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白い結婚七年目、夫が初めて私の名前を呼びました。  作者: 九葉(くずは)


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第2話 雪の朝の馬車

雪は、まだ降っていた。


私は薄紫の押し花を挟んだ手帳を、そっと胸元に納めた。

背後では、夫が、セドリック様が、まだ、立ち尽くしている。気配でわかる。動けないでいる。七年間ただの一度も乱れなかった人の呼吸が、今朝に限って、浅い。


私は箱を抱えて立ち上がった。

振り向いた。


七年ぶりに、まっすぐに、夫の顔を見た。


ああ、こんな顔だったかしら。


知らない人を見ているようだった。

背の高い、寡黙な男。額に細い皺。唇は薄く、いつも引き結ばれている。瞳の色は、灰色がかった青。

七年同じ屋根の下にいた人の顔の細部を、私は今朝はじめて、ちゃんと見た。


「ベルナール」


私は家令を呼んだ。


「玄関を開けてちょうだい」


「……ですが、奥様。お迎えは、明日の朝のお約束では」


「いいのよ」


私は微笑んだ。たぶん、七年でいちばん、自然に笑えた。


「待たせないほうが、お互いのためだから」


セドリック様が、一歩、踏み出した。

私は箱を抱えたまま、その一歩を、ただ静かに見送った。何も言わなかった。何も言わない、という返事を、七年分まとめてお返ししただけだった。



玄関ホールに降りる階段の途中で、罵声が降ってきた。


「アリア!」


前公爵夫人マルグリット様が、正面の階段を駆け上がってくるところだった。

寝間着の上に毛皮の肩掛けを羽織り、化粧もまだ整っていない。年に一度も見たことがない、剥き出しの顔。それだけで、屋敷の中で何が起きているか、この人は察したのだ。


「あなた、何をしているの! 離縁ですって? 王宮に届け出たですって? 誰の許可を得て、」


「お義母さま」


私はマルグリット様を見上げた。階段の途中で立ち止まったまま。


「七年でございます」


それだけ言った。


マルグリット様が、息を呑む。


「私が、この家に参りまして、七年でございます。お義母さまは、この七年で、私を一度でも『アリア』とお呼びになったことがございますか」


「な、」

「ベルナールは呼びました。屋敷の使用人たちも、皆、呼びました。けれど、お義母さまと、セドリック様は、一度も」


階段の上で、夫の影が動いた。

私は振り向かなかった。


「許可なら、要りませんわ」


私は静かに付け足した。


「家具を捨てるのに、家具の許可は、要らないでしょう?」


マルグリット様の頬が、ぴしりと張り詰めた。

何か言おうとして、言葉が出てこない。彼女が言葉に詰まる姿を、私は七年で初めて見た。

社交界で「鋼の貴婦人」と呼ばれる人だ。誰よりも舌が回り、誰よりも言葉で人を斬る人。その人が、今、口を半分開いたまま固まっている。


ベルナールが玄関の扉を開けた。

冷たい風が、雪と一緒に、ホールへ吹き込んだ。



「お義母さま、お待ちになって!」


階下から、別の声がした。

リーゼル子爵令嬢が、息を切らせて駆け込んでくる。彼女は最近、屋敷に出入りする頻度が増えていた。理由は誰も口にしなかったが、誰もが知っていた。


「セドリック様、どうしてこんな……ひどいわ、奥様、いきなりこんな……」


リーゼル様は、上手に泣いていた。

本当に、上手だった。涙の粒の落ちる速度まで、計算されているように見えた。


私は彼女の頬の涙を、ほんの一瞬だけ見た。

そして、視線を戻した。それ以上、彼女を見なかった。

見なかった、ということが、たぶん、いちばん残酷な返事だった。リーゼル様の涙が、ぴたり、と止まったのが、見なくてもわかった。


ベルナールが私の前に進み出て、深く頭を下げた。


「奥様。お荷物は、すでにすべて」

「ありがとう、ベルナール」


私は、ふと、足を止めた。

家令の目が、潤んでいた。

七年、いつも能面のようだった老人の目に、薄く、涙の膜が張っていた。


(……あなたまで、泣くことないでしょう)


鎖骨のくぼみのあたりが、湯を一滴落とされたみたいに、ふっと、温かくなった。


「ベルナール。あとのことは、お願いね」

「……はい。奥様。どうか、どうか、お幸せに」


その「どうか」を、二度繰り返した家令の声に、私は、今朝はじめて、涙をこらえた。



玄関の外で、馬車の御者が私を待っていた。


雪の中、黒い外套の若い男が、深々と一礼する。胸元に、三日月と月桂樹の徽章。


「モンフォール男爵令嬢アリア様。カーライル公国宰相府より、お迎えに上がりました。本日、お早めに参りましたご無礼、何卒ご容赦ください」


モンフォール男爵令嬢、と呼ばれた。

ヴァレンティア公爵夫人ではなく。

旧姓で。


その響きが、なぜだろう、ひどく懐かしかった。

七年前まで、私はずっと、その名前で呼ばれていたのだ。


「ご無礼など。むしろ、助かりますわ」


私は微笑んだ。


御者の青年は一瞬目を瞠り、それから、ほんの少しだけ、頬を緩めた。


「主より、ご出立前にお渡しするようにと、書簡を一通、預かっております」


差し出されたのは、白い封筒だった。

封蝋は、深い紺色。三日月と月桂樹。

私は手袋を外し、素手で受け取った。指先が、紙の冷たさを覚える前に、もう一つの感触に気づいた。


封筒の表には、私の名前が、書かれていた。


『アリア・モンフォール 様』


その筆跡。


低くて、短い、きっちりと角の立った男の字。

横棒の終わりだけが、ほんのわずかに、ためらうように落ちる癖。


私は、知っている。

七年、見続けた字だ。

関税協定の。第七条の。第十二条の。付則の二項目の。あの、薄紫の押し花を添えてくる、隣国の、


封筒の裏を、私は震える指で、返した。


差出人。


『ユリウス・カーライル』


カーライル公国宰相。

顔を知らぬまま、七年、私が文書の上だけで言葉を交わし続けてきた、あの人の名前。


雪が、ふわりと、封筒の上に一片落ちた。

私は、それを、払わなかった。


(……宰相閣下が、ご自分で?)


公文書に添える儀礼の手紙を、一国の宰相が、自らの手で書く道理はない。

ない、はずだった。


雪片は、ゆっくりと、封蝋の上で溶けていった。


御者の青年が、馬車の扉を開けて、私を待っている。


私は封筒を、胸に、深く抱いた。

一歩、雪を踏んだ。

背後の屋敷の中で、誰かが私の名前を呼んだ気がしたけれど。

もう、聞こえなかった。

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