10.はじまり
ヴィヴィアンとゼノが初めて顔を合わせたのは、彼女がルミナス・クラウンに入って半月ほどしてからのことだった。
当時のゼノもまだ入社して間もない新入りで、百貨店一階裏手にある荷受け場で働いていた。日々王都中から運ばれてくる膨大な商材を荷馬車から降ろし、納品数や内容を確認しながら、各フロアの倉庫へと仕分けていく。肉体労働と数字の辻褄合わせを同時にこなすその仕事は、数字に強く、騎士団を退職したばかりの彼にはぴったりのポジションだった。
一方、入社したばかりの使いっ走りとして服飾フロアの雑務を引き受けていたヴィヴィアンは、入荷の遅れたアクセサリーが納品されてくるのを、搬入口で今か今かと待ち構えていた。事前にサンプルを気に入って予約をしていた高位貴族の常連客が、この日の午後に来店する予定だったのだ。先輩店員たちが朝からピリピリと張り詰めた空気を漂わせ、ヴィヴィアンに一秒でも早く受け取ってくるようにと厳命を下していた。
「あの、すみません。『エクラ・ド・レーヌ』からの品物があるなら、先に渡していただきたいのですが」
納品の荷馬車が到着し、次々と重い木箱が降ろされていく中、ヴィヴィアンは積荷を手にした大柄の若い男に声をかけた。ゴトリ、と重苦しい音を立てて木箱を石床に慎重に置きながら、ゼノはその鋭い眼光を無遠慮にヴィヴィアンに向けた。
「見て分からないのか? 全て順番に作業を進めている」
「いえ、あの、それは分かるのですが、本日ご予約をなさっているお客様の品物があるはずなので、少しでも早く持ってくるようにと……」
「検品が済むまで出すことはできない。大人しく待っていろ」
今まで接したことのない粗野な威圧感に、ヴィヴィアンは思わず気圧されて小さく身をのけぞらせる。しかしここで引いたところで、売り場で先輩達に睨まれるだけだ。
「その検品を、優先してもらうことはできませんか」
わずかに語気を強めて一歩前に出ると、彼は煩わしそうに目を細めてヴィヴィアンを睨んだ。
「全て手筈は決まっているんだ。個人の都合で好きにできると思うな」
「個人の都合ではありません。お客様がお待ちなのです」
「段取りを違えて、チェックが漏れては困るんだよ」
ヴィヴィアンが言葉を重ねても、目の前の男は頑なに姿勢を崩さなさい。それどころか、彼女の存在を無視するかのようにふいと目を逸らして、木箱を整然と床に並べ始めた。
次の瞬間、ヴィヴィアンは小さく舌打ちをした。
「ドケチ」
ゼノの手がピタリと止まる。
「あ?」
「アクセサリーの一つ融通きかせることくらい、できるでしょうよ」
腰を屈めて木箱を降ろしていた彼を、ヴィヴィアンは高慢に腕を組んで冷ややかに見下ろした。
「なんだ、お前……」
「イレギュラーに対応できないで、何が一流百貨店よ。石頭」
浴びせられた言葉がすぐに咀嚼できず、ゼノは唖然とした表情で固まったまま彼女を見上げた。彼が何かを言い返そうと口を開いた時、ヴィヴィアンは後方で別の従業員が抱えている木箱を目に留め、「あ!」と大声を上げる。
「それ、それよ!! 『エクラ』の紋章!! その木箱!!! ねえちょっと!! その中の品物を先に検品して!!」
突然甲高い声をかけられた従業員は狼狽し、木箱を手にしたまま立ちすくむ。よろよろと彼女の前に荷が降ろされようとした時、それを遮るように、ゼノが大きな体躯で木箱とヴィヴィアンの間に立ちはだかった。
「待て、勝手なことをするな」
箱に手を伸ばして中を改めようとしていたヴィヴィアンは、きっと鋭く彼を睨み返す。
「何よ。この中のブレスレットを一つ先に持って行くだけ。『エクラ・ド・レーヌ』のピンクサファイアの二連ブレスレットよ。今春の新作。発注通りに留め具は特別仕様の白銀。これでいい? その石頭によーく叩き込んで、あとでチェックしておきなさい」
ヴィヴィアンはその小柄な体で彼をぐいと押し退けると、てきぱきと木箱の蓋を開け、中から美しい装飾が施されたジュエリーケースを一つ取り出した。
「お前、勝手に……」
「ああっ! なんてこと……!!」
あまりの型破りな行動に呆気にとられたゼノが彼女の肩に手をかけようとした時、ヴィヴィアンが小さく悲鳴を上げた。何事かと、男は思わず彼女の手元を覗き込む。
「なんて美しいの……!!」
淡い桃色に煌めくジュエリーの輝きに瞳を潤ませ、頬を上気させて、ヴィヴィアンは片手で口を覆った。
「はぁ……やっぱり素敵……。サンプル品よりもずっと洗練された意匠だわ。お客様もきっと満足されるはず」
小さく震える手でケースを捧げ持ち、うっとりとジュエリーを覗き込むヴィヴィアンはどこか遠い世界に心酔しているようにさえ見えた。ゼノはその横顔を呆然と眺める。しかし直後、彼女はすっと現実に戻ってきて、澱みのない優雅な所作でケースを閉じると、背筋をピンと伸ばして立ち上がった。
「さっ、『検品』はこれで十分でしょ? それでは、ご機嫌よう」
カツカツとヒールを誇らしげに打ち鳴らしながら去って行く女の背中を、残されたゼノは呆気にとられたまま見送ることしかできなかった。
「イカれた女だな……」
それがゼノ・フォン・ランバートとヴィヴィアンの、最悪な出会いだった。
ヴィヴィアン自身はこのことをあまり覚えていない。
ただ、そうしたやり取りをその後も何度か交わすうちに、ゼノのことを「感じの悪いデカい男がいる」と認識するようになる。元々無愛想な彼がヴィヴィアンにだけ一際当たりが強いのは、他ならぬあの強烈な出会いが要因だったのだが、ヴィヴィアンにはその自覚が微塵もなかった。
そのうちお互いに昇進し、同じフロアで働くようになると、衝突する機会はますます多くなった。
とにかく馬が合わない、とヴィヴィアンは思っていた。
彼はこちらの説く至高の服飾愛を露とも理解しようとせず、ひたすら帳簿の数字を睨んで、目の前の宝石達の放つ尊い煌びやかさには何の感慨も抱いていないように見えた。根底から相容れないタイプだ──そう思っていたが、ある日、入社から四年後のこと、彼への認識を少しだけ変える事件が起こった。
人気工房によって手がけられた、オーダー品のヘッドドレス。空色で華美なものを、という上顧客からの熱烈なリクエストで特別にあつらえられた一点物だった。
入荷した翌日に外商が持ち出すはずだったそれが、なぜかどこを探しても見つからない。閉店時間になっても倉庫を必死で漁り続けるヴィヴィアンに、まだ社歴の浅い販売員が顔を青くして頭を下げてきた。
聞けば、搬入された他の商品とともにそのヘッドドレスを誤って店頭に並べてしまい、陳列直後に来店した貴族がすぐさま気に入って購入して行ってしまったのだと言う。報告を聞いて、ヴィヴィアンは全身の血の気が引いた。
その日外回りに出ていたチーフマネージャーに報告すると、ヴィヴィアンはサブマネージャーとして店頭の陳列を把握していなかった責任を厳しく叱責された。閉店後のフロア中に響き渡る甲高い怒声に、何事かと他の従業員たちも集まってくる。
「そう怒鳴っていても、売ってしまったものは戻ってこない。代替案を検討しよう」
当時のフロア・コントローラーがチーフマネージャーを冷静に制した。店中からヘッドドレスが集められたが、当然、顧客がオーダーした条件と一致する品物はなかった。
「そもそもオーダー品なのです。店頭に並べている既製品ではクオリティに満たないわ」
「それはそうだが……。明日、午前のうちにいくつか工房を当たってみるしかないか」
「そんな運任せなことをして、何とかなるとは思えないけれど……」
声色を低くして話し合う上司達の後ろで、ヴィヴィアンは肩をすくめて縮こまることしかできなかった。自分が店頭をしっかり見ていれば、こんなことにならなかった。経験の浅いものに現場を任せきりにしていた自分の不甲斐なさに、消えてしまいたくなる。目の奥から涙が滲みそうになるのを、プライドだけで押し留めた。
その時だった。
「半年前に外商部から返品になったオーダー品に、ヘッドドレスとグローブのセットがあります。淡いブルーのカラーで銀糸の刺繍が贅沢に施されたものなので、今回のご要望にも合うかもしれません」
バックヤードから、帳簿を片手にゼノが歩み出てきた。全員の視線が集まる中、彼は淡々と続ける。
「制作工房は違うが、オーナー同士が修行を受けた師範が同じなのでブランドのデザイン傾向は近い。お客様のお好みに合うのではないかと。まあ、現物の状態は確認しないと分かりませんが。地下倉庫に保管されているはずです」
灯の弱い地下倉庫へと降り、ゼノと二人で現物を確認する。薄く埃を被った木箱を棚から下ろし、蓋を開ける。手触りの良い上質な厚紙の箱を取り出して薄紙を慎重にめくると、美しい空色のヘッドドレスが丁寧に包まれていた。
「……今回のものとは少し違うけれど、求められているイメージには極めて近いわ。状態も全く問題ないし、使えるかもしれない」
「今回の顧客には、具体的なデザイン画を見せていなかったのだろう?」
「そうみたい。これで、なんとかなるかしら……」
「まあ、細かい差異についての説得は、外商部の腕の見せ所だな」
震える息を吐き出すヴィヴィアンに対して、ゼノは変わらぬ冷淡なトーンで箱の蓋をそっと閉める。二人で暗い廊下を進みながら、ヴィヴィアンは彼の広い背中に話しかけた。
「あんたが、そんなに細かく過去の在庫のことまで把握しているとは思わなかった。数字ばっかり追ってたわけじゃないのね」
「売場に出すこともできずに赤字にしかならん外商部の返品は、この店の毒だからな。うまく金にする方法を考えたまでだ」
ゼノは振り返りもせずに答える。相変わらずの憎まれ口だったが、ヴィヴィアンはこの時初めて、彼なりのこの仕事への矜持を感じて、その姿勢を内心で静かに評価したのだった。
ヘッドドレス事件からそう間を置かない頃、また別のトラブルが起こった。
得意客が取り寄せを希望していたサマージャケット。希望通りの品が届いたが、閉店後のバックヤードでその品をハンガーに掛け直していたヴィヴィアンは、わずかな違和感に気づく。
「これ……袖丈を詰めるって発注を出していなかったかしら」
ジャケットの入った箱を抱えたまま、バタバタと事務フロアに駆け込んできたヴィヴィアンを、退勤しようとしていたゼノ達は目を丸くして出迎えた。
「どうした」
「ラウザー商会の奥様が二ヶ月前にオーダーされたサマージャケットの発注書と、工房への指示書を確認させて。今朝納品されたやつ!」
カツカツと勢いよくヒールを鳴らしながら帳簿室の扉を勢い良く開けると、ヴィヴィアンは棚からファイルを無遠慮に引き出した。ゼノの補佐が該当の書類を探すのを手伝う。目的のものを発見したヴィヴィアンは、美しく整えた爪の先で指示書の文字を鋭く辿った。
忘れもしない。顧客からの細かな要望を聞き取り、発注書を制作したのはヴィヴィアンだ。記憶通り、確かに一インチの袖詰めの指示がその発注書の備考欄に記されている。しかし、そこに共に保管されている工房への指示書からは、その一文が綺麗に抜け落ちていた。指示書の作成は事務方の仕事だ。
工房は指示通りの完璧な仕事をしており、目の前に届いている品は、身幅などのサイズこそ問題ないものの、袖の長さはサンプル品と変わらない長さのままになっている。指示書を書いたという若手のフロア・コントローラー補佐が青ざめ、平謝りをしてくるが、この場での謝罪は何の解決にもならない。
顧客には今日のうちに入荷の知らせが出されており、いつ来店されるかは定かではないが、それは早ければ明日の朝一番になる可能性もあった。
「もういいわ。私、今から地下工房でこれを直してもらう」
「本当にすみません……僕も行きます」
ミスをした若手スタッフを連れて部屋を飛び出したヴィヴィアンは、去り際に、苦い顔で立ち尽くすゼノを鋭く睨みつけた。
「あのねぇ。私にネチネチ言うのと同じくらい、自分の部下の仕事もしっかり見なさいよ、ポンコツ!」
ゼノはその罵倒に思わず眉根を寄せたものの、返す言葉もなく黙りこむしかなかった。派手にヒールを鳴らして走り去っていく彼女の後ろ姿を、ただ静かに見送る。
数十分後に地下工房から戻ってきた部下から「今夜中に対応できるようです」との短い報告を受けると、ゼノは彼に改めて厳重に注意を促しつつも、安堵して帰宅の途についた。
──職人たちが全員帰宅した無人の地下工房で、ヴィヴィアンがたった一人、生地にハサミを入れていることも知らずに。
翌朝、店頭に訪れた顧客の遣いに希望の品は無事に手渡されたが、その袖丈を詰め直したのがヴィヴィアンだったとゼノが知らされたのは、昼近くになってからのことだった。
「そこの服狂い」
従業員用の休憩スペースに足を踏み入れた彼女に、ゼノはぶっきらぼうに声をかけた。振り返った彼女の目の下には、華やかな化粧では隠しきれない濃い隈がある。
「何よ、筋肉バカ」
「今日は罵倒のセリフも安直だな」
じっとりと自分を睨みつけてくる彼女に、ゼノはふっくらと膨らんだ茶袋を無造作に押し付けた。
「は? 何これ」
「昼メシ。……昨日は悪かった。俺の監督不行届けだった。もうあんなことはないようにする」
袋の中にはルミナス・クラウン一階の人気店のパンが大量に入っていた。ヴィヴィアンはそれをじっと覗き込み、毒気を抜かれたように目を丸くしている。
「……お前、夜通し一人で工房で作業したって? なんで職人を呼び戻さなかった」
「袖詰めくらいなら、私でもできると思ったから。生地が特殊だったせいで想定より何倍もめんどくさかったから、やりながら後悔したけど」
「大丈夫なのか、それは。素人仕事で対応できるものだとは思えないが」
「私、これでも『メゾン・クリザリッド』で三年お針子やってたのよね。だからまあ、あれくらいはできて当然。ちゃんと改めて検品だってしてもらって、合格はもらってるわよ。あ、でも、特別手当は出してくれても良いわよ。本当、いい迷惑だったんだから」
パンの袋を抱え直しながら、ヴィヴィアンはわざとらしくため息を吐いた。ガサガサと遠慮のない音を立てて袋の中を改める。
「ねえ。雑穀パン、入ってる?」
「……雑穀パン?」
「あの茶色くて、黒い粒々の入った硬いやつ。なんだ、白パンばっかり。私、食べるなら雑穀パンって決めてるのに。硬いのじゃないと食べた気がしない」
あーあ、と嫌味ったらしく吐き捨てて、彼女はくるりと踵を返した。制服のスカートの裾を鮮やかに翻し、ヒールをコツコツと打ち鳴らしながらテラス席へと去っていく。
可愛げのない女だな、とゼノは思った。
しかし疲れた顔とは裏腹に、真っ直ぐに背筋を伸ばして歩いていく彼女の凛とした姿が、どうしようもなく美しく見えて、しばらく目が離せなかった。




