追記 深淵の観察日記と裏方の眼
薄暗い自室。青白いモニターの光だけが、幾重にも連なる英数字の羅列を映し出している。
「……見つけたぞ。ひどい悪臭だ」
キーボードを叩く弘樹の手が止まった。彼が今、ハッキングによって強制的にこじ開けたのは、厳重な検索避けとアクセス制限が施された、とある非公開のホームページだった。
管理人の名前は『永沢綾』。妹の茉莉子に「パクリ」の濡れ衣を着せ、大橋亜妃子たちを取り込んで同人界隈や大学で迫害を主導している女だ。
弘樹がそのサイトのディレクトリを解析し、隠されたコンテンツを開いた瞬間、あまりのおぞましさに眉間を顰めた。
そこに並んでいたのは、綾が「ウォッチング」と称して書き連ねていた、茉莉子に対する常軌を逸した**『観察日記』**だった。
《今日のパクリ魔。大学の食堂で一人でご飯食べててマジウケる。ぼっち乙w》
《こいつが推薦入試潰されてM大学に入ったの、どうせ高校の担任と寝て裏口入学したからでしょ。汚い女》
《てか、あいつ私に『同性愛セクハラ』してきたんだよね。私は女なのに、マジで気持ち悪い。いじめられて当然のクズ》
「パクられた」「いじめられた」という従来の被害妄想に加え、「裏口入学」や「同性愛セクハラ」といった名誉毀損級の虚言が、歪んだ優越感とともに毎日のように書き殴られている。自分が加害者であるにも関わらず、綾は完全に悲劇のヒロイン(被害者)に酔いしれていた。
だが、弘樹の怒りを最も買ったのは、日記の隣に併設されていた『小説ページ』だった。
そこには、茉莉子が血を吐くような思いで書き上げた作品が無断で転載されていた。それだけではない。綾は茉莉子の美しい文章を勝手に書き直したり、自身の陳腐な設定を書き加えたりして、原型を留めないほどに改悪し、「私のオリジナル作品」としてネット上で発表していたのだ。
「……妹が魂を削って生み出した物語を、こんなゴミ溜めで汚したのか」
弘樹の瞳に、絶対零度の怒りが宿る。
一般の人間なら、この吐き気を催すような異常行動を見つけられずに終わるか、見つけたとしても恐怖で泣き寝入りするしかないだろう。検索避けとアクセス制限という「見えない壁」に守られていると信じ込んでいる綾は、この安全圏から一生、茉莉子を笑いものにし続けるつもりなのだ。
だが、彼女は致命的な相手を怒らせた。
世界中のシステムを構築し、億単位の金を動かす天才ハッカーである弘樹にとって、綾の隠しサイトなど薄い障子紙に等しい。
「好きに踊っていればいい。お前のこの異常な虚言癖と改悪の痕跡は、俺がすべて証拠として保全してやる」
しかし、笑ってしまう事もあった。
「……なんだ、これは」
綾が厳重に隠していた非公開サイトの『観察日記』を解析していた弘樹は、ある一文を目にして思わずキーボードを打つ手を止めた。怒りを通り越し、乾いた失笑が部屋に漏れる。
画面には、綾がネット上の取り巻きに向けて得意げに吹聴している、あまりにも現実離れした妄想が綴られていた。
《てかさ、みんな気づいてる? 茉莉子の小説の主人公って、全部『私』なんだよねw》
《あいつ、昔から私のことすっごい憧れててさ。主人公は実在の人物のパクリで、中でも私のことを書くのがお得意なのw》
《私の華やかな人生と才能をパクるしかできないなんて、マジで可哀想なパクリ魔w ひがみざまあああ!》
「……本気で、そう思い込んでいるのか」
弘樹は呆れ果てて息を吐いた。
当然ながら、そんな事実は一切存在しない。茉莉子が血を吐くような努力で積み上げてきた作品群は、彼女自身の圧倒的な想像力と、孤独の中で研ぎ澄ませた完全なオリジナルだ。
それなのに、綾は**「自分が魅力的すぎるから、嫉妬した茉莉子が私をモデルにして小説を書いている」**という、宇宙の果てまで飛んでいきそうなほどの自己愛と妄想に本気で浸りきっていた。
さらに滑稽なのは、同人界隈の大手である大橋恭子たちも、この綾の電波な妄想を信じ込み、一緒になって茉莉子を嘲笑していることだった。
自分たちこそが茉莉子の作品を勝手に改悪して載せている正真正銘の「泥棒」であるにも関わらず、なぜか「才能ある私がパクられている」と本気で信じて疑わない。その姿は、おぞましいと同時に、腹を抱えて笑いたくなるほどに滑稽だった。
「どこまでも底の抜けた阿呆どもだ。……だが、好都合だな」
弘樹の瞳の奥で、冷徹なハッカーとしての光が鋭く瞬いた。
「これほど見事な『名誉毀損』と『著作者人格権の侵害』の証拠(自白ログ)を、自分からベラベラと書き残してくれているんだからな」
弘樹は、綾が「自分がモデルだ」と主張して茉莉子を中傷しているすべてのページを、IPアドレスとタイムスタンプ付きで完璧にダウンロードしていく。
この滑稽極まりない勘違いのログは、結婚式での告発の際、悪役たちが羞恥心で発狂しそうになるほどの最強の物理ダメージとなって返っていくことになるのだった。
弘樹は冷徹な手つきで、パスワードで保護された日記の全データ、改悪された小説の履歴、アップロード元のIPアドレスを根こそぎサーバーへとダウンロードしていく。
この深淵の底でかき集められた「誰にもすりかえられない完璧な証拠」が、数年後、結婚式という最大の晴れ舞台で綾のすべての虚飾を打ち砕き、「今後一切の虚偽発信の禁止」という社会的処刑を下すための最強の刃となる。
狂気に溺れる永沢綾は、まだそれを知る由もなかった。
結婚式当日 ――
「要求は三つです」
密室となった親族用の控室で、弘樹は無慈悲に宣告した。
「一つ、今回の婚約は完全な破談とすること。二つ、この豪華な結婚式にかかった数百万の費用およびキャンセル料は、すべて新郎側が全額負担すること」
「ぜ、全額……っ!? ふざけるな、俺一人で払える額じゃ……!」
正英が血走った目で顔を上げるが、弘樹は鼻で嗤った。
「払えなければ、あなたの勤める商社にこの『詐欺の証拠』と婚前契約書の修正履歴を提出しても構いませんよ。懲戒解雇では済まないでしょうね」
圧倒的な実力を隠し持っていた弘樹を前に、正英は再び絶望の淵へと叩き落とされ、沈黙した。
「そして三つ目。これが最も重要です」
弘樹はテーブルの上に、分厚いファイルの束を叩きつけた。そこには、綾の隠しサイトの全データが印刷されていた。
「今後一切、妹に対する虚偽発信および接触を禁じます。……それに加えて、永沢綾、および藤原亜妃子。あなたたちには『著作権法違反』および『肖像権・プライバシー権侵害』に対する、法的な裁きを受けてもらいます」
「ほ、法的、って……!」
綾の顔から、すべての血の気が引いた。
「妹の作品を無断で転載し、勝手に書き換えて発表したことによる**『著作者人格権の侵害』および『翻案権の侵害』。さらに、妹を盗撮し、名誉を毀損する嘘を交えて公開し続けた『肖像権侵害』および『名誉毀損罪』**。……あなたたちが『検索避けをしているからバレない』と高を括って積み上げてきた異常行動のログは、すべて私の弁護士チームに提出済みです」
弘樹の氷のような宣告に、綾と亜妃子はガタガタと震え出した。単なる口約束の「禁止」ではない。彼女たちが安全圏から楽しんでいた悪意は、すべて明確な「犯罪行為」として立件されるのだ。
「すでに裁判所を通じて、サイトの完全削除と、今後のいかなる侵害行為も禁じる『法的命令(差止請求)』の手続きを進めています。数年間にわたる悪質な精神的苦痛と権利侵害に対する莫大な損害賠償請求(民事訴訟)も同時進行だ。……あなたたちが妹の才能を搾取しようとしたように、今度はあなたたちが『法律』によって社会的に裁かれる番だ」
言い逃れの余地など、一ミリも残されていなかった。
圧倒的な証拠と法律の壁に完全に包囲された新郎側は、弘樹が用意した法的拘束力を持つ合意書に、震える手で次々とサインをさせられていく。
すべての清算(ログの処理)が終わった。
もはや「被害者」という大義名分すら名乗れず、莫大な賠償金と前科のリスクに怯えて泣き崩れる悪役たちを背に、茉莉子は最後の一言を放った。
「自分の物語は、自分で書きます」
それは、どんな理不尽な悪意に晒されても決してペンを折らなかった「文学の修羅」としての、最も美しく、最も残酷な引導だった。
言い逃れできなくなった悪役たちの沈黙だけを控室に残し、茉莉子はドアを開ける。
「……いいタイトル(引き際)だ」
隣を歩く兄が、ふっと口角を上げて笑った。
外の世界には、高く澄み切った青空が広がっていた。
すべての呪縛から解放された兄妹は、並んでホテルを後にし、彼らだけの静かな日常へと戻っていくのだった。




