷たくなったのに、指の先だけが、別の人のもののように、熱かった。

ちがう。落ち着け。落ち着け、私。落ち着いて、もう一度この人の指を見ろ。あの、横棒の終わりがためらう字を書く、あの指を。

ああ。

ああ、本当に。

本当に、いたんだ。この人は。


「私は、」


私は、ようやく、声を出した。震えていないかどうか、自分でも、わからなかった。


「私は、貴方様からのお返事を、関税協定の三度のほか、いただいた覚えが、」


ユリウスは、何も言わなかった。

言わずに、ただ、私の目を見ていた。

その「言わない」の中に、たくさんの言葉が、詰まっていた。


(……届いていなかった)


ファイルの上に置かれたユリウスの指が、ほんの少しだけ、便箋の縁を、押さえ直した。


「今日、お渡ししようかどうか、最後まで、迷いました」


低い声が、続けた。


「ですが、あなたは、知る権利があります。七年間、あなたが何を書き、どこへ宛てたつもりで、それがどこで止まっていたのかを」


暖炉が、もう一度、ぱちり、と音を立てた。


私は、ファイルの一枚目に、そっと、指先を触れた。

紙は、冷たかった。けれど、すぐに、私の指の温度を吸って、温まった。


七年。

私が、誰にも届かない日記のつもりで書き続けていた手紙の、本当の宛先が、ここに、座っていた。


私は、顔を上げて、ユリウス・カーライルを、見た。

七年で、初めて、自分の意思で、見つめたい人の顔を、見つめた。


「カーライル様」

「……はい」

「桃の匂いが、しますわ」


執務室の隅、小さな円卓の上に、銀の籠が置かれていた。

籠の中に、薄紅色の桃が、三つ。

冬の盛りに、ありえない果物だった。


ユリウスは、目を伏せた。

低い声が、ほんの少しだけ、戸惑ったように、言った。


「お気に、召しませんでしたか」


私は、首を、横に振った。

振るのが、精一杯だった。

言葉は、まだ、出てこなかった。


窓の外、カーライルの空は、薄い水色のまま、ゆっくりと、夕暮れに変わりはじめていた。

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