第1話 七年目の朝
夫が私の名前を呼んだ。
七年目の、雪の朝のことだった。
◇
朝は、いつも音から始まる。
廊下の奥、夫の従者が銀盆を運ぶ足音。執事が暖炉に薪をくべる音。一階の厨房から立ちのぼる、焼けたパンとミルクの匂い。私はそれを寝台の中で数えながら、目を開ける前に今日の予定を頭の中で組み立てる。
午前、領地の決裁書類二十三件。北部の堰の修繕費、東の村の課税猶予の申請、それから、隣国カーライル公国との関税協定の改定書。あれは三度目の往復だ。今日中に返答を返さなければ、向こうの宰相閣下のお時間を無駄にしてしまう。
宰相閣下。
私はその称号を口の中で転がして、やめた。
顔も知らない他国の重臣を、なぜ毎朝こんなふうに思い浮かべるのか。
業務上の文通相手だ。それ以上でも以下でもない。
寝台を出る。冷えた床。素足。
「奥様、お湯のご用意が」
侍女のハンナが扉の向こうから声をかける。私は「ええ」とだけ答えて、鏡台の前に座る。
鏡の中の女は二十五歳。痩せた頬、結い上げる前の長い髪、薬指の細い銀の指輪。
その指輪には、何の数字も刻まれていない。
この国では、夫婦は婚姻誓約魔法の指輪を贈り合う。互いに名を呼んだ回数が、少しずつ刻まれていく仕組みだ。
二人の子どもが生まれた家の指輪は、表面が文字で埋め尽くされて美しい銀河のようになるという。
私の指輪は、七年、まっさらだ。
◇
書斎には、すでに書類の山が積まれていた。
家令のベルナールが扉を開けて私を通し、深く一礼する。彼は私が嫁いできた日からこの位置にいて、そして七年、ほとんど何も言わない。何も言わないことで、すべてを見ている人だ。
「奥様。本日の決裁、二十三件でございます」
「ありがとう」
椅子に座り、最初の書類を引き寄せる。北部の堰。費用、工期、領民の暮らしへの影響。読む。判を押す。次。東の村。課税猶予。読む。判を押す。
七年で、何千枚押しただろう。
当主印は私の手の中にある。夫が私に渡したのではない。家令のベルナールが、嫁いで一月目の日に「奥様、これを」と差し出した。あの人が、夫が、何もしないと知っていたから。
二十二件目。指が止まった。
隣国カーライル公国宰相府からの正式書簡。三度目の往復になる関税協定の改定案。読み慣れた、低くて短い、男の人の筆跡。条文は淡々と並んでいる。第七条、第十二条、付則の二項目。順番に目を通して、最後の余白に差しかかった。
余白。
そこに、いつものように、押し花が一つ。
今日は薄紫だった。名前のわからない、小さな花。前回は淡い黄色のミモザに似たもの。その前は、白い小花。
半年前から、こうなった。誰がやっているのかは、わからない。隣国の役所の慣習なのだろうと、ずっと思っていた。文書と一緒に季節の花を添える、優雅な習わし。
(……でも、おかしいわよね)
私は、ふと、思う。
他国宛ての公文書ぜんぶに花を押すなら、こんなに丁寧な押し方はしないはずだ。きちんと乾かして、きちんと位置を選んで、文字に重ならないように。それは、誰かが、誰かを思って、
そこまで考えて、私は止めた。
そんなはずはない。
判を取り、二十二件目に印を押す。インクが乾くのを待つ間、薄紫の花を、指先でそっと押した。
冷たい。乾いた花の感触。
なんで、私、こんなことしてるんだろう。
二十三件目。署名。終わり。
ベルナールが書類を引き取る。彼の手が、ほんの少しだけ、いつもより遅く動いた気がした。
◇
廊下の奥で、扉が開く音がした。
書斎の入り口だ。
振り向かなくても、わかる。ここを開けるのは、この屋敷で一人しかいない。
夫だ。
七年。
朝のこの時間に夫が書斎に来たのは、七年で、ただの一度もなかった。
私は背を向けたまま、机の上の最後のインクを拭った。
「アリア」
え。
手が、止まる。
「アリア」
二度目。
聞き間違えではなかった。
七年間、私の名前を、呼ばなかった人だ。
朝の挨拶もしなかった。「ご苦労」と「下がれ」しか言わなかった人だ。私を「お前」とすら呼ばなかった人だ。私は彼にとって、家具よりも静かで、影よりも透明な存在だった。
その人が、今、私の名前を、二度。
奥歯の裏側が、ふっと痺れた。
痛みではない。怒りでもない。
ただ、遅い。
いや、遅いという言葉も、たぶん違う。
七年かけて私が言葉にしないようにしてきた何かが、今、舌の下に、ぬるりと這い上がっただけだった。
私は振り向かなかった。
振り向いてしまったら、たぶん、何かが崩れる。七年かけて私が積み上げた、「この人を待たない」という、ただそれだけの決意が。
机の上の銀の判を、布で丁寧に拭いた。それを箱に納めた。蓋を閉じた。
息を一つだけ、ゆっくり吐いた。
「セドリック様」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「明日、隣国から、迎えの馬車がまいります」
背後で、息を呑む気配があった。
「離縁の手続きは、すでに王宮へ届け出てございます。違約金は私の持参金からお納めいたしました。領地の決裁簿、当主印、すべてベルナールに引き継ぎを済ませております」
箱の上に手を置いたまま、続けた。
「七年、お疲れさまでした。私にも、貴方にも」
◇
沈黙が、長かった。
雪が窓を叩いている。さらさらと、乾いた音だった。
私はようやく、ほんの少しだけ、顔を上げた。窓の外、屋敷の門のあたり。雪の中に、黒い馬車が一台、いつのまにか停まっている。
扉に金の紋章。三日月と、月桂樹。
カーライル公国の、宰相家の紋章だった。
(……あら)
迎えは、明日の朝のはずだった。
一日、早い。
私は薄紫の押し花を、そっと胸元の手帳に挟んだ。
指輪の数字は、まだ零のまま。
ただ、なぜだろう。
零のはずの薬指が、今朝に限って、ほんの少しだけ、温かい気がした。




