1.落雷
「『グラン・エトワール』の春の新作。今季も最高に美しいわ。このネックレスは正面ショーケースの一番目立つところへ。そう、光が一番集まる場所に置きましょう」
キラキラと輝く数々のジュエリーを眺めながら、ヴィヴィアンはその大きな青紫の瞳を一層輝かせた。汚れ一つない白手袋をはめた指先で、ネックレスのトップを飾る大粒のダイヤモンドをそっと撫でる。その至高の輝きにうっとりとため息を漏らした後、彼女は表情をきりりと引き締め、プロの顔に戻った。
「このネックレスの隣には、昨日入荷した『オーレリア・ヘリテージ』のブレスレットを並べて。きっと互いの気品を高め合うわ。ショーケース横のトルソーには『アトリエ・レオン』のイエローグリーンのドレス。春の爽やかな風を呼び込むようなイメージで打ち出していくわよ」
スカートの裾を翻し、背筋を凛と伸ばしながらヴィヴィアンはきびきびと指示を出した。その声に後ろに控えていた部下たちが一斉に動き出し、店頭が鮮やかに作り替えられていく。
開店まであと二時間。その時間内に、彼女たちはこの場所を昨日とは全く別の、夢のような舞台へと変貌させるのだ。
ここ「ルミナス・クラウン」は、王立で唯一の総合百貨店。数々の贅を尽くした品々が集まる、国を代表する複合施設だ。
五階建ての城を思わせる、豪奢な白い石造りの外観。一階には一般客向けの薬草や日用品を扱う雑貨店や食料品店が軒を連ねるが、階を上がるごとに空気は洗練され、最上階に近い場所ほど、高貴な人々を対象とした高価な服飾品や家具、調度品が並ぶ貴族御用達のフロアとなる。
ヴィヴィアンは最上階の服飾フロアで働く、販売員兼チーフマネージャーだ。
婦人向けの複数の店舗を取り仕切り、商品の仕入れ管理からディスプレイの構成、販売方針の策定、そして何より上得意客への接客を担当する。
十八の春からここで働き始めて、今年でもう七年。ベテランと呼ぶにはまだ若いが、人一倍の服飾愛と知識、そして確かな実力が認められ、彼女は毎日朝から晩までその手腕を鮮やかに発揮していた。
「おい、着道楽。来月の発注リスト、あれはなんだ」
ヴィヴィアンがトルソーのドレスの裾をミリ単位で調整していた時だ。手元に落ちた暗い影と共に、低く粗野な声が無遠慮に降ってきた。彼女はうんざりした様子で、頭だけで振り返る。
鋭い三白眼で仁王立ちになり、ヴィヴィアンを見下ろしているのは、ゼノ・フォン・ランバート。このフロアの予算と在庫を一手に管理するフロア・コントローラーだ。短めの黒髪に、射抜くように冷たい灰色の目。鍛え上げられた逞しい体躯は、百貨店の事務方というよりは前線の騎士だと言われた方が納得のいく風貌だが、彼は子爵家の三男という立場にありながら、この百貨店で冷徹な「数字の番人」を務めている。
「何よ。今、忙しいんだけど」
「ドレスの裾をチンタラいじくり回すだけの、何が忙しいんだよ」
「あんた、目ぇ悪いんじゃないの? この繊細なフリルを美しく整えてるんでしょうが」
「んなもんチマチマやってる暇があったら、このとち狂った発注リストの見直しが先だ、ボケ。なんだこのアホみたいな金ボタンの発注数は」
ゼノは吐き捨てると、ヴィヴィアンの顔面に一枚の紙を突きつけた。それは紛れもなく、彼女が昨晩心血を注いで書き上げたリストだった。
「……何よ。完璧じゃない」
「どこがだよ。金ボタン三百個? このフロアでボタン投げの祭りでも始めるつもりか」
「何、一緒に出してた計画書まで見てないわけ? 来月入荷するシルクブラウスのボタンを、全てこれに付け替えて売るためよ。デザインは素晴らしいのに、ボタンだけが微妙な銅製なの。そのままじゃ、流行に敏感なご令嬢たちは絶対に着たがらないわ」
ヴィヴィアンは立ち上がると、ゼノのぶ厚い胸にリストをピシャリと押し返した。
「なんじゃそりゃ。また余計な手間暇増やしやがって。付け替えの工賃だってかかってくるじゃねえか」
「そこは交渉済みよ。こちらで付け替えて付加価値を乗せて売る代わりに、売価はちゃんと上げて、元の工房にも……」
「余計なことすんなって言ってんだよ。ボタンの一つや二つちまちま付け替えたところで、そう変わらねえだろ。手間をかけず、最初からそのまま売れるものだけでちゃっちゃと売り場を作れって話をしてるんだ」
「はぁ? あんた、それ本気で言ってるの?」
ヴィヴィアンはカツンと鋭くヒールを鳴らし、長身のゼノに詰め寄った。細身で小柄な彼女だが、がっしりと筋肉質な男を相手に全くひるむことなく、真正面から睨みつける。
「ボタンの一つや二つ? ちゃっちゃと売り場を作れ?」
「ああ、そうだよ。大体、この金ボタン一つでパンが何個買えると思ってる。無駄金かけやがって。うちの工房の人手だって有限なんだ。銅製で十分だろ、ブラウスごときに」
「あーーーっもう!! 最低!!!」
高い声が開店前のフロアに響き渡った。周囲の店員たちが「また始まった」と呆れ顔になり、遠巻きに二人を白い目で見つめている。
「あんた、ここで働いて何年になるわけ? 流行に敏感なお嬢様方はね、ボタンの輝きはもちろん、裏地の糸の色一つだって気にかけるの! 手間暇をかけた品物と売り場にこそ、価値を見出してくださるのよ! そもそも金ボタンと銅ボタンじゃ、満月とあんたのキンタマくらい違うわよ、このカカシ頭!」
「キン……お前なぁっ!」
「……まあ、キンタマは銅ボタンに失礼だったわね。外した銅ボタンは一階の一般フロアで販売する手筈になってるわ。子供服の材料としてね」
高慢に腕組みをしながら、ヴィヴィアンは大袈裟に息を吐いてみせる。
「あのブラウスは本当に美しいから、来月の目玉になる。でも他店にも流れているものだから、うちで売り出すためにはボタンの付け替えは必須なの。これは必要な『投資』よ。一歩も引かないわ」
こうなると彼女はテコでも動かない。ゼノは苛立たしげに舌打ちをし、手元の発注リストを恨めしそうに睨んだ。
「……もしこれで赤字を出してみろ。再来月のお前の査定に響くからな」
「いいわよ。その代わり、ブラウスがヒットしたらボーナスをよろしくね」
「予算泥棒が」
「クソボケ計算機」
「まじでろくでもねぇ」
ゼノはもう一度これみよがしに舌打ちを残し、大股で去っていった。その大きな背中に向けて思い切り舌を出して見送り、ヴィヴィアンは気持ちを切り替えるために一度目を閉じ、深く息を吐いた。再びゆっくりと瞼を開けると、そこには色とりどりの輝きを放つ服飾品が秩序正しく並ぶ、素晴らしい光景が広がっている。
ああ、美しい。
このフロアはまるで宝石箱だ。
あと半刻もすれば、ここへ華やかなドレスを纏った令嬢たちが次々に訪れ、この至高の輝きに胸を踊らせて黄色い声を上げるに違いない。その光景を想像し、ヴィヴィアンはにんまりと微笑んだ。
ヴィヴィアンは幼い頃から、美しいものが大好きだった。宝石、ドレス、靴、花、リボン、絵画、花瓶……とにかく、この世の美しいものなら何でも。
彼女の家は祖父の代で没落した男爵家で、ヴィヴィアンが生まれた頃にはすっかり平民同然となって質素に暮らしていた。だが、亡き祖母が秘蔵していた貴族時代の数着のドレスと、わずかな宝飾品が家の棚の奥に眠っていたのだ。
ヴィヴィアンは子供の頃からそれをこっそり引っ張り出しては、飽きることなく愛でてきた。平民の衣類とは一線を画す、上質な仕立て。細部の刺繍までキラキラと輝き、裏地の縫い目まで美しい。それに触れている間は、自分も別世界へトリップしたような高揚感に包まれた。
しかし今の身分では、それを身につけて街を歩くことは叶わない。ならばせめて、その輝きの側で生きたい。そうして彼女が選んだ道が、高級百貨店の従業員だった。高位貴族を相手にするここで働けば、自分では一生手の届かない至宝を毎日目にすることができる。服飾への愛と情熱だけなら誰にも劣らない彼女にとって、そこはまさに聖域であり、天職だった。
「ようこそお越しくださいました、ウェルズリー様。ちょうど、お好みに合う春の新作が揃っておりますよ」
さきほどゼノと対峙した際のかしましさはどこへやら。上得意の客を前にしたヴィヴィアンは、素性を知らなければ生粋の上流貴族令嬢かと見紛うほどの上品な笑顔と佇まいで、流麗に接客を開始した。
シックな濃紺の制服のワンピースをそつなく着こなし、ブローチやスカーフなどの小物で自分なりのアレンジも欠かさない。その彼女のセンスは、目の肥えた貴族にも一目置かれていた。
「こちらのブレスレットは、昨年末にお求めになったネックレスと同じ工房の新作でございます。あのネックレスと合わせていただくのはもちろん、このようにシンプルな品との重ね付けも大変お勧めですよ」
「素敵ね。ねえ、あの日傘も気になるわ。持ち手のあしらいがとても美しいわね」
「お目が高いですね。あちらは隣国から入荷したばかりの品物でございます。我が国ではなかなか見られない意匠でしょう。お嬢様が年始に仕立てられた藍色のドレスにも、きっと美しく映えるはずです」
新しい刺激を求めに来店した貴族令嬢に、ヴィヴィアンは花が綻ぶような笑顔で淀みなく提案を続ける。
彼女の頭の中には、上得意客のあらゆるデータがインプットされていた。誰が何を買い、どんなドレスを持ち、何を好むのか。それらを寸分違わず把握し、適切なタイミングで引き出しながら接客に繋げる。彼女の担当した客は、必ず多額の対価を支払い、そしてこの上ない満足感と共に店を後にするのだ。
「チーフは本当にすごいです。どうしてあんなに細かなことまで覚えているんですか? メモなども、一切ご覧になっていませんよね」
午前の客の波が引いたところで、部下のメアリーが目を輝かせて尋ねてきた。
「全部、覚えているもの」
ヴィヴィアンはディスプレイを整えながら、こともなげに言う。
「すごい……。本当に、どうやって」
「ここに並んだ品の行方を、忘れるはずがないわ。全ての品が、我が子のように愛しい存在なのだから」
そう言いながら飾られたネックレスの角度を整え、うっとりとするヴィヴィアンを、メアリーは何やら恐ろしいものを見るような目つきで眺めた。前々から薄々感づいてはいたが、この上司の服飾品への愛は、少し常軌を逸している。手元の宝石を、まるで運命の恋人を前にしたような熱で見つめているのだ。
昼時になり、休憩室へ入るとその異常性はさらに浮き彫りになった。従業員用のテラスで彼女が紙袋から取り出したのは、クズのような雑穀パンの切れ端だけだった。
「チーフ……今日もそれだけなんですか」
「なによ。これ、噛めば噛むほど美味しいのよ」
「いや……それって、家畜用に無料で配られているものですよね。人間がメインで食べるものじゃないと思うんですが」
「失礼ね、人間だって食べれるものよ。それに、食事なんかにお金をかけていられないわよ。今月は『アトリエ・レオン』の新作スカートを二着も買っちゃったんだから」
パン切れを行儀悪く齧りながら、彼女はさきほど届いたばかりの来季の新作カタログを熱心に貪り読んでいる。
この女を一言で表すなら、「服飾狂い」。
本当に、彼女の脳内には服飾品のことしかない。
艶やかなブルネットの髪、小さく整った鼻梁、吸い込まれるような大きなスミレの瞳、すらりとした長い手足という類稀なる美貌を持ちながら、二十五になっても浮いた話の一つも聞こえてこないのは、彼女が色恋よりも仕事──いや、服飾品そのものに全霊を捧げているからに他ならない。
「ああ……どうしましょう。来季の新作もどれも最高だわ。欲しいものが百着もある。お給料の前借り、またできるかしら……」
長い睫毛を伏せ、うっとりと瞳を蕩けさせながらカタログに没頭する。メアリーが呆れ果てた顔で見つめていることなど、露ほども気づいていない。
五年ほど前から、親族からは熱心に見合い話を持ちかけられてきた。だが、彼女はそのどれにも興味を示せなかった。
ヴィヴィアンはとにかく、美しいものにしか興味がない。それは異性であっても同じこと。彼女の苛烈な審美眼に適うような絶世の美男でも現れない限り、一生結婚などするつもりはなかった。そのへんのつまらない容姿の男の隣にいるくらいなら、マネキンを相手に語らっている方がよほどマシだ。
そんな彼女に、まさに青天の霹靂とも言える出会いが訪れる。
ある雨の日だった。
「フェリックス・モンフォールと申します。本日からフロア・コンシェルジュとして半年間、こちらで皆様と共に働かせていただきます。経験不足の若輩者ですが、ご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い申し上げます」
柔らかな金髪に、吸い込まれるような碧眼。彼が微笑むだけで、淀んだ空気に薔薇の花が咲き誇るような華やかさが生まれ、その場にいた女性従業員たちは皆、その輝きに当てられてふらりと後ずさった。
その先頭にいたヴィヴィアンだけは、直立不動で無表情を貫いている。彼女は眉ひとつ動かさず、フェリックスをじっと見据えていた。
「ヴィヴィアン。チーフマネージャーとして、モンフォールをサポートしてやってくれ。研修期間中はランバートが主に面倒を見るが、売り場のことは君の方が詳しいだろうからな。……ヴィヴィアン?」
フェリックスの横に立つ支配人が、反応のない彼女に怪訝な声をかける。しかしヴィヴィアンは能面のように固まったままだ。見かねたメアリーが「チーフ」と囁き、そっと肩を叩いた。その途端、ヴィヴィアンは魔法が解けたように動き出す。
「はい、承知いたしました。店頭のことは何なりと、私にお尋ねくださいませ。私に名乗れる家名はありませんので、どうぞ、ヴィヴィアンと」
凍りついていた表情が、途端ににっこりと綻ぶ。その笑顔に安心したのか、フェリックスもまた柔らかな笑みを返した。
「心強いです。ヴィヴィアンさん、どうぞよろしくお願いいたします」
朝礼が終わった瞬間、ヴィヴィアンはくるりと背を向け、コツコツと鋭いヒールの音を立ててバックヤードへと突き進んだ。倉庫の一番奥まで早歩きで駆け込み、壁にバシンと手をついて床を見つめる。
しばらくそのまま固まっていると、後ろから在庫表を片手に入ってきたゼノが、その姿を見つけて「うおっ」と声を上げた。
「孔雀女。なにしてんだ、こんな暗がりで……」
声をかけられ、ヴィヴィアンはぎしりと音が鳴りそうな動きで振り返った。その両目はカッと見開かれ、かつてないほどの興奮に満ち溢れている。ゼノは思わず後ずさった。
「どタイプ……」
「あ?」
「どタイプ……フェリックス・モンフォール。ばちくそ、タイプ。神様からの贈り物だわ……」
「おい、何言ってんだお前」
ぶつぶつと早口で語り出した彼女に、ゼノはさっぱり意味がわからず、正気に戻そうと肩を叩く。ヴィヴィアンは潤んだ瞳で彼を見上げた。
「どうしよう……。一目惚れ、しちゃった……」
「は?」
これまでに見たこともないほどキラキラした表情でうっとりと呟く彼女を、ゼノは信じられないものを見る目で見下ろす。戸惑いの視線などお構いなしに、ヴィヴィアンは虚空を見つめて瞳を潤ませた。
「ガチの、マジで、タイプ。どうしよう。これが、恋なんだわ……」
顔を真っ赤に染めて両手で口元を覆い、ヴィヴィアンは夢心地で呟いた。
その瞬間、ドンガラガッシャンと腹に響くような雷鳴が轟き、石造りの建物が小さく揺れた。窓の外では雨足が急激に強まり、嵐のような風が荒々しくガラスを叩く。
ふらふらと夢遊病者のように倉庫を出ていくヴィヴィアンの背中を見送り、薄暗くなった倉庫でゼノはたった一人、呆然と立ち尽くした。
「マジかよ」
その呟きは、激しさを増していく雨音にかき消され、誰の耳にも届かなかった。




