7.金の檻を蹴って
春の訪れとともに、次の秋冬に向けた新作展示会が始まった。
ヴィヴィアンは部下のメアリーと仕入れ担当者、そしてゼノを連れ、連日アトリエを巡る。彼女の審美眼と、ゼノの冷徹な予算査定を経て、ルミナス・クラウンに並ぶ「宝石」たちが選別されていくのだ。
繊細に作り込まれた美しい服飾品の数々にヴィヴィアンはうっとりと魅了されながらも、プロとしては厳しい目で品物を見定めていく。どんなに素晴らしいものであっても、顧客のニーズに合わなければ取り扱うことはできない。
「『オーレリア・ヘリテージ』の新作は間違いがないわ。ホリデーシーズンの目玉に、あの豪華なネックレスは絶対に並べたい」
「バカを言うな。あれはコストがかかりすぎる。取り扱うとしても外商のみだ。店頭用にはもっと安牌な品を揃えろ」
「寝ぼけたこと言わないで、店頭に出すのよ! あれくらい華やかなものがないと、ホリデーの盛り上がりが出ないでしょう。この時期に夢を売らなくてどうするのよ」
朝から三つの展示会を回り、午後の休憩を兼ねたティータイム中、経験の浅い仕入れ担当とメアリーを置き去りにして、二人の小競り合いが始まった。
お互いに一歩も引かないため一見すると険悪なムードだが、これはいつものことだ。
「だからあんたは三流だっていうのよ。この世界のことが何にも分かってない」
「お前の言う通りに何でも仕入れていたら、うちは破産だ、この装飾中毒」
「あんた今日一日何を見てきたのよ? 数字ばっかり追いかけて、商品の本質を全く理解できてないわ。そもそも感性が死滅してる」
「浪費の奴隷だ、お前は」
「ポンコツ計算機」
飛び交う罵声の間で、メアリー達は死んだような顔で静かに茶を啜っていた。
一行がルミナス・クラウン前で乗り合いの馬車を降り、従業員口へ向かおうとした、その時だった。
「ヴィヴィ!」
背後から聞き覚えのありすぎる声が響き、ヴィヴィアンの全身が凍りついた。
次の瞬間、力強く腕を引かれて振り向かされる。そこにいたのは、爽やかなサックスブルーのコートを纏い、春の青空をそのまま切り取ったようなフェリックスだった。
昨年最後に会った時と変わらない、澄んだ碧色の瞳。それが今は、切実な色を孕んでヴィヴィアンを射抜いている。
彼はヴィヴィアンの腕を掴んだまま、ずんずんと歩き出した。すぐ近くには彼の家紋が控えめに入った黒い馬車が停まっている。抵抗も忘れてよろよろと引き摺られていくヴィヴィアンの背中に、鋭い声が飛んだ。
「ヴィヴィアン!!」
低く、怒気を孕んだ声。
ハッとして振り返ると、人混みの向こうでゼノが肩を怒らせ、こちらを鋭く睨みつけていた。バタリと馬車のドアが閉まるその瞬間まで、ヴィヴィアンはその目から顔を逸らすことができなかった。
馬車が動き出す。二人きりの車内で、ヴィヴィアンは隣に座るフェリックスを青い顔で見つめた。
「……何を考えているの」
「ヴィヴィ、会いたかった」
フェリックスは今にも泣きそうな顔で、彼女の頬に触れる。
「だめよ」
その手をぱしりと振り払うと、彼の端正な顔に絶望の色が浮かんだ。
「……君に会えない日々は、世界から色が失われたようだった。戻ってきてほしい、ヴィヴィ。あの別邸は、今もあの頃のままだ。誰にも立ち入らせていない」
「バカなことを言わないで……!」
「僕は本気だ。君のことしか愛していないんだ」
フェリックスは熱く大きな手で、強引にヴィヴィアンの頬を包み込んだ。宝石のような瞳に吸い込まれそうになり、ヴィヴィアンは顔を逸らしてぎゅっと目を瞑った。
「ヴィヴィ……」
「モンフォール様、おやめになって」
突き放す呼び名に、彼の手が強張る。
「貴方が愛さなくてはならないのは、奥方お一人でしょう」
「違う……僕には君だけだ。この半年間、君のことを考えない日は一度もなかった」
悲痛な声を上げ、強引に唇を重ねようとする彼を、ヴィヴィアンは必死で押し止めた。
「こんなことをされるのは、迷惑よ。もう婚姻前とは違うのよ。あんな往来で、誰の目に留まったか……私は良い笑い者だわ。貴方の元へ戻って、これからどうしろと言うの? 今度こそ醜聞が広まれば、私は店に立つこともできなくなる」
「そうなって何の問題がある? 言いたい者には言わせておけばいい。もう働きに出る必要もない。あの邸で静かに暮らしている限り、誰にも邪魔されることはないよ」
ヴィヴィアンは唖然とした。
フェリックスの瞳はどこまでも澄み、迷いなど微塵もないように見えた。
「ヴィヴィ、君の好きなものはあの邸へいくらでも届けてあげる。この世の美しいものは、すべて僕が揃えよう。二人で、あそこでいつまでも穏やかに暮らそう……」
どこまでも甘く、縋るようなその声。ヴィヴィアンは目眩を覚えながら、眉間に皺を寄せ、一度深く、長く息を吐き出した。
ガタガタと揺れる馬車の振動が、彼女の意識を現実へと繋ぎ止める。
「……フェリックス……それでは、ダメなのよ」
絞り出すような小さな声で、彼女は言った。
「貴方は、私に『一生日陰で生きろ』と言っているのよ。その自覚はあるの?」
フェリックスは押し黙った。
頬を包む手が、わずかに震える。
「……不自由な想いは、絶対にさせない。君が望むものはなんでも叶える。あの百貨店以上の夢を、僕なら君に与えられる」
泣きそうな顔で追い縋られても、ヴィヴィアンの心はもう凪いでいた。
「フェリックス。……貴方は本当に、それを『美しい』と思う? それが私の選ぶ道だと、本気で思っているの?」
ガタリ、と馬車が大きく揺れた。
「馬車を戻して、フェリックス。……まだ、仕事中なの。貴方の元には、もう戻らない」
フェリックスは絶望に沈み、ヴィヴィアンの肩に顔を埋めて動かなくなったが、彼女はもう、それ以上の言葉を持たなかった。
馬車はしばらく街道を進んでいたが、やがて停まり、ゆっくりと迂回して、もと来た道を戻っていった。
百貨店の数ブロック手前で馬車を降り、ヴィヴィアンは一人、早足でメインストリートの端を歩いていた。その顔からは完全に感情が抜け落ち、アメジストの瞳は虚ろな闇をたたえている。
その時、ゴツッと不快な硬い音が響き、彼女の細い身体が大きくよろめいた。細いヒールが石畳の溝に取られ、小さな左足からすぽりと抜け落ちてしまったのだ。
「……っ」
小さく舌打ちを漏らしながら、ヴィヴィアンはかがみ込んで靴を履き直す。つま先に繊細なビジューが散りばめられたそのヒールは、彼女がお気に入りの工房から買い求めたばかりの、この春の新作だった。だが、どうにも履き心地は今ひとつだ。ストッキング越しに踵を改めれば、その肌はうっすらと赤く擦れており、あと少し長く歩けば間違いなく靴擦れに変わるだろう。
可憐なデザインにひと目で心を奪われて買い求めた品だったが──どれほど美しくても、自分の足に合わないのであれば、これ以上無理をして履き続けるべきではないのかもしれない。
ヒリヒリと痛み始めた足を再び革の内に滑り込ませながら、ヴィヴィアンは視界がじんわりと歪み始めたことに気が付いた。溢れそうになる熱いものを遮るように、ぐっと目尻に力を込める。
(泣くものですか)
ぎりっと奥歯を噛み締め、痛む足で容赦なく石畳を蹴りつけるようにして歩みを再開した。
先ほどまで眩しいほどに照りつけていた太陽は、いつの間にか厚い雲の向こうへと隠れ、王都の街並みは寂しげな灰色に翳りはじめている。やがてポツリポツリと冷たい雨粒が頬や肩を打ち始め、ヴィヴィアンは着慣れたスカートの裾を持ち上げて歩調を早めた。
辿り着いた先で、高くそびえ立つ白い石造りの豪奢な建物を見上げる。
どれほど空が暗く陰ろうとも、このルミナス・クラウンだけは変わらず、常に圧倒的な美しさで街に鎮座している。
重厚な正面扉が開き、この春の新作を身に纏った貴族のご令嬢たちが、満足そうな笑顔で出てくるのが見えた。その華やかな輝きを目にした瞬間、ヴィヴィアンの虚ろだった瞳にふっと光が戻る。彼女は濡れた頬をそっと拭うと、いつもの誇り高きプロの顔で、薄紅色の唇を美しく微笑ませた。
「ねえ! 展示会で私がもらったサンプル、どこに置いたの」
事務室にノックもせずに入り、ヴィヴィアンは高慢な口調で言い放った。ゼノが目を見開き、入ってきた彼女を凝視する。
ヴィヴィアンはその視線に気付かないふりをしてカツカツとヒールを鳴らして部屋へ踏み入ると、執務机の前のソファにどかりと腰を下ろした。
天井へと腕を突き上げ、のんびりと伸びをする。
「……お前の私物置き場に放り込んだ」
「はあ? あのさ、別に私物として貰ったわけじゃないんだからね。売り場に出すかをスタッフたちと検討しようと思ってたのよ。何よ、そのまま持ち帰ってもいいって言うなら遠慮なく貰うわよ」
舌打ちまじりに憎々しい口調で捲くし立てると、ヴィヴィアンは疲れたため息を吐いてソファに深く身を沈めた。そのまま腹の上で手を組み、目を閉じる。
「……ここで寝るな」
「十五分経ったら起こして」
ゼノが思い切り睨みつけてくるのも構わず、ヴィヴィアンはそのまま仮眠に入った。やがて事務室には、パチパチとゼノが算盤を弾く音だけが響き始める。
頭の中で、先ほどの馬車での会話がぐるぐると回った。
端正な顔を歪め、項垂れるフェリックス。
『お願い。貴方はずっと、美しいままでいてね』
馬車を降りる際、最後にそう告げると、彼は泣き出しそうな顔を無理やり微笑ませ、力なくヴィヴィアンの手を握り、そしてゆっくりと離した。
もう二度と、会うことはないだろう。
いつか遠くで見かけることがあっても、それはもう、手の届かない至高の宝石として眺めるだけだ。
「起きろ、服バカ」
温度の低い声で罵倒され、意識が引き戻された。ゼノがばさりと書類の束を置き、ため息を吐く。
「十五分経った」
優しさの欠片もない、無愛想な宣告。
「んー……」
ヴィヴィアンは小さく唸り、一度頭を上げたが、すぐにソファの柔らかさに負けて沈み込んだ。全身が鉛のようにだるかった。
「おい、これ以上さぼるな。さっさと起きて働け、給料泥棒」
「ねえ……このソファださいけど、座り心地は最高ね」
「よだれ垂らすなよ」
「ねむーい……」
だらだらと起きる気のないヴィヴィアンを横目に、ゼノは淡々と書類にペンを走らせる。羽ペンがカリカリと紙を掻く音を聴きながら、ヴィヴィアンはその後ゼノから鋭い手刀を浴びるまで、心地よい微睡の底へと落ちていった。




