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6.甘い悪夢

暗い部屋に布地が擦れる音が、密やかに響く。

後ろから強引に抱きすくめられ、ヴィヴィアンは浅く息を漏らした。節くれだった男の大きな手が、細い腰をがっちりと掴んだ。逃げ出したくて身をよじっても、筋肉質な太い腕はビクともしない。


「ヴィヴィアン」


低い声が鼓膜に響く。聞いたこともないほど優しく名を呼ばれて、ヴィヴィアンの胸が高鳴った。顔を後ろに仰け反らせて振り振り返ると、男は鋭いグレーの瞳を柔らかく蕩けさせ、また微かに笑う。その顔があまりにも優しくて、思わず、男の薄い唇に自らの桜色の唇を寄せた。


「ゼノ………」



その瞬間。


ヴィヴィアンはぱちりと両目を開いた。


キーンと耳が痛くなるほどの静寂。そして、暗闇。

ドッドッドッ、とうるさく心臓の鼓動だけが部屋に響いている。

がばりと身体を起こし、混乱する頭で暗い室内を見回した。何の変哲もない、見慣れたアパートの自室。跳ね除けた毛布の隙間から、冬の冷たい空気が入り込み、火照った身体を一気に冷ましていく。


「えっ」


戸惑いの声が口から勝手に漏れた。


「は? 何?」


動揺のまま、独り言が止まらない。


「嘘。うそ、うそ、うそ」


ばちんと音が鳴る勢いで、両手で顔を覆った。自分が信じられなかった。吐き出す息が、情けなく震える。


『ヴィヴィアン』


思い出すだけで体の奥に熱が集まりそうになるのを、ヴィヴィアンは「わーーーーー!!!」と大声を出して制した。

うるさい。

隣室から苦情が来るかもしれない。慌てて自分で口を塞ぎながら、どきどきと止まらない鼓動を必死で抑えつけた。


(違う違う違う!! あんなこと、願ったこともない、絶対に!!!)


名前を、彼からまともに呼ばれたことさえない。

出会って最初の数ヶ月、まだ他人行儀だった頃に敬称付きでぎこちなく呼び合っていた時期があったくらいで、気づけば罵倒し合う仲になって、今に至るのだ。

断じて、先ほどのような甘い熱を交わす関係ではないし、想像したことすらなかった。それなのに。


「いや、なんで……っ、なんで、あいつ……」


自分を呪い殺してしまいたくなりながら、ヴィヴィアンはベッドに突っ伏した。

とんでもない夢を見てしまった。自分自身にさえ許されない、最悪の夢を。



その夜は結局まともに眠り直すことができず、ヴィヴィアンは目の下に濃い隈を作って出勤した。

こういう時に限って、一番会いたくない人物に真っ先に鉢合わせてしまうのが人生の不条理だ。

百貨店裏、従業員用の入場口。

受付で記帳を済ませて前を向くと、出勤する多くの人に紛れて「奴」がいた。いや、紛れていない。細身の従業員が多い中、無駄に図体のデカイ男は目立って仕方がないのだ。ほとんどの人間が一般向けフロアに向かう中、五階へ向かうスタッフは限られている。階段を登る足音が少なくなったタイミングで、彼はおもむろに振り返った。


「なんだ、お前か。声くらいかけろよ」


後ろからこそこそと追う形になっていたヴィヴィアンは、びくりと肩を跳ねさせた。その過剰な反応に、ゼノが怪訝そうに眉根を寄せる。

振り向かれるとは想定しておらず、ヴィヴィアンは狼狽えた。

一気にあの夢の映像が生々しくフラッシュバックして、思わず口を開く。

彼女が何を言い出すのか、ゼノは足を止めたままじっと見下ろしてくる。冬空のような灰色の瞳が、夢の温度と重なった。


「……この、ド変態!!!」


結局、口をついたのは理不尽極まりない罵声だった。ヴィヴィアンはカツカツとヒールを鳴らし、早足で彼を追い抜いて階段を駆け上がった。

取り残されたゼノは呆気にとられ、ポカンと立ち尽くす。


「なんだ、あのバカ」


ゼノは一応の苛立ちを見せたが、彼女の暴言は日常茶飯事だ。深く気にする様子もなく、彼は大きな背中を揺らして自分の職場へと向かった。




寒さが深まり、今年もまた、地獄のホリデーシーズンがやってきた。


一年の最後を締めくくる「精霊祭」に向け、街中の人々の財布の紐が最もゆるむ時期。守護精霊に感謝を捧げ、大切な人とぬくもりや贈り物を分かち合うこの伝統的な祝祭は、百貨店にとっては一年のすべてを賭ける最大の商戦期だ。


精霊祭が本格的に始まる頃には、貴族たちは王都の邸宅を離れ、自身の領地や本邸で連日連夜のパーティーを主催する。そのため、百貨店へのドレスや宝飾品の特注は精霊祭の半月前までに怒涛のごとく集中し、その期間、ルミナス・クラウンの従業員たちは息を吐く暇もないほどの狂騒に追われることとなる。


「『グラン・エトワール』のホリデー限定ブレスレットはどこへ飾ったの!?」

「あれなら昼のうちに、外商部が急ぎで持ち出していきました!」

「嘘!? そんな話聞いてないわよ。……はあ、いいわ、じゃあそっちの銀細工を持ってきて、とりあえずこの隙間を埋めて。ねえ、明日ご予約分のヘッドドレスはもう届いてる?」


ヴィヴィアンもまた、常に売り場とバックヤードを忙しなく往復し、声を張り上げて指示を飛ばし続けていた。連日の奮闘が実を結び、今年の売り上げは既に昨期を数割も上回ったという。支配人とあの男の顔色が良いわけである。

喧騒が渦巻く売り場にあっても、冷たい鉄仮面を崩さないゼノの横顔をチラリと盗み見ると、ヴィヴィアンは胸の中で小さく舌打ちを鳴らした。



だが、嵐のような繁忙期を抜けた途端、百貨店はまるで嘘のように静まり返る。

精霊祭を迎える頃には、普段王都で暮らす大半の人々が故郷へと帰省してしまうからだ。メインストリートを往来する馬車の影もまばらになり、それに合わせるようにルミナス・クラウンも年明けまで長期休業に入る。

重々しく閉じられた扉の向こうで、実は大掃除や大規模な棚卸し、あるいは上顧客である貴族邸への外商納品が細々と行われているのだが、出社する従業員はわずかだ。

そもそもルミナス・クラウンで働く者の大半は、行儀見習いを兼ねた貴族の出である。店の休業と共に多くのスタッフが長期休暇を取り、地方の実家へと帰っていく。


この時期に店に残るのは、少しでも手当てを稼ぎたい平民や商家の出身者か、王都に本邸があり異常な愛社精神を燃やす変わり者、あるいは実家が遠すぎて移動を面倒がるような筋金入りの不精者くらい。


そして今、人気のなくなった五階のバックヤードで、半年分の帳簿を黙々と整理しているヴィヴィアンは——田舎へ帰る金銭的余裕などどこにもない、没落貴族出身の自称・平民だ。

さらに、テーブルの斜向かいで同じく帳簿と格闘し、眉間に深い皺を刻んでいるゼノはといえば、正真正銘の子爵家三男である。本来なら実家で優雅に過ごせる身分のはずだが、彼は例年、年末になっても近隣の領地へ戻ろうとはせず、全体休暇に入るギリギリまで当然のような顔で出社し続ける、筋金入りの変わり者なのだった。


(愛社精神があるようには、見えないけれど)


帳簿の整理が一段落ついたところで、ヴィヴィアンは両腕を天井へ大きく伸ばして背筋を解した。息を吐きながら、斜め前の男を睨むように見据える。彼は大して休憩を取ることもなく、黙々と作業に没頭していた。

ふと、書類をトントンと揃えて枚数を数え出したその手元に目が留まる。骨ばって節くれだった指先が、薄い用紙の束を丁寧に捌いていく。ふいに、その手があの夢の中で自分の胸を愛撫していた感触と重なり、ヴィヴィアンは思わずガタリと椅子を鳴らしてのけ反った。

紙を数える手がぴたりと止まり、険しい灰色の瞳がジロリとこちらを向く。思いがけず見つめ合う形になったが、彼は不愉快そうに顔を歪めた。


「は? 何?」

「は? 何でもないわよ」


お互いに威嚇するように低い声を掛け合い、即座に目を逸らす。ゼノは追い打ちをかけるようにチッと舌を打った。


(こんな男を変な目で見るとか、どうかしてる)


気づかれないように深く息を吐き出し、ヴィヴィアンも作業を再開した。きっと年末の疲れが出ているのだと心の中で言い訳をする。百貨店が休業に入ってからというもの、このバックヤードで彼とはほとんど毎日のように二人きりで裏方の事務作業を進めているが、色っぽい空気になることなどありえなかった。目を合わせれば睨み合い、優しく甘い言葉を掛け合うなど逆立ちしても想像できない。


「お二人さん、食堂で『納会』が始まるぞ」


廊下から顔を出したのは、外商部のベテランスタッフだ。声をかけられ、ヴィヴィアンは慌てて立ち上がった。


「え、もうそんな時間?」

「早くしないと、美味いもんから無くなるからな」

「すぐ行く!」


年末休業中の静まり返った館内で、唯一にぎやかな声が上がるのが、この地下の従業員食堂だ。休業中に賞味期限を迎えてしまう食材や、売り場に出せなかった訳あり品、食堂の余り物が一堂に会する在庫整理の食事会──名ばかりの「納会」である。

この時期に出社している数少ないスタッフにとっては、普段は手に届かないようなご馳走に預かれる密かな楽しみでもあった。


「ねえ、このブランデーケーキって日持ちするわよね。私、塊で持って帰りたいんだけど。あと干し肉とチーズも。芋も欲しいわ」

「あのよぉ、ヴィヴィアン。この会は一応、この場で皆で食事を楽しもうって名目なんだぞ。持ち帰りの品を吟味する場所じゃねえ」

「だって、この時期は他の店も全然営業しなくなるんだもん。年明けまで餓死しないように食料を確保しておかなきゃ」

「そうならないように、もっと事前にちゃんと買い込んでおかないからだろう。全く……」


厨房にズカズカと入り込み、シェフたちに呆れ顔をされるのもおかまいなしに、ヴィヴィアンは数日分の食料を自前の亜麻袋に押し込んだ。満足いくまで食料を確保してから食堂へ戻る。五階のスタッフが集まるテーブルを見つけて近寄ると、ゼノが無言で自分の隣の椅子を片腕で引き、着席を促した。


「どうも」

「お前、また『強奪』してきたのか」

「食材が無駄にならないように協力しているのよ」

「ハハッ、ヴィヴィアンは相変わらずだなぁ」


向かいの席には外商部のスタッフたちが座っている。休業中の百貨店で、最後まで忙しなく働き続けている彼らも、この納会中はやっと人心地つけたようで、すでによく酒が回って顔を赤らめていた。


外商部(そちら)は今年も大忙しだったようね。おかげで婦人服(うち)の来期の予算が充分に確保できそうだわ。お疲れ様」

「いやぁ、今年は本当に怒涛だったよ。特に先月末はモンフォール家とローレンス家の婚姻があったから、今朝までそのお祝いの品の発注分で振り回されっぱなしでさ」


白ワインに手を伸ばしていたヴィヴィアンの指先がぴくりと跳ねたが、誰もそれには気づかない。


「あのモンフォールがねぇ。本当に伯爵令息だったんだな」

「あいつはどう見ても由緒正しい貴族のお坊ちゃんだったよ。見ていただろう、あの気品ある身のこなし」

「婚礼の儀には支配人と外商部(うち)のリーダーも出たんだが、それは盛大なものだったそうだぜ。俺も一度でいいから伯爵家同士の式を覗いてみたいもんだ。国中の金持ちが集まるっていうんだから、良い商談が目いっぱいできそうだしな」

「なあ、そういえばランバートは式に招待されていたんだろう? どうだった?」

「式には出ていない」


話を振られ、ゼノは手元の肉を切りながら素っ気なく返答した。


「この繁忙期に休みが取れなかった。祝いの品だけ贈ったよ」

「お前も冷たいねぇ。モンフォールも、お前には随分と懐いていたというのに」

「あの男は誰にでもそうさ」


(招待、されてたんだ)


会話に加わる気力もなく、ヴィヴィアンは静かに目の前のパテにナイフを刺した。フェリックス・モンフォールとセシリア・ローレンスの婚礼の儀は、先月、王都の大聖堂で盛大に催され、多くの貴族の賓客で大変賑わったと聞く。貴族の婚礼は、商売人にとってはこの上ない商機だ。ルミナス・クラウンのような百貨店で働く以上、その話題を避けることはできなかった。


「懐くといえば、ヴィヴィアン。お前もあいつの研修中は随分、仲良くしていたじゃないか。俺はてっきり、恋人同士になっていたものだとばかり思っていたが。実際のところ、どうだったんだ?」


斜向かいに座っていた商家出身の男性スタッフが、遠慮もなく踏み込んできた。パテを口に含んだ瞬間だったおかげで、すぐに反応が返せなくても怪しまれずに済んだ。ヴィヴィアンはわざとゆっくりと咀嚼し、すまし顔を崩さない。


「どうもこうもないわよ。彼は完全に鑑賞対象。大体、私のような身分の者と伯爵令息がどうなるわけもないでしょう」

「そうだったのか? ……いやな、モンフォールにはほら、しばらく平民の愛妾がいると噂になっていただろう。俺たちはてっきり、それがお前なのではないかと」


さすがに外商の人間は貴族のスキャンダルにも明るい。この口ぶりでは確証を得られていないようだったが、彼らが随分前からヴィヴィアンとフェリックスの関係を窺っていたことは明白だった。


「……人違いだな。そもそも、この女は平民ではない」


ヴィヴィアンがどう答えようかと逡巡していた時、思いがけない言葉が隣の男から飛び出した。


「え? そうなのか?」


スタッフたちの視線が、一斉にヴィヴィアンの隣へと移される。ゼノは平然とした様子で赤ワインを飲みながら言葉を続けた。


「こう見えて男爵令嬢だぞ、この服狂いは」

「はぁ!? ヴィヴィアン、お前ずっと平民だって言い張っていたじゃないか」

「俺たちの仲間じゃなかったのかよ!」


再び視線が自分に集まったが、先ほどまでの邪推するようなものではない。ヴィヴィアンは急な話題の転換に戸惑いつつ、渋々頷いた。


「……まあ、もうすっかり没落してて、そのへんの平民以下の暮らしだけどね。あんたら商家の方が、よっぽどお金持ちでしょ」

「何だよそれ。家名は?」

「教えないわよ。ほんと、うちには情けない話しかないんだから」

「どんなものでも爵位を隠すなんてもったいないことしやがる。顧客からの扱いも変わるんじゃないか?」


その言葉に、ヴィヴィアンはフッと鼻を鳴らした。


「私、家名の一つや二つで態度を変えられるような甘い仕事はしてないの」

「おお、さすがだね」

「はあー、しかし贅沢だね。使ってないならうちにその爵位くれよ。実家の店がさぁ……」


それから話題は自然と移り変わり、ヴィヴィアンとフェリックスの関係についてはすっかり興味が失われたようだった。実家の財政を嘆く商家出身の外商スタッフの愚痴で盛り上がるテーブルの隅で、ヴィヴィアンはそっと隣のゼノを盗み見る。


ワインが回り始めたのか、頬がわずかに赤く、三白眼が座ってますます目つきが悪い。彼の皿には先ほどまで大量の肉料理が載っていたはずだが、すっかり平らげられてしまっていた。


(助けて、くれた)


どうしようもないむず痒い気持ちが、胸の奥から湧き上がってきた。これが、メアリーのように日頃から自分をサポートしてくれる存在だったら、純粋な感謝だけでおさまっただろう。しかし、この男はそうではない。普段は執拗にヴィヴィアンの仕事の粗を探し出し、嫌というほど突いてくるというのに、こんな形でフォローをされるとは思わなかった。ヴィヴィアンの弱みを握った立場を利用して、仕事を優位に進めることだってできるはずなのに、この男にはそんな素振りが一切ない。


このテーブルに着いてから、目線だって一度も合わない。年の瀬の疲れを労う言葉を掛け合うこともない。


思わず、テーブルの下で、カツンと男の脛を蹴った。パンを千切ろうとしていた手を止め、ゼノがギロリとヴィヴィアンを睨みつける。


「んだよ」


この上なく不機嫌な低い声で凄まれたが、ヴィヴィアンはそれを無視して優雅にワインを煽った。


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