第2話 雪の朝の馬車
雪は、まだ降っていた。
私は薄紫の押し花を挟んだ手帳を、そっと胸元に納めた。
背後では、夫が、セドリック様が、まだ、立ち尽くしている。気配でわかる。動けないでいる。七年間ただの一度も乱れなかった人の呼吸が、今朝に限って、浅い。
私は箱を抱えて立ち上がった。
振り向いた。
七年ぶりに、まっすぐに、夫の顔を見た。
ああ、こんな顔だったかしら。
知らない人を見ているようだった。
背の高い、寡黙な男。額に細い皺。唇は薄く、いつも引き結ばれている。瞳の色は、灰色がかった青。
七年同じ屋根の下にいた人の顔の細部を、私は今朝はじめて、ちゃんと見た。
「ベルナール」
私は家令を呼んだ。
「玄関を開けてちょうだい」
「……ですが、奥様。お迎えは、明日の朝のお約束では」
「いいのよ」
私は微笑んだ。たぶん、七年でいちばん、自然に笑えた。
「待たせないほうが、お互いのためだから」
セドリック様が、一歩、踏み出した。
私は箱を抱えたまま、その一歩を、ただ静かに見送った。何も言わなかった。何も言わない、という返事を、七年分まとめてお返ししただけだった。
◇
玄関ホールに降りる階段の途中で、罵声が降ってきた。
「アリア!」
前公爵夫人マルグリット様が、正面の階段を駆け上がってくるところだった。
寝間着の上に毛皮の肩掛けを羽織り、化粧もまだ整っていない。年に一度も見たことがない、剥き出しの顔。それだけで、屋敷の中で何が起きているか、この人は察したのだ。
「あなた、何をしているの! 離縁ですって? 王宮に届け出たですって? 誰の許可を得て、」
「お義母さま」
私はマルグリット様を見上げた。階段の途中で立ち止まったまま。
「七年でございます」
それだけ言った。
マルグリット様が、息を呑む。
「私が、この家に参りまして、七年でございます。お義母さまは、この七年で、私を一度でも『アリア』とお呼びになったことがございますか」
「な、」
「ベルナールは呼びました。屋敷の使用人たちも、皆、呼びました。けれど、お義母さまと、セドリック様は、一度も」
階段の上で、夫の影が動いた。
私は振り向かなかった。
「許可なら、要りませんわ」
私は静かに付け足した。
「家具を捨てるのに、家具の許可は、要らないでしょう?」
マルグリット様の頬が、ぴしりと張り詰めた。
何か言おうとして、言葉が出てこない。彼女が言葉に詰まる姿を、私は七年で初めて見た。
社交界で「鋼の貴婦人」と呼ばれる人だ。誰よりも舌が回り、誰よりも言葉で人を斬る人。その人が、今、口を半分開いたまま固まっている。
ベルナールが玄関の扉を開けた。
冷たい風が、雪と一緒に、ホールへ吹き込んだ。
◇
「お義母さま、お待ちになって!」
階下から、別の声がした。
リーゼル子爵令嬢が、息を切らせて駆け込んでくる。彼女は最近、屋敷に出入りする頻度が増えていた。理由は誰も口にしなかったが、誰もが知っていた。
「セドリック様、どうしてこんな……ひどいわ、奥様、いきなりこんな……」
リーゼル様は、上手に泣いていた。
本当に、上手だった。涙の粒の落ちる速度まで、計算されているように見えた。
私は彼女の頬の涙を、ほんの一瞬だけ見た。
そして、視線を戻した。それ以上、彼女を見なかった。
見なかった、ということが、たぶん、いちばん残酷な返事だった。リーゼル様の涙が、ぴたり、と止まったのが、見なくてもわかった。
ベルナールが私の前に進み出て、深く頭を下げた。
「奥様。お荷物は、すでにすべて」
「ありがとう、ベルナール」
私は、ふと、足を止めた。
家令の目が、潤んでいた。
七年、いつも能面のようだった老人の目に、薄く、涙の膜が張っていた。
(……あなたまで、泣くことないでしょう)
鎖骨のくぼみのあたりが、湯を一滴落とされたみたいに、ふっと、温かくなった。
「ベルナール。あとのことは、お願いね」
「……はい。奥様。どうか、どうか、お幸せに」
その「どうか」を、二度繰り返した家令の声に、私は、今朝はじめて、涙をこらえた。
◇
玄関の外で、馬車の御者が私を待っていた。
雪の中、黒い外套の若い男が、深々と一礼する。胸元に、三日月と月桂樹の徽章。
「モンフォール男爵令嬢アリア様。カーライル公国宰相府より、お迎えに上がりました。本日、お早めに参りましたご無礼、何卒ご容赦ください」
モンフォール男爵令嬢、と呼ばれた。
ヴァレンティア公爵夫人ではなく。
旧姓で。
その響きが、なぜだろう、ひどく懐かしかった。
七年前まで、私はずっと、その名前で呼ばれていたのだ。
「ご無礼など。むしろ、助かりますわ」
私は微笑んだ。
御者の青年は一瞬目を瞠り、それから、ほんの少しだけ、頬を緩めた。
「主より、ご出立前にお渡しするようにと、書簡を一通、預かっております」
差し出されたのは、白い封筒だった。
封蝋は、深い紺色。三日月と月桂樹。
私は手袋を外し、素手で受け取った。指先が、紙の冷たさを覚える前に、もう一つの感触に気づいた。
封筒の表には、私の名前が、書かれていた。
『アリア・モンフォール 様』
その筆跡。
低くて、短い、きっちりと角の立った男の字。
横棒の終わりだけが、ほんのわずかに、ためらうように落ちる癖。
私は、知っている。
七年、見続けた字だ。
関税協定の。第七条の。第十二条の。付則の二項目の。あの、薄紫の押し花を添えてくる、隣国の、
封筒の裏を、私は震える指で、返した。
差出人。
『ユリウス・カーライル』
カーライル公国宰相。
顔を知らぬまま、七年、私が文書の上だけで言葉を交わし続けてきた、あの人の名前。
雪が、ふわりと、封筒の上に一片落ちた。
私は、それを、払わなかった。
(……宰相閣下が、ご自分で?)
公文書に添える儀礼の手紙を、一国の宰相が、自らの手で書く道理はない。
ない、はずだった。
雪片は、ゆっくりと、封蝋の上で溶けていった。
御者の青年が、馬車の扉を開けて、私を待っている。
私は封筒を、胸に、深く抱いた。
一歩、雪を踏んだ。
背後の屋敷の中で、誰かが私の名前を呼んだ気がしたけれど。
もう、聞こえなかった。




