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白い結婚七年目、夫が初めて私の名前を呼びました。  作者: 九葉(くずは)


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第1話 七年目の朝

夫が私の名前を呼んだ。

七年目の、雪の朝のことだった。



朝は、いつも音から始まる。


廊下の奥、夫の従者が銀盆を運ぶ足音。執事が暖炉に薪をくべる音。一階の厨房から立ちのぼる、焼けたパンとミルクの匂い。私はそれを寝台の中で数えながら、目を開ける前に今日の予定を頭の中で組み立てる。


午前、領地の決裁書類二十三件。北部の堰の修繕費、東の村の課税猶予の申請、それから、隣国カーライル公国との関税協定の改定書。あれは三度目の往復だ。今日中に返答を返さなければ、向こうの宰相閣下のお時間を無駄にしてしまう。


宰相閣下。


私はその称号を口の中で転がして、やめた。

顔も知らない他国の重臣を、なぜ毎朝こんなふうに思い浮かべるのか。

業務上の文通相手だ。それ以上でも以下でもない。


寝台を出る。冷えた床。素足。


「奥様、お湯のご用意が」


侍女のハンナが扉の向こうから声をかける。私は「ええ」とだけ答えて、鏡台の前に座る。

鏡の中の女は二十五歳。痩せた頬、結い上げる前の長い髪、薬指の細い銀の指輪。

その指輪には、何の数字も刻まれていない。


この国では、夫婦は婚姻誓約魔法の指輪を贈り合う。互いに名を呼んだ回数が、少しずつ刻まれていく仕組みだ。

二人の子どもが生まれた家の指輪は、表面が文字で埋め尽くされて美しい銀河のようになるという。


私の指輪は、七年、まっさらだ。



書斎には、すでに書類の山が積まれていた。


家令のベルナールが扉を開けて私を通し、深く一礼する。彼は私が嫁いできた日からこの位置にいて、そして七年、ほとんど何も言わない。何も言わないことで、すべてを見ている人だ。


「奥様。本日の決裁、二十三件でございます」

「ありがとう」


椅子に座り、最初の書類を引き寄せる。北部の堰。費用、工期、領民の暮らしへの影響。読む。判を押す。次。東の村。課税猶予。読む。判を押す。


七年で、何千枚押しただろう。

当主印は私の手の中にある。夫が私に渡したのではない。家令のベルナールが、嫁いで一月目の日に「奥様、これを」と差し出した。あの人が、夫が、何もしないと知っていたから。


二十二件目。指が止まった。


隣国カーライル公国宰相府からの正式書簡。三度目の往復になる関税協定の改定案。読み慣れた、低くて短い、男の人の筆跡。条文は淡々と並んでいる。第七条、第十二条、付則の二項目。順番に目を通して、最後の余白に差しかかった。


余白。

そこに、いつものように、押し花が一つ。


今日は薄紫だった。名前のわからない、小さな花。前回は淡い黄色のミモザに似たもの。その前は、白い小花。

半年前から、こうなった。誰がやっているのかは、わからない。隣国の役所の慣習なのだろうと、ずっと思っていた。文書と一緒に季節の花を添える、優雅な習わし。


(……でも、おかしいわよね)


私は、ふと、思う。

他国宛ての公文書ぜんぶに花を押すなら、こんなに丁寧な押し方はしないはずだ。きちんと乾かして、きちんと位置を選んで、文字に重ならないように。それは、誰かが、誰かを思って、


そこまで考えて、私は止めた。


そんなはずはない。


判を取り、二十二件目に印を押す。インクが乾くのを待つ間、薄紫の花を、指先でそっと押した。

冷たい。乾いた花の感触。


なんで、私、こんなことしてるんだろう。


二十三件目。署名。終わり。


ベルナールが書類を引き取る。彼の手が、ほんの少しだけ、いつもより遅く動いた気がした。



廊下の奥で、扉が開く音がした。


書斎の入り口だ。

振り向かなくても、わかる。ここを開けるのは、この屋敷で一人しかいない。

夫だ。


七年。

朝のこの時間に夫が書斎に来たのは、七年で、ただの一度もなかった。


私は背を向けたまま、机の上の最後のインクを拭った。


「アリア」


え。


手が、止まる。


「アリア」


二度目。

聞き間違えではなかった。


七年間、私の名前を、呼ばなかった人だ。

朝の挨拶もしなかった。「ご苦労」と「下がれ」しか言わなかった人だ。私を「お前」とすら呼ばなかった人だ。私は彼にとって、家具よりも静かで、影よりも透明な存在だった。


その人が、今、私の名前を、二度。


奥歯の裏側が、ふっと痺れた。

痛みではない。怒りでもない。

ただ、遅い。

いや、遅いという言葉も、たぶん違う。

七年かけて私が言葉にしないようにしてきた何かが、今、舌の下に、ぬるりと這い上がっただけだった。


私は振り向かなかった。

振り向いてしまったら、たぶん、何かが崩れる。七年かけて私が積み上げた、「この人を待たない」という、ただそれだけの決意が。


机の上の銀の判を、布で丁寧に拭いた。それを箱に納めた。蓋を閉じた。

息を一つだけ、ゆっくり吐いた。


「セドリック様」


私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


「明日、隣国から、迎えの馬車がまいります」


背後で、息を呑む気配があった。


「離縁の手続きは、すでに王宮へ届け出てございます。違約金は私の持参金からお納めいたしました。領地の決裁簿、当主印、すべてベルナールに引き継ぎを済ませております」


箱の上に手を置いたまま、続けた。


「七年、お疲れさまでした。私にも、貴方にも」



沈黙が、長かった。


雪が窓を叩いている。さらさらと、乾いた音だった。

私はようやく、ほんの少しだけ、顔を上げた。窓の外、屋敷の門のあたり。雪の中に、黒い馬車が一台、いつのまにか停まっている。

扉に金の紋章。三日月と、月桂樹。


カーライル公国の、宰相家の紋章だった。


(……あら)


迎えは、明日の朝のはずだった。

一日、早い。


私は薄紫の押し花を、そっと胸元の手帳に挟んだ。

指輪の数字は、まだ零のまま。


ただ、なぜだろう。

零のはずの薬指が、今朝に限って、ほんの少しだけ、温かい気がした。

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