第9話 崩れる国、生まれる国
翌朝、私は、自分の机の前に座って、白い便箋を、一枚、広げた。
王家への返事を、自分の言葉で、書く朝だった。
七年、誰かの代筆だと思い込んできた手で、初めて、自分自身の名前を主語にした文を、書く。
それだけのことが、こんなにも、新しかった。
『カーライル公国王 ヴィルヘルム四世陛下
過分なるお言葉、謹んで拝受いたしました。
私、アリア・モンフォールは、ユリウス・カーライル殿との婚姻を、自らの意思によって、お受けいたします。
身分や領、年金の保証は、ありがたく頂戴いたしますが、それ以前に、私は、ユリウス殿の隣に、ただ一人の妻として、立つことを、お約束申し上げます。
七年、文字の上だけで言葉を交わしてまいりました二人が、ようやく、同じ朝の食卓につく許しを、陛下より賜りますこと、生涯、忘れません。
アリア・モンフォール』
書き終えて、署名の最後の一文字を、ていねいに、はらった。
最後の一文字。七年同じ屋根の下にいたはずの男が、最後の最後の手紙でようやく書き、そして書き間違えた、その文字だった。
私は、自分の手で、正しく、書いた。
封蝋を押す前に、私は、薄紫の押し花の手帳を、開いた。
ユリウスの、低くて短い、几帳面な字が、私を、待っていた。
(……お返事は、いつでも構いません、と、貴方は仰いました)
胸の中で、私は、初めて、その人の名前を、心の中で、呼んだ。
ユリウス。
呼んだ瞬間、左手の薬指の、銀の指輪が、ほんの少しだけ、温かくなった気が、した。
◇
その後の数週間。
ヴァレンティア領の、北部の関は、止まったままだった。
第七条の運用も、第十二条の付則も、誰一人、読み解けなかった。
七年分の手控え帳は、王宮に押収されたまま、複式の符牒の解読が、進まなかった。北部の塩の流れが、止まった。東の毛織物が、止まった。南方の保存果実が、止まった。
税収は、最初の月で、三割落ちた。
次の月で、五割落ちた。
三月目には、七割。
北部の村で、最初の暴動が起きた、と、宰相府の早馬が伝えた。
領主館の前に集まった農夫たちは、誰一人、剣を持っていなかった。
ただ、空の桃の素焼きの器を、領主の門の前に、ひとつずつ、置いていった、という話だった。
私は、その知らせを、ユリウスの執務室で、受け取った。
「アリア様。あなたの故郷の話です」
「ええ」
私は、頷いた。
「私は、故郷を、捨てた女ですわ。けれど、北部の村の桃の数だけは、ずっと、覚えております。第七条の塩の運用案を、今夜のうちに、王家にお願いして、ヴァレンティアへ、無償の写しを、出させていただけませんか。家令ベルナールに渡れば、彼は、必ず、読めるようにいたしますわ」
ユリウスは、黙って、私の目を、見ていた。
それから、低く、ひとつだけ、頷いた。
「あなたが、そう言うなら」
私の故郷は、私の手では、もう、救えない。
けれど、私の七年分の手控え帳の写しが、せめて、北部の村の、桃の数を、ひとつでも、増やせるのなら。
◇
同じ刻、ヴァレンティア王国王宮、玉座の間。
セドリック・ヴァレンティア公爵は、玉座の前に、片膝をついて、爵位返上の口上を述べていた。
「ヴァレンティア家は、北部の関の運用を回復させる能力なく、領民を養う資格を喪いました。父祖より受け継ぎし公爵位を、本日付にて、王家に、お返しいたします」
王の指が、玉座の肘掛けを、こつり、と、一度、叩いた。
それが、すべての答えだった。
セドリックは、頭を下げたまま、立ち上がった。
立ち上がるとき、議場の端の方を、見た。
父の代から、三十年、ヴァレンティア家を支えてきた老家令ベルナールが、深く頭を下げて、立っていた。
ベルナールは、彼の方を、見なかった。
見ずに、ただ、王家から預かった分厚い書類の束を、両手で抱えて、玉座の方角だけを、向いていた。
七年分の手控え帳の写しと、カーライル公国宰相府から届いた、第七条の運用案の写しが、その束の中に、入っていた。
彼の妻だった女が、書いた、最後の仕事の、写しだった。
セドリックは、玉座の間を、出た。
◇
応接間の、いつもの長椅子に、母マルグリットは、座っていた。
赤い天鵞絨。湯気の立つ紅茶。
ただし、温室の薔薇は、もう、活けられていなかった。
昨日、温室の管理人が、給金未払いのために、屋敷を出ていった。
「母上。社交界より、お名前を、外していただきました。父上の代の貴婦人会も、本日付にて、ご辞退と」
マルグリットの細い肩が、ほんの一瞬、動いた。
動いただけで、何も、言わなかった。
紅茶のカップを、ゆっくりと、持ち上げた。
カップの縁が、はっきりと、震えていた。
その震えを、彼女は、隠さなかった。
隠すだけの気力も、もう、なかった。
「アリアには、もう、何も、」
「お送りに、ならないでください、母上」
セドリックの声は、初めて、母に対して、命令の形を、取った。
それは、命令ではなく、懇願だった。
懇願の中に、ようやく、息子の声が、混じっていた。
「あの方の七年に、これ以上、私たちの言葉を、届かせては、いけない」
母は、何も答えなかった。
答えなかったのが、たぶん、初めての、母としての、頷きだった。
◇
カーライル公国王宮、婚姻誓約魔法の儀式の間。
天井の高い、白い大理石の広間だった。
床には、月桂樹の銀の象嵌。中央には、低い、円形の祭壇。
祭壇の左右に、私と、ユリウスは、向かい合って、立っていた。
私は、白い長い衣の袖の中で、左手の薬指を、ほんの少しだけ、持ち上げた。
銀の指輪。まっさらな表面。七年分の零。
ユリウスの左手も、同じ高さに、上がった。
彼の薬指の、銀の指輪。
こちらも、まっさらだった。
私は、初めて、それを、見た。
彼の指輪も、ずっと、零のままだったことを、私は、今、知った。
祭壇の前の老司祭が、低い声で、誓約の問いを、述べた。
「アリア・モンフォール卿。あなたは、ユリウス・カーライルを、生涯の伴侶として、お選びになりますか」
「はい」
私の声は、震えなかった。
「ユリウス・カーライル殿。あなたは、アリア・モンフォール卿を、生涯の伴侶として、お選びになりますか」
「はい」
低い声が、隣で、答えた。
隣で、答えた、ということが、それだけで、奇跡のようだった。
老司祭の手が、祭壇の上に伸び、低い祈りの言葉が、空気を、ひとつ、揺らした。
その瞬間、私の薬指の銀の指輪に、ふっ、と、ひとつ、文字が、刻まれた。
『アリア』
ユリウスの薬指の銀の指輪にも、同じ瞬間、ひとつ、文字が、刻まれた。
『ユリウス』
私は、自分の指輪に刻まれた、彼の名前を、見つめた。
彼の名前が、私の指の上に、ある。
私は、顔を、上げた。
「ユリウス様」
七年で初めて、私は、その人の名前を、自分の口から、呼んだ。
ユリウス・カーライルの灰青の瞳が、ほんの一瞬、濡れた。
濡れたのを、彼は、隠さなかった。
「アリア」
低い声が、私の名前を、ようやく、まっすぐに、呼んだ。
七年、便箋の上にしか書けなかったその四つの音を、彼は、初めて、声で、空気の中に、置いた。
「私は、あなたを、愛しています」
愛して。
愛して、います。
今、この人、なんて。
七年。七年って、なに。私たちの七年って、なに。なにを、私たちは、なにを、して、いた。
笑おうとした。笑顔の形は作れた。作れたのに、頬の、いちばん高いところから、勝手に、雫がひとつ、滑った。
ああ、これは、たぶん、嬉しい、というやつだ。
たぶん、というのが——情けなくて、私は、もう一度、笑った。今度は、ちゃんと、笑えた。
「ユリウス様」
私の声は、もう、誰のものでもなかった。
私自身の、声だった。
「私の名前を、毎日、呼んでくださいますか」
ユリウスの右手が、祭壇越しに、ゆっくりと、伸びてきた。
私の左手の上に、重ねられた。
銀の指輪と、銀の指輪が、軽い、澄んだ音を、ひとつ、立てた。
「毎日、呼びます」
低い声が、誓いの代わりに、そう言った。
「朝、目覚めたとき、いちばんに。
夜、眠る前に、いちばん最後に。
そして、その間も、何度でも」
老司祭の祈りの声が、再び、儀式の間に、低く流れはじめた。
私は、その声を、もう、半分も、聞いていなかった。
聞かなくてよかった。
私の左手の薬指の、銀の指輪の上には、もう、『アリア』の隣に、ひとつ、新しい文字が、刻まれはじめていた。
ユリウスが、心の中で、私の名前を、もう一度、呼んだのが、わかった。
明日の朝、目覚めたら、指輪の数字は、また、ひとつ、増えているだろう。
七年分の零を、これから、ひとつずつ、私たちは、上書きしていく。
儀式の間の高い窓の外、カーライル公国の空は、薄い、薄い、水色だった。
雪は、もう、ひとひらも、降っていなかった。




