第3話 引き継がぬ帳簿
馬車の扉に手をかける前、私はもう一度だけ、振り返った。
雪のホールに、ベルナールが立っていた。白い息を吐きながら、じっと、私を見送る位置で。
「ベルナール」
私は、外套の内側から、小さな鍵を一つ取り出した。
細い、黒い鉄の鍵。書斎のいちばん奥の引き出しを開ける鍵だ。私が嫁いできた日からずっと、私一人が持っていた。
「これは、貴方に」
鍵を、家令の老いた手のひらに、そっと置いた。
「奥様、この鍵は、」
「あの引き出しの中に、七年分の手控え帳が入っているわ。日付ごとに、何を決裁したか、誰の名前で、誰の判で。すべて」
ベルナールの瞼が、ほんの少しだけ、震えた。
「いつか、必要になる日が来るかもしれないの。そのときは、貴方の判断で」
老人は、鍵を握り込んだ。骨の浮いた指が、白くなるまで握った。
「……承知いたしました」
それだけ言って、彼は深く深く頭を下げた。
私は、頭を下げた背中を、目の端でだけ見て、馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる。
雪が、世界の音を、ふっと、薄くした。
◇
馬車が動き出す。
車輪の軋みと、馬の蹄の音が、雪を踏みながら遠ざかっていく。私は窓の外を見なかった。屋敷も、門も、見送る者も、見ない、と決めていた。
代わりに、膝の上に置いた封筒を、もう一度、両手で持ち上げた。
『アリア・モンフォール 様』
旧姓の自分の名前は、知らない人の名前のようだった。
封蝋を、指で割った。
中から出てきたのは、薄い、二つ折りの便箋一枚。
あの、低くて短い字が、几帳面に並んでいた。
『アリア・モンフォール様
このたびは、突然のお迎えとなりましたこと、まずもってお詫び申し上げます。
当初のご予定より一日早く参じました理由は、本日の降雪が想定を上回り、明朝の街道封鎖を案じてのことでございます。あなたを、雪の中に取り残すわけにはまいりません。
業務上ご無礼を承知で、私事を一つ、お許しください。
七年と少し前、私は王太子の随員として、貴国の北部視察に同行いたしました。
その折、ヴァレンティア領北部の堰の前で、若い令嬢が一人、領主の代理として、農民の訴えを裁いておられるのを、馬上から、遠目に拝見いたしました。
私は、生涯、あの光景を忘れたことがありません。
という話は、いずれ、お会いしてからにいたしましょう。
今は、寒さにお気をつけて、ゆっくりとおいでください。
カーライル公国宰相府は、七年前から、あなたをお待ち申し上げております。
ユリウス・カーライル』
便箋を持つ指が、止まった。
止まった、というより、忘れた。指が、自分のものでなくなった。
七年前。
北部の堰。
農民の訴え。
私が、嫁いでくる、ほんの数か月前。父の代理で、生まれて初めて領地裁定の場に立った、あの夏の朝。あの日のことを、覚えている人間は、たぶん、私と、当時の家令と、訴えに来た三人の農夫しかいないはずだった。
(……生涯、忘れたことがない、ですって?)
馬車の中で、私は、声を出さずに笑った。
笑ったのに、こめかみの内側のあたりが、ひどく熱かった。
業務上の挨拶。
そう、自分に言い聞かせて、私は便箋を二つに折った。三つに折った。胸元に、押し花の手帳と並べて、しまった。
しまっても、紙の温度が、外套の内側で、消えなかった。
◇
同じ頃。
ヴァレンティア公爵家、書斎。
セドリックは、机の上に積まれた帳簿の前に、立っていた。
ただ、立っていた。
数え切れないほど見たはずの部屋だった。妻が、「あの女」が、毎朝座っていた椅子。妻が判を押していた机。妻が引き寄せていた書類の山。
何も知らないはずがなかった。何度も覗き込んだことがあった。声をかけたこともあった。「ご苦労」と。「下がれ」と。
それだけだった。
彼は、いちばん上の帳簿を手に取った。
開いた。
数字が、並んでいた。
横に、文字が並んでいた。
何も、読めなかった。
行頭に、見たことのない記号が並ぶ。借方、貸方。仕訳。複式の符牒。妻が嫁ぐ前の家、モンフォール男爵家から持ち込んだ、商家あがりの記法だと、誰かが言っていた気がした。
誰かが、いつか、言っていた気がした。
聞いていなかった。
セドリックは、二冊目を開いた。
やはり、読めなかった。
三冊目。同じだった。
書斎の戸口で、家令のベルナールが、深く、深く、頭を下げていた。
頭を下げたまま、顔を上げなかった。何も言わなかった。
七年、ずっとそうしてきた老人だった。
セドリックの唇から、ようやく、一言だけ、こぼれた。
「……ベルナール。これを読めるのは」
「奥様、お一人にございます」
老家令は、頭を上げなかった。
上げなかったまま、続けた。
「七年、誰も、お教えしませんでした。お聞きになる方が、おられなかったゆえ」
雪が、窓を、こん、と叩いた。
セドリックは、帳簿を、そっと、机に戻した。
戻した手が、自分でも気づかぬほど、震えていた。
◇
街道の景色は、白かった。
私は、車窓の白さを見ながら、押し花の手帳を、外套の上から、指でなぞった。
薄紫。淡い黄色。白い小花。
(……もしかして)
胸の中で、その先を、まだ、言葉にしないことにした。
言葉にしてしまったら、たぶん、私はこの七年を、すこし、許してしまう気がしたから。
許すには、まだ、早い。
馬車は、ゆっくりと、国境に向かって雪を踏んでいった。
胸元の便箋が、一定の体温を、外套の内側で、保ったままだった。
御者の青年が、御者台から、こちらに少しだけ顔を向けて、声をかけた。
「奥様。国境までは、あと半日ほどでございます」
私は、目を閉じて、頷いた。
半日。
七年に比べたら、息を一つ吐くほどの時間だった。




