第九章 母に真実を言う日
夜明け前の真噤町は、息を潜めていた。
山の稜線はまだ黒く、東の空だけがわずかに灰色を帯びている。役場の地下倉庫から地上へ出た時、真琴は一瞬、別の世界へ戻ってきたような錯覚を覚えた。地下には二十年前の紙と木札と、言えなかった言葉が詰まっていた。地上には、何も知らないような顔をした町がある。
だが、もう同じ町には見えなかった。
郵便局の看板。役場の掲示板。商店街のアーケード。診療所へ向かう細い道。真噤中学校の校舎。すべてが、沈黙の上に建っている。どこかに嘘があるのではない。町そのものが、嘘を構造材にしている。
真琴たちは、その構造材の一部を地下から引き抜いた。
町は揺れる。
問題は、どう揺らすかだった。
有坂澄江に真実を伝える。
その方針は、午前三時過ぎに決まった。だが、決めたからといって、すぐに澄江の家へ向かうわけにはいかなかった。真実を渡すには、順番が必要だった。場所が必要だった。人が必要だった。そして、渡した後の時間が必要だった。
真琴は役場の小会議室で、鳴瀬、久我、八代と向かい合っていた。
テーブルの上には、地下倉庫から運び出した資料のコピーが置かれている。原本は再び地下倉庫の鍵付きロッカーへ戻した。戻したと言っても、隠すためではない。無闇に持ち歩いて失われないようにするためだ。複写データは、真琴、八代、久我の三か所に分散して保存した。
資料の中央には、透の作文ノートのコピーがある。
最後の一文。
――もしぼくがいなくなったら、だれか母さんに、ぼくは母さんのせいで困っていたんじゃないと伝えてください。
その言葉を最初に伝える。
それが四人の一致した結論だった。
「順番を確認します」
鳴瀬がノートに書きながら言った。
彼女の顔色は悪かった。ほとんど眠っていない。それでも声には芯がある。黒板の前に立つ時と同じ、言葉を扱う人間の慎重さがあった。
「最初に、透さんが澄江さんを責めていなかったことを伝える。次に、透さんが困っていたことを、いきなり詳細ではなく、本人の作文の言葉で伝える。その後、澄江さんが続けて聞けるか確認する」
「事故ではなかった可能性は?」
八代が尋ねた。
「その後です」
久我が答えた。
「澄江さんの反応を見て判断する。脈拍、呼吸、顔色。必要ならそこで中断します」
「中断した場合、どう説明しますか」
真琴が聞いた。
「今日はここまでにしましょう、と言います」
鳴瀬が即答した。
「隠すのではなく、保留する。続きは必ず一緒に扱うと約束する」
「誰かを責める言葉は避ける」
真琴は確認するように言った。
「藤咲家、学校、役場、診療所、新聞社。責任の話は後です。最初から犯人や隠蔽を出せば、澄江さんは受け止めきれません」
久我は頷いた。
「医学的にも、急激なストレスは避けたい。私が同席していることは、澄江さんに安心材料にもなる。ただし、白衣では行きません」
「なぜですか」
八代が聞くと、久我は淡々と答えた。
「白衣は、診断を告げられる記号です。今日は診断ではなく、言葉を渡しに行く」
鳴瀬が少しだけ頷いた。
真琴は、久我のそういう細やかな判断に驚かされることがある。この医師は冷たいのではない。冷たく見えるほど、感情を手順に変えようとしているのだ。
「場所は、澄江さんの家でいいのでしょうか」
八代が言った。
「一番落ち着ける場所ではあります」
久我が答える。
「ただし、逃げ場がないと感じさせないこと。居間の戸は開けておく。水を用意する。座る位置は、澄江さんが出口に近い側。こちらが囲む形にしない」
「人数が多すぎませんか」
真琴が尋ねると、鳴瀬が考え込んだ。
「たしかに四人で行くと、圧力になります」
「でも、医療、記録、町側、言葉の支えが必要です」
八代が言う。
「澄江さんが望めば、誰かが外で待つ形にしましょう」
真琴は言った。
「最初は私と鳴瀬先生が入る。久我先生と八代さんは玄関近くで待機。澄江さんが同席を望めば入る。医療的な必要があれば久我先生が入る」
「私は、役場の人間として謝罪したくなるかもしれません」
八代が小さく言った。
「それは今ではありません」
鳴瀬の声は厳しかった。
「澄江さんの前で八代さんが謝罪すれば、澄江さんはあなたを許すか責めるかを迫られます。今日はその場ではありません」
八代は俯いた。
「はい」
「謝罪したいという気持ちは、八代さんのものです。澄江さんに受け止めさせるものではありません」
鳴瀬の言葉は、教師というより、祈りに近かった。
真琴は胸に刻んだ。
謝罪もまた、相手に渡す時には重さを持つ。
許してください。
責めてください。
謝らせてください。
それらは、時に相手を新しい役割へ追い込む。
被害者に、加害者の救済を背負わせてはいけない。
会議室の窓の外が、少しずつ明るくなっていく。
町が目覚め始める前に、決めるべきことを決めなければならなかった。
「藤咲勝彦はどうしますか」
久我が聞いた。
「昨夜の橋の件で、彼は必ず動きます。莉子さんのこともありますし、地下資料の存在に気づく可能性もある」
「役場内の資料室へのアクセスは、私が止めます」
八代が言った。
「ただ、私にどこまで権限があるか」
「時間稼ぎで構いません」
真琴は言った。
「澄江さんに伝えるまで、藤咲議員には動かれたくない」
「警察は?」
鳴瀬が言った。
「いずれ必要になります」
真琴は答えた。
「でも今は、町の中で安全に真実を渡す準備が先です。いきなり警察へ持ち込めば、町全体に話が漏れます。澄江さんや莉子さんが、また置き去りになる」
久我は時計を見た。
「澄江さんは朝が早い。七時過ぎなら起きているでしょう。ただし、朝食直後は避けた方がいい。九時頃がいい」
「電話します」
真琴はスマートフォンを手に取った。
指がわずかに震えていた。
鳴瀬が気づき、何も言わずに水のペットボトルを差し出してくれた。真琴は一口飲む。水はぬるかったが、喉を通る感覚が現実を戻してくれた。
有坂澄江の番号は、前日に彼女から教えられていた。
また来てくださいますか。
澄江はそう言った。
透も、誰かに聞いてほしかったのかもしれません、と。
真琴は通話ボタンを押した。
数回のコールの後、澄江の声がした。
「はい、有坂です」
「三枝です。朝早くにすみません」
「あら、三枝さん。どうなさいました」
澄江の声は穏やかだった。
その穏やかさが、真琴の胸を締めつけた。
「今日、お時間をいただけませんか」
「もちろんです。透のことですね」
真琴は息を呑んだ。
電話の向こうの澄江は、続けた。
「昨日から、来てくださるような気がしていました」
「無理にとは言いません」
「無理ではありません」
「ただ、今日は少し大事なお話になります。鳴瀬先生という中学校の先生と一緒に伺いたいのですが、よろしいでしょうか。久我先生と八代さんにも、近くで待機していただく予定です」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
「久我先生も?」
「はい。体調のこともありますので」
「私、死ぬかもしれない話を聞くんですね」
真琴は目を閉じた。
澄江は、すでに分かっている。
長く知らされなかった人ほど、言葉の手前にある空気を読むのかもしれない。
「死なせないために、準備しています」
真琴は言った。
電話の向こうで、澄江が小さく笑った。
「おかしな言い方ですね」
「はい」
「でも、ありがとうございます」
「九時に伺ってもよろしいですか」
「はい。お茶を淹れておきます」
「お茶は、こちらで用意します。今日は、澄江さんは何もしないでください」
「そうですか」
澄江の声が少し柔らかくなった。
「では、待っています」
電話が切れた。
真琴はしばらくスマートフォンを見つめていた。
「大丈夫ですか」
鳴瀬が尋ねた。
「大丈夫ではありません」
真琴は答えた。
「でも、行きます」
午前九時。
有坂澄江の家の庭には、白い菊が咲いていた。
昨日よりも空は晴れている。山の稜線がくっきり見え、冷たい空気の中に冬の光が差していた。こんな穏やかな朝に、人の人生を変える言葉を運ぶことが、ひどく不似合いに思えた。
真琴と鳴瀬が玄関に立つ。
少し離れた場所に、久我と八代がいる。久我は黒いコート姿で、救急バッグを持っていた。八代は両手を前で握りしめ、顔色を失っている。
真琴は呼び鈴を押した。
ゆっくりと足音が近づき、引き戸が開いた。
澄江は薄い藤色のカーディガンを着ていた。髪はきれいに整えられ、顔色も悪くない。ただ、目の下に少し疲れがあった。
「おはようございます」
澄江は言った。
「おはようございます」
真琴は深く頭を下げた。
「こちらが、鳴瀬灯先生です。真噤中学校で国語を教えていらっしゃいます」
「鳴瀬です」
鳴瀬は丁寧に頭を下げた。
「突然お邪魔して申し訳ありません」
「いいえ。中学校の先生が来てくださるなんて、久しぶりです」
澄江は少しだけ微笑んだ。
その微笑みが、鳴瀬の胸にも刺さったようだった。
「久我先生と八代さんも、外で待っています。必要なら入っていただきます」
「そうですか」
澄江は玄関の外を見た。久我が軽く会釈する。八代は深く頭を下げた。
「八代さんも、辛いお顔をしていますね」
澄江が静かに言った。
八代は何も言えなかった。
澄江は真琴たちを居間へ通した。
仏壇の横には、透の写真がある。昨日見た時と同じ、学生服姿の少年。控えめな笑み。だが今日は、その写真がこちらを見ているように感じた。
真琴は座る位置を慎重に選んだ。
澄江が入口に近い椅子へ座る。真琴と鳴瀬は正面ではなく、少し斜めに座った。対峙する形ではなく、同じものを見る形に近づけた。
鳴瀬が持参した水をテーブルに置く。
「今日は、途中で休むことができます」
真琴は最初に言った。
「聞きたくないと思ったら、いつでも止めてください。続きを聞くかどうかは、今日決めなくても構いません」
澄江は頷いた。
「はい」
「それから、今日お伝えすることは、誰かを今すぐ責めるためのものではありません」
「責めてはいけないんですか」
澄江が尋ねた。
真琴は一瞬、言葉に詰まった。
鳴瀬が静かに答えた。
「責める権利はあります。ただ、最初から責めるところへ行くと、澄江さんご自身が傷つきすぎるかもしれません」
「私が、ですか」
「はい」
澄江は少し考えた。
「そうですね。私はきっと、誰かを責めるより先に、自分を責めてしまいます」
真琴は胸が痛んだ。
やはり、そこへ行く。
母親は、子どもの苦しみを知ると、自分のせいにしようとする。
透は、それを恐れていた。
だから最初に、あの言葉を渡さなければならない。
真琴は鞄から、作文ノートのコピーを取り出した。
原本ではない。だが、透の字がはっきり写っている。
「これは、透さんの作文です」
澄江の手が、膝の上で動いた。
「透の?」
「はい。真噤中学校に残っていたものです」
正確には役場の地下倉庫にあった。だが、今はその経緯を話す段階ではない。
真琴は紙を一枚、テーブルの上に置いた。
「最初に、この一文を読ませてください」
澄江は頷いた。
真琴は、ゆっくり読んだ。
「もしぼくがいなくなったら、だれか母さんに、ぼくは母さんのせいで困っていたんじゃないと伝えてください」
読み終えた瞬間、澄江の顔から表情が消えた。
真琴は呼吸を止めそうになった。
鳴瀬が静かに水を澄江の近くへ押した。
澄江は、紙を見つめていた。
長い沈黙。
外で鳥が鳴いた。
家の中の時計が、こち、こち、と音を立てている。
やがて澄江は、小さな声で言った。
「透の字です」
真琴は頷いた。
「はい」
「この字、透です。間違いありません。小さいころから、ひらがなの“さ”が少し右に傾くんです」
澄江の指が、紙の上に伸びた。だが、触れる直前で止まった。触れたら壊れてしまうと思ったのかもしれない。
「母さんのせいで困っていたんじゃない」
澄江は、その一文を自分でもう一度読んだ。
「なぜ、この子はこんなことを」
真琴はすぐに続けなかった。
澄江がその一文を受け取る時間を待った。
鳴瀬が静かに言った。
「澄江さん。透さんは、お母さんを責めていませんでした」
澄江の目に涙が浮かんだ。
「責める?」
「はい」
「私、責められても仕方がない母親だったんでしょうか」
「違います」
鳴瀬の声は強かった。
「だから、最初にこの言葉をお伝えしています」
澄江は両手で口元を覆った。
涙はまだ落ちていない。目の中に溜まったまま、揺れている。
「透は、私に何かを言いたかったんですね」
真琴は頷いた。
「はい」
「でも、言えなかった」
「はい」
「私のせいで?」
久我を呼ぶべきか、真琴は一瞬迷った。
だが、澄江の呼吸はまだ乱れていない。顔色も保たれている。
ここで逃げると、澄江はまた自分を責める。
真琴は言った。
「澄江さんのせいではありません」
「でも、私の心臓が悪かったから」
「それを、周りの大人が理由にしました」
澄江は顔を上げた。
「周りの大人?」
「透さんは、困っていました。学校で、何かが起きていました。でも、透さんはお母さんに言えなかった。言えばお母さんが死ぬと、周囲から思わされていた可能性があります」
澄江の呼吸が浅くなった。
鳴瀬がすぐに言った。
「一度、水を飲みましょう」
澄江は言われるまま、水を口に含んだ。
手が震えている。
真琴は続けなかった。
沈黙を恐れない。
待つ。
澄江が次の言葉を選ぶまで待つ。
やがて澄江は言った。
「学校で、何かあったんですね」
「はい」
「いじめですか」
真琴は鳴瀬を見た。
鳴瀬が小さく頷いた。
真琴は答えた。
「その可能性が高いです」
澄江は目を閉じた。
今度は、涙が頬を伝った。
「そうですか」
それだけだった。
叫ばない。
取り乱さない。
だが、両手は強く握られていた。
「やっぱり」
澄江は呟いた。
真琴は、その一言に胸を衝かれた。
やっぱり。
彼女は知らなかったのではない。
知ることを許されなかっただけだ。
「私は、何となく分かっていました」
澄江は言った。
「透の顔を見れば、分かりました。あの子は嘘が下手でしたから。でも、何かあったのと聞くと、何もないと言うんです。私は、それ以上聞けませんでした」
「なぜですか」
真琴は静かに尋ねた。
「怖かったんです」
澄江は答えた。
「聞いたら、あの子がもっと苦しむのではないかと思いました。私が倒れたら、あの子が自分のせいだと思うのではないかとも思いました。だから、聞けなかった」
真琴は何も言えなかった。
透だけではない。
澄江もまた、息子を守るために聞けなかった。
母と子は、互いを守ろうとして、同じ沈黙の両側に立たされていた。
「透さんは、こうも書いています」
鳴瀬が言った。
真琴は別の紙を出した。
――母さんは心臓が悪いから、心配をかけてはいけないと言われます。
――でも、ぼくは心配をかけたいわけじゃありません。
――知ってほしいだけです。
――ぼくが困っていることを、母さんが知らないまま笑っていると、ぼくは少しだけ消えたくなります。
――でも、母さんが泣いたら、ぼくはもっと消えたくなると思います。
――だから、どっちがいいのか分かりません。
澄江は、最初の数行で泣き始めた。
声を上げる涙ではなかった。
ただ、静かに涙が落ちていく。
「私は」
澄江は紙を見つめたまま言った。
「笑っていたんですね」
「澄江さん」
「何も知らずに、あの子の前で笑っていたんですね」
「それは悪いことではありません」
鳴瀬が言った。
「母親が笑っていることが、透さんを支えていた部分もあると思います」
「でも、あの子は消えたくなった」
「はい」
鳴瀬は否定しなかった。
その正直さに、澄江は少し驚いたように見えた。
「そうですね。ここで否定されたら、私はきっと、また何も分からなくなります」
鳴瀬は静かに頭を下げた。
「透さんは、お母さんを愛していたと思います。だからこそ、言えなかった。そのことと、苦しかったことは、同時に存在します」
「同時に」
「はい」
澄江は、その言葉を胸の中で何度も繰り返すように黙った。
真琴は、久我を呼ぶか迷った。
澄江の呼吸は少し早いが、崩れてはいない。指先に震えはある。顔色は青白いが、意識は明瞭だ。
真琴は尋ねた。
「少し休みますか」
「いいえ」
澄江は首を振った。
「聞かせてください」
「今日はここで止めても」
「いいえ」
澄江は、涙を拭った。
「三枝さん。私はもう、事故だったと言われるのに疲れました」
その言葉は、静かだが強かった。
「透が死んでから、みんな優しかったんです。事故だった。誰も悪くなかった。運が悪かった。川が増えていた。透は苦しまなかったでしょう。そう言ってくれました。私は、ありがとうございますと言いました。ずっと言いました」
彼女の声が少し震えた。
「でも、心の中ではいつも思っていました。透は本当に、ひとりで橋から落ちたのかしら、と」
真琴は息を整えた。
ここからだ。
ここから、言葉の重さが変わる。
「澄江さん。これからお伝えすることは、まだ全てが法的に確定したものではありません。ただ、複数の資料が見つかっています」
「はい」
「透さんは、橋から落ちました。それは事実のようです」
「はい」
「ですが、その前に誰かと揉み合った可能性があります。遺体には、溺れる前についたと思われる傷がありました」
澄江の目が見開かれた。
息が止まる。
「鳴瀬先生」
真琴が小さく言うと、鳴瀬はすぐに澄江の手元へ水を寄せた。
「澄江さん。息をしてください。ゆっくりで大丈夫です」
澄江は胸に手を当てた。
真琴は立ち上がり、玄関に向かって合図した。
久我がすぐに入ってきた。
「有坂さん」
久我は低い声で言った。
「久我です。少し脈を見ます」
澄江は小さく頷いた。
久我は手首に指を当て、表情を変えずに確認した。
「早くなっていますが、今すぐ危険な状態ではありません。少し呼吸を整えましょう」
澄江は目を閉じた。
久我の声に合わせて、ゆっくり呼吸をする。
真琴はそれを見ながら、心臓が潰れそうだった。
自分は今、何をしているのか。
死なせないために準備した。
だが、それでも澄江は苦しんでいる。
真実を渡すとは、相手を傷つけないことではない。
傷を一緒に見つめることだ。
「続けますか」
久我が澄江に尋ねた。
澄江は目を開けた。
「はい」
「無理なら止めます」
「無理です」
澄江はそう言った。
真琴たちは動きを止めた。
澄江は続けた。
「無理です。でも、聞きます」
久我は頷き、少し離れた場所に座った。
八代は玄関の外にいる。入ってこない。彼は自分の役割を理解している。
「透さんは、複数の同級生と橋の近くにいました」
真琴は言った。
「その中には、大月慎吾さん、八代誠一さん、藤咲智也さんの名前があります」
「藤咲」
澄江が反応した。
「町議の」
「藤咲勝彦さんの息子です。現在の藤咲莉子さんのお父さんにあたります」
澄江は眉をひそめた。
「莉子さん……あの、学校に来られていない子」
「ご存じですか」
「近所の方から少し」
澄江は息を吐いた。
「また、子どもなんですね」
その言葉は、誰を責めるでもなかった。
ただ、深い悲しみだった。
「記録によれば、橋の上で口論がありました。透さんが何かを言おうとしていた可能性があります。その時、母親に言えば死ぬぞ、という趣旨の言葉があったとされています」
澄江の体が震えた。
「母親に言えば」
「はい」
「私のことですね」
誰も答えなかった。
それが答えだった。
澄江は両手で顔を覆った。
「私は」
声が震える。
「私は、あの子を守りたかっただけなのに」
「はい」
鳴瀬が言った。
「透さんも、澄江さんを守りたかった」
「守り合って、どちらも何も言えなかったんですね」
澄江の声は、涙で潰れていた。
真琴は目を伏せた。
その通りだった。
母と子は、愛情によって沈黙させられた。
町は、その愛情を利用した。
澄江はしばらく泣いた。
久我は脈を見ながら、何も言わなかった。鳴瀬はそばに座り、水とハンカチを差し出した。真琴はただ、待った。
泣き終えるまで待つ。
言葉を急がせない。
やがて澄江は顔を上げた。
「透は、落とされたんですか」
ついに、そこへ来た。
真琴は正直に答えた。
「資料上、誰かが故意に突き落としたとまでは断定できません」
澄江は真琴を見た。
「では」
「ただ、事故として処理された説明には、重大な疑いがあります。橋の上で揉み合いがあり、その中で透さんが転落した可能性が高い。少なくとも、一人で足を滑らせたという単純な事故ではありません」
澄江は頷いた。
「そうですか」
また、そう言った。
だが今度の「そうですか」は、諦めではなかった。
長い間、曖昧な霧の中に置かれていたものが、ようやく輪郭を持った時の言葉だった。
「なぜ、私に言ってくれなかったんでしょう」
澄江は呟いた。
その問いに答えるのは、真琴ではない。
真琴は玄関の方を見た。
「八代さん」
外で待っていた八代が、びくりと肩を震わせた。
「澄江さん。八代さんを中へ呼んでもいいですか」
澄江は少し考え、頷いた。
「はい」
八代は居間に入るなり、畳に手をついて頭を下げた。
「有坂さん」
「八代さん」
「申し訳ありませんでした」
鳴瀬が止めようとした。
だが澄江が手で制した。
「何についての謝罪ですか」
八代は顔を上げられなかった。
「役場が、町が、私の家が、透さんのことを」
「あなたは当時、小学生でしたね」
「はい」
「では、あなたが透を死なせたわけではありません」
「でも、父が」
「お父様のことは、いずれ聞きます」
澄江の声は、思いのほか落ち着いていた。
「今、あなたに言いたいことがあります」
八代は恐る恐る顔を上げた。
「あなたは、今日ここに来てくれました。それで十分とは言いません。でも、来てくれました。だから、今は頭を上げてください」
八代の目から涙が落ちた。
「すみません」
「それは後で聞きます」
澄江は言った。
「今は、透の話を聞かせてください」
その時、部屋の空気が変わった。
誰かがもうひとり、いる。
真琴はゆっくり窓の方を見た。
縁側の外、白い菊の咲く庭に、嘘つきの神さまが立っていた。
狐面をつけていない。
昨夜見た、少年のような顔。誰でもあって、誰でもない顔。
だが今は、昨日よりも透に近く見えた。
澄江はまだ気づいていない。
いや、気づいていても、見えていないのかもしれない。
神さまは、窓の外で首を振った。
やめろ。
その口が、そう動いた。
真琴は立ち上がらなかった。
澄江が言った。
「もうひとつ、聞いてもいいですか」
「はい」
「透は、私を恨んでいましたか」
神さまの顔が歪んだ。
真琴は透の作文を手に取った。
「透さんは、こう書いています」
また、最後の一文を読んだ。
「ぼくは母さんのせいで困っていたんじゃない」
澄江の涙が再び落ちた。
「そう」
彼女は小さく言った。
「そうですか」
窓の外で、神さまが震えている。
真琴はそちらを見た。
神さまは、声にならない声で言っているようだった。
母さんが死ぬ。
母さんが死ぬ。
母さんが死ぬ。
澄江は、ふと窓の外へ目を向けた。
真琴の背筋が緊張した。
見えるのか。
澄江は庭を見つめた。
白い菊。
梅の木。
朝の光。
その中に立つ、少年のような神さま。
澄江の目が、大きく開いた。
「透?」
部屋の中の全員が息を呑んだ。
神さまは後ずさった。
「違う」
その声は、真琴たちにも聞こえた。
澄江は立ち上がろうとした。久我が慌てて支える。
「有坂さん、ゆっくり」
「透なの?」
澄江の声は震えていた。
神さまは首を振った。
「違う。僕は透じゃない」
「でも」
「違うんだ、母さん」
母さん。
その言葉が部屋に落ちた。
澄江の体が大きく揺れた。
久我がすぐに脈を確認する。
「有坂さん、座ってください」
澄江は座った。
だが、目は庭の少年から離れない。
「今、母さんって」
神さまは両手で口を押さえた。
言ってしまった。
その顔だった。
「透なのね」
「違う!」
神さまは叫んだ。
庭の菊が揺れた。
「僕は透じゃない。透が言えなかったことと、町が吐いた嘘と、みんなの後悔が混ざったものだ。透じゃない。透じゃないんだ」
澄江は泣きながら微笑んだ。
「それでも、透の言葉を持っているのね」
神さまは何も言えなかった。
「教えて」
澄江は言った。
「透は、最後に何を言いたかったの」
神さまは震えた。
真琴が声をかけようとしたが、鳴瀬が小さく首を振った。
これは、澄江と神さまの間の言葉だ。
神さまは長い時間、黙っていた。
やがて、小さな声で言った。
「母さん」
「うん」
「ごめん」
澄江は首を振った。
「謝らないで」
「言えなくて、ごめん」
「うん」
「苦しかった」
「うん」
「でも、母さんのせいじゃない」
澄江は声を上げて泣いた。
初めて、声を上げた。
泣き崩れる澄江を、久我が支え、鳴瀬が背中に手を添える。真琴は何もできず、ただその場にいた。
神さまは庭に立ったまま、涙の出ない目で母を見ていた。
「透は」
澄江は泣きながら言った。
「透は、私を守るために黙ったの?」
神さまは答えなかった。
しかし、その沈黙は肯定だった。
澄江は顔を覆った。
「そんなことを、子どもにさせたくなかった」
その言葉が、朝の部屋に静かに広がった。
神さまが、はっと顔を上げた。
「母さん」
「私は、透に守られたかったんじゃない」
澄江は涙で濡れた顔を上げた。
「一緒に困りたかった」
真琴の胸が震えた。
「一緒に困って、一緒に怒って、一緒に泣きたかった。私が倒れるかもしれないからと、あの子が一人で黙るくらいなら、私は倒れてでも聞きたかった」
「でも」
神さまの声は、十四歳の少年のものだった。
「死んだら」
「死んだら、透は悲しんだでしょうね」
澄江は言った。
「でも、私は今、生きています」
部屋の中で、誰も動かなかった。
澄江は自分の胸に手を当てた。
「こんなに痛いのに、生きています」
久我が静かに脈を見た。
「はい。生きています」
その一言は、医学的な確認であり、祈りでもあった。
神さまの姿が揺らいだ。
白い朝の光の中で、輪郭が薄くなる。
「死なない?」
神さまは尋ねた。
澄江は涙を拭った。
「今日は、死なない」
「明日は?」
「明日は分からない」
神さまが怯えた顔をする。
澄江は続けた。
「でも、明日も誰かにいてもらう」
その言葉に、真琴は息を呑んだ。
それは、後に神を殺すための答えになる言葉だった。
澄江は神さまを見つめた。
「あなたが透でなくても、透の言葉を持っているなら、伝えてくれてありがとう」
神さまは、まるで殴られたような顔をした。
「ありがとう?」
「ええ」
「僕は、嘘をついた」
「そうね」
「二十年も」
「そうね」
「母さんから、透のことを奪った」
「そうね」
澄江は頷いた。
「でも、今日返してくれた」
神さまは何も言えなかった。
その姿が、さらに薄くなる。
真琴は直感した。
呪いが揺らいでいる。
真実を受け止める器が、初めて町に生まれた。
真実を聞いた母親が、死ななかった。
いや、死ななかっただけではない。
彼女は、その痛みの中で、ひとりで抱えないという選択をした。
「澄江さん」
真琴は言った。
「今日は、ここで止めましょう」
澄江は少し考え、頷いた。
「はい」
「続きはあります。町が何をしたのか、誰が何を言ったのか、資料もあります。でも、それは今日全部聞かなくていい」
「聞きます」
「はい。聞けます。ただ、今日ではなくてもいい」
澄江は透の写真を見た。
「透は、二十年待ったんですものね」
「はい」
「なら、あと一日、待ってもらいます」
その言い方に、真琴は救われるような気がした。
待たせるのではない。
一緒に進むために、時間を取るのだ。
鳴瀬が言った。
「今日の午後、もう一度来ます。何も話さなくても構いません。ただ、一人にならない時間を作ります」
久我も言った。
「体調を確認します。必要なら薬を出しますが、まずは眠れるようにしましょう」
八代は深く頭を下げた。
「明日、私から町の資料について説明させてください。謝罪ではなく、まず事実として」
澄江は頷いた。
「分かりました」
庭を見ると、神さまはまだいた。
だが、その顔から先ほどまでの恐怖は消えていた。
代わりに、ひどく疲れた安堵があった。
真琴は窓を開けた。
朝の冷たい空気が部屋に入る。
「あなたも、今日は休んでください」
真琴は神さまに言った。
神さまは少し笑った。
「神さまに休暇?」
「二十年働きすぎです」
「ブラックだね、この町」
その冗談は、今までのどれよりも弱々しかった。
澄江が小さく笑った。
泣いた後の、かすかな笑い。
それだけで、部屋の空気が少し変わった。
神さまは、澄江を見た。
「母さん」
「はい」
「僕は、透じゃない」
「分かっています」
「でも、また来てもいい?」
澄江は涙を浮かべたまま微笑んだ。
「ええ。お茶を淹れます」
「僕、飲めないかも」
「それでも淹れます」
神さまは困ったように笑った。
そして、朝の光の中に少しずつ溶けていった。
完全に消える直前、彼は真琴を見た。
「真琴」
「はい」
「母さん、死ななかったね」
「はい」
「でも、町はこれから死ぬかもしれない」
「死なせません」
「また言った」
「今度は、一人で言っていません」
真琴は部屋の中を見た。
鳴瀬、久我、八代、澄江。
「ここにいる人たちで言っています」
神さまは、少しだけ目を細めた。
「なら、見てる」
その言葉を残して、姿は消えた。
白い菊が、庭で揺れていた。
澄江の家を出た時、空はすっかり晴れていた。
真琴は玄関の外で、深く息を吸った。肺の奥まで冷たい空気が入る。体は疲れ切っている。だが、どこかで固まっていたものが少しだけ動いたような感覚があった。
澄江は生きている。
その事実が、何より重かった。
門の外で、八代が泣いていた。
声を出さず、ただ涙を流している。
鳴瀬は空を見上げていた。久我はスマートフォンで病院へ連絡を入れ、澄江の体調について簡潔に報告している。
真琴は、庭に咲く白い菊を見た。
昨日まで、その花は弔いの花に見えた。
今は、違う。
弔いであることは変わらない。
だが、それだけではない。
言葉を届けるための目印のようにも見えた。
スマートフォンが震えた。
非通知だった。
真琴は画面を見つめ、応答した。
「三枝です」
無音。
そして、男の声。
「余計なことをしたな」
昨日までと同じ、低く加工された声。
真琴は言った。
「澄江さんは生きています」
電話の向こうで、わずかに呼吸が乱れた。
「何?」
「有坂澄江さんは、透さんの言葉を聞きました。そして生きています」
沈黙。
「これから、町の話をしましょう」
真琴は続けた。
「二十年前に誰が何をしたのか。誰が隠したのか。誰が言えなかったのか。誰に背負わせてきたのか」
「やめろ」
「やめません」
「町が壊れる」
「町ではなく、嘘が壊れるんです」
電話の向こうで、声が低くなった。
「お前は何も分かっていない。あの時も、みんな守ろうとしたんだ」
「誰をですか」
「町を。子どもを。有坂の母親を」
「透さんは守られましたか」
相手は答えなかった。
「藤咲莉子さんは守られましたか」
また沈黙。
「あなたは誰ですか」
真琴は尋ねた。
「藤咲智也さんですか」
電話は切れた。
真琴はスマートフォンを下ろした。
鳴瀬が近づく。
「また?」
「はい」
「誰でしたか」
「断定はできません。でも、藤咲智也かもしれません」
八代が顔を上げた。
「莉子さんのお父さん」
「はい」
真琴は澄江の家を振り返った。
今、ようやくひとつの真実が渡された。
しかし、町の嘘はまだ生きている。
藤咲家。
役場。
学校。
診療所。
新聞社。
そして、町の人々。
澄江が死ななかったことで、嘘つきの神さまは揺らいだ。
だが、同時に、人間たちは恐怖する。
真実を聞いても人が死なない。
それが証明されれば、今度は隠してきた者たちが追い詰められる。
町が本当に壊れ始めるのは、ここからだった。
真琴は言った。
「次は、町です」
誰も反論しなかった。
遠くで、防災無線のチャイムが鳴った。
朝を知らせる、柔らかな音だった。
けれど真琴には、それが町全体へ告げる合図に聞こえた。
もう、眠っている時間は終わったのだと。




