### 第2章:地獄の大学生活と沈黙の抵抗
M大学での生活は、茉莉子にとって心機一転の希望になるはずだった。しかし、悪意はデジタルという見えない糸を伝って、すでに彼女の先回りをしていた。
国立のG大学に進学した永沢綾は、承認欲求を満たすため、地元同人界隈で大手として知られる大橋亜妃子とSNSで接触を図っていた。
亜妃子は過去にいじめを受けたトラウマがあり、「弱者を守る保護者(編集者)」という役割に強く依存している女だった。綾は、彼女のその心の隙間を正確に突いた。
「私、高校時代に同級生から作品をパクられて、土下座までさせられそうになったんです。その子は今、M大学にいて……」
加害の自覚が薄い「悲劇のヒロイン」を演じる綾の嘘を、亜妃子は微塵も疑うことなく信じ込んだ。自身の過去のトラウマを茉莉子に投影した亜妃子は、茉莉子を「成敗すべき苛めっ子」として一方的に断罪することを決意し、綾の共犯者へと成り果てる。
亜妃子の行動は早かった。彼女は同人界隈で培ったネットワークとSNSを駆使し、M大学の学生たちに用意周到な嘘を流布し始めた。
「櫛田茉莉子は他人の作品を盗むパクリ魔だ」
「被害者を脅して土下座させた不良らしい」
「そもそもこの大学に入れたのも、高校の担任と不貞関係にあって裏口入学したからだ」
ありもしない名誉毀損級の虚言は、面白半分に尾ひれがつき、あっという間にキャンパス中に蔓延した。誰も真実など確認しようとはしない。ただ「正義を振りかざして叩いていいサンドバッグ」がそこにあるという事実だけが消費されていった。
大学二年になる頃には、茉莉子の居場所は完全に奪われていた。
教室に入ればあからさまに席を立たれ、すれ違いざまには「下品な笑顔見せるなブス」「パクリのくせに大学来んな」と心無い暴言が投げつけられた。
大人の理不尽な妨害に耐え、なんとか掴み取った大学生活。それすらも、他人の身勝手な嘘と悪意によって徹底的に破壊された。すり減った茉莉子の心はついに限界を迎え、彼女は大学に通えなくなり、自室に引きこもる不登校状態となった。
茉莉子が大学をドロップアウトしたという噂は、すぐに綾の耳にも届いた。
綾は胸のすくような優越感に浸りながら、高校の担任である嶋藤に連絡を取った。
「先生、私、あの辛いいじめを乗り越えて、また小説と向き合えるようになりました。後輩たちに、逆境に負けない大切さを伝えたいんです」
かつて茉莉子の推薦を潰した嶋藤は、この提案に飛びついた。綾は母校の講壇に招かれ、全校生徒の前で堂々と演説を行った。
「私は同級生から凄惨ないじめを受けていました。でも、決して負けずに戦い、小説コンクールで二年連続受賞を果たすことができたのです」
一文字も小説を書いていない女が、茉莉子が血を吐くような思いで書き上げ、掴み取った『二年連続受賞』という実績を丸ごと盗み出し、自身の栄光としてうっとりと騙る。権威である教師がそれに涙し、生徒たちが拍手で称える。そこは狂気に満ちた虚構の舞台だった。
だが、悪意がどれほど世界を嘘で塗り固めようとも、決してすり替えられないものがある。
薄暗い自室の中、茉莉子はただ一人、パソコンのモニターと向き合っていた。
「大丈夫だ。お前はただ、書きたいものを書けばいい」
身代わりで高校を退学し、働きながら妹を支える兄・弘樹の存在だけが、茉莉子を現実に繋ぎ止めていた。
茉莉子は自らのホームページを立ち上げた。誰とも関わらなくていい。誰にも邪魔されない世界。そこで彼女は、標的としての沈黙を守りながら、ただひたすらにキーボードを叩き続けた。
嘘に嘘を重ねて肥大化していく綾たちとは対照的に、茉莉子は「黙って書く」ことで、一つの確固たる事実を積み上げていく。
作品のテキストデータ。更新日時のタイムスタンプ。サーバーに刻まれるアクセスログ。
それらは誰にも改ざんすることのできない、彼女がそこで生きて、正当な実績を積み上げているという「本物の証明」だった。
暗闇の中で積み上げられた沈黙のログは、やがて彼女を外の世界へと引っ張り出し、同時に、綾たちを破滅の罠へと誘う引き金となる。




