4.夢の時間
「ここでの時間は、私にとって本当に素晴らしいものでした。これまでのどんな座学よりも、多くの学びを得ることができました。皆様に教えていただいたすべてが、これからの人生の糧となると確信しております」
研修最終日の終業後。
相変わらずそこにいるだけで周囲を浄化するかのような眩い笑顔で、フェリックスは従業員たちに挨拶をした。ヴィヴィアンも他の従業員と共に、彼に惜しみない拍手を贈る。拍手の手が微かに震えているのを、誰にも悟られないように。
「最初はまともに台帳も読めなかったからどうなることかと思ったが……まあ、最後の方は少しは使えるようになっていたんじゃないか。明日から戦力が減って、また人手不足だ」
世話役だったゼノが、わざとらしく尊大な態度でフェリックスの背中を叩く。
「ランバート殿には、本当にご迷惑ばかりをおかけしました。お詫びと言っては何ですが、来月、我が家から大口の発注を入れさせますよ」
「おっと、それはそれは。もうこんな舐めた口を利いてはいられませんね。今後とも当店をどうぞご贔屓に、モンフォール様」
ゼノが恭しく、嫌味なほど完璧な貴族向けの礼を取る。フェリックスは年上の男からそうされることにも特に居心地の悪さを感じる様子もなく、相変わらず美しい微笑みを湛えていた。
ヴィヴィアンはそんなやり取りを少し遠くから眺めながら、そっとその場を後にした。狭いバックヤードの隅、真っ直ぐに背筋を伸ばし、今日の売り上げ帳簿を一人で確認していると、背後から静かな足音が近づいてきた。
「ヴィヴィ……」
穏やかな声で、そっと二人だけの時の愛称を呼ばれる。ヴィヴィアンは視線だけをちらりと向けた後、再び帳簿へと向き直った。
「まだいたの。表で従者の方が待っているのではなくて?」
「ヴィヴィ、こちらを見て」
フェリックスは遠慮なく彼女の傍へ寄ると、長い腕を彼女の腰に回した。
「もうここで君と一緒に働けないと思うと、寂しくて仕方ないよ。夢のような時間だった」
ヴィヴィアンは口元だけでわずかに微笑むと、真っ直ぐに彼を見上げた。
「私も、良い夢が見られたわ。素敵な時間をありがとう、フェリックス」
その言葉に、フェリックスは少しだけ目を見開き、その碧の瞳に戸惑いの色を浮かべた。
「……君は、もうこれで終わりにするつもり?」
フェリックスの長い指が、ヴィヴィアンの頬を愛しそうに撫でる。切なげに顔を覗き込まれ、ヴィヴィアンは思わず息を詰めた。
「だって……ここで会えなくなったら、貴方と私の接点なんて」
「また休日にいくらでも会えるだろう? どうしてそんなことを言うの。僕は、遊びのつもりで君に告白したわけじゃないよ」
顎をくいと引き上げられる。至近距離で見つめ合い、ヴィヴィアンが堪らず泣きそうな顔になった瞬間、フェリックスは彼女にそっと優しく口付けを落とした。
フェリックスはモンフォール家の別邸にヴィヴィアンを招くようになった。休日はそこで彼と二人、ゆっくりと誰にも邪魔されない時間を過ごす。内装はヴィヴィアンの好みに合わせて少しずつ作り替えられ、彼女が望むものは、言葉にする前からすべて買い与えられた。
「えっ、これは……」
ある日、ヴィヴィアンが別邸を訪れると、部屋中を埋め尽くすように、煌びやかなドレスや宝飾品が並べられていた。
「これは、『マダム・サフィリア』? だけど、このラインはまだ……」
「さすがだね、ヴィヴィ。その通り、『マダム・サフィリア』の最新コレクションだよ。一般に流通する前に手に入れることができたんだ。まだ未発表のものもある。好きなだけ持ち帰るといい」
目を輝かせ、震える手を伸ばすヴィヴィアンの横顔を、フェリックスは深く満足げに眺めていた。ルミナス・クラウンにすら入荷していない最新作の数々に、ヴィヴィアンは興奮を抑えきれず、頬を赤く染めて細部の刺繍や裏糸の縫い目まで凝視した。
「これほどの数を揃えて……一体、どれだけの金額になったの? 平民の私には、身に着けていく場所さえないものばかりなのに」
「ドレスなら、この邸にいる間に好きなだけ着ればいいと言っただろう? 君のそんな顔が見られるなら、僕はいくらでも惜しまないよ」
華やかな羽飾りのついた帽子をヴィヴィアンに被せながら、フェリックスは蕩けるような笑みを向けた。
彼はルミナス・クラウンでの研修を終えた後、予定通り王立通商局で次席監査官として働き始めていた。国内の流通を監視し、市場価格の安定や品質管理、他国からの輸入品の関税決定など、その仕事は多岐にわたるという。
「まだまだ駆け出しで、やれることは少ないんだ」と彼は笑っていたが、その顔つきは初めて会った時よりもずっと精悍に、どこか鋭さを増したようにヴィヴィアンには思えた。
「フェリックス……」
ベッドの中で彼に組み敷かれながら、ヴィヴィアンは艶やかな声でその名を呼んだ。
呼ばれた男は熱に浮かされた顔を切なげに歪め、愛おしそうに彼女を見下ろしている。
「ヴィヴィ……綺麗だ。君は、僕だけのものだよ」
呪文を唱えるように囁きながら、フェリックスはひどく妖艶な笑みを浮かべた。昼間の爽やかな彼からは誰も想像できない、獲物を狙うような野生的な表情。
ヴィヴィアンの顎を掴むと、強引に唇を重ねて舌を絡めてくる。息も絶え絶えになりながら、ヴィヴィアンは必死にそれに応じた。
「どんな宝飾品よりも、君が一番美しいよ」
ヴィヴィアンの頬を愛おしそうに撫でながら、フェリックスは相変わらず美しい顔で、碧色の目をゆったりと細めた。
「この寝室の壁も、君の好きな色に変えよう。ヴィヴィはどんな風にしたい?」
「そうね……今の色も素敵だけど。もう少しだけ深い青にした方が、落ち着きが出て柱の金装飾がより映えるのではないかしら」
「ヴィヴィのセンスはやはり間違いがないな。来月にでも塗り替えさせよう。君にとって、ここが世界で一番居心地の良い場所にしたいから」
行為の後、抱き合いながら、彼はいつもこうしてヴィヴィアンの希望を丁寧に聞き入れた。別邸の内装は、そうして少しずつ彼女の理想の色へと塗り替えられていく。
「今夜無理に帰らなくても、明朝、職場まで送っていくよ」
日が暮れ始めた頃、簡素なワンピースを着込み始めたヴィヴィアンの背中に、フェリックスが不満げな声をかける。
「伯爵家の紋章の入った派手な馬車で出勤なんてできないわよ。ここは職場からも遠いから早起きになっちゃうし。今日帰っておいた方が、明日の朝が楽だから」
「ヴィヴィ……やはりまだ、この邸で暮らす決意はしてもらえないのかな」
くるみボタンを留めていたヴィヴィアンの手が一瞬止まったが、それはすぐに淀みなく動き始めた。
「こんな夢のような邸宅で暮らすなんて、私の身に余るわ。私は、安いアパート暮らしが性に合っているの」
「あんな寂れたアパートで暮らしているなんて心配で仕方ないよ。ここに住んでくれたら、僕も頻繁に顔を出せる。今よりももっと、沢山会えるようになるんだけどな」
「いま会えている回数だけでも、十分よ。貴方の素敵なお顔をこれ以上見ていたら、眩しさに耐えきれなくて私の目が潰れちゃうかも」
ヴィヴィアンは努めて明るく、軽いトーンで言ったが、フェリックスは納得いかない様子だった。子供のように少し不貞腐れた顔で、ベッドに腰掛けたまま両手を広げる。ヴィヴィアンが渋々そちらへ寄ると、彼は彼女の腰をぎゅっと抱きしめ、甘えるようにその胸に顔を埋めた。
その様子があまりに愛らしく、ヴィヴィアンは頬を染めながら、彼の柔らかな金髪を撫でてやる。
「ヴィヴィ。僕は、君だけがそばにいてくれたら、それでいい」
絞り出すような、切実さを孕んだ声だった。ヴィヴィアンは困ったように微笑む。
「ええ、フェリックス。……ずっとそばにいるわ」
そんな蜜月のような生活が半年続き、再び春が巡ってきた頃。
ヴィヴィアンはバックヤードで今月分の売上台帳に目を通すうち、見慣れない商品の動きを確認した。
婦人服売り場で、自分を通さない特大の取引など、通常あり得ないことだ。サブマネージャーのメアリーを呼び出して問い詰めると、彼女は戸惑いながら答えた。
「申し訳ありません。てっきりチーフもご存知のものだとばかり。ランバート様から私に直接確認があって、外商部からの特注だというので、深く考えずに承認してしまいました」
その言葉に、ヴィヴィアンは不快げに眉根を寄せた。
カツカツと石床を鋭く鳴らして廊下を進み、事務室の扉を荒々しくノックするやいなや開け放った。中ではゼノが、大量の書類を前に算盤を弾いていた。
「入れという返事はしていないんだが」
「これは、何」
作業中の彼の手元に、ばしりと台帳を叩きつける。ゼノは顔を顰めながらそれを摘み上げ、まじまじと眺めた。
「……何か問題が?」
「靴、ネックレス、イヤリング。……ローレンス伯爵家からの特別発注、なぜ私を通さずに進めているの?」
「店頭に出ない外商のオーダー品だ。メアリーには確認を取ったし、売り上げはお前のフロアに回している。数字にも問題はないだろう」
「私を通していないことが、最大の問題なのよ!」
苛立ちを隠さず腕を組み、ヴィヴィアンは座ったままのゼノを見下ろした。
「必要ないと判断した」
「それを判断するのは私よ。婦人服のことで私に無断で動かないで。上顧客の情報や工房への発注状況を、私が把握できていないなんてあり得ないんだから」
「………ふぅん……」
ゼノは皮肉げに口の端をわずかに引き上げると、台帳をずいとヴィヴィアンに突き返した。
「じゃあ……これがどんな注文か、優秀なチーフマネージャー様なら、もうご存知なんだろうな」
冷たく放たれたその言葉に、不機嫌に歪んでいたヴィヴィアンの顔が、一層強張った。彼女はひったくるように台帳を掴み取る。
「オーダーは、先ほど確認したわよ。『フローラ・ヴェール』の最高級ウェディングライン。足のサイズは……次女のセシリア様のものね」
「ああ、さすがだな。……では、そのセシリア伯爵令嬢がどちらへ嫁がれるかも、もう当然把握しているのだろう?」
ゼノは挑発的に首を傾け、ヴィヴィアンの顔を覗き込んだ。ヴィヴィアンの表情はますます険しくなり、瞳の色は冷たく静まり返っていく。
「……それが何? だからって、私にこの話を通さなかった理由にはならないわ」
「余計な感情を仕事に持ち込まれると、面倒だと思ってな」
「何の感情もないわよ。私とそのご婚礼に何の関係があるというの? とにかく、次にまたこんな真似したら、承知しないから」
ヴィヴィアンは鋭い目で彼を睨みつけ、踵を返した。部屋のドアへ手をかけた彼女の背中に、後ろから低く、苛立った声がかけられた。
「……お前の、その胸のブローチ」
顔だけで振り返ると、ゼノが鋭い三白眼で真っ直ぐにヴィヴィアンを射抜いていた。
「お前の給与じゃ、半年分貯めたって買えないことくらい、こんな俺にだって分かるんだよ」
ヴィヴィアンは思わず、左の胸元へ視線を落とす。そこには「彼」から贈られた美しい花の意匠が、品の良い輝きを放っている。咄嗟にそれを手で隠すと、ゼノは小さく、吐き捨てるように舌打ちをした。
「いくら熱心に眺めてたって、『あれ』はお前のものにはならないぞ」
ゼノのその言葉には、いつもの皮肉な響きは一切なかった。ただ淡々と、冷酷な事実だけを突きつけられ、ヴィヴィアンは思わず目を逸らした。
反論しようとしてわずかに口を開いたが、言葉は何も出てこない。最後にもう一度だけ彼を睨みつけ、無言で部屋を飛び出して叩きつけるように扉を閉めた。
廊下を早足で駆け抜け、無意識のうちに足は屋上庭園へと向かっていた。夕暮れに染まる、春の庭。
いつか、眩いほど美しい男から、大輪の白い薔薇と共に告白された場所だ。
握りしめていた台帳を呆然と見つめながら、ヴィヴィアンは深く長く、息を吐き出した。
セシリア・ローレンス伯爵令嬢の婚礼まで、あと八ヶ月。
そして、その相手は──ヴィヴィアンが愛してやまない、フェリックス・モンフォール伯爵令息に他ならなかった。




