11.吹雪を溶かす熱
ゼノからの突然のプロポーズの翌朝。
ほとんど眠れないまま一晩を明かし、ヴィヴィアンはげっそりとした顔で出勤した。
彼と会ったらどんな顔をしようという焦りとは裏腹に、フロアに現れるのは後任のアルベルトばかり。結局、ゼノと向き合う機会はないまま、あっけなく一日は終わった。
事務室へ行けば、会えたのかもしれない。しかし今のヴィヴィアンにはそんな勇気もなく、逃げるように百貨店を後にする。
翌日も、翌々日も。
そうして、ゼノとようやく再会したのは、あのプロポーズから三日後のことだった。
従業員用の狭い廊下。
ばったりと鉢合わせ、油断していたヴィヴィアンはあからさまに動揺して立ちすくむ。しかしゼノの方には、何の躊躇いもない。いつも通りの無愛想な顔で、平然と彼女を見下ろした。
部下のメアリーの後ろにこそこそと隠れるようにして通り過ぎようとした時、すれ違いざま、彼の低い声が鼓膜を打った。
「ひでー顔」
反論する隙も与えず、彼は長い足で大股に歩き去ってしまう。
(誰のせいで……っ!)
広い背中に向かってそう怒鳴りたくても、人前では声が出ない。屈辱に固まるヴィヴィアンに、何も知らないメアリーが「行きますよー」とのんびり声をかけた。
そうこうしているうちに年末の繁忙期が押し寄せ、ヴィヴィアンはプライベートの混乱を無理やり頭の隅に押しやって目の前の仕事に没頭した。ホリデーシーズンの狂騒は今年も凄まじく、目が回る忙しさだ。朝早くから深夜までフロア中を走り回ってくたくたになる。だが今の彼女には、その疲労感こそが心地よかった。
年末の休店期間中、例年なら普段通りに出社していたはずのゼノの姿はどこにもない。今年はランバート家の領地に戻ったのだと噂に聞いた。珍しいこともあるものだと訝しむスタッフ達を横目に、新事業の準備を兼ねているのだろうと、ヴィヴィアンは彼のいない執務机を静かに眺めた。
年が明けてゼノの退職が正式に予告されると、フロアは少しだけざわついたが、有能な後任者が既に実務を掌握していたため、大きな混乱は起きなかった。
気がつくとあのプロポーズから既に三ヶ月が経ち、次第に当時の記憶も遠くなってきている。
時折顔を合わせても、ゼノはあまりに平気な顔をして仕事をこなしている。ヴィヴィアンはだんだんと、あの日起きた出来事はすべて自分の妄想だったのではないかという、奇妙な錯覚に囚われ始めていた。
ある日、数人のスタッフと共に昼休憩を取っていた時だった。
「メアリーは?」
「あの子は、ほら……ランバート様と」
「ああ……」
意味深な含み笑いを漏らすスタッフたちの様子と、そこに出てきた名前に、ヴィヴィアンは聞き捨てならず身を乗り出した。
「え? 何?」
尋ねると、彼女たちは楽しそうに声を顰めた。
「メアリー、今ランバート様といい感じみたいなんです。この間、店休日に二人が街を歩いてたところも目撃されてて……」
ヴィヴィアンは、うまく微笑んでいただろうか。
「へえー。意外ね……」
咄嗟にそう言うのが精一杯だった。
昼食の味は、ほとんど覚えていない。
数日間、メアリーを観察してみたが、どう判断すべきか分からなかった。
彼女は確かに真面目で、仕事もできる。裕福な男爵家の次女で、気立ても器量もいい。ヴィヴィアンが熾烈な「夏」のイメージだとしたら、彼女は柔らかな「春」の女だ。ふんわりとしたダークブロンドの髪、大きな若草色の瞳、柔らかそうな白い肌、人懐っこい笑顔。
この三ヶ月の間でヴィヴィアンに脈なしと判断した彼は、早々にターゲットを切り替えたのだろうか。常に効率と合理性を重視するゼノならそれもあり得るかもしれないと、ヴィヴィアンはぼんやり考えた。けれど、その推論はどうにも腹に落ちない。何よりも、それを認めたくない自分がいる。
ゼノのことをどう考えたら良いのか、まだ分からなかった。いや、必死で分からないふりをしようとしていた。
彼は自分の好みや理想のタイプとはかけ離れているし、顔を合わせれば互いに憎まれ口を叩き合うことしかしてこなかった。しかし、仕事の上では確かな尊敬と信頼がある。そして自分の素の性格を、誰よりも深く理解し、認めてくれているのが彼だということは、もう疑いようがなかった。
ほとんど顔を合わせられなかったこの三ヶ月、忙殺される日々の中で、どこか物足りなさを感じている自分にも、もう気が付いていた。
自分を小馬鹿にするように見下ろす彼の冷たい瞳を思い出し、ヴィヴィアンは自室のベッドの中、その細い体をぎゅっと抱き締めた。
さらにひと月が過ぎ、冬の終わり。
春のような明るい日差しが覗き始めたと思った矢先、最後の寒波が王都を襲った。
その日は日中にトラブルが重なり、ヴィヴィアンは後処理のため一人、狭いバックヤードで書類仕事に追われていた。気づけば店内から他の従業員は消え、照明も落とされて静まり返っている。
やけに冷え込むと思い窓へ目を移すと、白い雪が猛烈な風に煽られ、視界を遮るほどの吹雪となっていた。
まさか積もってはいないだろうなと窓を覗き込んでみるが、暗闇が街の様子を隠している。
今日の私服は、春を先取りして防寒性を二の次にした薄手のコートにサテンのワンピースだ。おろしたてのヒールも、雪で濡らしたくない。
「チッ……最悪」
思わず毒づき、やる気を失って仕事を早々に片付けて休憩用の椅子に深くもたれかかり、ダラダラと現実逃避をする。その時、ガチャリと背後のドアが開いた。
「まだいたのか」
書類を数枚手にしたゼノが、驚いたように部屋を覗き込んでいた。目を丸くして固まるヴィヴィアンを余所に、彼はズカズカと部屋に入ると、慣れた手つきで書類を棚へ仕舞い始めた。
彼と真っ向から対面するのはいつぶりだろうか。二人きりになったのは、あの日以来だ。
沈黙を気まずく思っているのは自分だけなのか。彼は相変わらずの冷めた顔つきで、感情が読み取れない。
ヴィヴィアンは所在なく、目の前の机の木目をじっと見つめた。
「仕事終わってんなら、帰るぞ」
書類をしまい終わったゼノは、当たり前のように声をかけてくる。どんな顔をしていいのか分からず、ヴィヴィアンは視線を上げられない。
「……まだ終わってない。お先にどうぞ」
嘘だった。手元にはもう、何もない。ゼノはそんな彼女を一瞥すると、何も言わずに歩み寄り、彼女のすぐ隣の椅子を引いてどかりと腰を下ろした。
「は。何してんの」
「お前こそ。仕事が残ってるならさっさとしろ」
気だるそうに机に頬杖をつきながら、冬空と同じ色をした三白眼がヴィヴィアンをじろりと捉えた。相変わらずの目つき。催促されたところで、もう片付けるべき仕事などない。おそらく、とっくに嘘はバレているのだろう。
「……いいから、先に帰ってよ」
祈るような気持ちでそう促したが、彼は動く気はないらしい。つまらなさそうにヴィヴィアンの横顔を観察している。そんな目で見るくらいなら、本当にさっさと出て行ってほしい。ヴィヴィアンは居心地が悪くなって、顔を彼から背けた。
その時、大きく骨ばった手が、机に置いていたヴィヴィアンの左手を包み込んだ。
心臓が大きく跳ね、ヴィヴィアンは弾かれたように彼を振り返る。ゼノの表情はほとんど変わっていなかったが、その頬はわずかに強張っているようにも見えた。
「冷た」
彼はぶっきらぼうに呟くと、冷え切ったヴィヴィアンの手をぐいと引き寄せ、両手で包み込んだ。突然の体温の浸食に、ヴィヴィアンは身動きが取れない。彼の手はどっしりと大きく、驚くほど温かかった。
手を取られた弾みで体まで彼の方を向いてしまい、ヴィヴィアンは逃げ場を失う。みるみるうちに顔が熱くなり、赤くなっていくのを隠すこともできない。
その様子を、ゼノが少しだけ揶揄うような目で見つめてきた。
「お前、俺のこと避けてただろ」
その問いに、ヴィヴィアンは思わず眉を顰めた。
「別に……。あんたがフロアに全然出てこなかっただけじゃない」
「前は大した用事もなく、ぴぃぴぃ喚きながら毎日のように事務室まで来ていたくせに」
「私も忙しかったのよ」
「あっそ」
彼は手元に目を落とし、そのまま黙り込んでしまった。けれど、温かい手が離れることはない。
彼はゆっくりと、ヴィヴィアンの指を親指の腹でなぞり始めた。
特に、左手の薬指の付け根を。
さすがにそこに含まれる意味が理解できないほど、ヴィヴィアンも鈍感ではない。彼女は気まずさを振り払うように口を開いた。
「……あの指輪。どうしたの」
銀灰の目が、じろりとヴィヴィアンを捉えた。数秒、鋭く射抜くような沈黙の後、ゼノは呆れたように微かに鼻で笑った。
「……もっと似合う女に譲ったよ」
その言葉に、ヴィヴィアンは思わず息を止めた。
彼の顔を見つめたが、その表情は相変わらず温度が低く、むしろ尊大だ。ヴィヴィアンの脳裏に、メアリーの可愛らしい笑顔が浮かんだ。
「お前。いま、自分がどういう顔してるか自覚あんのかよ」
問いの意味が分からず、困惑する。鋭い灰色を見つめ返しているうちに、その顔がふいに近付いて、気が付いたら唇が重なっていた。
驚いて身を離そうとしたが、すぐに熱く大きな手でうなじを抑えられる。もう一度、柔らかく口付けられ、何度も啄まれるうちに、ヴィヴィアンは混乱のまま彼の事務服の襟をぎゅっと掴んだ。
「んっ……」
そのうち彼に下唇をやんわりと噛まれ、深い口付けを求められてるのだと理解する。ほとんど考える余裕もないままわずかに口を開けば、熱い舌が遠慮なく侵入してきて、ヴィヴィアンのそれと深く絡み合った。気づけば、力強く抱き寄せられている。
まだ思考は混乱の渦中にあるのに、与えられる熱によって全身の力は溶けるように抜けていく。
「……んっ……」
ヴィヴィアンもいつの間にか、夢中で舌を伸ばしていた。どこかでこの展開を切望していた自分が、本能のままに必死で彼に応えている。
呼吸を忘れるほど没頭していた、その時──突然、コンコンと鋭いノックの音が響く。
反射的に体を離し、ヴィヴィアンは一気に現実へと引き戻された。
「お疲れ様です。まだ残りますか?」
顔を覗かせたのは守衛だった。
その後ろの廊下は既に、夜の闇に沈んでいる。
「帰ります!」
ヴィヴィアンは必要以上に明快な声で応答し、まだ座ったままのゼノを置き去りにして部屋を飛び出した。駆け込むように私物置き場へ向かい、震える手で身なりを整え、コートを着込む。足早に従業員口へ向かったが、外の光景を見て立ちすくんだ。
先ほど窓から見た時よりも、吹雪は一段と激しさを増している。街の石畳も、溶けた雪ですっかり濡れて汚れていた。
思わず、足元に目を落とす。お気に入りの、繊細な花飾りのついた美しいハイヒール。傘も借りるつもりだったのに、動揺のあまり忘れてきてしまった。
「馬車を回そうか?」
出入り口に待機していた下働きの小僧が、待っていましたとばかりにあかぎれた小さな手を差し伸べてきた。駄賃を強請られているのだ。しかし服飾品に全力投球で給与を使い切っているヴィヴィアンに、そんな余裕はない。小僧への駄賃はともかく、深夜料金の馬車の呼び出しはそれなりにかかるのだ。靴とコートを犠牲に走るか、財布から血を流すかを、真剣に考え始めた時。
「一台頼む」
背後から響いた低い声と共に、太い腕が伸び、小僧の手のひらに数枚の銅貨が落とされた。小僧は元気よく返事をし、雪の中へ駆け出していく。
気まずく振り返ると、ゼノがすました顔で立っていた。彼はヴィヴィアンの肩をおもむろに引き寄せ、風の当たらない建物の中へと下がらせる。
顔を見るのも恥ずかしく、ヴィヴィアンは口をつぐんで壁を眺めた。
ほどなくして馬車が到着し、二人は沈黙のまま乗り込んだ。
無言で向かい合って座り、お互いに窓の外の吹雪をじっと眺める。ガタガタと石畳を叩く車輪の音だけが響く中、ゼノがぽつりと切り出した。
「次の非番の日、空いているか?」
威圧的な目で問われ、ヴィヴィアンは戸惑いながらも素直に頷く。
「じゃあ、十時にそちらの家に行く」
「えっ……何するの? また工房巡り?」
「別に。どこにも行かない。話をしたいだけ」
「話って………、何の?」
「お前さぁ」
ゼノが呆れ返ったような声を上げた。
「こっちは四ヶ月も返事を待たされて、他に話したい話題なんかあるわけねえだろ」
ヴィヴィアンは思わず、ぽかんとした顔をしてしまった。それを見たゼノは思い切り顔を歪め、大袈裟にため息を吐いてみせる。
「こちらがどんな気持ちで、返答を待っていたと思ってるんだ」
「……あの話って、まだ、有効だったんだ……?」
「お前はやっぱりバカだ」
言い返したい気持ちはあったが、彼があまりに力なく項垂れて頭を抱える様子を見て、さすがに自分に非があるような気がしてきた。ヴィヴィアンは情けなく視線を足元へと落とす。雨雪に濡れることなく美しさを保ったハイヒールを眺めて、なんとか平常心を保った。
「……部屋、掃除しとけよ」
「え! うちに上がる気?」
「外で話してもいいなら、別にどこかに行ってもいいが。お前、どうせ嫌がるだろ」
少しだけ外のカフェで彼と将来について話し合う絵を想像して、素直に会話ができそうにない自分が容易に浮かんだ。負けを認めて、黙り込む。どうも今日は形勢が悪い。
しばらく大人しく沈黙したが、どうしても気になったことだけ、確認することにした。
「……ねえ。あんた、メアリーとはどうなってんの」
「あ? 何?」
「メアリー! シラ切らないでよ」
キッと睨みつけてみたが、ゼノはぽかんとしている。思わぬ反応の悪さに、詰め寄る勢いを一気に失った。
「……メアリーよ。うちのサブマネージャーの」
「それは分かるが。なんなんだよ」
「いや、なんなんだはこっちのセリフで……。え、あんた達が、その、最近付き合ってるとかなんとか、噂を……聞いたんだけど」
「……ハッ、なんじゃそりゃ。お前、まさかそれ信じたとか言うなよ。全然笑えねえから」
底冷えするような蔑みの目で見られ、ヴィヴィアンはぐっと言葉を詰まらせる。
「……だって。あんた、さっき、あの時の指輪をもっと似合う子にあげたって言ったじゃない」
メアリーならば、あの薄紅色の輝きがこの上なく似合うに違いない。年齢も、ブランドのターゲットにバッチリ当てはまっている。
「アホか。……妹だよ。バラしてネックレスにするんだと」
今度はヴィヴィアンがぽかんと口を開けた。
この一ヶ月ほどのモヤモヤが、一気に晴れていく。
と同時に、更なる疑問が湧いてきた。
「……え? なんで? プロポーズの指輪を、そんなにあっさり人にあげちゃうわけ? バラす? 嘘でしょ」
「お前が、自分には似合わないって言ったんだろ」
「いや、言った、けど……言ったけどさぁ……!」
自分があの場で喜んで受け取らなかったから、あっけなく別の活用に回されてしまったのか。なんというか、あまりにも情緒がなさすぎて、驚きで言葉も出てこない。確かに、あれはヴィヴィアンには似合わない、可愛すぎる指輪ではあったけれど。
しかし、これこそが「効率の男」ゼノの本質なのかもしれない。
指輪がなくなった場合、あのプロポーズはまだ有効なのだろうか。けれど、彼は先ほど返事を待たされていることに文句をつけてきた。答えはきちんと用意しなければならないのだろう。
「……あんた、妹いたんだ」
混乱の極致で、ヴィヴィアンが発したのはどうでもいい感想だった。
「ああ。二人な。弟も一人いる」
「え、あんた三男でしょ? 兄弟多くない?」
「兄が二人、姉が一人。七人兄弟だ」
「すご……」
確かにすごいが、今はどうでもいい。いや、どうでもよくないのか。彼と結婚するのならば。
(あれ? 結婚するの? 私?)
思考がぐるぐると迷走するうちに、馬車がヴィヴィアンのアパートの前に停まり、会話はそこで打ち切られた。
「おやすみ」
馬車を降りる際、背中にかけられた声はいつになく穏やかだった。困惑して振り返ると、彼はわずかに口の端を釣り上げ、不遜な、けれど確かな熱を帯びた笑みで彼女を見送った。
部屋に入り、どさりと荷物を下ろして、ハイヒールから足を抜いて息を吐く。
(ていうか、キスしたな……。めちゃくちゃキスした……)
一人で冷静になり、バックヤードでの濃厚な感触を思い出し、顔から火が出そうになる。詳細を反芻すると、体の奥が疼くような感覚に襲われ、慌てて思考を振り払った。
冷え切っているはずの部屋で、ヴィヴィアンの体だけがぽかぽかと火照り続けている。彼女は意味もなく、部屋の真ん中でジタバタと地団駄を踏んだ。
明日が、そして次の非番が、恐ろしい。
そして、どうしようもなく待ち遠しかった。




