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真実を語ると人が死ぬ街で、嘘つきの神さまを殺すまで  作者: 二条理|アコンプリス


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9/12

第九章 母に真実を言う日

 夜明け前の真噤町は、息を潜めていた。

 山の稜線はまだ黒く、東の空だけがわずかに灰色を帯びている。役場の地下倉庫から地上へ出た時、真琴は一瞬、別の世界へ戻ってきたような錯覚を覚えた。地下には二十年前の紙と木札と、言えなかった言葉が詰まっていた。地上には、何も知らないような顔をした町がある。

 だが、もう同じ町には見えなかった。

 郵便局の看板。役場の掲示板。商店街のアーケード。診療所へ向かう細い道。真噤中学校の校舎。すべてが、沈黙の上に建っている。どこかに嘘があるのではない。町そのものが、嘘を構造材にしている。

 真琴たちは、その構造材の一部を地下から引き抜いた。

 町は揺れる。

 問題は、どう揺らすかだった。

 有坂澄江に真実を伝える。

 その方針は、午前三時過ぎに決まった。だが、決めたからといって、すぐに澄江の家へ向かうわけにはいかなかった。真実を渡すには、順番が必要だった。場所が必要だった。人が必要だった。そして、渡した後の時間が必要だった。

 真琴は役場の小会議室で、鳴瀬、久我、八代と向かい合っていた。

 テーブルの上には、地下倉庫から運び出した資料のコピーが置かれている。原本は再び地下倉庫の鍵付きロッカーへ戻した。戻したと言っても、隠すためではない。無闇に持ち歩いて失われないようにするためだ。複写データは、真琴、八代、久我の三か所に分散して保存した。

 資料の中央には、透の作文ノートのコピーがある。

 最後の一文。

 ――もしぼくがいなくなったら、だれか母さんに、ぼくは母さんのせいで困っていたんじゃないと伝えてください。

 その言葉を最初に伝える。

 それが四人の一致した結論だった。

「順番を確認します」

 鳴瀬がノートに書きながら言った。

 彼女の顔色は悪かった。ほとんど眠っていない。それでも声には芯がある。黒板の前に立つ時と同じ、言葉を扱う人間の慎重さがあった。

「最初に、透さんが澄江さんを責めていなかったことを伝える。次に、透さんが困っていたことを、いきなり詳細ではなく、本人の作文の言葉で伝える。その後、澄江さんが続けて聞けるか確認する」

「事故ではなかった可能性は?」

 八代が尋ねた。

「その後です」

 久我が答えた。

「澄江さんの反応を見て判断する。脈拍、呼吸、顔色。必要ならそこで中断します」

「中断した場合、どう説明しますか」

 真琴が聞いた。

「今日はここまでにしましょう、と言います」

 鳴瀬が即答した。

「隠すのではなく、保留する。続きは必ず一緒に扱うと約束する」

「誰かを責める言葉は避ける」

 真琴は確認するように言った。

「藤咲家、学校、役場、診療所、新聞社。責任の話は後です。最初から犯人や隠蔽を出せば、澄江さんは受け止めきれません」

 久我は頷いた。

「医学的にも、急激なストレスは避けたい。私が同席していることは、澄江さんに安心材料にもなる。ただし、白衣では行きません」

「なぜですか」

 八代が聞くと、久我は淡々と答えた。

「白衣は、診断を告げられる記号です。今日は診断ではなく、言葉を渡しに行く」

 鳴瀬が少しだけ頷いた。

 真琴は、久我のそういう細やかな判断に驚かされることがある。この医師は冷たいのではない。冷たく見えるほど、感情を手順に変えようとしているのだ。

「場所は、澄江さんの家でいいのでしょうか」

 八代が言った。

「一番落ち着ける場所ではあります」

 久我が答える。

「ただし、逃げ場がないと感じさせないこと。居間の戸は開けておく。水を用意する。座る位置は、澄江さんが出口に近い側。こちらが囲む形にしない」

「人数が多すぎませんか」

 真琴が尋ねると、鳴瀬が考え込んだ。

「たしかに四人で行くと、圧力になります」

「でも、医療、記録、町側、言葉の支えが必要です」

 八代が言う。

「澄江さんが望めば、誰かが外で待つ形にしましょう」

 真琴は言った。

「最初は私と鳴瀬先生が入る。久我先生と八代さんは玄関近くで待機。澄江さんが同席を望めば入る。医療的な必要があれば久我先生が入る」

「私は、役場の人間として謝罪したくなるかもしれません」

 八代が小さく言った。

「それは今ではありません」

 鳴瀬の声は厳しかった。

「澄江さんの前で八代さんが謝罪すれば、澄江さんはあなたを許すか責めるかを迫られます。今日はその場ではありません」

 八代は俯いた。

「はい」

「謝罪したいという気持ちは、八代さんのものです。澄江さんに受け止めさせるものではありません」

 鳴瀬の言葉は、教師というより、祈りに近かった。

 真琴は胸に刻んだ。

 謝罪もまた、相手に渡す時には重さを持つ。

 許してください。

 責めてください。

 謝らせてください。

 それらは、時に相手を新しい役割へ追い込む。

 被害者に、加害者の救済を背負わせてはいけない。

 会議室の窓の外が、少しずつ明るくなっていく。

 町が目覚め始める前に、決めるべきことを決めなければならなかった。

「藤咲勝彦はどうしますか」

 久我が聞いた。

「昨夜の橋の件で、彼は必ず動きます。莉子さんのこともありますし、地下資料の存在に気づく可能性もある」

「役場内の資料室へのアクセスは、私が止めます」

 八代が言った。

「ただ、私にどこまで権限があるか」

「時間稼ぎで構いません」

 真琴は言った。

「澄江さんに伝えるまで、藤咲議員には動かれたくない」

「警察は?」

 鳴瀬が言った。

「いずれ必要になります」

 真琴は答えた。

「でも今は、町の中で安全に真実を渡す準備が先です。いきなり警察へ持ち込めば、町全体に話が漏れます。澄江さんや莉子さんが、また置き去りになる」

 久我は時計を見た。

「澄江さんは朝が早い。七時過ぎなら起きているでしょう。ただし、朝食直後は避けた方がいい。九時頃がいい」

「電話します」

 真琴はスマートフォンを手に取った。

 指がわずかに震えていた。

 鳴瀬が気づき、何も言わずに水のペットボトルを差し出してくれた。真琴は一口飲む。水はぬるかったが、喉を通る感覚が現実を戻してくれた。

 有坂澄江の番号は、前日に彼女から教えられていた。

 また来てくださいますか。

 澄江はそう言った。

 透も、誰かに聞いてほしかったのかもしれません、と。

 真琴は通話ボタンを押した。

 数回のコールの後、澄江の声がした。

「はい、有坂です」

「三枝です。朝早くにすみません」

「あら、三枝さん。どうなさいました」

 澄江の声は穏やかだった。

 その穏やかさが、真琴の胸を締めつけた。

「今日、お時間をいただけませんか」

「もちろんです。透のことですね」

 真琴は息を呑んだ。

 電話の向こうの澄江は、続けた。

「昨日から、来てくださるような気がしていました」

「無理にとは言いません」

「無理ではありません」

「ただ、今日は少し大事なお話になります。鳴瀬先生という中学校の先生と一緒に伺いたいのですが、よろしいでしょうか。久我先生と八代さんにも、近くで待機していただく予定です」

 電話の向こうで、短い沈黙があった。

「久我先生も?」

「はい。体調のこともありますので」

「私、死ぬかもしれない話を聞くんですね」

 真琴は目を閉じた。

 澄江は、すでに分かっている。

 長く知らされなかった人ほど、言葉の手前にある空気を読むのかもしれない。

「死なせないために、準備しています」

 真琴は言った。

 電話の向こうで、澄江が小さく笑った。

「おかしな言い方ですね」

「はい」

「でも、ありがとうございます」

「九時に伺ってもよろしいですか」

「はい。お茶を淹れておきます」

「お茶は、こちらで用意します。今日は、澄江さんは何もしないでください」

「そうですか」

 澄江の声が少し柔らかくなった。

「では、待っています」

 電話が切れた。

 真琴はしばらくスマートフォンを見つめていた。

「大丈夫ですか」

 鳴瀬が尋ねた。

「大丈夫ではありません」

 真琴は答えた。

「でも、行きます」

 午前九時。

 有坂澄江の家の庭には、白い菊が咲いていた。

 昨日よりも空は晴れている。山の稜線がくっきり見え、冷たい空気の中に冬の光が差していた。こんな穏やかな朝に、人の人生を変える言葉を運ぶことが、ひどく不似合いに思えた。

 真琴と鳴瀬が玄関に立つ。

 少し離れた場所に、久我と八代がいる。久我は黒いコート姿で、救急バッグを持っていた。八代は両手を前で握りしめ、顔色を失っている。

 真琴は呼び鈴を押した。

 ゆっくりと足音が近づき、引き戸が開いた。

 澄江は薄い藤色のカーディガンを着ていた。髪はきれいに整えられ、顔色も悪くない。ただ、目の下に少し疲れがあった。

「おはようございます」

 澄江は言った。

「おはようございます」

 真琴は深く頭を下げた。

「こちらが、鳴瀬灯先生です。真噤中学校で国語を教えていらっしゃいます」

「鳴瀬です」

 鳴瀬は丁寧に頭を下げた。

「突然お邪魔して申し訳ありません」

「いいえ。中学校の先生が来てくださるなんて、久しぶりです」

 澄江は少しだけ微笑んだ。

 その微笑みが、鳴瀬の胸にも刺さったようだった。

「久我先生と八代さんも、外で待っています。必要なら入っていただきます」

「そうですか」

 澄江は玄関の外を見た。久我が軽く会釈する。八代は深く頭を下げた。

「八代さんも、辛いお顔をしていますね」

 澄江が静かに言った。

 八代は何も言えなかった。

 澄江は真琴たちを居間へ通した。

 仏壇の横には、透の写真がある。昨日見た時と同じ、学生服姿の少年。控えめな笑み。だが今日は、その写真がこちらを見ているように感じた。

 真琴は座る位置を慎重に選んだ。

 澄江が入口に近い椅子へ座る。真琴と鳴瀬は正面ではなく、少し斜めに座った。対峙する形ではなく、同じものを見る形に近づけた。

 鳴瀬が持参した水をテーブルに置く。

「今日は、途中で休むことができます」

 真琴は最初に言った。

「聞きたくないと思ったら、いつでも止めてください。続きを聞くかどうかは、今日決めなくても構いません」

 澄江は頷いた。

「はい」

「それから、今日お伝えすることは、誰かを今すぐ責めるためのものではありません」

「責めてはいけないんですか」

 澄江が尋ねた。

 真琴は一瞬、言葉に詰まった。

 鳴瀬が静かに答えた。

「責める権利はあります。ただ、最初から責めるところへ行くと、澄江さんご自身が傷つきすぎるかもしれません」

「私が、ですか」

「はい」

 澄江は少し考えた。

「そうですね。私はきっと、誰かを責めるより先に、自分を責めてしまいます」

 真琴は胸が痛んだ。

 やはり、そこへ行く。

 母親は、子どもの苦しみを知ると、自分のせいにしようとする。

 透は、それを恐れていた。

 だから最初に、あの言葉を渡さなければならない。

 真琴は鞄から、作文ノートのコピーを取り出した。

 原本ではない。だが、透の字がはっきり写っている。

「これは、透さんの作文です」

 澄江の手が、膝の上で動いた。

「透の?」

「はい。真噤中学校に残っていたものです」

 正確には役場の地下倉庫にあった。だが、今はその経緯を話す段階ではない。

 真琴は紙を一枚、テーブルの上に置いた。

「最初に、この一文を読ませてください」

 澄江は頷いた。

 真琴は、ゆっくり読んだ。

「もしぼくがいなくなったら、だれか母さんに、ぼくは母さんのせいで困っていたんじゃないと伝えてください」

 読み終えた瞬間、澄江の顔から表情が消えた。

 真琴は呼吸を止めそうになった。

 鳴瀬が静かに水を澄江の近くへ押した。

 澄江は、紙を見つめていた。

 長い沈黙。

 外で鳥が鳴いた。

 家の中の時計が、こち、こち、と音を立てている。

 やがて澄江は、小さな声で言った。

「透の字です」

 真琴は頷いた。

「はい」

「この字、透です。間違いありません。小さいころから、ひらがなの“さ”が少し右に傾くんです」

 澄江の指が、紙の上に伸びた。だが、触れる直前で止まった。触れたら壊れてしまうと思ったのかもしれない。

「母さんのせいで困っていたんじゃない」

 澄江は、その一文を自分でもう一度読んだ。

「なぜ、この子はこんなことを」

 真琴はすぐに続けなかった。

 澄江がその一文を受け取る時間を待った。

 鳴瀬が静かに言った。

「澄江さん。透さんは、お母さんを責めていませんでした」

 澄江の目に涙が浮かんだ。

「責める?」

「はい」

「私、責められても仕方がない母親だったんでしょうか」

「違います」

 鳴瀬の声は強かった。

「だから、最初にこの言葉をお伝えしています」

 澄江は両手で口元を覆った。

 涙はまだ落ちていない。目の中に溜まったまま、揺れている。

「透は、私に何かを言いたかったんですね」

 真琴は頷いた。

「はい」

「でも、言えなかった」

「はい」

「私のせいで?」

 久我を呼ぶべきか、真琴は一瞬迷った。

 だが、澄江の呼吸はまだ乱れていない。顔色も保たれている。

 ここで逃げると、澄江はまた自分を責める。

 真琴は言った。

「澄江さんのせいではありません」

「でも、私の心臓が悪かったから」

「それを、周りの大人が理由にしました」

 澄江は顔を上げた。

「周りの大人?」

「透さんは、困っていました。学校で、何かが起きていました。でも、透さんはお母さんに言えなかった。言えばお母さんが死ぬと、周囲から思わされていた可能性があります」

 澄江の呼吸が浅くなった。

 鳴瀬がすぐに言った。

「一度、水を飲みましょう」

 澄江は言われるまま、水を口に含んだ。

 手が震えている。

 真琴は続けなかった。

 沈黙を恐れない。

 待つ。

 澄江が次の言葉を選ぶまで待つ。

 やがて澄江は言った。

「学校で、何かあったんですね」

「はい」

「いじめですか」

 真琴は鳴瀬を見た。

 鳴瀬が小さく頷いた。

 真琴は答えた。

「その可能性が高いです」

 澄江は目を閉じた。

 今度は、涙が頬を伝った。

「そうですか」

 それだけだった。

 叫ばない。

 取り乱さない。

 だが、両手は強く握られていた。

「やっぱり」

 澄江は呟いた。

 真琴は、その一言に胸を衝かれた。

 やっぱり。

 彼女は知らなかったのではない。

 知ることを許されなかっただけだ。

「私は、何となく分かっていました」

 澄江は言った。

「透の顔を見れば、分かりました。あの子は嘘が下手でしたから。でも、何かあったのと聞くと、何もないと言うんです。私は、それ以上聞けませんでした」

「なぜですか」

 真琴は静かに尋ねた。

「怖かったんです」

 澄江は答えた。

「聞いたら、あの子がもっと苦しむのではないかと思いました。私が倒れたら、あの子が自分のせいだと思うのではないかとも思いました。だから、聞けなかった」

 真琴は何も言えなかった。

 透だけではない。

 澄江もまた、息子を守るために聞けなかった。

 母と子は、互いを守ろうとして、同じ沈黙の両側に立たされていた。

「透さんは、こうも書いています」

 鳴瀬が言った。

 真琴は別の紙を出した。

 ――母さんは心臓が悪いから、心配をかけてはいけないと言われます。

 ――でも、ぼくは心配をかけたいわけじゃありません。

 ――知ってほしいだけです。

 ――ぼくが困っていることを、母さんが知らないまま笑っていると、ぼくは少しだけ消えたくなります。

 ――でも、母さんが泣いたら、ぼくはもっと消えたくなると思います。

 ――だから、どっちがいいのか分かりません。

 澄江は、最初の数行で泣き始めた。

 声を上げる涙ではなかった。

 ただ、静かに涙が落ちていく。

「私は」

 澄江は紙を見つめたまま言った。

「笑っていたんですね」

「澄江さん」

「何も知らずに、あの子の前で笑っていたんですね」

「それは悪いことではありません」

 鳴瀬が言った。

「母親が笑っていることが、透さんを支えていた部分もあると思います」

「でも、あの子は消えたくなった」

「はい」

 鳴瀬は否定しなかった。

 その正直さに、澄江は少し驚いたように見えた。

「そうですね。ここで否定されたら、私はきっと、また何も分からなくなります」

 鳴瀬は静かに頭を下げた。

「透さんは、お母さんを愛していたと思います。だからこそ、言えなかった。そのことと、苦しかったことは、同時に存在します」

「同時に」

「はい」

 澄江は、その言葉を胸の中で何度も繰り返すように黙った。

 真琴は、久我を呼ぶか迷った。

 澄江の呼吸は少し早いが、崩れてはいない。指先に震えはある。顔色は青白いが、意識は明瞭だ。

 真琴は尋ねた。

「少し休みますか」

「いいえ」

 澄江は首を振った。

「聞かせてください」

「今日はここで止めても」

「いいえ」

 澄江は、涙を拭った。

「三枝さん。私はもう、事故だったと言われるのに疲れました」

 その言葉は、静かだが強かった。

「透が死んでから、みんな優しかったんです。事故だった。誰も悪くなかった。運が悪かった。川が増えていた。透は苦しまなかったでしょう。そう言ってくれました。私は、ありがとうございますと言いました。ずっと言いました」

 彼女の声が少し震えた。

「でも、心の中ではいつも思っていました。透は本当に、ひとりで橋から落ちたのかしら、と」

 真琴は息を整えた。

 ここからだ。

 ここから、言葉の重さが変わる。

「澄江さん。これからお伝えすることは、まだ全てが法的に確定したものではありません。ただ、複数の資料が見つかっています」

「はい」

「透さんは、橋から落ちました。それは事実のようです」

「はい」

「ですが、その前に誰かと揉み合った可能性があります。遺体には、溺れる前についたと思われる傷がありました」

 澄江の目が見開かれた。

 息が止まる。

「鳴瀬先生」

 真琴が小さく言うと、鳴瀬はすぐに澄江の手元へ水を寄せた。

「澄江さん。息をしてください。ゆっくりで大丈夫です」

 澄江は胸に手を当てた。

 真琴は立ち上がり、玄関に向かって合図した。

 久我がすぐに入ってきた。

「有坂さん」

 久我は低い声で言った。

「久我です。少し脈を見ます」

 澄江は小さく頷いた。

 久我は手首に指を当て、表情を変えずに確認した。

「早くなっていますが、今すぐ危険な状態ではありません。少し呼吸を整えましょう」

 澄江は目を閉じた。

 久我の声に合わせて、ゆっくり呼吸をする。

 真琴はそれを見ながら、心臓が潰れそうだった。

 自分は今、何をしているのか。

 死なせないために準備した。

 だが、それでも澄江は苦しんでいる。

 真実を渡すとは、相手を傷つけないことではない。

 傷を一緒に見つめることだ。

「続けますか」

 久我が澄江に尋ねた。

 澄江は目を開けた。

「はい」

「無理なら止めます」

「無理です」

 澄江はそう言った。

 真琴たちは動きを止めた。

 澄江は続けた。

「無理です。でも、聞きます」

 久我は頷き、少し離れた場所に座った。

 八代は玄関の外にいる。入ってこない。彼は自分の役割を理解している。

「透さんは、複数の同級生と橋の近くにいました」

 真琴は言った。

「その中には、大月慎吾さん、八代誠一さん、藤咲智也さんの名前があります」

「藤咲」

 澄江が反応した。

「町議の」

「藤咲勝彦さんの息子です。現在の藤咲莉子さんのお父さんにあたります」

 澄江は眉をひそめた。

「莉子さん……あの、学校に来られていない子」

「ご存じですか」

「近所の方から少し」

 澄江は息を吐いた。

「また、子どもなんですね」

 その言葉は、誰を責めるでもなかった。

 ただ、深い悲しみだった。

「記録によれば、橋の上で口論がありました。透さんが何かを言おうとしていた可能性があります。その時、母親に言えば死ぬぞ、という趣旨の言葉があったとされています」

 澄江の体が震えた。

「母親に言えば」

「はい」

「私のことですね」

 誰も答えなかった。

 それが答えだった。

 澄江は両手で顔を覆った。

「私は」

 声が震える。

「私は、あの子を守りたかっただけなのに」

「はい」

 鳴瀬が言った。

「透さんも、澄江さんを守りたかった」

「守り合って、どちらも何も言えなかったんですね」

 澄江の声は、涙で潰れていた。

 真琴は目を伏せた。

 その通りだった。

 母と子は、愛情によって沈黙させられた。

 町は、その愛情を利用した。

 澄江はしばらく泣いた。

 久我は脈を見ながら、何も言わなかった。鳴瀬はそばに座り、水とハンカチを差し出した。真琴はただ、待った。

 泣き終えるまで待つ。

 言葉を急がせない。

 やがて澄江は顔を上げた。

「透は、落とされたんですか」

 ついに、そこへ来た。

 真琴は正直に答えた。

「資料上、誰かが故意に突き落としたとまでは断定できません」

 澄江は真琴を見た。

「では」

「ただ、事故として処理された説明には、重大な疑いがあります。橋の上で揉み合いがあり、その中で透さんが転落した可能性が高い。少なくとも、一人で足を滑らせたという単純な事故ではありません」

 澄江は頷いた。

「そうですか」

 また、そう言った。

 だが今度の「そうですか」は、諦めではなかった。

 長い間、曖昧な霧の中に置かれていたものが、ようやく輪郭を持った時の言葉だった。

「なぜ、私に言ってくれなかったんでしょう」

 澄江は呟いた。

 その問いに答えるのは、真琴ではない。

 真琴は玄関の方を見た。

「八代さん」

 外で待っていた八代が、びくりと肩を震わせた。

「澄江さん。八代さんを中へ呼んでもいいですか」

 澄江は少し考え、頷いた。

「はい」

 八代は居間に入るなり、畳に手をついて頭を下げた。

「有坂さん」

「八代さん」

「申し訳ありませんでした」

 鳴瀬が止めようとした。

 だが澄江が手で制した。

「何についての謝罪ですか」

 八代は顔を上げられなかった。

「役場が、町が、私の家が、透さんのことを」

「あなたは当時、小学生でしたね」

「はい」

「では、あなたが透を死なせたわけではありません」

「でも、父が」

「お父様のことは、いずれ聞きます」

 澄江の声は、思いのほか落ち着いていた。

「今、あなたに言いたいことがあります」

 八代は恐る恐る顔を上げた。

「あなたは、今日ここに来てくれました。それで十分とは言いません。でも、来てくれました。だから、今は頭を上げてください」

 八代の目から涙が落ちた。

「すみません」

「それは後で聞きます」

 澄江は言った。

「今は、透の話を聞かせてください」

 その時、部屋の空気が変わった。

 誰かがもうひとり、いる。

 真琴はゆっくり窓の方を見た。

 縁側の外、白い菊の咲く庭に、嘘つきの神さまが立っていた。

 狐面をつけていない。

 昨夜見た、少年のような顔。誰でもあって、誰でもない顔。

 だが今は、昨日よりも透に近く見えた。

 澄江はまだ気づいていない。

 いや、気づいていても、見えていないのかもしれない。

 神さまは、窓の外で首を振った。

 やめろ。

 その口が、そう動いた。

 真琴は立ち上がらなかった。

 澄江が言った。

「もうひとつ、聞いてもいいですか」

「はい」

「透は、私を恨んでいましたか」

 神さまの顔が歪んだ。

 真琴は透の作文を手に取った。

「透さんは、こう書いています」

 また、最後の一文を読んだ。

「ぼくは母さんのせいで困っていたんじゃない」

 澄江の涙が再び落ちた。

「そう」

 彼女は小さく言った。

「そうですか」

 窓の外で、神さまが震えている。

 真琴はそちらを見た。

 神さまは、声にならない声で言っているようだった。

 母さんが死ぬ。

 母さんが死ぬ。

 母さんが死ぬ。

 澄江は、ふと窓の外へ目を向けた。

 真琴の背筋が緊張した。

 見えるのか。

 澄江は庭を見つめた。

 白い菊。

 梅の木。

 朝の光。

 その中に立つ、少年のような神さま。

 澄江の目が、大きく開いた。

「透?」

 部屋の中の全員が息を呑んだ。

 神さまは後ずさった。

「違う」

 その声は、真琴たちにも聞こえた。

 澄江は立ち上がろうとした。久我が慌てて支える。

「有坂さん、ゆっくり」

「透なの?」

 澄江の声は震えていた。

 神さまは首を振った。

「違う。僕は透じゃない」

「でも」

「違うんだ、母さん」

 母さん。

 その言葉が部屋に落ちた。

 澄江の体が大きく揺れた。

 久我がすぐに脈を確認する。

「有坂さん、座ってください」

 澄江は座った。

 だが、目は庭の少年から離れない。

「今、母さんって」

 神さまは両手で口を押さえた。

 言ってしまった。

 その顔だった。

「透なのね」

「違う!」

 神さまは叫んだ。

 庭の菊が揺れた。

「僕は透じゃない。透が言えなかったことと、町が吐いた嘘と、みんなの後悔が混ざったものだ。透じゃない。透じゃないんだ」

 澄江は泣きながら微笑んだ。

「それでも、透の言葉を持っているのね」

 神さまは何も言えなかった。

「教えて」

 澄江は言った。

「透は、最後に何を言いたかったの」

 神さまは震えた。

 真琴が声をかけようとしたが、鳴瀬が小さく首を振った。

 これは、澄江と神さまの間の言葉だ。

 神さまは長い時間、黙っていた。

 やがて、小さな声で言った。

「母さん」

「うん」

「ごめん」

 澄江は首を振った。

「謝らないで」

「言えなくて、ごめん」

「うん」

「苦しかった」

「うん」

「でも、母さんのせいじゃない」

 澄江は声を上げて泣いた。

 初めて、声を上げた。

 泣き崩れる澄江を、久我が支え、鳴瀬が背中に手を添える。真琴は何もできず、ただその場にいた。

 神さまは庭に立ったまま、涙の出ない目で母を見ていた。

「透は」

 澄江は泣きながら言った。

「透は、私を守るために黙ったの?」

 神さまは答えなかった。

 しかし、その沈黙は肯定だった。

 澄江は顔を覆った。

「そんなことを、子どもにさせたくなかった」

 その言葉が、朝の部屋に静かに広がった。

 神さまが、はっと顔を上げた。

「母さん」

「私は、透に守られたかったんじゃない」

 澄江は涙で濡れた顔を上げた。

「一緒に困りたかった」

 真琴の胸が震えた。

「一緒に困って、一緒に怒って、一緒に泣きたかった。私が倒れるかもしれないからと、あの子が一人で黙るくらいなら、私は倒れてでも聞きたかった」

「でも」

 神さまの声は、十四歳の少年のものだった。

「死んだら」

「死んだら、透は悲しんだでしょうね」

 澄江は言った。

「でも、私は今、生きています」

 部屋の中で、誰も動かなかった。

 澄江は自分の胸に手を当てた。

「こんなに痛いのに、生きています」

 久我が静かに脈を見た。

「はい。生きています」

 その一言は、医学的な確認であり、祈りでもあった。

 神さまの姿が揺らいだ。

 白い朝の光の中で、輪郭が薄くなる。

「死なない?」

 神さまは尋ねた。

 澄江は涙を拭った。

「今日は、死なない」

「明日は?」

「明日は分からない」

 神さまが怯えた顔をする。

 澄江は続けた。

「でも、明日も誰かにいてもらう」

 その言葉に、真琴は息を呑んだ。

 それは、後に神を殺すための答えになる言葉だった。

 澄江は神さまを見つめた。

「あなたが透でなくても、透の言葉を持っているなら、伝えてくれてありがとう」

 神さまは、まるで殴られたような顔をした。

「ありがとう?」

「ええ」

「僕は、嘘をついた」

「そうね」

「二十年も」

「そうね」

「母さんから、透のことを奪った」

「そうね」

 澄江は頷いた。

「でも、今日返してくれた」

 神さまは何も言えなかった。

 その姿が、さらに薄くなる。

 真琴は直感した。

 呪いが揺らいでいる。

 真実を受け止める器が、初めて町に生まれた。

 真実を聞いた母親が、死ななかった。

 いや、死ななかっただけではない。

 彼女は、その痛みの中で、ひとりで抱えないという選択をした。

「澄江さん」

 真琴は言った。

「今日は、ここで止めましょう」

 澄江は少し考え、頷いた。

「はい」

「続きはあります。町が何をしたのか、誰が何を言ったのか、資料もあります。でも、それは今日全部聞かなくていい」

「聞きます」

「はい。聞けます。ただ、今日ではなくてもいい」

 澄江は透の写真を見た。

「透は、二十年待ったんですものね」

「はい」

「なら、あと一日、待ってもらいます」

 その言い方に、真琴は救われるような気がした。

 待たせるのではない。

 一緒に進むために、時間を取るのだ。

 鳴瀬が言った。

「今日の午後、もう一度来ます。何も話さなくても構いません。ただ、一人にならない時間を作ります」

 久我も言った。

「体調を確認します。必要なら薬を出しますが、まずは眠れるようにしましょう」

 八代は深く頭を下げた。

「明日、私から町の資料について説明させてください。謝罪ではなく、まず事実として」

 澄江は頷いた。

「分かりました」

 庭を見ると、神さまはまだいた。

 だが、その顔から先ほどまでの恐怖は消えていた。

 代わりに、ひどく疲れた安堵があった。

 真琴は窓を開けた。

 朝の冷たい空気が部屋に入る。

「あなたも、今日は休んでください」

 真琴は神さまに言った。

 神さまは少し笑った。

「神さまに休暇?」

「二十年働きすぎです」

「ブラックだね、この町」

 その冗談は、今までのどれよりも弱々しかった。

 澄江が小さく笑った。

 泣いた後の、かすかな笑い。

 それだけで、部屋の空気が少し変わった。

 神さまは、澄江を見た。

「母さん」

「はい」

「僕は、透じゃない」

「分かっています」

「でも、また来てもいい?」

 澄江は涙を浮かべたまま微笑んだ。

「ええ。お茶を淹れます」

「僕、飲めないかも」

「それでも淹れます」

 神さまは困ったように笑った。

 そして、朝の光の中に少しずつ溶けていった。

 完全に消える直前、彼は真琴を見た。

「真琴」

「はい」

「母さん、死ななかったね」

「はい」

「でも、町はこれから死ぬかもしれない」

「死なせません」

「また言った」

「今度は、一人で言っていません」

 真琴は部屋の中を見た。

 鳴瀬、久我、八代、澄江。

「ここにいる人たちで言っています」

 神さまは、少しだけ目を細めた。

「なら、見てる」

 その言葉を残して、姿は消えた。

 白い菊が、庭で揺れていた。

 澄江の家を出た時、空はすっかり晴れていた。

 真琴は玄関の外で、深く息を吸った。肺の奥まで冷たい空気が入る。体は疲れ切っている。だが、どこかで固まっていたものが少しだけ動いたような感覚があった。

 澄江は生きている。

 その事実が、何より重かった。

 門の外で、八代が泣いていた。

 声を出さず、ただ涙を流している。

 鳴瀬は空を見上げていた。久我はスマートフォンで病院へ連絡を入れ、澄江の体調について簡潔に報告している。

 真琴は、庭に咲く白い菊を見た。

 昨日まで、その花は弔いの花に見えた。

 今は、違う。

 弔いであることは変わらない。

 だが、それだけではない。

 言葉を届けるための目印のようにも見えた。

 スマートフォンが震えた。

 非通知だった。

 真琴は画面を見つめ、応答した。

「三枝です」

 無音。

 そして、男の声。

「余計なことをしたな」

 昨日までと同じ、低く加工された声。

 真琴は言った。

「澄江さんは生きています」

 電話の向こうで、わずかに呼吸が乱れた。

「何?」

「有坂澄江さんは、透さんの言葉を聞きました。そして生きています」

 沈黙。

「これから、町の話をしましょう」

 真琴は続けた。

「二十年前に誰が何をしたのか。誰が隠したのか。誰が言えなかったのか。誰に背負わせてきたのか」

「やめろ」

「やめません」

「町が壊れる」

「町ではなく、嘘が壊れるんです」

 電話の向こうで、声が低くなった。

「お前は何も分かっていない。あの時も、みんな守ろうとしたんだ」

「誰をですか」

「町を。子どもを。有坂の母親を」

「透さんは守られましたか」

 相手は答えなかった。

「藤咲莉子さんは守られましたか」

 また沈黙。

「あなたは誰ですか」

 真琴は尋ねた。

「藤咲智也さんですか」

 電話は切れた。

 真琴はスマートフォンを下ろした。

 鳴瀬が近づく。

「また?」

「はい」

「誰でしたか」

「断定はできません。でも、藤咲智也かもしれません」

 八代が顔を上げた。

「莉子さんのお父さん」

「はい」

 真琴は澄江の家を振り返った。

 今、ようやくひとつの真実が渡された。

 しかし、町の嘘はまだ生きている。

 藤咲家。

 役場。

 学校。

 診療所。

 新聞社。

 そして、町の人々。

 澄江が死ななかったことで、嘘つきの神さまは揺らいだ。

 だが、同時に、人間たちは恐怖する。

 真実を聞いても人が死なない。

 それが証明されれば、今度は隠してきた者たちが追い詰められる。

 町が本当に壊れ始めるのは、ここからだった。

 真琴は言った。

「次は、町です」

 誰も反論しなかった。

 遠くで、防災無線のチャイムが鳴った。

 朝を知らせる、柔らかな音だった。

 けれど真琴には、それが町全体へ告げる合図に聞こえた。

 もう、眠っている時間は終わったのだと。



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