9.最上級のスカウト
秋が深まり、王都の風が肌を刺す冷たさを帯び始めた頃。ルミナス・クラウンも年末の繁忙期に向けて、人々が慌ただしく走り回り始めた。そんな中、ヴィヴィアンが働く五階のフロアに静かに異変が起きた。
元々四階のフロア・コントローラーを務めていた男性スタッフが、ゼノの後ろについて動き回るようになったのだ。最初は階を跨いで情報共有でもしているのだろうと特に気に留めていなかったが、次第にゼノの代わりに売り場を見回りに来るのも彼がメインになり、ヴィヴィアンは拭い去れない違和感を覚える。気づけば、ゼノとまともに言葉を交わさないまま、二週間が過ぎていた。
ある日、支配人にそれとなく状況を尋ねてみると、彼は少しだけ気まずそうな顔をして、ヴィヴィアンをこそこそとバックヤードの奥へと連れて行った。
「正式な発表は年明けにする予定だったのだが……実はランバートは、この百貨店を離れることになった」
その瞬間、自分がどんな顔をしたのかヴィヴィアンには分からなかった。
ただ数秒の空白の後、喉の奥から「そうなんですか」という乾いた声を絞り出すのがやっとだった。
平静を取り繕って売り場に戻り、陳列を整える。
「チーフ……そこ、どうかされましたか?」
メアリーに声をかけられ、ハッとする。同じディスプレイを何度も意味もなく触り続けていることに気づき、ヴィヴィアンは狼狽えた。
「ううん。少し……角度が気に食わなかっただけ」
笑顔で誤魔化しつつ、彼女は自覚した。自分が思いのほか、ショックを受けていることを。指先が微かに震えている。
動揺を隠しながら早めの休憩に入ることを告げると、一人、人気のない従業員用のテラスへ逃げ込んだ。冷たい風を受けながら、混乱する頭を落ち着けようと試みる。
何故、これほどまでに衝撃を受けているのか、自分で正体が掴めない。
ただ、ゼノのいないルミナス・クラウンを想像しようとしても、その景色は霧に包まれたようだった。
心臓の音だけが、耳の奥でうるさく脈打っている。
用意していた昼食も、広げた新聞の文字も、何ひとつ手につかないまま、空虚な休憩時間は過ぎていった。
それからさらに数日が過ぎても、彼と会話をする機会は訪れなかった。
ヴィヴィアンが重い足取りで帰り支度を終え、従業員口を潜ろうとした時だった。
「そこの着せ替え人形」
ぶっきらぼうな低い声が背中に突き刺さり、ヴィヴィアンは反射的に、自分でも驚くほどの速さで振り返った。あまりに過敏な反応に、呼び止めたゼノの方が目を丸くして立ち尽くしている。
「……何よ。全然姿を見せないから、てっきりどこかでくたばったのかと思ってたわ」
「勝手に殺すな」
この数日、会えば言いたいことがいろいろあったはずなのに、口をつくのはそんな憎まれ口だった。いざ対面すると、何を話したかったのか頭の中は真っ白になって、ヴィヴィアンは気まずく目を逸らす。そんな彼女の心中を知ってか知らずか、ゼノは相変わらずの無愛想な顔で歩み寄った。
「明日、空いてるなら俺に付き合え」
思いがけない言葉に、ヴィヴィアンは美しい眉を寄せて彼を見上げた。ゼノはすました顔で、不遜に彼女を見下ろしている。
「………何で?」
「工房を回る。ついてこい」
仕事の話なのだろうか。しかし、明日は非番だ。もう一度予定を尋ねられ、戸惑いながら首を振ると、彼は「午前中に家まで迎えに行く」と短く告げ、あっさりと背を向けて去っていった。
翌日、ヴィヴィアンは鏡の前で何度も服を着替え直し、入念に髪を整えながら、ふと我に返って己の姿に呆れた。
何をしているのだろう。
フェリックスと出かける時ですら、これほど準備に迷うことはなかった。いや、これは仕方がない。彼が何のつもりで自分を誘い、一体何をする予定なのかも分かっていないのだから。目的が不明確なせいで、迷っているだけ。そう自分に言い聞かせながら、結局、派手すぎず地味すぎず、けれど流行はしっかり抑えたシンプルな白いワンピースと華やかなスカーフでコーディネートを組み、落ち着かない心地で彼を待った。
約束の時間の少し前に、ランバート家の馬車がアパートの前に停まり、私服姿の彼が冷めた三白眼で降りてきた。
仕立ての良い、肉厚なチャコールグレーのカシミアコート。いつもは後ろに流している黒髪がラフに下ろされており、百貨店で地味な事務服を着ている時よりもどこか艶があり、子爵令息らしい気品に満ち溢れていた。
派手な意匠は何ひとつない。けれど、彼の大きな身体の動きに合わせて生まれる柔らかな布のドレープが、ヴィヴィアンの審美眼を黙らせるほどに上質だった。
「すぐに出るぞ。時間がない」
ぶっきらぼうにそう言って、ゼノは黒革の手袋を嵌めた手をおもむろに差し出し、彼女を馬車へエスコートした。ヴィヴィアンは半ば睨みつけるような不機嫌顔のまま、黙ってその厚い手を取る。そっと包み込まれた指先から、体重をどれほど預けても決して揺るがないであろう確かな支えが伝わってきた。スカートの裾に気を配りながら車内へ身を収めると、彼はあっけないほどあっさりとその手を離す。
ほんの数秒だけ与えられた温もりを確かめるようにヴィヴィアンはぎゅっと指先を握り込んだが、胸をよぎった感覚は曖昧なまま消えていった。
連れて行かれたのは、町外れの小さな工房だった。看板を見ても、ヴィヴィアンですら知らない名前だ。遠慮なく中へ入っていく大きな背中を追い、ヴィヴィアンも戸惑いつつドアをくぐる。
中では少人数の職人が黙々と作業をしていた。革製品を扱っているらしく、カツカツと鋲を打つ小気味よい音が響いている。
棚に並べられた品々を一目見て、ヴィヴィアンは思わず感嘆の息を漏らした。初めて見るデザインだが、細部に至るまで丁寧に、魂を込めて作られているのが分かった。
ゼノは工房の代表者にヴィヴィアンを紹介し、しばらく工場を見学させ、技術の説明を彼女に受けさせた。
その次に訪れたのも、彼女の知らない小さなドレス工房。その次は、銀細工のアトリエ。
同じように淡々と見学をこなし、馬車へ戻る。車内で受け取ったいくつかのサンプルをまじまじと眺めていたら、向かいに座るゼノが、少しだけ機嫌の良そうな声で話しかけてきた。
「全部、良かっただろ」
どこか得意げな彼の顔に、ヴィヴィアンは思わず見惚れそうになり、慌てて手元のサンプルへ視線を落とした。
「……そうね。どこも初めて知ったけど、こんなに質の良い仕事をしているところがあるのだと驚いたわ」
「知られていないだけで、この王都にはこういった場所がまだまだ埋もれている。二軒目に行った工房には『アトリエ・ノア』から流れて来た職人も何人かいるそうだ。質だけなら、今のノアよりあそこの作るドレスの方が優っている」
「そうね……デザインは少し前衛的で好みは分かれそうだったけれど、品質はどれも一級品だわ。今まで見たこともない技法もあって、面白かった」
「お前がそう言うなら、間違いないな」
ゼノは満足げに頷くと、車窓の外をのんびりと眺め出した。ヴィヴィアンはその横顔を、盗み見るように見つめる。
彼はどうして、自分をこんな場所へ連れ出したのか。自分は確かに目利きだが、百貨店の仕入れ担当は別にいる。そもそもルミナス・クラウンの仕事だとしたら、なぜ休日に二人きりなのか。目の前の男の考えが読めず、ヴィヴィアンは眉間に皺を寄せた。
「……あんた、ルミナスから離れるって聞いたんだけど」
ヴィヴィアンは思い切って切り出した。ゼノは顔色ひとつ変えず、窓の外に目を向けたままだ。
「いつ辞めるの」
その声が自分でも驚くほど弱々しく響き、ヴィヴィアンは誤魔化すように手元の革細工を強く握り込んだ。
「春だ。実家から新たに事業を立ち上げることになった。俺が代表を務める」
辞職はわかっていたことなのに、本人の口から直接語られると、その事実が腹の底にズドンと重く落ちてきた。それ以上言葉が出ず、黙り込む。ガタガタと車輪が石畳を踏む音だけが、車内に虚しく響いた。
「……あんたがいなくなったら、私はこれからの給与の前借りをどこに相談すればいいわけ?」
「後任のアルベルトにでも甘えとけ。あいつは俺より美人に弱いからな」
遠回しに「美人」と評されたことにわずかに動揺しつつも、ゼノが本当にルミナス・クラウンを去るのだという認識が、現実味を帯びて彼女を打ちのめす。この感情をどう判別し、どこに着地させればいいのか、自分でも分からない。
どうすることもできず、ヴィヴィアンもぼんやりと車窓を見つめた。すると、ふいに彼の視線が自分に向けられた。
「ついてくるか?」
わずかに青みがかった灰色の瞳に真っ直ぐ射貫かれ、ヴィヴィアンは目を見開いた。
「ランバート流通監査商会。流通の仲介事業だ。契約工房の定期的な品質監査、経営の不安定な工房の再建補助。今日回ったような零細工房と、ルミナス・クラウンのような高級市場を繋ぎ、独占的に商品提供を行って販路拡大も手がける。やることは山積みだ」
温度の低い声で淡々と語りながら、ゼノは口の端を吊り上げ、挑発的に微笑んだ。
「俺はマネジメントと財務管理、交渉で忙しくなる。品質チェックと管理ができる、優秀な目を持った人材が必要だ。この半年、いろんな人間を当たったが……正直、お前以上に優秀な服飾狂いは見つからなかった」
ゼノはヴィヴィアンに向き直ると、わずかに身を乗り出し、真剣な顔つきで彼女を見つめた。
「お前が欲しい、ヴィヴィアン。俺の下で……いや、俺と肩を並べて、共に歩んでもらえないか」
かしましかった馬車の走行音が、どこか遠くへ消えた。呼吸が浅くなり、心臓の音だけがドクドクと高鳴って耳を打つ。冷たいはずの車内の空気が、一気に熱を帯びたように感じられた。
いつの間にか馬車がヴィヴィアンのアパートの前に停まっていることにも、しばらく気がつかなかった。頭が真っ白になって呆然とゼノの顔を見つめていたら、彼は「ふぅーっ」と大きく息を吐き出した。
一度乱雑に髪をかき上げた後、おもむろにジャケットの内ポケットへ手を突っ込み、そこから小さなベルベットの箱を取り出した。
狭い馬車の中で、その大きな身体を折り曲げるようにして、彼はヴィヴィアンの足元へ跪く。
開けられた箱の中には、薄紅色のダイヤを戴いた小さな指輪が、冬の光を浴びて煌めいていた。
ヴィヴィアンは思わず、両手で口を覆う。
「俺と結婚してほしい」
にこりともせず、睨みつけるような鋭い眼光のまま、彼は淡々と言い切った。
目の前で起きていることが、一ミリも処理できない。
混乱の中で、ヴィヴィアンは口を覆う自分の手が小さく震えていることに意識を囚われていた。
どのくらいの時間、その状態で固まっていたのか分からない。ゼノが無愛想な三白眼のまま、伺うように顔を傾けたので、ヴィヴィアンは震える両手をゆっくりと膝に置いた。ぐいと差し出された小箱を、まじまじと見つめる。
その指輪には見覚えがあった。
ルミナス・クラウンにも仕入れている、老舗の宝飾工房の新作だ。昨年の型は若い令嬢たちの間で大流行したが、今期のモデルはそれをさらに洗練させ、台座にまで細かなダイヤが散りばめられた贅沢な作りになっている。それでいて華美すぎず、愛らしい。
その可愛らしい指輪と、目の前の無骨な男との絶望的なギャップに、ヴィヴィアンは目眩がしそうだった。
「……なんで、これを私に贈るのよ」
やっとの思いで絞り出したのは、可愛げの欠片もない言葉だった。
「プロポーズのつもりなんだが」
眉間に皺を寄せ、ゼノもまた刺々しい口調で返す。その威圧感は、ロマンチックな雰囲気など微塵も感じさせないものだった。
「どうして……? 冗談も大概にして。私、あんたのことそんなふうに見たこと、一度もない。……その指輪も、私には全然似合わないし。可愛すぎるわよ……」
ヴィヴィアンは膝に置いた手をぎゅっと握りしめ、彼から視線を逸らした。
「仕事の話も……急すぎて、頭が回んない。ちょっと……わけがわからない。ルミナスを出るなんて……考えたこともない……」
そう言い切るのが精一杯だった。
唇を噛んで黙り込んだ彼女を、ゼノは冷静に観察しているようだった。
重苦しい沈黙が降りた後、やがて彼は諦めたようにパタンと箱を閉じると、潔く立ち上がり、ガチャリと馬車のドアを開けた。冬の冷たい風が車内に吹き込んでくる。
外から無言で手を差し出され、ヴィヴィアンは蒼白な顔で立ち上がり、その手を取って車外へ出た。
ふらふらと石畳に降り立ち、どうしていいか分からず立ちすくんでいると、バシンと背中を乱雑に叩かれ、驚いて振り返る。
ゼノがいつもの不機嫌そうな顔で、彼女を睨みつけるように見下ろしていた。大きな手で叩かれた背中が、じんわりと熱を持つ。
「え、痛っ、なに……っ!?」
「別に」
「え? 叩いた? なんで? ひどくない?」
「うるさい、ボンクラ。さっさと家に入れ。風邪引くぞ」
彼は冷淡に言い放つと、彼女の返事も待たずに馬車へ戻り、バタンとドアを閉めてしまった。走り去る馬車を、ヴィヴィアンは呆気に取られて見送ることしかできない。
馬車の影が見えなくなったところで、ヴィヴィアンはようやくよろりと足を進め、アパートの中に入った。
呆然と階段を登り、自室のドアを開ける。
誰もいない静かな部屋。食卓に座り、テーブルに活けられた美しい花をぼんやり眺めるうちに、先ほどの出来事がようやく冷静に反芻され始めた。
──なんだというのだ。
ずっとお互いに憎まれ口ばかり叩き合ってきた関係で、会うと睨み合うか罵倒し合うかだったくせに、いきなり、あんなことを。
何故、恋焦がれ、思い合えた理想の相手ではなく、あんな奴から求婚されなければならないのか。
そもそもあの不器用な男が、あんなに真っ直ぐな告白をしてくるなんて。イメージと違いすぎる。律儀に、高価な指輪まで用意して、跪いて。
用意された仕事の話も、出来すぎていた。
完璧な提案だった。
自分の仕事にかける情熱を、誰よりも理解して求めてくれた。その本気が、なによりも苦しかった。
そのくせ、あんな──こちらの趣味をいまいち理解していない、ヴィヴィアンには可愛すぎる指輪を選んでくるセンス。それがやはりあの男の木偶の坊っぷりを体現していて、だんだん、憎くて憎くてたまらなくなってきた。
「アホ、ヘボ、センスなし、野暮、グズ……」
思いつく限りの罵声を、誰に聞かせるでもなく呟く。あらゆる罵倒を脳内に巡らせながらも、彼のあの真剣な瞳が、どうしても脳裏に焼き付いて離れない。
気づくと目尻に熱いものが浮かび、顔を上げた拍子に一筋の涙が頬を伝った。
「なんで、泣いてんの、私」
慌てて手で拭った時、自分の頬がこれまでになく熱く、指先もまだ小さく震えていることに気づく。止まらない涙がはらはらと頬を伝った。
「バカ……」
その言葉は、彼に向けたものなのか、自分に向けたものなのか。
混乱と、名前のつけられない激情の中、彼女は暗くなり始めた部屋で一人、動くことができなかった。




