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第3話

数日後、本店から届いたのは、拍子抜けするほど「無害」な指示だった。

 

事業ローンの資金を金融投資などに流用するな――。

そんな、契約時や定期訪問の際に口を酸っぱくして伝えている初歩中の初歩を記した、味も素っ気もないチラシ。それを各支店の営業に配布せよという。


「……本店は結局、何も掴めなかったか」


私は、インクの匂いがするチラシをデスクに放り出した。

本店も馬鹿ではない。一部エリアで起きたこの「金融異常事態」を重く見ているなら、融資の際に身辺調査のような追加条件を課すなど、実効性のある策を打ってくるはずだ。

 

それがないということは、首謀者の尻尾どころか、手法すら把握できていないという証左だった。


それにしても――と、私は三法人の決算資料に目を落とす。

 

一括返済は済んだが、彼らの経営基盤はボロボロだ。栃木県足利市の市街地からも外れた、この寂れた田舎町。不動産屋、工務店、電気屋。どこも自己資本だけで立ち行かなくなるのは時間の問題だ。

革新的なビジネスモデルがあるわけでも、ホワイトナイトが現れた形跡もない。


「……ふむ」


資料を比較して、ある違和感に指が止まる。

三社とも経営内容はバラバラだが、奇妙な共通点があった。二年前までは、わずかながらも黒字を右肩上がりに増やしていたのだ。

 

それが、二年前の「第二四半期」を境に、揃って急激な赤字に転落している。


当時の金融イベントを洗ったが、該当するものはない。ならば個別事情か。

 

不動産屋は、この時期に突如として三件の空室が発生。

工務店は、資材高騰の煽りを受けてついに限界を突破。

電気店は、大手量販店による苛烈な値下げ競争に巻き込まれた末の赤字。


理由は三者三様。

だが、まるで「この時期に赤字になるように」誰かが時計の針を合わせたような、あまりに出来過ぎたタイミングだった。





半年が過ぎた。

あの一件以来、融資課には刺すような、ピリついた空気が澱んでいた。

『こいつは、借りた金を投資に回すような奴じゃないだろうな?』

窓口に立つ部下たちの目が、かつての「相談相手」を品定めするような、冷徹な監視者のそれへと変わっていく。


地域に寄り添い、共に経済を回す。それが信用金庫の矜持だったはずだ。

だが今のこの支店では、「信頼」よりも「疑念」の比重が明らかに上回っていた。


そんな中、またしても部下が私の元へ駆け込んできた。


「課長、大変です! 不正流用の未遂事案です!」

「なに……!? いや、未遂だと?」

「はい。まだ手は付けていないそうです。今、電話で問い合わせがあったところを、必死に止めてきました」

「……よくやった!」


私は椅子を蹴立てるように立ち上がった。

あの返済してしまった三法人の二の舞は演じさせない。一度返済され、契約が切れてしまえば、我々は無許可でコンタクトを取る権利すら失う。「貸し手」という唯一の権力を失えば、彼らが裏で何をしようと手出しはできないのだ。


私はすぐさま、その足で現場へと向かった。


「ここか。佐々木工務店……」


木材、化学建材、あらゆる資材の高騰。追い打ちをかけるような人手不足による労務費の上昇。現場の苦労も知らず、大手メーカーは冷酷にコストを押し付けてくる。

ここも、例の返済組と同様、数年前までは八名の従業員を抱える優良な黒字経営だった。それが今や、わずか四名。


投資という「毒」に縋りたくなる心理は、痛いほど分かる。だが、ダメなものはダメだ。


「おめえらはいいよな……!」


応接室すらない、住居兼作業場。

資材置き場の一角に置かれた、パイプと合成木材の間に合わせのテーブル。そこに座らされた社長の佐々木は、血管を浮き上がらせて声を荒らげた。

私より年上。この地で何十年も柱を削り続けてきた、生粋の職人だ。


「こっちが稼いでいるときは借りろ借りろと頭を下げてきて、経営が悪くなりゃああしろこうしろ。で、投資で穴を埋めようとしたらこれかよ!」


「……不正は不正です。重ねて通知もしております。もし投資で損失を補填したいのであれば、投資専用のローンか、一般ローンを組んでいただくしかありません」


私の正論を、佐々木は鼻で笑った。


「ああ!? それで二百万ぽっちしか出さねえって言ったのはどこのどいつだ! こっちはいくら借金背負ってると思ってんだ。足りるわけねえだろうが! 金の計算が仕事なんだろ、分かんねえのか、この若造が!」


怒号が、冷房のない作業場に虚しく響く。

机を叩く彼の拳が、かすかに震えているのを、私は見て見ぬふりをした。




なんとか、規則を盾にして押し通した。

この頑固なゴネ客に、今は理屈は通用しない。強引に投資を止めさせる――それが、今の私にできる精一杯の「救済」だった。


だが、その張り詰めた交渉の空気が、一瞬にして凍りつく場面があった。


作業場の隅で鳴り響いた、一本の電話。

受話器を取った瞬間、あれほど豪気で傲岸不遜だった佐々木が、借りてきた猫のように姿勢を正したのだ。


(……受注先か? それとも、元請けか?)


いや、違う。

これまで数え切れないほどの職人と折衝を重ねてきた私の経験が、警鐘を鳴らしていた。

今の佐々木の態度は、職人が客や元請けに向ける「敬意」とは別種のものだ。もっと根源的な恐怖――あるいは、生殺与奪の権を握られた者だけが見せる「盲従」に近い。


「……それが、ダメだと言われまして。はい、はい……」


佐々木の声が震えている。


「そんな。……じゃあ、どうすればいいんですか。……なるほど、今は我慢ですか。分かりました。……はい、失礼します」


なんだ、これは。

スマホであれば、スピーカーから僅かに声が漏れることもある。だが、佐々木が使っているのは時代遅れの黒い固定電話だ。受話器の向こう側の声は、一切こちらに届かない。


だが、今の会話は明らかに、私たちがここに居ることを前提としたものだった。

相手は、今この瞬間、この作業場で起きていることを知っている。


(まさか――。この電話の先に、いるのか?)


三つの法人を同時に赤字に叩き落とし、同時に投資へ誘導し、そして一括返済という名の「洗浄」を行わせた黒幕。

 

受話器を置いた佐々木の顔からは、先ほどの紅潮した怒りは消え失せていた。

ただ、不気味なほど無機質な、青白い絶望だけが張り付いていた。


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