12.完璧な指輪
次の休日、ゼノは本当にヴィヴィアンのアパートにやってきた。
王都の華やかな大通りから脇道をいくつか入った場所にある、賃料の安い共同住宅の一室。普段はほとんど寝に帰るだけの暮らしのため、ヴィヴィアン自身は不便を感じたことはなかったが、いざ、体躯の大きな彼が室内へ一歩足を踏み入れると、そこは途端に手狭に感じられた。
室内には家具こそ少ないが、椅子一つ、花瓶一つに至るまで、ヴィヴィアンの厳しい審美眼で選び抜かれたものばかりが並んでいる。女性らしい華やかさを湛えつつも、どこか静謐で落ち着いたトーン。それが彼女の本質的な好みだった。
普段は一人で使う小さな食卓は、ゼノが座るとおままごとの道具のように見えてしまい、ヴィヴィアンは思わず苦笑した。
彼はそんな様子にも気付かず、室内を興味深げに眺めている。
「こんなに狭い部屋に入るのは、初めてでしょう?」
ヴィヴィアンが自嘲気味にそうこぼすと、ゼノは口端をわずかに上げ、即座にそれを否定した。
「いや。昔住んでいた騎士寮の個室よりは、ずっと広い」
「……そういえば、あんた騎士様だったっけ」
食卓のすぐ目の前にある台所でお茶の用意をしながら、ヴィヴィアンは遠い記憶を掘り起こした。
ルミナス・クラウンに入社して間もない頃、彼を紹介される中でそんな身の上話を聞いた覚えがあったが、その内容はすでに朧げだ。彼との初対面をヴィヴィアンはよく覚えていないが、気づいた時には遠慮も品の欠片もないやり取りをぶつけ合う仲になってしまっていた。
二十歳を過ぎる頃まで騎士の道を邁進していたという彼が、なぜ今は剣を置き、百貨店で算盤を弾いているのか。ヴィヴィアンはその深い理由までを聞いたことがなかった。自分はこの男のことを、まだまだ何も知らない。
「従騎士、な。結局、正式な騎士にはなれなかった」
「……どうして? その図体で、めちゃくちゃ弱かったとか?」
優美な茶器をテーブルに並べながら、ヴィヴィアンはいつもの憎まれ口を叩いた。
本当は、彼を迎える二日前から部屋を磨き上げ、今日のコーディネートも悩み抜いた末に決めた。前身頃に繊細な植物の刺繍をあしらったシャツに、彩度を抑えた藤色のスカート。浮かれた気持ちを悟られないように気を遣った、シンプルな装い。それほど意識をしていたはずなのに、いざ彼を目の前にすると、長年の刷り込みが邪魔をして優しい言葉が出てこない。
ゼノはそんな彼女の毒舌を気にした様子もなく、淡々と語り始めた。
「怪我をしてな。街の警備中に暴漢を取り押さえようとしたとき、隠れていた残党に後ろから派手に切りつけられた。日常生活には支障ないが、背中の神経をやられて、ときどき手脚が痺れて疼く。引き攣る感覚もあってな……。戦いには不向きな体になっちまった」
初耳だった。想像以上にシリアスな告白に、ヴィヴィアンは言葉を失った。さらりと明かされたが、彼の人生を大きく変えた深い傷跡。それを聞いてしまった重みに、静かにティーカップを彼の前へ差し出す。
芳醇な花の香りが、狭い部屋にゆったりと広がった。
「……で、なんで、そこから服と数字の世界に来ちゃったわけ?」
ヴィヴィアンも向かいに座って茶を啜る。ワイルドな風貌を持つ退役軍人のような彼が、華やかなルミナス・クラウンに籍を置くのは、以前からどこか不自然に思えていた。
「子供の頃から数字には強かったんだ。軍事物資の管理や仕分けをする部署にいたこともある。ルミナスに入ったのは、その頃の上司の紹介だ」
「へえ……」
知らなかった彼の下積み時代。彼はどんな少年だったのだろう。想像しようとしても、目つきの悪い粗暴な若者の姿しか思い描けなかった。
「服飾に興味もなさそうなのに、よく続いてるわよね」
「別に興味がないわけじゃない。言っておくが、これでも人よりは詳しいつもりだ。お前ほど狂っていないだけでな」
その言葉を裏付けるように、今日のゼノの装いは名のあるブランドの最新シーズンのものだった。オーソドックスなシャツだが、襟や袖口の仕立てには一切の妥協がなく、上質なこだわりが感じられる。シンプルな格好こそが、彼の鍛え抜かれた体躯の良さを残酷なほど引き立てていた。
ふぅん、と曖昧な相槌を打ちながら、彼の胸元の質感をまじまじと見つめていたら、ゼノは少しだけ居心地が悪そうに椅子に座り直した。
「で? お前はこれからどうするんだ?」
不遜な態度で腕組みをしながら、彼はおもむろに本題を切り出した。
今さら「何の話?」とシラを切るのは、さすがに野暮というものだろう。ヴィヴィアンは気まずく視線を逸らし、熱いお茶を一口啜った。
「……それは、どっちの話? 仕事のこと? それとも、もう一個の方?」
「どっちでもいい。……いや、仕事の方は来月までに答えがほしい。あとの方は……好きにしろ」
どこか投げやりな、諦めたような口調。ゼノは黙り込んだヴィヴィアンをしばらく見つめていたが、ティーカップに口を付けながら、話を続けた。
「現実的な話をしておこうか。しばらくはまともな給与は期待するな。準備は滞りなく進めているが、事業がどう転ぶかはまだ不透明だ。ルミナスのような安定は約束できない。……俺自身、個人資産を投げ打って準備している。もし結婚して、俺の妻になったとしても、当面は贅沢はさせてやれない。お前の好きな新作の靴や鞄も、今ほどは買えなくなるだろうな」
言いながら、ゼノは穏やかに微笑んだ。その目はどこかヴィヴィアンを試しているようで、彼女はわずかに顔を顰めた。
「……何? 私に、断ってほしいわけ?」
「現実的な話を、と言っただろう。後からブーブー文句を言われてもどうしようもないからな」
ゆっくりと茶器をテーブルに置くと、彼はふぅと息を吐いた。茶を飲む所作が、思いの外美しい。彼は間違いなく貴族の息子なのだと、ヴィヴィアンはどこか冷静に観察していた。
重たい沈黙が部屋に落ちる。ゼノは髪を乱雑にかきあげ、テーブルに目を落とした。その姿は、今まで見たことがないほど弱気で、どこか力なく見える。
ヴィヴィアンはその姿を、じっと見つめ続けた。
出会った頃、彼女は十八歳で、ゼノは二十一歳。当時の彼はとにかく粗野で生意気の塊のような男だったが、九年近い歳月を経て、お互いにすっかり大人になった。
落ち着きを増した顔立ち。鋭い三白眼は相変わらずだが、昔のような危うさは消え、凛々しく端正な大人の男の顔になっている。彼の無骨な美しさに、密かに思いを寄せる若い従業員が少なくないという噂も、今なら頷ける。
よく見れば、右の頬骨から耳にかけて、ごく薄い糸のような傷跡がある。これも従騎士の頃の勲章なのだろうか。長年隣にいたのに、今の今まで気づかなかった自分が不思議だった。
今となっては、そんな些細な欠点にさえ抗えないほどの興味を覚えているというのに。
ヴィヴィアンは決心し、静かに立ち上がった。
「ちょっと来て」
寝室に繋がる薄い木のドアを開ける。ゼノも大人しくそれに続いた。
部屋の中には、小さなベッドを取り囲むように、壁を埋め尽くすほどのラックが並んでいた。そこには、大量の洋服がぎっしりと詰め込まれている。
寝室というよりは、もはや服飾倉庫のていをなしたそこを、ゼノはわずかに眉を寄せ、しげしげと観察した。
「これだけじゃないの。田舎の実家には、この何倍もあるわ。流行遅れでもう着られないのもたくさん。でも、どれも物は最高にいいから、まだ高値で売れるものもあるはずよ。あんたのコネクションを使って、良い値段で売り捌くのを手伝ってよ。当面は、それでやっていくから」
ヴィヴィアンはゼノを睨みつけるように見上げた。
彼はしばらく呆気にとられたように彼女の顔を見下ろしていたが、やがてハッと呆れた息を吐き出した。
「……お前、それで返事をしてるつもりか?」
揶揄うような伏せ目で言われ、ヴィヴィアンは一瞬目を逸らす。
「何よ。私なりに、ちゃんと答えてるじゃない」
「俺ははっきり言葉にして伝えたが。服以外の話になると、お前はおそろしくポンコツになるな」
「そんなこと言ったって……あんた、あの指輪もさっさと手放しちゃって……。私も、どう答えたらいいのか分かんなくなるじゃない」
最後の方は、消え入るような声になった。
この期に及んで素直になれないことを、誰よりも情けなく思っているのは自分自身だ。縋るように彼を見上げると、ゼノは数秒、鋭い目を向けた後、ふっと表情を緩めた。
そっと伸ばされた手が、彼女の頬を包み込む。
少しだけ冷えた指先。けれどその大きな手のひらに触れられた途端、ヴィヴィアンの中の意地も虚勢も、儚く溶けていく感覚に陥った。ぐっと顎を持ち上げられ、見つめ合う。
また口付けをされるのかと、期待が脳裏をかすめた瞬間。
ぺちり。
頬を、弱い力で叩かれた。
「えっ……なんで叩くの? ここで?」
一気に顔を顰めたヴィヴィアンをおかしそうに覗き込み、ゼノはおもむろにその場に跪いた。
ジャケットの胸元に手を差し入れると、そこから艶やかなシルクを張った小さな箱が取り出される。
「えっ……」
戸惑う彼女を無視して彼が箱を開くと、そこには品の良い、シンプルな指輪が収められていた。華奢なシルバーの台座に、スクエアカットの小さなダイヤモンド。
洗練されたそのデザインは、ヴィヴィアンが最も愛するジュエリーブランドの、クラシカルな代表作だった。
「嘘」
思わず両手で口を押さえて驚くヴィヴィアンに、ゼノは諦めたような顔を向けた。
「お前がうるせえから、文句の付けようがないやつにした。これで、答えやすくなったか?」
ふてぶてしく言い放つと、彼はケースから指輪を取り出し、大きな手のひらを彼女へ向けた。左手を差し出せ、という無言の催促。
ヴィヴィアンは数秒その手を眺めた後、わずかに震える左手を重ねた。ゼノは当然といった顔で、小さな輪を彼女の薬指へと通す。サイズは驚くほどぴったりで、ダイヤが細かな煌めきを品よく放った。
「ヴィヴィアン。俺と生涯、共に歩んで行ってほしい。お前以外には考えられない」
真っ直ぐな目で、彼はきっぱりと言い切った。
ヴィヴィアンの細い指先を、ぐっと力強く握り込む。もうその力に抗う理由も余地もなかった。ヴィヴィアンは熱くなる目元を細め、彼の目を見つめ返す。
「はい……」
絞り出すような声で答えると、ゼノはわずかに口の端を上げた。
「聞こえねえな」
その悪戯な声色に、頬を涙が伝うのも構わず、ヴィヴィアンは思わず吹き出した。
「はいって言ったの! ……あんたと結婚する。なんとか商会だって、私がいなきゃ上手くいかないわよ」
ゼノが見たこともないほど朗らかに破顔した。
立ち上がり、大きな体がヴィヴィアンの細身を力強く抱き締める。
「言っとくけど、心中するつもりはないから。一年で実績上げて、最短距離で成り上がるからね」
「頼もしいな」
「私の目利きを無視して、ケチな予算組みしたら承知しない」
「ウチを破産に追い込むなよ」
いつものような憎まれ口を叩き合いながらも、体は熱く寄り添い、二人は強く抱き合い続けた。ゼノは彼女の首筋に顔を埋め、その温もりを逃さないよう太い腕で包み込む。
分厚い筋肉の壁に抱かれ、これまでにない安心感に包まれて、ヴィヴィアンも必死に彼の背へ腕を回した。密着した胸元からは、ドクリドクリと普段よりわずかに早い、力強い鼓動が響いてくる。
やがて体を包む腕の力が緩まると同時に、彼の顔が近づいてきた。
そっと、唇が重なる。
狭い寝室、溢れかえるヴィヴィアンの愛した服たちに見守られながら、二人は飽きることなくお互いの熱を求め合った。
「あーよかった、うまく行って!」
二日後、ルミナス・クラウンのバックヤード。
サブ・マネージャーのメアリーにだけこっそりと退職と結婚の報告をした時、彼女は拍子抜けするほどあっけらかんと笑った。
思わぬ反応にたじろいでいると、彼女はヴィヴィアンの左手の薬指をじっと見つめた。そこには何も着けていない。まだ正式にフロア全体への発表はしていないし、何より職場では手袋のつけ外しも多いため指輪は着けないことにしていた。
「あの指輪……よかったでしょう? 『エクラ・ネージュ』のクラシカルライン。チーフは絶対に好きだと思ったんです」
うふふ、とメアリーはほくそ笑んだ。
「えっ! どうして、それを」
「へへへ……ランバート様が顔を真っ赤にしながら相談に来た時の姿……チーフにも見せたかったですよ」
「ええええ」
ゼノは指輪を選び直す際、ヴィヴィアンの好みを熟知しているメアリーに頭を下げ、二人で何度も候補を検討したのだという。彼らが交際しているという噂は、その極秘会議の副産物だったのだ。
「変な話が出てるのは知っていましたけど、あんな面白いことから身を引くわけにもいかなくて。まあ、見返りとしてアルベルト様との食事をセッティングしてもらえたので、こちらとしても結果オーライなわけですよ」
メアリーはうふふと含み笑いを深めた。アルベルトはゼノの後任者だ。なぜその名前が出るのかとヴィヴィアンは一瞬ぽかんとする。その顔を見て、メアリーは座った目でため息を吐いた。
「本当にチーフって、服飾品以外に興味がないんですね……。私とアルベルト様、先月からお付き合いしてるんですけど、ご存知なかったです?」
「え! ええ!?」
「はぁ。まあ、だから、大丈夫なんですよ、チーフ。ルミナスのこれからは、私たちに任せてくださいね。チーフとランバート様ほどバリバリガツガツドンドンできるかは分かりませんけど、二人でなんとかやっていくので。安心して出発なさってください」
メアリーはヴィヴィアンの手を取り、優しく言った。彼女とはもう四年一緒に働いている。服飾品を前に暴走しがちなヴィヴィアンを冷静にサポートしてきたのは、ゼノだけではない。
「ランバート様と、ずっと仲良くしてくださいね。たまには優しい言葉もかけてあげなきゃダメですよ。あんなにチーフのことを深く理解して一途に思える人、なかなかいませんって」
「……あっちから優しい言葉をかけてもらったこともないんだけど」
「夫婦は合わせ鏡ですよ」
後輩から至極真っ当な釘を刺され、ヴィヴィアンは「ぐう」と唸るしかなかった。




