2.ガラスの靴
「はぁ……」
今日もうっとりと熱いため息を吐くヴィヴィアンを、隣からゼノが心底冷めた白い目で見下ろしている。
彼女の視線の先では、研修中のフェリックスが販売員と共に紳士服のディスプレイを整えていた。遠目からでも、彼にだけ天上から光が差し込んでいるかのように、その周囲だけがキラキラと輝いて見える。
「あの新作……トルソーよりも彼に着せた方が売り上げが伸びるのではないかしら。本当に、なんて美しいの……。ねえ、あんたもそう思うでしょう?」
頬を赤らめ、フェリックスの彫刻のような美貌を見つめながら、ヴィヴィアンは真剣な口調で言った。当然のように同意を求められても、ゼノは頷きようがない。
「お前……本気で言ってるのか?」
「本気よ。名案だわ、決めた。彼には『アトリエ・レオン』のイエローのジャケットを着せましょう。婦人服の目玉ドレスとの相性が抜群だから、カップルで来店されたお客様に素晴らしいセールストークができるわ。ねえあんた、紳士服のチーフにそう話を通してくれない?」
「……いや、俺が『本気か』と聞いたのはそっちの意味じゃなくてな」
「早くして!」
背中をドンと強く押され、ゼノはよろよろと紳士服売り場へ進まざるを得なくなった。重い足取りでフェリックスのもとへ歩み寄ると、彼は陽だまりのような煌めく笑みをゼノへ向けた。それだけで、彼の背後に幻の薔薇が咲き乱れて見える。
「ランバート殿。見てください、このコーディネートはいかがでしょうか。僕なりに組んでみたのですが」
「……脱がせろ」
「えっ?」
「お前がそれを着るんだよ」
ゼノはトルソーから整えられたばかりの衣服を剥ぎ取ると、呆けた顔のフェリックスをバックヤードへと引きずっていく。
(戸惑っている顔も、なんて可愛らしいのかしら……)
ヴィヴィアンは胸をキュンキュンと高鳴らせながら、フェリックスの一挙一動を追った。人気ブランドの春の新作に身を包んで戻ってきた彼は、そのまま額縁に入れて絵画にしてしまいたいほどに様になっていた。
「最高……最高よ! モンフォール様。ちょ、ちょっと、そちらで一回転してみてくださらない?」
ヴィヴィアンは涎を垂らさんばかりの勢いで飛びつき、彼を拝み倒す。フェリックスはニコニコと言われるがまま、何の抵抗もなく優雅にくるりと回ってみせた。
「ああっ素敵……今、フロアに春の風が吹いたわ!」
ヴィヴィアンは目を潤ませ、感動のあまり両手で口を塞ぐ。そのまま興奮冷めやらぬ様子で彼に詰め寄ると、ジャケットの襟を整えながら、溢れ出す知識を早口で語り出した。
「このジャケットはね、三年前このブランドで大ヒットしたシリーズの最新作なの。一見シンプルな仕立てだけれど、このラペルの尖り具合が絶妙で、フォーマルな格調を保ちつつも若々しく着こなせる。この色も、昨年北の大陸で開発されたばかりの希少な染料で染められたものよ。まさに春の柔らかな陽光を具現化したような、絶妙な色彩だわ……」
「すごいなぁ。ヴィヴィアンさんは紳士服にもお詳しいのですね」
至近距離でにっこりと微笑まれ、ヴィヴィアンは硬直した。普段はクールビューティーと称される整った顔を蕩けるように崩し、彼女はよろよろと数歩後ずさった。
「破壊力!!」
一言そう叫ぶと、ヴィヴィアンは顔を両手で覆って動かなくなってしまった。見かねた部下のメアリーが彼女の肩を抱き、「チーフ、しっかりしてください」となだめる。フェリックスがこのフロアに来てから一週間、毎日がこんな有様なので、周囲もすでに慣れ始めていた。
「ヴィヴィアンさん。僕のことは、フェリックスと呼んでいただけませんか」
メアリーの手によってようやく正気を取り戻しかけていたヴィヴィアンは、その一言で再び思考をお花畑へと飛ばした。
「フェ、フェリックス、様……?」
「いえ、敬称も不要です。ただ、フェリックスと。僕の方が二歳も年下ですし、ここでは貴女の部下ですので」
「そんな……貴族のご令息に向かって、そんな失礼なことは」
「お前、俺にはクズだの木偶の坊だの好き放題言ってるくせによ」
横から子爵令息であるゼノが憎らしい口調で口を挟んだが、ヴィヴィアンの耳には羽虫の羽音ほどにも入らなかった。
「じゃ、じゃあ……フェリックス……」
「嬉しいな。ヴィヴィアンさん、これからも僕にいろんなことを教えていただけますか」
「もちろん……!」
すっかり花が咲き誇る二人だけの世界が広がり、ゼノとメアリーはその端で目を座らせ、そっと見守ることしかできなかった。
フェリックスは、異様なほどヴィヴィアンに懐いた。
本来であれば伯爵家の次男である彼が、このような現場で働き、平民である彼女と親しく接する機会など万に一つもなかっただろう。しかし、モンフォール家は王国の外交と物流の要を担う名門。「現場を知らぬ者に、国を動かす資格はない」という厳格な家訓に従い、彼は最も流行と金が動くこのルミナス・クラウンへ短期間の実地研修にやってきていたのだ。
その日入荷したばかりのネックレスをヴィヴィアンがディスプレイに並べていると、フェリックスはその迷いのない手つきを熱心に眺めて嘆息した。
「元々美しい品物なのはもちろんですが、ヴィヴィアンさんの手にかかると一層の輝きを放って、まるで宝石の一粒一粒が息づいているようです。本当に素晴らしいな」
「素晴らしいのは、貴方という存在そのものだと思うのだけれど」
「あはは、ヴィヴィアンさんは本当に面白い人だ」
会話が全く噛み合っていないことすら気に留めず、フェリックスは柔らかな眼差しを彼女に向けた。ヴィヴィアンもうっとりとその碧い瞳を見つめ返す。
「なあ……。仕事、してくんねえかな」
朝からフロアに花を飛ばす二人に、ゼノは砂を吐きそうになりながら力なく突っ込んだ。
「いやですわ、ランバート様。今、ディスプレイを二人で整えていたのが目に入らなくて?」
ヴィヴィアンはフェリックスに向けていたたおやかな笑顔を貼り付けたまま、ゼノに向き直った。いつもなら絶対に自分に向けられない上品な微笑みに、ゼノが恐ろしいものを見たようにたじろぐ。
「……俺には、ただイチャイチャ見つめ合っているようにしか見えなかったがな」
「ランバート様はやはり視力が下がってきていらっしゃるようですわ。必要であれば、素敵なモノクルを見繕って差し上げてよ?」
「わあ、ランバート殿にモノクル。お似合いになりそうですね。今のワイルドな風貌にギャップがあって、渋みが出そうだ」
「うふふ、そうでしょう?」
放っておけばすぐにキャッキャと二人だけの世界に入り浸ろうとする。ゼノはフェリックスの首根っこを掴むようにして引き留めた。
「店頭に熱心なのはいいが、お前が一番に学ぶべきは数字だろうが。来い、今から裏で帳簿のチェックだ」
大男にずるずると引きずられていきながら、フェリックスはそれでも穏やかな笑みを絶やさず、ヴィヴィアンに小さく手を振った。ズキュンという音がして、ヴィヴィアンは胸を押さえて蹲った。
「チーフ……形式上聞いておきますけど、大丈夫ですか」
メアリーが若干冷めた口調で、義務的に尋ねてくる。
「強すぎる……フェリックス・モンフォール……心臓がいくらあっても、足りない……」
「もう二十個くらいはぶち抜かれてますもんね」
「はあああ………」
ヴィヴィアンはすっかり彼に夢中だったが、いざ開店時間となり客が入れば、プロとして完璧に振る舞うのが彼女だった。接客中にフェリックスがそばに控えることもあったが、そんな時でも彼女は一切表情を崩さず、その目線は客と服飾品にしか注がれない。ヴィヴィアンの指導は常に的確で、服飾品に関することであればフェリックス相手であっても容赦なく厳しい言葉を投げた。
そんな凛とした姿に、フェリックスの方も次第に惹かれていき、二人の仲が深まるのにそう時間はかからなかった。
「ヴィヴィアンさん……もし、お嫌でなかったら。僕の恋人になっていただけませんか」
ある日の仕事終わり。人影の消えた屋上テラスにヴィヴィアンを呼び出したフェリックスは、真っ白な薔薇の花束と共に、懇願するような声で告白した。
ヴィヴィアンは顔を真っ赤に染め、震える手で花束を受け取った。身体が数十センチほど宙に浮いてしまったのではないかという高揚感の中で必死に頷くと、フェリックスは碧い瞳を潤ませながら彼女の両手を握りしめ、そっと彼女に口付けた。
そこからは、夢のような日々だった。
仕事中に目が合うたび、フェリックスは眩い笑顔でアイコンタクトを送ってくる。休憩時間は彼の実家が用意した豪華なランチを共に囲んだ。休日は街へ出て定番のデートコースを回り、流行の変遷をチェックする。彼はヴィヴィアンがひたすら服飾品の話しかしないことにも眉ひとつ動かさず、全てをニコニコと愛おしそうに聞いてくれた。
「君は服の話をしている時、本当に幸せそうだね」
「ごめんなさい、同じような話ばかりで……」
「いいんだ。その顔を見ているだけで、僕は幸せだから」
湖畔沿いのカフェテラス。甘い声で囁かれ、ヴィヴィアンはこれが夢ではないかという錯覚に陥る。陽光を浴びてキラキラと金糸のように輝く彼の髪。こんな飾り糸をあしらったドレスがあれば素敵だろうなと、彼女はぼんやりと考えた。
フェリックスは、最新の服飾品をよくプレゼントしてくれた。彼女の給料では一生かかっても手の届かないような高級ブランド品だ。
「せっかくいただいても、私の今の生活では身に着けていく場所がなくてもったいないわね」
「そうか……余計なことをしてしまったかな」
「いいえ。こうして、手にとって眺めているだけで最高の気持ちになれる」
輝くビジューや繊細な刺繍のあしらいにうっとりと目を細めていると、その手にフェリックスの大きな手が重ねられる。中性的で細身の彼だが、こうして触れ合う手の感触はしっかりと骨ばっており、彼が紛れもなく男性であることを示してくる。
「ヴィヴィ。君のそんな顔を、ずっとそばで眺めていたい」
囁くようにそう言ってヴィヴィアンの頬を撫でると、彼はそっと口付けを落とした。
フェリックスがルミナス・クラウンで働き始めて、四ヶ月。彼の研修はあとふた月で終わりを告げようとしていた。
薄暗い倉庫で、ヴィヴィアンが宝飾品の在庫をチェックしていると、大きな木箱を抱えたゼノが不機嫌そうな面持ちで入ってきた。
「なぁに、それ」
「返品だ。ヴァランタン家の奥方が、春に注文された靴が十足も入っている。ご懐妊のため、すべて不要になったのだとさ。外商がさっき持ち帰ってきた」
「あー……ちょっと見せて」
ゼノの隣にしゃがみ込み、木箱の中を改める。多数の宝石が埋め込まれた、美術品のように素晴らしい意匠のハイヒールたち。手袋をつけた手でそれを一つ手に取り、ヴィヴィアンはうっとりと眺めた。
対してゼノは恨めしそうな顔で、小さく舌打ちをする。
「ったく、返品不可だってルールを簡単に覆しやがって。奥方の足の形状に合わせて作ってるもんだから、再販もできやしねえ」
「ヴァランタン侯爵夫人の足は、小さくて甲幅が広いという特徴があるものね。その形状に合わせて、本当に丁寧に作られているわ……素晴らしいわね」
「何が素晴らしいんだか。赤字を生みやがって」
ゼノはヴィヴィアンの手から乱暴な仕草でハイヒールを奪うと、木箱へと戻した。
「どうするつもりなの、それ」
「来週、工房へ送り返す。バラせばパーツの再利用くらいはできるだろ」
「はぁ、もったいない……」
「売れもしねえ品物なんか、ゴミだ」
情緒も何もない言い草にヴィヴィアンは眉を顰めたが、現実的には仕方のないことだとは理解していた。こういったことのないよう、オーダーメイド品は基本的に返品不可となっているのだが、高位貴族相手には外商部も強く出られず、今後の関係維持のためにわがままを聞いてしまう。そうして地下倉庫には再販不能な「損失」が眠り続けることになる。それは、数字を管理するゼノにとって最も忌々しい存在だった。
「あーあ。私が貴族だったら全部買い取りたい。部屋の壁一面に靴の棚を作って、そこに並べてあげるのに」
「部屋の壁なんかじゃ足りずに、王都の防御壁にまで並べ出しそうだけどな、お前は」
「いいわね。美しいもので飾れば、つまらない襲撃も減るかもしれない」
「荒くれ野郎どもがキラキラの靴なんかで落ち着くわけねえだろ、服バカ」
そう吐き捨てて木箱を持ち上げた彼の逞しい腕、まくられた袖からは古い裂傷痕が見えた。
現在二十八歳のゼノは子爵家の三男で、二十代のはじめまでは騎士を志していた時期があったという。何をどうしてそれが今ここで数字の管理をしているのか。しかしヴィヴィアンはさほど彼に興味もないので、尋ねようとも思わなかった。
ゼノは木箱を棚にしまうと、大きくため息を吐く。
「ねえ。観賞用に一つ貰っちゃダメ?」
「俺が『良い』と言うと思ってんのかよ」
「本当ケチ。石頭」
「大体なんだ、観賞用って。履けもしない靴を持っていて何になる」
「美しいものは、眺めるだけでも幸せになるじゃない」
ヴィヴィアンは木箱を名残惜しく撫でる。ふぅ、と小さく息を吐いていると、ゼノが一段低い声を出した。
「……それは、あいつもそうなのか?」
その質問の意図はすぐに分かったが、ヴィヴィアンは木箱から目線を外さず、わざと間の抜けた声で答えた。
「あいつって?」
「とぼけるな。どこまで本気か知らんが、あいつの研修が終わったら、そこまでだぞ」
ヴィヴィアンは無表情だった。冷えきった顔で、無機質に在庫の並ぶ棚を見つめている。
「あんたに、言われるまでもない」
温度の低い、突き放すような声でヴィヴィアンは呟いた。
「ぴぃぴぃ泣き喚く前に、忠告してやってんだよ」
「余計なお世話なのよ。野暮助」
ドン、と厚い胸板を突き、彼を押し除けて倉庫の出口へ向かう。ゼノがさらに何か言ってくるかと背中を強張らせていたが、追撃はなかった。
石床を叩く鋭いヒールの音が、いつもよりも耳障りに響く。木箱に押し込まれたあの靴たちの、報われない輝きが、どうしても頭から離れなかった。




