8.生ぬるい夜の救済
身体を焦がすような暴力的な日差しが照りつける、夏の日のことだった。
ヴィヴィアンは滲んだ汗を拭いながら制服に着替え、その日の来客予定表と入荷リストを几帳面に確認する。今日は取り立てて大きな予定もない。平和な一日になりそうだと機嫌良く売り場を整え始めてすぐ、ふと、強烈な違和感に足を止めた。
「中央ショーケースに飾っていた『グラン・エトワール』のダイヤのリングはどこへ行ったの?」
すぐ後ろで昨晩搬入されたばかりの木製什器を動かしていたメアリーを振り返るが、彼女もまた困惑した様子で小さく首を振る。
嫌な予感を覚えて売り場の全スタッフに確認を取るが、その小さな指輪の行方を知る者は誰もいなかった。平和だった開店前の百貨店裏は、一瞬にして冷たい緊張と混乱に陥る。売り場の端から薄暗い倉庫の隅まで総出で探すが、品物は一向に見つからない。
開店後も、喧騒から離れたバックヤードで昨日の売り上げ表を入念に確認しながら失せ物を探していたヴィヴィアンに、使いのスタッフが駆け寄り、気まずそうに声をかけた。
「すみません、支配人たちがお呼びです」
執務室の扉を開けたとき、そこに漂う空気の重さにヴィヴィアンは思わず息を詰まらせた。
部屋の主である支配人をはじめ、五階を取り仕切るリーダー陣が、一様に深刻そうに顔を曇らせて待ち構えていたからだ。
「グラン・エトワール」は、ルミナス・クラウンが誇る数多の仕入れ品の中でも、最上位に君臨するハイジュエリーブランドだ。たとえ小さな指輪一つといえど、その価値は、ヴィヴィアンの年収の半分が簡単に吹き飛ぶ代物だ。
それを紛失したとあっては、フロアの責任者である彼女がどのような激しい叱責を受けても仕方がない。
しかし、告げられた言葉は予想外のものだった。
「ヴィヴィアン。非常に言いにくいのだが……昨日、あの売り場に最後まで残っていたのは、君だという証言が上がっているんだ」
副支配人の苦々しいその言葉を聞いた途端、ヴィヴィアンの思考が停止した。
「……待ってください。まさか、私をお疑いですか?」
「気を悪くしないでほしい。ただ、客観的な状況証拠として、そう考えざるを得ないという話だ」
「冗談でもそのような話は聞きたくありません。私が、この手で盗みを働くなどと……!」
張り上げた声がわずかに震える。ここで感情的になるのは悪手だと頭では分かってはいても、日々揺るぎない愛情と誇りを持って売り場に立ち続けてきた自分の尊厳が、根底から踏みにじられるような衝撃があった。足元がぐにゃりと歪む感覚に眩暈を覚えながらも、必死に奥歯を噛み締めて踏みとどまる。
その時、背後で控えめなノックが響き、重厚なドアが静かに開いた。室内に集まる全員の視線が一斉に集中する中に入室したのは、ゼノだった。彼もまた五階のフロア・コントローラーの代表として、この緊急の場に呼び出されたのだろう。一礼をし、渋面を作った上層部の面々をざっと見渡した後、彼はちらりとヴィヴィアンを一瞥した。彼女の顔は今、すっかり血の気が引いている。
「これは、どういった状況でしょうか」
感情の温度を感じさせない低い声でそう尋ね、副支配人から事の経緯を聞き出した彼は、もう一度ゆっくりと、冷淡な瞳でヴィヴィアンの顔を見下ろした。そして、静かに、しかしきっぱりと言い切る。
「考えられませんね。この女の犯行にしては、あまりにも詰めが甘すぎる」
室内にいる全員がぎょっとしてゼノに向き直る中、誰よりも驚いて彼を見上げたのは、当の本人であるヴィヴィアンだった。
「昨晩の警備の入館記録を改めて確認しました。確かに販売員として最後にフロアにいたのは彼女ですが、それよりも後の深夜に、清掃と大型什器の搬入のために数名の外部業者が出入りをしています。疑いをかけるなら、こちらを洗うのが先ではないかと」
手元に用意していた出入記録を支配人に差し出しながら、ゼノは淡々と続ける。
「大体、売り場の責任者である彼女が自らの手で盗むなどという愚行に及んだとして、あんなに目立つショーケースから選ぶとは思えない。この女であれば、人目につかない倉庫の品物にいくらでも手をつけられるはずです。既製品の指輪一つというチョイスも大人しすぎる。地下倉庫で埃をかぶっている、外商部から返品されたオーダーアイテムの方が、よほど持ち出しやすく価値がある。この狡猾な宝飾狂いなら、狙うならまずそこだ」
「ちょっと! 庇ってんのかそうじゃないのか、はっきりしてよ」
思わずいつもの調子でヴィヴィアンが突っ込みを入れた途端、室内の緊張が一気に崩れた。支配人がやや気まずそうに咳払いをする。
「確かに……まだはっきりした証拠があるわけでもないのに、真っ先に君を疑ったのは、私たちの配慮が足りなかった。ヴィヴィアン、すまなかったね。この件は一旦、こちらで預かる。引き続き五階での捜索は続けるが、まずは通常業務を優先してくれ」
「……承知いたしました」
ひとまずその場からは解放されたものの、真犯人が捕まっていない以上、すっきりとした気持ちには到底なれなかった。何よりも、真っ先に自分の私欲を疑われたという事実によって傷つけられた尊厳は、そう簡単には元に戻らない。
この百貨店に身を置いてからというもの、仕事に対して手を抜いたことなど一度たりともなかった。どんなに激しい頭痛に悩まされる日も、精神的に追い詰められた時も、誰よりも深い愛と情熱を注いでフロアに立ち続けてきた自負がある。そのプライドが、パキリと音を立てて折れてしまった気がした。
ヴィヴィアンは来店する上得意客に華やかな笑顔を向けながらも、胸の内にぽっかりと大きく空いた穴をどのように埋め合わせるべきか、途方に暮れていた。
「すまない、ヴィヴィアン。あの指輪が見つかった。清掃業者のスタッフが持ち去っていたそうだ」
閉店間際に再び執務室へと呼び出されたヴィヴィアンに向かって、支配人は申し訳なさそうに深くこうべを垂れた。少しだけ寂しくなった頭頂部を見つめながら、ヴィヴィアンは胸の奥につかえていた重苦しい息をゆっくりと吐き出す。
「無事に見つかって、何よりです。私も安心いたしました。品物は、無事だったのですか?」
「ああ。布に厳重に包んで持ち出されていたので、幸いにも傷や変形はないようだ。念のため、鑑定に回しているので正式な結果を待っているところだが……」
「とは言え、一度盗難に遭ったものをそのまま店頭に出すのは難しいですね。今後の扱いについては、フロアのリーダー間で一度話し合います。また話がまとまり次第、ご相談させてください」
きびきびと今後の仕事の話を進めるヴィヴィアンに対し、支配人たちはバツが悪そうに曖昧な相槌を打った。締め作業が残っているからと言い訳をして、ヴィヴィアンは足早に部屋を立ち去る。
それからは普段通りに閉店後の作業を済ませ、スタッフたちに明るく挨拶をしてフロアを後にした。
暗い階段に、コツンコツンと、ヒールの音が虚しく響く。従業員口で退店の記帳を済ませて一歩外に出ると、昼間の熱気をたっぷり残した生ぬるい夜の空気が、じんわりと体を包み込んだ。
(疲れた……)
まだ西の空には夕日の名残の明るさがぼんやりと残り、東の夜空にかけては橙色と深い紺色のグラデーションが滲んでいる。ねぐらを目指して家路につく鳥たちの鳴き声が、今日の心には虚しく響いた。
打ちのめされていた。
大した話では、ないのだ。
品物が一時的に紛失した。状況的に自分が疑われる場所に、たまたま居合わせた。結果、犯人は別にいた。品物も見つかった。めでたし、めでたし。
もう、済んだ話だ。
けれど。
(私って、あっさり疑われちゃうんだなぁ)
日頃の努力も、捧げてきた情熱も。他人からすれば、関係のない余所事なのだ。
「服飾狂い」だと周囲から面白おかしく揶揄われているのは知っている。日頃から給料のほぼ全額を新作の衣装や装飾品に注ぎ込み、身の丈に合わない宝飾品をコレクションしているのは事実だ。支払いが期日に間に合わず、給料の前借りをしたのも一度や二度ではない。売り場の美しい品々に目が眩んで、とうとう魔が差したのだと思われても、世間一般の目から見れば仕方のないことなのかもしれない。
だが、それでも。
ヴィヴィアンなら絶対にそんなことはしないと、信じてほしかった。それだけの誠実な仕事をしてきたつもりだったから。誰よりも忠誠を誓ってきたこの愛おしい百貨店で、こんなくだらない疑いをかけられた自分が、今は情けなくて、悔しくて仕方がなかった。
思うように、足を運べない。
いつの間にか、両足が石のように固まって動かなくなっていた。行き交う人々が不思議そうな顔ですれ違っていくのに、ヴィヴィアンはそこに立ち尽くしたまま一歩も前へ進めず、ただ足元の暗い石畳を見つめることしかできない。
瞬きをすれば、眼球に張った熱い潤みがこぼれ落ちてしまうことを自覚して、ヴィヴィアンは必死に目を見張って耐えた。
その時。
グシャリ、と後ろから乱暴に後頭部を掴まれ、無造作に髪をかき乱された。あまりの不意打ちに驚愕の声も漏らせずに振り返ると、そこにはいつものように冷たい顔をしたゼノが、不遜な目つきでヴィヴィアンを高い位置から見下ろしていた。
「飲みにいくぞ、泥棒女」
「ちょっ……、ねえ! 髪の毛、ボサボサになった……!」
編み込みを丁寧にまとめていた髪をぐしゃぐしゃに乱されて、ヴィヴィアンは鋭く抗議の声を上げた。しかしゼノはそんな文句を一切気にする風もなく、スタスタと前を歩いて行ってしまう。
「さっさと歩け。通行の邪魔だ」
「もう!」
髪を解いてなんとか手早くまとめ直しながら、ヴィヴィアンは彼の広い背中を小走りで追う。先ほどまで胸を締め付けていた、呼吸が止まりそうなほどの暗い苦しさは、その乱暴な手のせいでどこかへ吹き飛び、一瞬で霧散してしまった。
彼が導いたのは、百貨店から少し外れた裏手にある、年季の入った食堂酒場だった。仕事終わりの人々でごった返す店内の、一番奥の狭い席に二人で向かい合って腰を下ろす。
ゼノはエールを二杯と、適当な肉の煮込みと塩気の強い魚料理を手早く注文した。ジョッキが運ばれてくると、彼は乾杯すら交わさず、それを一気に煽る。ヴィヴィアンは彼の様子を慎重に観察しつつ、自分も同じように喉の渇きを潤した。
「清掃業者の新参者だったそうだ。昨夜の時点で挙動不審で、古株の同僚たちは異変を感じていたらしい。上司が鎌をかけたら、あっさりと白状してきたそうだ」
「へぇ……」
二杯目のエールを啜りながら、ゼノは事の顛末を淡々と語った。すでに三杯のジョッキを空けたヴィヴィアンは、力なく相槌を打つ。
「大事にしない代わりに、向こう三ヶ月分の清掃費を減額させることになった。それでも、指輪の価値が傷つけられた分には足りないがな。そこは明日から本格的に交渉していく」
「ふぅん……」
「なんだ。どうでもよさそうだな」
「うん……。なんか、どうでもいいかも……」
「自分が真っ先に疑われたくせに、よく言う」
皿の上に残っていた豆と干し肉のソテーをフォークの先でちまちま突きながら、ヴィヴィアンは長いため息を吐いた。ゼノはその弱々しい様子をつまらなさそうに見つめる。
「なんか……私って……そんなに卑しい人間に見えてるのかなぁって……」
ぽつりと、乾いた声がこぼれ落ちる。
ゼノはその言葉を聞いても顔色一つ変えなかったが、ヴィヴィアンはすぐに自分の弱音を恥じ、気まずくなって目を逸らした。
「いや、何でもない。もういいわ」
この男に愚痴など吐いてどうするというのだ。
日頃からこちらの浪費癖を見咎めては「金食い虫」だのと罵ってくる上に、先ほどは「泥棒女」と揶揄ってきたではないか。そもそも給料の前借りが必要な時、彼は最初に交渉する相手でもある。ヴィヴィアンが万が一の誘惑に負ける姿など、彼にとっては想像に難くなかったに違いない。
ゼノは何も言わず、のんびりとジョッキを口に運ぶと、残っていたエールを綺麗に飲み干した。それから片手で給仕を呼びつけると、銀貨を一枚渡して葉巻とマッチを受け取る。
少し酔いの回った緩慢な動作で火を起こすと、口の端に咥えた葉巻の先端をゆっくりと炙った。
「……お前だったら」
白い煙をのんびり吐き出しながら、彼は静かに切り出した。
「地下倉庫に三年前から眠っている、六連パールのネックレスを選ぶだろうな。お前、あれをやけに気に入っていただろう。自宅に飾りたいとキィキィ騒いで、うるさかった」
片側の口角だけをわずかに上げ、意地悪な笑みを浮かべる。ヴィヴィアンは遠慮なくそれを睨みつけた。
「……違うわよ。仮に、万が一、どうしても一つだけ持ち出すなら……昨年の、ハーヴィエ侯爵家の特注ハイヒール。あの時の、でっかい青のビジューがついたやつが良い。うちの飾り棚の真ん中に置きたい」
「靴を飾るな」
ゼノの咥える葉巻から、甘く乾いた香りが漂う。
白い煙が店内の喧騒に溶けていくのを、ヴィヴィアンは虚ろな目で眺めた。
「……悔しかったわ。盗人扱いされて」
不意に、心の底からの本音が漏れた。
アルコールと、甘い煙の香りに酔わされたせいかもしれない。
ゼノはその言葉を聞いても驚く様子はなく、ゆったりと煙を天井へ逃がすのみだった。ヴィヴィアンはすぐに気まずくなって、皿に残っていた硬い豆をフォークで突き刺して口に放り込む。そろそろお暇しようと急いで咀嚼していたら、ゼノは何かを考えるようにしばらく黙り込んだ後、フッと薄く笑った。
「……副支配人な。ああ見えて、若手の頃に二階の雑貨フロアから、置き時計をくすねようとして首になりかけたことがあるらしい」
「えっ」
「出入り口で守衛に見つかったらしいがな。数ヶ月の減給処分をくらったそうだ。支配人も、昔勤めていた商店で、下っ端の頃に廃棄の高級布地を勝手に持ち帰って、ボスから雷を落とされたとか」
「ええ……」
「人間、常に誘惑の中にいれば、誰しもそんなこともあるって話だ」
先ほどまで浮かんでいた微かな嘲笑はすぐに消え失せ、彼はいつも通りの冷めた顔つきで煙を吐き出した。
励まされているのだと、理解した。
店の裏口で髪を乱された瞬間から、分かっていたことだった。彼と二人きりで飲みに出ることなど出会ってから今までほとんどないのに、このタイミングでの誘いには他に意図はないだろう。何より、あの緊迫した場において、誰よりも先にヴィヴィアンを信じ、疑いを逸らしてくれたのも、彼だった。
「でも、私は……どんな状況にあっても、絶対に盗みなんかしないわ」
泣きそうになっていることを悟られたくなくて、ヴィヴィアンはわざと語気を強めて言い張った。ゼノはそんな彼女をじっと見つめた後、椅子の背もたれにぐったりともたれかかり、疲れたように首を鳴らす。
「……俺なら、給料の前借りなんて無様な真似をするくらいなら、誰にもバレないように地下倉庫の品を一つ、綺麗に頂くがな」
顔色一つ変えずに、冗談なのか本気なのか判断がつかない冷淡な口調で語る。
「昨年、カルマン男爵家から返品になったドレスが良いな。ふくよかなご令嬢の体型に合わせて、布地がふんだんに使われたアフタヌーンドレス。あの無駄なほどにたっぷりとついたフリルを解くだけで、最高級の仕立て糸と布地が大量に確保できる。飾りのレースも老舗工房の一級品だ。胸元と袖口にあしらわれていたビジューも、バラして宝石商に持ち込めば良い小遣い稼ぎになる」
「……さすが、よく覚えているわね」
「当たり前だ。あのドレスのせいでどれだけ赤字処理の尻拭いをしたと思っている」
昨年、彼は外商部とオーダーメイドドレスの返品対応を巡って、連日揉めに揉めていた。その忌々しい記憶を思い出したように、ゼノは眉を寄せて荒々しく煙を吐き出す。葉巻の先に長く溜まった灰を、陶器のトレイに押し付けて落とした。
「…………ありがとう」
タイミングとしてはあまりにも脈絡がないとは分かっていたが、今この瞬間を逃したら二度と言えないような気がして、ヴィヴィアンはそっと呟いた。ゼノの冷たい灰色の目が、ふと動きを止めてじっとこちらを捉える。
「今日は、フォローしてくれて。助かった」
面と向かって彼に素直な感謝を述べたことなど、今まであっただろうか。記憶の糸を必死に手繰ってみたが、心当たりは一度もなかった。仕事の上で彼に助けられた瞬間など、数え切れないほどあったというのに。
ゼノは大した驚きも感慨もないように、相変わらずの無表情のままだ。だが、そのいつも通りの態度こそが、今のヴィヴィアンには救いだった。
「もう二度と、あんたに余計な借りは作らないわ」
そして、しおらしく黙っていられないのが、彼女のどうしようもない性分だった。ゼノは呆れ果てたように口から煙を吹くと、どこか挑発的な目線を彼女に返す。
「ああ、そう願うね」
その顔が憎らしくて、ヴィヴィアンは不機嫌に顔を歪める。冷たい灰色の虹彩を睨みつけながら、なんとなく、この日、この生ぬるい夜のことは、一生忘れられないだろうと確信した。




