第4話
「やっぱりただの偶然じゃなかったんですね。」
「偶然の方が、よっぽどホラーだ」
佐々木工務店からの帰り道、助手席の部下に私はそう返した。
あの電話が切れた瞬間、佐々木は元の気丈な――あるいは、そう装った態度に戻った。
『投資はしない。これでいいんだろ。一応仕事は入ってるんだ、帰れ』
そう言って、彼は鉋を手に取った。
だが、木を削れば削るほど、削り節と一緒に赤字が積み上がっていく。それが今の地方工務店の現実だ。
「ちょうどいい。例の三件の様子を見てから帰ろう。……と言っても、車から眺めるだけだがな」
「了解です」
信金に立ち入る権利はない。だが、公道を通り過ぎるだけならストーカー呼ばわりされる筋合いもない。
田中不動産、工務店、電気店。
三件とも、驚くほど「普通」に営業を続けていた。
数億円の負債を叩き返してから半年。通常なら運転資金が底を突き、干からびているはずの時期だ。その事実だけで、背筋が凍るような情報だった。
その夜。私は自宅の書斎で、三社の決算書を再び広げた。
何度計算しても、彼らが返済した二億五千万には、融資額だけでなく彼らの「自己資金」も含まれていたはずだ。手元の現金をすべて吐き出したはずなのに、なぜ今も営業を続けられる?
工務店は仕入れに、不動産は維持費や税金に、常に多額のキャッシュが必要だ。
半年間も「無風」でいられるはずがない。
「……金融機関だ!」
思わず、独り言が漏れた。
なぜ、最も疑うべき相手を思考の枠から外していたのか。
いや、最初は「ホワイトナイト」という名の、別の金融機関を疑ったのだ。だが、どこにも融資の形跡がなかったから、その可能性を切り捨ててしまった。
だが、もしも。
「記録に残らない形」で資金を供給している、影の金融機関が存在するとしたら?
私は三社の過去の決算資料を、穴が開くほど見つめていた。
すでに完済された以上、最新の資料はもう手に入らない。相手が上場企業なら開示資料を追えるが、相手は地元の零細企業だ。
頼れるのは、手元に残された過去の帳簿のみ。
どこから仕入れ、どこへ出荷しているのか。その「カネの流れ」の毛細血管を一本ずつ指でなぞっていく。
「くそ……。こんな膨大な資料、AIに放り込めば一瞬で整理してくれるが……」
喉まで出かかった誘惑を、プロの矜持で飲み込む。
過去のものであろうと、顧客情報をネット上のAIサーバーにアップロードするなど、信金マンとしてあってはならない。勤続二十一年。私は自分の「目」と「腕」だけを信じて、ターゲットを絞り込んだ。
「田中不動産と電気屋は後回しだ。一番仕入れと出荷の回数が多く、金の動きが複雑なのは……当然、工務店だ」
ここを、徹底的に叩く。
2029年
調査は、二ヶ月にも及んだ。
工務店の帳簿調査は、想像を絶する重労働だったが、その果てに私は、黒幕の尻尾を力強く掴み取った。
過去五年。
その内訳は、右肩上がりの「黒字」が二年。
急激な転落を見せた「赤字」が二年。
そして、一括完済を果たした今年――。
この「二つの二年間」の帳簿を詳細に突き合わせたとき、あり得ない「符号」が浮かび上がってきた。
黒字の時代にあって、赤字の時代には消えたもの。
それは、三社の「資材仕入れ業者」だった。
いずれも栃木県内の企業。そして何より、無借金経営。
縁故なのか、あるいは古くからの信頼関係ゆえか、帳簿上の資材価格は他社より明らかに安い。彼らこそが、完済した工務店の過去の「黒字の源泉」だったのだ。
その仕入れ先三社には、ひとつの共通点があった。
メインバンクが、すべて『栃木B銀行』であることだ。
栃木B銀行。県内第二位の地銀であり、近年、金融業界や株取引界隈で、その目覚ましい業績が噂されていた。
もし、この銀行が裏で糸を引いているのであれば、ここ足利市は完全に奴らの「縄張り」だ。
私は、震える手で田中不動産と電気屋の資料も手繰り寄せた。
不動産屋なら外壁補修などのメンテナンス会社。電気屋なら、大手量販店の管轄外である工具や燃料の仕入れ先。
そこに変化はないか? その背後に栃木B銀行はいないか?
さらに一ヶ月。
執念の調査の結果、導き出された答えは――『三件とも、すべて合致』。
私はこの事実を部長に報告した。
独占禁止法、銀行法。列挙すればキリがないほどの違法性の疑い。
「コンプライアンス部門だけでなく、役員総出で栃木B銀行を問い詰めるべきです」
私の進言に、本店は「抗議」という決断を下した。
乗り込むのは、この事案を発見した私と、本店のコンプラ部長の二人。
私たちは、市街地にある栃木B銀行足利支店の、重厚な扉を叩いた。
応接室に通され、そこで待っていたのは、たった一人の男だった。
仕立ての良いスーツ、自信に満ちた立ち居振る舞い。信金とは住む世界が違う、「上位」の金融機関たる地銀の幹部。その威圧感が部屋を満たしていた。
「初めまして。私、融資部で部長をしております、加賀と申します」
加賀の微笑みは、完璧だった。
しかし、こちらの抗議はまさに「暖簾に腕押し」だった。
仕入れ先への操作命令を出しただろうと突きつければ、加賀は瞬き一つせずに首を横に振る。
「……命令? 心外ですね。弊社はあくまで、取引先企業へ『より効率的な物流ネットワーク』の提案を行ったに過ぎません。それを受け入れるかどうかは、各企業の自主的な経営判断です」
「意図的に赤字を作り出したのではないか!」
コンプラ部長の怒鳴り声にも、加賀は涼しげな顔を崩さない。
「我々は期間限定の特別サービスとして、経営コンサルティングを提供したのです。契約書にも明記してあります。昔からの付き合いですからね。ギブ・アンド・テイクですよ……。まさか、信金さんは一方的にコストを押し付けるために来られたのですか?」
投資商品については、そもそも提案すらしていないと言う。ローン一括返済の資金も、栃木B銀行は一円も出資していない。
すべては「顧客が勝手にやったこと」で片付けられていく。
加賀の言葉には、法的に付け入る隙が一切なかった。奴らは最初から、こうして突き上げを食らうことまで計算し、完璧な「免罪符」を作り上げていたのだ。
栃木B銀行の重厚な自動ドアが閉まると同時に、隣を歩くコンプラ部長が忌々しげに吐き捨てた。
「……食えない男だ。まるであの若造が、銀行法そのものを喋っているようだったな」
確かに、加賀の反論は完璧だった。
おそらく、信金からの突き上げを想定したQ&A集、あるいは徹底的に練られた「防衛台本」が組織内に存在するのだろう。アドリブで凌げる内容ではない。
だが、私の背筋には、それとは別の寒気が走っていた。
(……なぜ、あんなに緊張していた?)
理論で圧倒し、信金側を追い返した加賀。だが、対峙している間、彼の呼吸はわずかに浅く、指先は微かに机の縁を強く握りしめていた。
さらに不気味だったのは、加賀が「この事実を突き止めたのは誰か」を、異常なほど気にしていたことだ。
加賀は最初、信金の役員や、隣に座るコンプラ部長の顔色を窺っていた。だが、私が「調査したのは自分だ」と名乗り出た瞬間、彼の視線は私一点に固定され、射抜くような、あるいは品定めするような色を帯びた。
加賀が恐れていたのは、信金という「組織」の抗議ではない。
この不自然な構造を「見つけ出した個人」の存在だ。
違和感のオンパレードに、指先が冷たくなる。




