5.歪みなき美学
「どうしたんだい?」
美しく咲き誇る薔薇の庭園を望むカフェテラスで、フェリックスはヴィヴィアンの顔を覗き込んだ。陽射しを浴びて、彼の金糸の髪が輝いて見える。声をかけられてもなお、ヴィヴィアンはぼんやりと彼の顔を見つめ返すだけだ。
「今日は朝からずっと上の空だね。体調が優れないの?」
フェリックスは心配そうに表情を曇らせ、身を乗り出してテーブルの上に置かれていた彼女の手を包み込んだ。温かな感触を確かめるように、キュッと力が込められる。ヴィヴィアンは薄く微笑みながら、静かに首を振った。
「いいえ。大丈夫よ」
「大丈夫な顔には、見えないけれど。何か、心配事でも?」
重ねて問われ、ヴィヴィアンは思わず真っ直ぐに彼を見据えた。快晴の空のような虹彩が、気遣わしげに揺れている。見つめられて、フェリックスは不思議そうに首を傾げた。
「フェリックス……何か、私に話すことはない?」
「話すこと?」
重ねられた手をゆっくりと握り返すと、フェリックスは何も思い当たる節がないといった様子で、困ったように眉を下げた。ヴィヴィアンは力なく微笑んだ後、意を決して腹に力を込め、背筋を伸ばし直した。
「貴方の家のことで。大切なお話が、あるのではないかと思って」
フェリックスの目が見開かれる。
いつも宝石のように輝いていた瞳が、一瞬だけ昏く影を落としたように感じられた。
しかし、次の瞬きでそれはすぐに元通りの穏やかな色へと戻り、彼は柔らかく笑う。
「ヴィヴィ。君が心配するようなことは、何もないよ」
どこまでも凪いだ、迷いのない返答。
困惑を隠せないヴィヴィアンを見つめながら、フェリックスはこの上なく美しい笑みを湛えてゆっくりと立ち上がった。
「邸へ戻ろうか。やはり少し、顔色が悪いようだから」
優雅な仕草で差し出された手を、ヴィヴィアンは数秒間、じっと凝視した。完璧に手入れされた肌、長くしなやかな指。彼はどこまでも優しい表情のまま、彼女がその手を取るのを待っている。
ヴィヴィアンは何も言えないまま、自分の冷え切った手を、そっとその上に重ねた。
夏の終わり。
ヴィヴィアンが常連である伯爵夫人の接客をしていた時のことだった。
「この冬にとあるご婚礼があってね。今日はその時に履いていく靴を探しに来たのよ」
「まあ、それは素敵なことですね。ドレスはもうお決まりになりましたか?」
「先日、外商が持ってきてくれた紫のものに決めたわ。だけど小物は貴女に見繕ってほしくて来たのよ。正直なところ、貴女の方がこういったものはずっとセンスが良いから」
他の従業員には聞こえないよう、夫人は扇の下で悪戯っぽく囁いた。ふふ、とヴィヴィアンは完璧に美しい微笑を返す。
「あのドレスに合わせるのでしたら、こちらはいかがでしょうか。それと、ちょうど色合いの素晴らしいブレスレットも入荷しておりますので、合わせてみられますか?」
「ああ、やはり貴女の提案には間違いがないわ。是非お願い」
ヴィヴィアンが持ってきた数足のハイヒールの煌めきに目を輝かせ、全身鏡を覗き込みながら夫人は上機嫌に試着を続けた。
「ねえ、ヴィヴィアン。ところで、貴女の家名はなんというの? 今度、ご紹介したい方がいるのよ」
ヴィヴィアンの手が、ふと止まった。
「恐れ入ります。私、名乗れるような家名はございませんの」
「まあ……平民だったの? 私はてっきり、どこかのご令嬢だとばっかり。見目麗しいし、所作もとても洗練されているから」
「ふふ、こちらで高貴な皆様から学ばせていただいたおかげですわ」
「残念だわ……。貴女にとても合いそうな、誠実な男爵家の御坊ちゃまがいたのよ。そう、平民だったのね……」
夫人はひどく残念そうに息を吐いた。ヴィヴィアンは薄い微笑を貼り付けたまま、夫人の足から丁寧に靴を抜き取る。
「私のような卑しい身分の者が、このように御御足に触れることはご不快でしょうか」
「まあ、とんでもないわ。ごめんなさいね、そういう意味ではないのよ。ただ、貴族との結婚は勧められないから、少し気落ちしてしまっただけ。店員としての貴女の手腕は、誰よりも信頼しているわ」
「有難き幸せに存じます」
白手袋を嵌めた手でまた別の靴を箱から取り出しながら、ヴィヴィアンは美しく微笑んだ。夫人はそれを見て、再びため息を吐く。
「……そういえば今度、私が出席する婚礼のね。さる伯爵家の若君なんだけど、平民の愛妾がいると噂になっているのよ。困ったものね」
ヴィヴィアンの指先がわずかに強張る。新たに穿かされたヒールの輝きを鏡で確認しながら、夫人は退屈しのぎの世間話を続けた。
「婚礼までにどう始末されるのかと、社交界ではその話で持ちきりよ。平民と深い仲になるなど、一体どこで出会うのだか……。まあ、奥方になるご令嬢とも最近は仲睦まじく過ごされているそうだから、正式な婚姻後は案外すんなり別れるのかもしれないけれどね」
ヴィヴィアンが特に相槌を打たずとも、夫人は一人でペラペラと言葉を続けた。ヴィヴィアンの瞳から輝きが消えたことには気が付かない。
「……こちらはいかがでしょう。先ほどのものより少し控えめな印象ですが、ドレスが華やかですので、これくらいの方が全体のバランスも取れるかと」
「あら、素敵ね。悪くないわ」
「ブレスレットもお持ちしましょう」
後ろに控えていたスタッフに後を任せ、ヴィヴィアンは軽く一礼をしてその場を離れた。バックヤードに入り、棚から宝飾品の小箱を取り出す。その手が、ふと止まった。
「……………」
数秒ゆっくりと瞬きをし、呼吸を整えてから箱を開けた。大粒のイエロー・サファイアが連なったブレスレットが、薄暗い照明の中でもキラキラと眩い光を放っている。
ヴィヴィアンの年収がまるごと吹き飛ぶほどの価格。その華やかな輝きを見つめ、彼女はふっと、自嘲気味に静かに笑った。
「私、もうここには来ないわ」
次の休日、ヴィヴィアンはフェリックスと肌を合わせた後に、静かにそう告げた。のんびりとベッドに身を投げ出していたフェリックスは、数秒間凍りついた後、ゆっくりと顔を上げた。信じられないものを見るように、ヴィヴィアンを凝視する。
「何を、言っている?」
起き上がり、ヴィヴィアンの手首を強く掴む。服を着ている時は分かりにくいが、細身に見えた彼の身体にはしなやかな筋肉が乗り、その力は間違いなく、逃れようのない「男」のものだった。
「……婚姻まで、あと三ヶ月でしょう。私のことで、すっかり悪い噂が立っていると聞いたわ」
「どこの誰がそんなことを言ってきた? うちの使用人か?」
「誰から聞かなくても、勝手に聞こえてくるほどなのよ」
「ヴィヴィ、そんなものは気にしなくていい」
手を振り解こうとしたヴィヴィアンを、フェリックスは力ずくで抱き込んだ。
「僕と君と、ここで幸せに暮らせば何も問題はない。婚姻のことだって気にしなくていいんだ。ここには妻は来ないし、何も変わらないから」
「……変わらないわけがないでしょう。貴方は『モンフォール伯爵家』の人間なのよ」
「ヴィヴィ……」
「ダメよ、フェリックス。もう、限界なの」
フェリックスは必死だったが、それ以上にヴィヴィアンの意思は固かった。彼女はフェリックスの頬を両手で包み、その瞳を正面から見据えた。
「フェリックス。こうなることは、ずっと覚悟していたの。ただ、貴方を少しでも近くで眺めていたくて、決心がつかずにここまで来てしまっただけ」
揺れる碧色の瞳。
やはり、本物の宝石のようだと彼女は思った。
最後にそっと触れるようなキスをすると、フェリックスの彫刻のような美貌が、くしゃりと歪んだ。それさえも計算され尽くした美術品のように儚く、ヴィヴィアンは見惚れる。
「ありがとう、フェリックス。これほど贅沢な夢を、見せてくれて」
彼の金色の長い睫毛から溢れる涙も、まるでダイヤの粒のように煌めいていた。ヴィヴィアンはそれを、細い指先でそっと拭った。
短い秋はあっという間に過ぎ去り、冷たい風が鋭く肌を刺す季節になった。
「あー、朝から凍死するかと思ったわ」
重いベロアのコートを脱ぎながらヴィヴィアンはうんざりとした声をあげたが、冬という季節自体は嫌いではなかった。厚みのある生地の重なりをさまざまに工夫をして楽しめるこの季節は、服好きの彼女にとって悪いものではない。
店頭のトルソーに新作のショールを重ね、丁寧に編まれた羊毛の感触ににっこりと微笑んだ。
「おい、流行りボケ。ちょっと来い」
「はぁ? 何よ、守銭奴」
柔らかな手触りを楽しんでいた彼女の心は、不遜な男の声で一気に萎えた。チッと聞こえるようにわざとらしく舌打ちをし、無駄に広い背中を追う。
「何なの。まだ開店準備、終わってないんだけど」
店の裏手の検品倉庫に入るなり、ゼノは床に置かれていた大きな包みを無造作に開いた。その横には外商部の若い男性スタッフも、疲れた顔をして控えている。
「お前、これの何に問題があるか、分かるか」
ゼノが無骨な手で取り出したのは、婦人用の外套だった。重厚な仕立ての、人気ブランドの最新ライン。しかし、それは店頭に並ぶ既製品ではなかった。カスタムオーダーの特注品で、確か昨日、外商から上得意の伯爵家へ納品されたはずの代物だった。
「それはブランドール侯爵家のご注文品でしょう。なぜここにあるの」
「クレームです。品物を見るなり、奥方が『仕立てが悪い』とお怒りになられて……。しかし、昨日工房に持ち込んでも『問題ない』と突っぱねられてしまったんです」
外商の担当者が困り果てた声をあげた。
ヴィヴィアンはゼノの隣にしゃがみ込み、外套を改める。老舗工房で作られたそれは、布地も最高級で刺繍も見事なものだった。一見、完璧に見えたが、ヴィヴィアンは入念に確認を続けた。
「あ……」
外套を裏返し、裏地のキルティングを認めた時、ヴィヴィアンは声をあげた。
「どうした」
「この縫い目……」
ヴィヴィアンが裏地の裾の縫い目を指差すが、男二人は怪訝に眉を顰めるばかりだ。
「分からない? 縫い目がわずかに、波打っているわ。糸が生地を噛んで凸凹になっているの」
手袋を嵌めた指で縫い目をなぞり、その小さな違和感を指摘した。ゼノは注意深く覗き込んだが、やはりよく分からないようだった。
「ブランドール夫人は裁縫の心得があるから、この細かな不備にお気づきになったのね。それにしても……これを作っているのは『アトリエ・ノア』よね。信じられないわ。こんな雑な仕事をする工房ではなかったはずなのに」
「クソ、検品を漏らしたうちにも責があるな。……おい、これを修復するのにどれだけかかる。先方は『明日にでも直したものを持ってこい』と仰っているんだ」
「全体のとじを解いて再縫製するでしょうから、今から取り掛かっても丸一日は必要よ。ねえ、工房は、本当にこれを認めなかったの?」
外商スタッフは力なく首を振った。
「はい。裏地まで入念にチェックをした上で『問題ない』と……。実はあそこ、半年ほど前にオーナーが代わって、職人もここ数ヶ月で大半が入れ替わっているようなんです。先月も子供服で少し不備があって……質が落ちているのかもしれません」
「深刻ね。他の仕入れ品もすべて確認しなくては」
「それは後だ。まずは、これをどうする。そんな工房へ戻しても、大した直しは期待できんだろう」
結局、コートはルミナス・クラウン地下の修繕工房で直されることになった。お針子たちを総動員し、無理を言って修復に取り掛かってもらう。閉店後、締め作業を終えたヴィヴィアンも工房へ向かい、深夜まで手伝った。
縫い直しはなんとか終わり、あとは一晩かけてアイロンで丁寧に生地を整え、馴染ませていくだけだ。
「ヴィヴィアンさん、あとはこちらの者だけで対応できます。有難うございました」
縫い目のチェックを終えたところで、お針子に声をかけられ、ヴィヴィアンは工房を後にした。外商の担当者が疲れた顔で何度も頭を下げるのに手を振り、婦人服売り場のバックヤードに戻る。私服のコートを着込んでいると、控え室のドアがガチャリと開いた。
驚いて振り向くと、そこには不機嫌を絵に描いたような顔のゼノが立っていた。
「何よ。あんた、まだいたの」
「あのコートの修繕費を『アトリエ・ノア』に持たせる交渉で長引いた。あそこはもうダメかもしれんな。……それはそれとして、うちの仕入れ担当も弱腰で当てにならん。あいつ、明日からしごき直す」
毒を吐きながら、彼は不器用な動作でずっしりと重い紙包みをヴィヴィアンに押し付けた。
「何これ。爆弾?」
「あほ。お前の夜食だ」
「え、私もう帰るんだけど」
「らしいな。買って損した」
包みを開くと、そこにはヴィヴィアンが好む、歯応えの強いパンを使ったサンドウィッチが入っていた。思わぬ心遣いに、ヴィヴィアンは一瞬言葉を失う。
「………多いわよ、量が」
どう見ても三人前はあるその重量に、苦笑が漏れた。この男の差し入れはいつもこうだ。七号サイズの服を着こなすヴィヴィアンが、こんなに食べ切れるはずもないのに。
「あんた、まだ残るの?」
「ああ。クソコートのせいで、他の仕事まで手が回っていない」
「コートに罪はないわよ」
「じゃあクソ工房だ」
相変わらず子爵令息とは思えぬ汚い言葉遣いにヴィヴィアンはため息を吐いたが、今日ばかりはその言葉を否定する気にはなれなかった。
「じゃあこれ、あんたの事務室で一緒に食べましょう。私一人じゃ片付けられないから」
ヴィヴィアンが包みを持ち上げて見せると、ゼノの眉間の皺がわずかに緩んだ。また何か悪態をつかれるかと思っていたが、彼も腹が減っていたのかその提案はすんなりと飲まれた。
昼間の華やかな喧騒が嘘のように静まり返った夜の百貨店。その奥まった事務室で、二人は硬いパンを齧った。
「肉も買えば良かったな……」
ゼノが物足りなさそうに呟く。ヴィヴィアンは思わず苦笑した。
「本当によく食べるわよね、あんた。それだけデカく育つわけだわ」
「お前が食わなさすぎるだけだろ。棒きれみたいな手足しやがって。メアリーに聞いたが、家畜の餌を食ってるって?」
「普通のパンよ。切れ端を時々お店からタダでもらえるの。贅沢な農家が家畜に食べさせているだけで、平民の家庭では昔から親しまれているものなのよ。まあ、お貴族様には想像もできないんでしょうけど」
ヴィヴィアンは嫌味を込めて彼を「貴族」として扱ってみたが、目の前の男の食事の仕方は、とても子爵令息とは思えなかった。普段から気品を感じることは稀だが、仕事に対する徹底した厳しさや、細部への忍耐強さには、確かに受け継がれた血の質の良さを感じることがある。
「お前はさ……」
ふと、ゼノがぽつりと呟いた。しかしその言葉は続かずに数秒の沈黙が落ちる。ヴィヴィアンが怪訝な視線で先を促すと、彼は少し躊躇った後、言った。
「いや……。そんなんでよく、伯爵令息の相手が務まっていたな、と」
彼はゆるく微笑みながら、少しだけ呆れた目をヴィヴィアンに向ける。ヴィヴィアンは僅かに気まずくなって、目を逸らした。彼からはフェリックスとの関係については何度も忠告をされたが、ここまで直接的に触れられたのは初めてだった。
「……もう、とっくの昔に別れたわよ」
「知ってる」
「別にあんたの忠告を聞いたわけじゃないからね。自分で、判断したの」
「ハッ……分かってるよ」
ゼノは残っていたパンを大きな口で一気に頬張ると、包装紙を乱暴に握りつぶした。パンパンと小気味良い音を立てて、手から食べ屑を払う。
「まあ、あのまま無様な生き方を続けていたら、お前の審美眼もそこまでかと思っていたが。……まだまだ健在なようで、何よりだ」
彼はポキポキと首を鳴らし、執務机に座り直した。そのまま書類を手に取り、仕事の世界へ戻っていく。ヴィヴィアンも慌てて残りのパンを腹に収め、立ち上がった。
じゃあ頑張って。お疲れ様。
そんな言葉が喉まで出かかったが、結局うまく形にならず、事務的な一言だけを残して部屋を出た。
フェリックスとの別れ。
その選択が正しかったのか、いまだに心はかすかに揺れていた。
格式を何よりも重んじる、由緒正しき伯爵家。持参金すら用意できない、平民同然となった没落貴族の娘など、門前払いされて当然だ。それでも、愛妾という立場を受け入れさえすれば、彼と生涯を添い遂げることだってできたのかもしれない。
しかし。
冷たい風の吹く夜道を歩きながら、先ほどのゼノの言葉を思い出す。
『あのまま無様な生き方を続けていたら、お前の審美眼もそれまでかと思っていた』
良かったのだ。これで。
自分にとって、一番美しい生き方を選べたのだから。
それを認めたのが、憎らしい同期の男だという事実に情けない笑いが漏れる。
けれど。残業で疲れたはずの体を運ぶ足取りは、思いの外、軽く感じられた。




