激発の時
――時は、わずかに遡る。
台湾の沿岸防衛陣地が地獄の業火に焼かれていた、まさにその瞬間。 東京、首相官邸。
有馬征四郎は、執務室の巨大なモニターの前で、静かに台湾海峡の戦況を見つめていた。そこに映し出されていたのは、今まさにユウトたちが体験している阿鼻叫喚の地獄を、無機質な戦術マップに変換したものだった。台湾軍を示す赤い点が、東亜連邦軍の青い点に、刻一刻と飲み込まれていく。
背後に控える腹心、白洲二郎が静かに報告した。 「……総理。東亜連邦の主力揚陸艦隊が、最終攻撃開始ラインを突破。奥田怜奈が設定した全ての前提条件が満たされました。いつでも『撃発』可能です」
有馬は答えなかった。彼は、能面のような表情のまま、ただ戦況を見つめている。彼は待っていたのだ。東亜連邦の大部隊が、その勝利を確信し、後戻りできない地点まで完全に進軍する、その完璧な瞬間を。彼我の戦力差が最大となり、敵の傲慢さが頂点に達し、警戒心が完全に弛緩する、そのただ一点の特異点を。
「……彼らの認識は、全て間違っていた」 白洲が、眼下の戦況を見ながら、冷ややかに呟いた。 「国内では、ジャーナリストも国民も『汚職で私腹を肥やすための利権』だと喚きたてた。そして東亜連邦は、『兵站を変える高性能な民生品』だと喜んで自軍の標準規格に採用した」
「だからこそ、だ」有馬は、モニターから目を離さずに言った。「これこそが、この国がまだ失っていなかった、最後の切り札だ。……そして、奥田君の『シミュレーション』」
白洲も頷く。彼もまた、この計画――有馬が、その非情な謀略の祖である明石元二郎に敬意を表して『明石計画』とコードネームを付けた作戦の、数少ない共犯者の一人だった。
有馬は、自らが「灰色の宰相」としてこの国に君臨して以来の歳月を反芻していた。 この計画は、有馬の直感や願望から始まったのではない。
奥田怜奈が、この国の生存確率をシミュレートした結果、弾き出された唯一の「最適解」から始まったのだ。
彼女のシミュレーションは、「敵の最大の強みである、高度なネットワーク化と人工知能を利用した・無人化が進んだ軍隊そのものを、こちらへの何気ない依存によって無力化する」という、非対称な対抗手段こそが、最も確率の高い勝利条件であり、それが電池とナノアンテナだと結論づけた。
IT化され電化された軍隊において、電池こそが生命線であり、どこにでもあるありふれたものだった。家庭に沢山の電池があるように、それは軍隊においてもドローンやロボットから、通信機、暗視装置、小型情報端末と、あらゆるものにそれに依存していた。
しかし、起爆装置や爆薬が紛れ込んでいたら、相手のチェックで即座にこちらの意図が漏れてしまう。相手のセキュリティチェックをすり抜けて、その時まで静かに隠蔽しておく必要があるという難題があった。
この「難題」を解決するため、奥田怜奈は彼女の真の武器を行使した。 彼女の恐るべき天才性は、それを実行するための「リソースの最適配置」にあった。
彼女は、この国の根幹となった『国民基盤役務制度』のシステム――日本国民全ての才能と経歴、職歴、適性データを網羅した、その巨大な管理システムを駆使し、震災後の混乱で職を失った、あるいは不遇をかこっていた日本最高峰の科学者・技術者たちをリストアップした。
主流から外れていたがゆえに、これまで見過ごされていた基礎研究の大家たち。 赤字を垂れ流していたがゆえに、大資本に買収されなかった独自の素材技術。 あまりに異分野すぎたために、これまで結びつくことのなかった応用工学の権威たち。
彼女は、それら「失われたピース」を『国民基盤役務制度』のシステム上で精密に組み合わせ、「国民役務」の名目の下、「国家復興のための最重要プロジェクト」として、タチバナ総合科学研究所へと秘密裏に集結させた。
タチバナ研究所に集められた科学者や技術者たちは、有馬から与えられた潤沢すぎる「黒い資金」を使い、その異分野の技術を融合させ、ついに「特定の周波数帯の電波にだけ共振する、ナノアンテナ素材」の開発に成功する。同じ電磁波でも光より波長が長い電波をナノレベルサイズでとらえる高利得のアンテナはその実用が難しい分野であったが、莫大な資金と選ばれた才能の結合によりそれを達成したのだ。
さらに高エネルギー密度の全個体電池の開発も急ピッチで進められていた。エネルギー密度が高いということは、電池が長持ちするだけではなく、それだけ爆発した場合のエネルギーも大きいということだ。つまり、爆薬はなくても、電気エネルギーをショートさせ瞬間的にエネルギーを解放すれば、高性能な電池は高性能な爆薬に早変わりするのである。そう、アンテナで受信した信号を元に、電池内の正極と陰極を分かつ絶縁シートの絶縁が意図的に破られてしまえばよいのである。
科学者や技術者自身ですら、自分たちが「モバイル機器用の超小型アンテナ」や「世界最高のエネルギー効率を持つ、次世代の全固体電池」を開発していると信じ、研究に没頭していた。 まさか、自分たちの最高傑作であるバッテリーセル素材そのものに、「アンテナと信管」がナノレベルで組み込まれていることなど、知る由もなかった。
そして、奥田怜奈は最後の仕事――その「信管」をフェイズシフトさせるための、周波数帯と変調パターンを持つ暗号化キルシグナルと、それを通信衛星経由で多数の目標にむけて照射する、『制御システム』を並行して開発していたのだ。
この明石計画を隠蔽するために、有馬は自ら「盾」となった。 彼自身が、あのジャーナリスト、相沢に「汚職」の情報をリークしたのだ。
「金に汚い守銭奴」「私腹を肥やす腐敗政治家」有馬に向けられる罵詈雑言。
有馬は、国民の憎悪や独立派の敵意が、こうした分かりやすいスキャンダルに集中するように仕向けた。
疑惑の目が「汚職・利権」に向かえば向かうほど、その裏で進む「戦略兵器の量産」という真の目的からは、全員の目が逸れる。 彼は、自らの名誉という、政治家にとって最後の砦さえも、作戦遂行のための「コスト」として平然と使い捨てにしたのだ。
「……奥田君に繋げ」
首相官邸の地下深く、幾重ものセキュリティゲートに守られた冷徹な管制室に、有馬の声が響く。 「撃発の時だ」
モニターの前に座る奥田怜奈は、その言葉に無感情に頷くと、ただ一言だけ返した。 「……了解」
そして、彼女はエンターキーを叩いた。 その瞬間、彼女が構築した『制御システム』は、静止衛星を経由し、日本を除く東アジア全域に存在する無数の「ナノアンテナ」に向けて、奥田怜奈だけが知る、極めて指向性のキルシグナルを一斉に照射した。
有馬は、モニターの中の衛星動画システムで、台湾全土を埋め尽くしていた何千という東亜連邦軍だけではない、朝鮮半島に展開する部隊、さらには連邦本国の主要軍事施設の状況を、表情一つ変えずに見つめていた。 ドローンが墜落し、戦闘ロボットが沈黙し、指揮通信網が機能不全に陥り、揚陸艦隊が制御不能な鉄の塊と化していく。
白洲が息を呑む。
彼もまた、この瞬間を理論上は知っていた。だが、それが現実となった光景の恐ろしさ――一瞬にして敵国の全戦線を麻痺させ、数万の兵士の運命を決定づける、神のごとき所業の非情さに、一瞬だけ、だが確かに圧倒されていた。
だが、明石計画の本当の恐ろしさは、全個体電池を使った遠隔爆弾というだけではなかった。今回のこの爆発は、ある意味、ナノアンテナという兵器のお披露目程度のものであった。
ナノアンテナを、そのまま、コンデンサ、ダイオード、トランジスターと言ったありふれた電子部品や半導体チップに組み込めば、ある特定の周波数を受信すると爆発はしないものの回路に深刻な誤作動を起こすことが技術的には十分に可能なのである。
これが意味することは、汎用品という名の、ナノレベルの罠があちらこちらにあり、どこに何が隠されているか分からないということである。
今後、今回爆発した電池を解析して相手がナノアンテナの存在に気付いたとしても、いや相手国の優秀な技術者が確実にその存在に気づくからこそ、電子部品が搭載された全ての兵器を使うことが非常に難しくなる。
兵器が使えなかれば、素手で戦うのでもない限り、反撃もまた不可能である。
有馬と怜奈が立案したこの明石計画の周到さに、白洲は戦慄を禁じえなかった。
しかし、有馬は勝利の余韻に浸る間もなく、即座に次の命令を下した。
「奥田君。フェーズ2へ移行。日本国内の全監視ネットワークの制御を掌握せよ。全ての監視ロボットは、これより我々の指揮下に入る」
東亜連邦が日本の治安維持のために設置した、無数の目と耳。奥田は当たり前のようにバックドアを仕掛けていた。
「白洲、我が国は、本日をもって『再軍備』を宣言する。同時に東亜連邦による不当な占領に対し、国家の主権回復をすると全世界に対して発表する。用意しろ」
第三部へ続く
第一部(崩壊編)完 第二部(占領期編)完 第三部(独立編) 第四部を予定。




