第4話 初めての顔
国境の関には、雪がなかった。
馬車が停まると、外から、軍靴の音が一斉に揃った。
窓の幕を、御者の青年がそっと持ち上げる。革鎧の関守たちが、街道の両脇に並び、深く頭を下げているのが見えた。一人ではない。十人。いや、もっとだった。
私は、思わず息を止めた。
他国の貴婦人を一人迎えるのに、これほどの礼を取る関は、見たことがない。
御者の青年が、御者台から、控えめに振り返った。
「宰相閣下より、関の長へ前々から通達が出ております。『モンフォール男爵令嬢の通行に際しては、最上位の客人として遇すべし』と」
最上位の。
私は、繰り返さなかった。胸の中で、その響きを、しまった。
(……いったい、いつから?)
通達は、今朝、急に出せるものではない。少なくとも数日前。あるいは、もっと前から。
私は、自分の旅程を、宰相閣下に正式に伝えたのは、つい三日前のはずだった。
合わない。
馬車が再び、滑らかに走り出した。
国境を越えると、不思議なことに、空が薄い水色になった。雪は、もう、舞っていなかった。
◇
カーライル公国宰相邸は、街の北の小高い丘の上にあった。
灰色の石の館。蔦の絡まる古い壁。けれど扉だけは、新しく塗り直されたばかりの、深い紺色だった。三日月と月桂樹の徽章が、新しい釘で打ち直されている。
扉の前で、白髪の執事が、両手を腹の前で組み、待っていた。
馬車の段を降りる手を、執事が差し出した。私は手袋越しに、その手を取った。
「ようこそ、おいでくださいました。アリア様。私はカーライル家執事のグスタフと申します。あなた様のお部屋は、館の南翼にご用意してございます。陽の入る、いちばん暖かいお部屋でございます」
陽の入る、いちばん暖かい部屋。
七年、私が住んでいたのは、ヴァレンティア公爵邸の北翼だった。陽はほとんど入らず、冬は窓辺の水差しが朝までに凍る部屋。私はそれを、当主夫人の部屋だと思い込んでいた。誰もそうではないと教えてくれなかったから。
私は、グスタフの目を、見た。
老執事は、ほんの少しだけ、目尻に皺を作って微笑んだ。
「主が、お待ちでございます」
◇
執務室の扉は、ゆっくりと、内側から開いた。
部屋の真ん中に、大きな樫の机が一つ。机の向こうに、男が一人、立っていた。
長身。短く刈った黒髪。仕立てのよい紺の上着。胸元に三日月の徽章。年は、たぶん、三十を少し過ぎたくらい。
顔の細部は、初めて見るのに、どこか、馴染んでいる気がした。
なぜだろう、と思って、すぐに気づいた。
あの、低くて短い、几帳面な字を書く人の顔だ。ああ、こういう顔の人が、ああいう字を書くのか。
納得が、先に来た。
「カーライル様」
私は、丁寧に、膝を折った。
七年ぶりに、自分が「ヴァレンティア公爵夫人」ではない場で、礼を取った。
男は、動かなかった。
動かなかった、と言うより、動けなかったように、見えた。
私は、顔を上げた。
ユリウス・カーライルの瞳は、深い、灰がかった青だった。
その瞳が、私を見ていた。
ただ、見ていた。
何も、言わなかった。
部屋の中の暖炉が、ぱちり、と薪を弾いた。
その音だけが、しばらく、執務室の中の唯一の音だった。
「……お会いできて」
ようやく、低い声が、言葉を選びながら、こぼれた。
「七年、長かった」
私は、自分の唇が、開きかけて、止まったのがわかった。
業務上の挨拶。
そう受け取るには、その声は、低すぎた。低くて、わずかに、震えていた。
言葉の最後の、横棒の終わりが、ためらうように落ちる、あの字と同じ震え方だった。
私は、咄嗟に、用意してきた言葉を返した。
「こちらこそ、長らくお世話になっております。三度の関税協定の改定、つつがなく進められましたのは、」
そこまで言って、私の声が、詰まった。
ユリウス・カーライルの右手が、机の上で、ほんのわずかに、震えていた。
有能で、冷徹で、隣国の若き宰相と謳われる人の手が、初対面の他国の女に対して、震える、道理がなかった。
道理がないのに、震えていた。
私は、続きの言葉を、忘れた。
◇
「……どうぞ」
ユリウスは、机の脇に置かれた椅子を、自分の手で引いた。
執事も、従者も、その場にいたはずなのに、自分で引いた。
私が腰を下ろすまで、彼は椅子の背に手を添えていた。手の甲に、薄く、古い切り傷の痕が一つ、走っていた。
椅子に座った私の前に、ユリウスは机を回って戻り、自分も腰を下ろした。
机の上には、書類は一枚も置かれていなかった。
ただ一つ、革表紙の分厚いファイルが、机の中央に置かれていた。
革は、深い紺色。背の部分が、ほんの少しだけ、擦れて色が薄くなっていた。何度も、何度も開かれた本の擦れ方だった。
ユリウスは、そのファイルの上に、長い指を、そっと置いた。
「アリア・モンフォール様」
旧姓で、もう一度、呼ばれた。
「お渡ししたいものがございます」
彼の指が、ファイルの表紙を、ゆっくりと開いた。
便箋だった。
中には、薄い、何百枚もの便箋が、日付順に、几帳面に綴じられていた。
私は息を呑むのも忘れて、それを見つめた。
いちばん上の一枚の右上には、七年前の、初夏の日付が、書かれていた。
『拝復。先日いただきました貴領北部の堰の修繕に関する書面、たしかに拝見いたしました。第三案について、私から一つだけ、申し上げたきことが、』
字は、知っていた。
あの、低くて短い、横棒の終わりがためらうように落ちる、あの字。
便箋の二枚目。
日付。
拝復。
三枚目。
日付。
拝復。
四枚目。五枚目。六枚目。
(……これは)
私の指が、ファイルの縁に伸びて、止まった。
「これは、全て」
ユリウスの声は、低く、ゆっくりと、続いた。
「あなた宛てに、私が書いた、返事です」
「……返事?」
「七年前から、今朝までの分を、すべて」
返事。
返事って、今、なんて。
七年。私が、誰にも届かないと思って、書いていた、あれが。
あれが。
耳の後ろが、すっと冷たくなった。冷たくなったのに、指の先だけが、別の人のもののように、熱かった。
ちがう。落ち着け。落ち着け、私。落ち着いて、もう一度この人の指を見ろ。あの、横棒の終わりがためらう字を書く、あの指を。
ああ。
ああ、本当に。
本当に、いたんだ。この人は。
「私は、」
私は、ようやく、声を出した。震えていないかどうか、自分でも、わからなかった。
「私は、貴方様からのお返事を、関税協定の三度のほか、いただいた覚えが、」
ユリウスは、何も言わなかった。
言わずに、ただ、私の目を見ていた。
その「言わない」の中に、たくさんの言葉が、詰まっていた。
(……届いていなかった)
ファイルの上に置かれたユリウスの指が、ほんの少しだけ、便箋の縁を、押さえ直した。
「今日、お渡ししようかどうか、最後まで、迷いました」
低い声が、続けた。
「ですが、あなたは、知る権利があります。七年間、あなたが何を書き、どこへ宛てたつもりで、それがどこで止まっていたのかを」
暖炉が、もう一度、ぱちり、と音を立てた。
私は、ファイルの一枚目に、そっと、指先を触れた。
紙は、冷たかった。けれど、すぐに、私の指の温度を吸って、温まった。
七年。
私が、誰にも届かない日記のつもりで書き続けていた手紙の、本当の宛先が、ここに、座っていた。
私は、顔を上げて、ユリウス・カーライルを、見た。
七年で、初めて、自分の意思で、見つめたい人の顔を、見つめた。
「カーライル様」
「……はい」
「桃の匂いが、しますわ」
執務室の隅、小さな円卓の上に、銀の籠が置かれていた。
籠の中に、薄紅色の桃が、三つ。
冬の盛りに、ありえない果物だった。
ユリウスは、目を伏せた。
低い声が、ほんの少しだけ、戸惑ったように、言った。
「お気に、召しませんでしたか」
私は、首を、横に振った。
振るのが、精一杯だった。
言葉は、まだ、出てこなかった。
窓の外、カーライルの空は、薄い水色のまま、ゆっくりと、夕暮れに変わりはじめていた。




