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真実を語ると人が死ぬ街で、嘘つきの神さまを殺すまで  作者: 二条理|アコンプリス


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第十章 嘘で生きてきた町

 有坂澄江が死ななかった、という事実は、半日も経たないうちに町を駆け巡った。

 誰が最初に口にしたのかは分からない。

 久我が診療所に戻る途中、受付の女性に話したのかもしれない。八代が役場で最低限の報告をした時、誰かが聞いたのかもしれない。鳴瀬が学校へ戻り、藤咲莉子の件を説明する準備を始めたことで、教師たちの間に広がったのかもしれない。

 あるいは、言葉そのものが、この町では勝手に歩くのかもしれない。

 昼前には、商店街の店主たちが知っていた。

 昼過ぎには、診療所の待合室で老人たちが囁いていた。

 午後には、真噤中学校の職員室にまで届いていた。

 有坂さんが、透くんのことを聞いたらしい。

 でも、倒れなかった。

 死ななかった。

 それは希望の噂であると同時に、恐怖の噂でもあった。

 真琴は役場の小会議室で、八代と向き合っていた。

 机の上には、地下倉庫から写した資料の一覧がある。どの資料を誰に見せるか、どの順番で説明するか、町民全体への発表をどうするか。決めなければならないことは山ほどあった。

 だが、町はその手順を待ってくれなかった。

「総務課に、問い合わせが来ています」

 八代はスマートフォンを見ながら言った。

「有坂透さんの件は本当なのか。二十年前の事故は事故ではなかったのか。藤咲家が関わっているのか。大月慎吾さんはそれを言おうとして死んだのか」

「誰から?」

「町民です。匿名もあります。昔の関係者らしい人も」

「藤咲議員は?」

「朝から登庁していません。自宅にも戻っていないようです」

「藤咲智也さんは?」

「連絡がつきません」

 藤咲智也。

 藤咲莉子の父親。二十年前、橋の上にいた可能性のある少年。今は町外の建設関係の会社で働いていると聞いている。昨夜の非通知電話の相手が彼である可能性は高いが、まだ断定できない。

「莉子さんは?」

「診療所で休んでいます。鳴瀬先生が付き添っています。お母さんも病院から診療所へ移る予定です。久我先生が、母子をすぐに対面させるかどうか慎重に判断すると」

「藤咲家の大人を近づけないように」

「久我先生が止めています」

 真琴は頷いた。

 澄江に真実を渡すことには、かろうじて成功した。

 だがそれは、町全体にとっては最初の石が外れたに過ぎなかった。長く積み上げられてきた嘘の石垣は、どこから崩れるか分からない。

 その時、小会議室の扉が乱暴に開いた。

 役場の女性職員が顔を出した。息が上がっている。

「八代さん、下に町民が集まっています」

「町民?」

「有坂透さんのことで説明しろと。大月さんの親族も来ています。あと、藤咲議員を出せと言っている人も」

 八代が立ち上がる。

「人数は?」

「二十人くらいです。でも増えています」

 真琴は窓際へ行き、下を見た。

 役場の玄関前に、人だかりができていた。老人、中年の男女、作業着姿の男、商店主らしき人々。まだ暴動というほどではない。だが、空気は険しい。

 誰かが叫んでいる。

 ここからでは内容までは聞き取れない。

 けれど、声の質は分かった。

 怒りだ。

 ようやく口に出すことを許された人々の怒り。

 真琴は、背筋に冷たいものを感じた。

 これは危険だ。

 真実が受け止められる前に、怒りとして溢れ出そうとしている。

 八代が言った。

「私が説明します」

「一人では駄目です」

「でも、役場の責任です」

「だから一人で行くと、あなたが標的になります」

「それでも」

「八代さん」

 真琴は彼の正面に立った。

「今、誰か一人が背負う形を作ったら、また人が倒れます」

 八代は唇を噛んだ。

「では、どうすれば」

「鳴瀬先生と久我先生を呼びます。できれば、澄江さんの意向も確認します。ただし、澄江さんを人前に出すのは避ける」

「間に合いますか」

「間に合わせるしかありません」

 真琴はスマートフォンを手に取った。

 鳴瀬はすぐに出た。

「役場に町民が集まっています」

 真琴が言うと、鳴瀬は短く息を吸った。

「来ましたね」

「ええ」

「莉子さんは久我先生の看護師に任せます。私も向かいます」

「久我先生は?」

「今、澄江さんの体調確認に行っています。連絡します」

「お願いします」

 電話を切ると、今度は久我から着信があった。

「聞きました」

「早いですね」

「町のざわめきは、診療所に一番早く届きます」

「澄江さんは?」

「疲労は強いですが、意識は明瞭です。血圧はやや高い。ただ、彼女自身が『町が騒ぐなら、私の言葉を使ってください』と言っています」

「言葉?」

「伝言です」

 久我の声が少し低くなった。

「『私は今日、透の言葉を聞きました。まだ全部は聞いていません。でも、私は生きています。だから、私のために黙っていたと言う人は、もう黙らなくていいです』」

 真琴は目を閉じた。

 澄江の言葉は、町を動かす。

 同時に、町をさらに揺らす。

「使います」

「慎重に」

「はい」

「私も役場へ向かいます」

 久我はそれだけ言って電話を切った。

 役場の一階ロビーは、すでに人で満ちていた。

 職員たちは窓口の奥で不安そうにしている。町民は二十人どころではない。いつの間にか四十人近くに増えていた。誰もが何かを言いたがっている。だが、何から言えばいいのか分からない顔をしていた。

 この町では長く、言葉を飲み込むことが正しいとされてきた。

 だから、いざ口を開けと言われても、出てくるのは整った言葉ではない。

 怒鳴り声。

 詰問。

 泣き声。

 責任転嫁。

 噂。

 後悔。

 それらが、順番を持たずに溢れ出そうとしている。

 八代がロビーに出ると、声が一斉に向けられた。

「八代さん、どういうことだ」

「有坂くんは事故じゃなかったのか」

「大月はそれで死んだのか」

「藤咲議員はどこだ」

「役場は知ってたのか」

「うちの父も当時の消防団だったんだ。何か隠していたのか」

「澄江さんは大丈夫なのか」

「誰が透くんを殺したんだ」

 最後の言葉が、空気を一気に尖らせた。

 誰が殺したんだ。

 その一言を待っていたように、周囲から別の声が上がる。

「藤咲だろ」

「いや、大月もいたんだろ」

「八代の兄さんもじゃないのか」

「先生たちは何してた」

「役場が揉み消したんだ」

「診療所も分かってたんだろ」

「新聞記者もグルだったのか」

 真琴は、ロビーの端でその声を聞いていた。

 危ない。

 これでは、真実ではなく獲物探しになる。

 町民たちは二十年黙っていた痛みを、誰か一人にぶつけようとしている。ぶつける相手がいれば、自分は被害者側に立てる。そうすれば、自分が黙ってきた責任を見なくて済む。

 このままでは、また誰かが壊れる。

 八代が口を開こうとした。

 だが、その前に真琴は前へ出た。

「皆さん、聞いてください」

 外から来た女の声に、ロビーが一瞬静まった。

 すぐに誰かが言った。

「あんた、東京のライターだろ」

「町をかき回した人だ」

「余計なことを」

 真琴はその声を受け止めた。

 反論しなかった。

「はい。私は外から来ました。そして、この数日で多くの人を傷つけました。大月慎吾さんは亡くなりました。篠原美奈さんは意識が戻っていません。藤咲莉子さんとお母さんも傷ついています。八代誠一さんも入院しています」

 ロビーがさらに静まった。

「だからこそ、今ここで、同じことを繰り返すわけにはいきません」

「同じこと?」

 商店街の男が言った。

「今、皆さんは『誰が殺したんだ』と叫びました。その問いは必要です。責任は曖昧にできません。でも、今この場で誰かの名前を叫べば、その人の家族や子どもにまで刃が飛びます」

「じゃあ、黙れっていうのか」

 別の男が怒鳴った。

「違います」

 真琴は即答した。

「黙ることと、順番を決めることは違います」

 ロビーの後方で、鳴瀬が到着した。真琴と目が合う。鳴瀬は頷いた。

 久我も玄関から入ってきた。彼はロビー全体を見回し、体調の悪そうな人がいないか観察している。

 真琴は続けた。

「有坂澄江さんからの言葉を預かっています」

 その名前が出た瞬間、空気が変わった。

 澄江は、この町にとって触れてはいけない人だった。

 守るという名目で、最も長く遠ざけられてきた人。

「澄江さんは今日、透さんの言葉を聞きました。まだ全てではありません。でも、こう言っています」

 真琴は、久我から聞いた言葉を一語ずつ丁寧に口にした。

「私は今日、透の言葉を聞きました。まだ全部は聞いていません。でも、私は生きています。だから、私のために黙っていたと言う人は、もう黙らなくていいです」

 ロビーから、声が消えた。

 誰かが泣いた。

 誰かが椅子に座り込んだ。

 誰かが口元を押さえた。

 八代は目を伏せている。

 鳴瀬も、唇を強く結んでいた。

 真琴は言った。

「黙らなくていい。でも、叫ぶ前に順番を決めます」

「順番って何だよ」

「死なないための順番です」

 その言葉に、何人かが顔を上げた。

「今日は犯人を決める日ではありません」

 真琴は、ロビー全体へ向けて言った。

「誰が悪いかを叫ぶ日でもありません。まず、死なないための手順を決める日です」

「きれいごとを」

 老人が震える声で言った。

「二十年も黙ってきたんだぞ。今さら手順だと?」

「だからです」

 真琴はその老人を見た。

「二十年黙ってきた言葉は、今そのまま出せば、人を殺します」

 老人は口を閉じた。

「まず、今ここで話したい人は、名前を出す前に、何を知っているのかだけを書いてください。見たこと、聞いたこと、後から知ったこと、噂として聞いたことを分けます。誰かを責める言葉は、今は書かない」

 鳴瀬が前へ出た。

「真噤中学校の相談室を開けます。ロビーで怒鳴り合うのではなく、聞き取りの場所を分けましょう。話す人は一人ずつ。聞く側も複数で記録します。途中で苦しくなった人は止められます」

 久我も言った。

「体調が悪い方は、すぐ診療所へ。今ここで無理に話す必要はありません。動悸、息苦しさ、めまいがある方は申し出てください」

 八代がようやく口を開いた。

「役場として、二十年前の資料が見つかったことを認めます」

 どよめきが起きた。

 八代は声を震わせながらも続けた。

「ただし、資料はまだ整理中です。今すぐ全員に公開することはしません。関係者の安全と、事実確認を優先します。隠すためではありません。もう、地下へ戻すつもりはありません」

 その言葉に、町民たちは互いの顔を見た。

 信じていいのか。

 また「そういうこと」にされるのではないか。

 その疑いは当然だった。

 真琴は言った。

「不信感は正しいです。二十年、町は隠してきた。だから、今すぐ信じろとは言いません。代わりに、記録します。誰が何を言い、何を確認し、何を保留したのか。全部、残します」

「記事にするのか」

 誰かが言った。

 真琴は、その問いにすぐ答えなかった。

 以前の自分なら、公益性があれば書くと言っただろう。

 だが、今は違う。

「書くかどうかは、まだ決めません」

 真琴は言った。

「ただ、記録はします。誰かを吊るし上げるためではなく、また同じことを『そういうこと』で終わらせないために」

 ロビーの空気は、まだ危うかった。

 怒りが消えたわけではない。

 むしろ、怒りは行き場を失って、床下で熱を持っている。

 だが、少なくとも今すぐ爆発する状態ではなくなった。

 その時、玄関の方で騒ぎが起きた。

 人の輪が割れる。

 濃紺のコートを着た男が入ってきた。

 藤咲勝彦だった。

 その顔は昨夜よりも憔悴していたが、目にはまだ強い光があった。後ろには数人の支援者らしき男たちがいる。

「何を勝手なことをしている」

 藤咲の声がロビーに響いた。

 町民たちが一斉に振り返る。

 空気がまた尖った。

「藤咲議員」

 八代が前へ出た。

「今、町民の方々に説明を」

「役場職員が、正式な手続きもなく何を説明する。古い資料を持ち出し、町民を扇動しているのは誰だ」

 藤咲の目が真琴に向く。

「あなたか」

 真琴は答えた。

「私は記録しています」

「外部の人間が、町の内部事情に口を出すな」

「外部の人間を呼んだのは町です」

「町おこしの記事のためだ。過去を掘り返すためではない」

 藤咲の声は大きかった。

 だが、以前ほどロビーを支配できていなかった。

 町民たちが彼を見ている。

 尊敬や畏怖だけではない。

 疑い。

 怒り。

 不安。

 藤咲はそれに気づいたのか、表情を硬くした。

「皆さん、落ち着いてください。根拠のない話に振り回されてはいけません。有坂透君の件は、当時きちんと事故として処理されています」

 その瞬間、ロビーの奥から女の声がした。

「きちんと?」

 声の主は、喫茶こもりびの店主の妻だった。真琴は店で何度か見かけていたが、話したことはなかった。五十代後半くらいの女性で、普段は穏やかな表情をしている。

 彼女は震える声で言った。

「私、見ました」

 ロビーが静まる。

 鳴瀬がすぐに近づいた。

「お名前を出さなくても構いません。今ここで無理に」

「いいえ」

 女性は首を振った。

「もう、言います」

 藤咲の顔が強張る。

「私は、あの日の夕方、橋の近くを通りました。買い物帰りでした。男の子たちが騒いでいて、透くんが泣いていた。藤咲さんの息子さんもいました」

 ざわめきが起きる。

「やめなさい」

 藤咲が低く言った。

 だが、女性は止まらなかった。

「私は、見なかったことにしました。子どもの喧嘩だと思った。藤咲さんの家に関わると面倒だとも思った。帰りました。その夜、透くんがいなくなったと聞きました」

 彼女は両手で顔を覆った。

「翌朝、川で見つかったと聞いた時、私は言おうと思いました。でも、夫に止められました。言えば、澄江さんが死ぬ。町が大変なことになる。子どもの喧嘩を大ごとにするなって」

 店主もロビーの隅にいた。

 彼はうなだれていた。

「私は、二十年、毎年命日になると白い菊を橋に置いていました」

 真琴は息を呑んだ。

 白い菊。

 橋のたもとに置かれていた花。

 澄江の家の花と同じだと思っていたが、違った。

 置いていたのは、この女性だった。

「でも今年、紙が置いてありました。透くんの字の紙です。誰が置いたのかは分かりません。私は怖くなって、花だけ置いて帰りました」

 真琴は、ノートの切れ端を思い出した。

 あれを置いたのは誰か。

 まだ分からない。

 だが、白い菊の意味は分かった。

 花は、罪悪感の印だった。

 藤咲は声を荒げた。

「二十年前の記憶など、当てになるものか」

 その言葉に、別の男が反応した。

「俺も聞いた」

 作業着姿の男だった。六十代くらいだろう。手が震えている。

「消防団で捜索に出た。橋の下じゃなくて、少し離れた川岸で透くんは見つかった。服に泥がついてた。でも、あれは川底の泥じゃないって、団の中で誰かが言った」

「名前は?」

 真琴が聞くと、男は首を振った。

「覚えていない。いや、覚えているが、今ここでは言えない」

「それで構いません」

 鳴瀬がすぐに言った。

「後で、別室で聞きます」

 今度は、年配の女性が口を開いた。

「有坂さんに、事故だったと言いに行ったのは私です」

 ロビーが静まった。

「当時、婦人会で。有坂さんは憔悴していて、何も食べられなくて。私は言いました。事故だったのよ。誰も悪くないのよ。透くんは苦しまなかったわよ、って」

 彼女は泣き出した。

「私、何を根拠に言ったんでしょうね。何も知らなかったのに。ただ、そう言えば有坂さんが少し楽になると思ったんです。自分も楽になりたかったんです」

 次々と声が上がった。

 あの日、学校の廊下で透が教師に呼び止められていたのを見た。

 大月慎吾が命日のたびに酒を飲んで泣いていた。

 八代誠一が「言わなかった」と壁に向かって呟いているのを聞いた。

 藤咲智也が事故の後、急に町外の高校へ進学した。

 河野雅彦が役場前で町長と言い争っていた。

 新聞社の車が夜に神社へ来ていた。

 祠に木札を納める大人たちを見た。

 町は、一斉に語り始めた。

 真琴は震えた。

 これは真実の噴出だ。

 だが、まだ危険だった。

 証言と噂と後悔と推測が混ざっている。誰かの罪を明らかにする材料もあれば、誰かを不当に傷つける言葉もある。

 このままでは、町は真実ではなく怒りに飲まれる。

 藤咲勝彦が叫んだ。

「いい加減にしろ! 証拠もなく、過去のことを」

「証拠はあります」

 八代が言った。

 その声は震えていたが、逃げてはいなかった。

 藤咲が睨む。

「何だと」

「地下倉庫に資料が残っていました。町長指示メモ、学校の聞き取り記録、診療所覚書、河野雅彦の対応記録。全て、確認中です」

 ロビーがざわつく。

 藤咲の顔から血の気が引いた。

「誰の許可で」

「許可されなかったから、二十年隠れていたんです」

 八代は言った。

「私は役場職員として、それをもう一度隠すことはできません」

 藤咲が一歩近づいた。

「八代。君の父親も関わっているんだぞ」

「はい」

 八代の声が揺れた。

「だからこそです」

「兄のこともある」

「はい」

「自分の家も潰す気か」

 八代は唇を噛んだ。

 その場にいた全員が、彼を見ている。

 真琴は助け舟を出そうとした。

 しかし、八代は自分で答えた。

「潰れるべきものなら、潰れます」

 藤咲が目を見開く。

「でも、兄の命まで潰させません。父の罪も、兄の沈黙も、私が一人で背負うものではありません。資料として、証言として、きちんと扱います」

 その言葉に、鳴瀬が小さく頷いた。

 久我も、八代を見ていた。

 藤咲は言い返そうとした。

 その時、ロビーの照明が一瞬、瞬いた。

 誰もが天井を見上げた。

 そして、入口の自動ドアの向こうに、白い狐面が立っているのを見た。

 今度は、全員が見た。

 町民たちの間から悲鳴が上がる。

「言守様」

 誰かが呟いた。

 嘘つきの神さまは、役場の入口に立っていた。

 白い狐面をつけ、黒い服を着ている。だが、その姿は以前よりも薄い。町民たちの恐怖と視線を浴びながら、それでも逃げずに立っている。

「騒がしいね」

 神さまは言った。

 その声は、ロビー全体に響いた。

「二十年黙っていたくせに、口を開く時はみんな一緒なんだ」

 誰も言い返さなかった。

 藤咲勝彦だけが、震える声で言った。

「言守様、どうか」

「どうか?」

 神さまは首を傾けた。

「また黙らせてほしい?」

 藤咲は言葉を失った。

「事故だったことにしてほしい? 誰も悪くなかったことにしてほしい? 澄江さんのためだったことにしてほしい? 町のためだったことにしてほしい? 子どものためだったことにしてほしい?」

 神さまは、ロビーをゆっくり見回した。

「僕は、そういう嘘を二十年配った。みんな喜んで受け取った。苦い薬みたいな顔をしていたけど、本当は便利だったでしょう」

 町民たちは黙っていた。

 何人かは泣いている。

 何人かは顔を伏せている。

 神さまは続けた。

「でも、薬が切れた。もう効かない。澄江さんが死ななかったから」

 その言葉に、ロビーがざわめく。

「母さんは、死ななかった」

 神さまの声が、少しだけ少年のものになった。

「だから、僕の嘘はひとつ壊れた」

 真琴は神さまを見つめた。

 その姿は、揺らいでいる。

 神さま自身も、立っているのがやっとなのかもしれない。

「三枝真琴」

 神さまは言った。

「君の出番だよ」

 ロビー中の視線が真琴に向く。

 真琴は一瞬、息が詰まった。

 自分が何を言えるのか。

 この町に来て、何人もの人を傷つけた。大月は死んだ。美奈は意識がない。莉子は橋から落ちかけた。澄江は今、深い痛みの中にいる。

 それでも、言わなければならない。

 ただし、誰かを断罪するためではない。

 死なないための順番を作るために。

 真琴はロビーの中央に立った。

「今から、この場で犯人の名前を決めることはしません」

 最初にそう言った。

 藤咲が何か言おうとしたが、町民の視線がそれを止めた。

「でも、何もなかったことにはしません。透さんの死について、事故ではない可能性を示す資料があります。町がそれを隠した資料もあります。学校、役場、診療所、新聞社、町の有力者、当時の生徒たち。多くの人が関わっています」

 真琴は一語ずつ置くように言った。

「これから、三つのことをします」

 鳴瀬が紙を用意する。

 八代が職員に指示を出す。

 久我が体調の悪そうな老人に椅子を勧める。

「一つ。証言を分けます。見たこと、聞いたこと、後から知ったこと、噂として聞いたこと。混ぜません」

「二つ。関係者の安全を確保します。有坂澄江さん、藤咲莉子さんとお母さん、八代誠一さん、篠原美奈さん。今傷ついている人たちを、これ以上人前に晒しません」

「三つ。町として、真実を受け止める場所を作ります。怒鳴る場所ではなく、記録する場所。責める前に、何が起きたかを確認する場所です」

 誰かが言った。

「それで、藤咲は裁かれるのか」

 真琴は答えた。

「必要なら、法的な手続きへ進みます。けれど、裁くためにも、まず事実を崩さないことが必要です」

「そんな悠長な」

「急いで名前を叫べば、また誰かが倒れます」

 真琴はロビー全体を見た。

「この町は、真実を隠して人を殺してきました。今度は、真実を雑に扱って人を殺すつもりですか」

 その言葉に、ロビーが静まり返った。

 鳴瀬が前へ出た。

「学校の体育館を開放します。今日の午後から、聞き取りと休憩の場所にします。話したい人は、まず名前を書いてください。匿名を希望する場合は、その旨を書いてください。話せない人は、紙に書くだけでも構いません」

 久我が続けた。

「体調が不安な方は、診療所へ。今日話さなくてもいい。話すことを強制しません。逆に、誰かに無理やり話させることも禁止します」

 八代が言った。

「役場として、正式な調査の準備を始めます。町長にも報告します。資料の保全を最優先します。藤咲議員を含む関係者に、資料の破棄や持ち出しをさせません」

 藤咲勝彦が低く言った。

「君にそんな権限はない」

「なら、上長と警察に報告します」

 八代は言った。

 藤咲は黙った。

 その時、ロビーの後方で、若い女性が手を挙げた。

 藤崎千佳だった。

 篠原美奈の友人で、篠原徹との関係を疑われた女性。以前美奈が倒れた現場にいた人物だ。顔色は悪く、目は腫れている。

「私も」

 彼女は震えながら言った。

「話したいことがあります」

 真琴は彼女を見た。

「今ここでですか」

「いいえ。別室で。でも、言います。美奈のことも、町で聞いた噂のことも。私、ずっと、言わない方がいいと思っていました。でも、それで美奈を壊しました」

 真琴は頷いた。

「別室で聞きます」

 すると、別の町民が手を挙げた。

 また一人。

 また一人。

 ロビーの怒声は、少しずつ形を変え始めた。

 叫びではなく、申し出へ。

 噂ではなく、証言へ。

 責任転嫁ではなく、記録へ。

 もちろん、それだけで町が救われるわけではない。

 だが、最初の形はできた。

 神さまは入口でその様子を見ていた。

 白い狐面の奥で、何を思っているのか分からない。

 やがて、彼は小さく言った。

「本当に、人間だけでやるつもりなんだ」

 真琴は振り返った。

「はい」

「僕はいらない?」

「嘘を配る神さまとしては」

 真琴は言った。

「もう、いりません」

 ロビーが息を呑む。

 神さまは、ほんの少し笑った。

「ひどいな」

「でも、言葉を預かる場所としてなら、まだ必要かもしれません」

 神さまは首を傾けた。

「どういう意味」

「言守様は、本来、言葉を殺す神ではなかった。預かる神でした。なら、町はその形に戻れるかもしれない」

 鳴瀬が続けた。

「体育館に、言葉を預ける箱を置きます。匿名でもいい。言えないことを書いて入れる。ただし、入れて終わりではなく、必要なら誰かと一緒に取り出して扱う」

 久我も言った。

「医療的支援もつけます。書いた後に不安定になる人がいるでしょうから」

 八代が頷いた。

「役場で記録し、保管します。もう地下に隠すのではなく、管理された形で」

 神さまは黙った。

 狐面の奥の気配が揺れている。

「勝手だね、人間は」

 神さまは言った。

「捨てる場所にしたり、預ける場所に戻すと言ったり」

「はい」

 真琴は認めた。

「勝手です。だから、今度は勝手にしない仕組みを作ります」

「できると思う?」

「分かりません」

「またそれ」

「でも、始めます」

 神さまは、長く真琴を見た。

 そして、ロビーに集まった町民たちを見た。

「じゃあ、見ている」

 そう言って、白い狐面の姿は薄れていった。

 消える直前、町民の誰かが言った。

「言守様」

 神さまは立ち止まった。

「すみませんでした」

 誰の声か分からない。

 だが、その一言に、ロビーのあちこちから小さな嗚咽が漏れた。

 神さまは振り返らなかった。

「謝る相手を間違えないで」

 その声だけが残った。

 姿は消えた。

 午後、真噤中学校の体育館が開放された。

 ステージの上に長机が置かれ、鳴瀬が進行役を務めた。久我は保健室と体育館を行き来し、体調を崩した人に対応した。八代は役場職員を連れて記録係を配置した。真琴は、証言を聞く側に回った。

 体育館の入口には、紙と箱が置かれた。

 箱には、鳴瀬の字でこう書かれていた。

 ――まだ言えない言葉を、ここに置いてください。

 ――置いた言葉は、捨てません。必要な時、一緒に取り出します。

 それは、言守様の古い形に近かった。

 ただし、二十年前とは違う。

 預けた言葉を、二度と取りに行かないための箱ではない。

 いつか一緒に扱うための箱だ。

 体育館には、町民が少しずつ集まり始めた。

 怒っている人。

 泣いている人。

 ただ座っている人。

 何かを書こうとして、紙を前に固まっている人。

 真琴は、その光景を見ながら、河野雅彦の未掲載原稿を思い出した。

 この町は観光地になる前に、言葉の墓場になる。

 そう書いた記者は、原稿を世に出せなかった。

 だが今、墓場の土が少しずつ掘り返されている。

 中から出てくるものは、美しいものではない。

 腐敗もある。

 骨もある。

 誰かが捨てた責任もある。

 それでも、掘らなければならない。

 夕方近く、澄江から真琴に短いメッセージが届いた。

 久我が設定してくれた携帯からだった。

 ――私は生きています。透の言葉を、少しずつ聞きます。

 真琴はその文字を見つめた。

 私は生きています。

 その一文が、町のどんな資料よりも重く感じられた。

 体育館の片隅で、藤崎千佳が泣きながら鳴瀬に話している。別室では、喫茶こもりびの店主夫妻が証言を始めている。八代は、町長へ報告する文書を作成している。久我は保健室で、過呼吸を起こした老人に付き添っている。

 町は壊れている。

 だが、完全に崩壊してはいない。

 それは、誰かが支えているからだ。

 真琴は体育館の床に座り込んでいる少年を見つけた。

 中学生だった。

 彼は紙を握りしめたまま、箱の前で動けずにいた。

「入れなくてもいいよ」

 真琴は声をかけた。

 少年は驚いたように顔を上げた。

「でも、先生が」

「書くだけでもいい。持って帰ってもいい。今入れないことも、あなたの選択です」

 少年は紙を見つめた。

「入れたら、誰かが怒られますか」

「内容によります」

「怒られたら、僕のせいですか」

 真琴は膝をついた。

「いいえ。あなたが書いたことで何かが分かっても、起きたことの責任は、起こした人にあります。書いた人だけの責任ではありません」

 少年は唇を噛んだ。

「じゃあ、入れます」

 彼は紙を箱に入れた。

 小さな紙が箱の底に落ちる音がした。

 真琴は、その音を聞いた。

 軽い音だった。

 けれど、それは町が少しだけ変わる音でもあった。

 夜、体育館の片づけが終わった後、真琴は一人で校庭に出た。

 空には星が出ていた。

 真噤町の夜空は、東京よりずっと広い。星が多すぎて、かえって不安になるほどだった。

 校門の標語が暗闇の中に浮かんでいる。

 言葉は、人を守るために使いましょう。

 真琴はそれを見上げた。

「守れると思う?」

 背後から声がした。

 振り返ると、白い狐面の神さまが立っていた。

 昼間よりも薄く、どこか透けている。

「分かりません」

 真琴は答えた。

「でも、今日は誰も死にませんでした」

「篠原美奈はまだ目を覚まさない」

「はい」

「藤咲智也は逃げている」

「はい」

「藤咲勝彦も黙っていない」

「分かっています」

「町はこれからもっと荒れる」

「でしょうね」

 神さまは、校門の標語を見た。

「それでも、嘘よりいい?」

 真琴はすぐには答えなかった。

 嘘で保たれる静けさ。

 真実で荒れる町。

 どちらがいいのか、簡単には言えない。

 ただ、今日の体育館で紙を箱に入れた少年の顔を思い出した。

 彼はまだ恐れていた。

 だが、自分の言葉を捨てずに置いた。

「嘘で静かな町よりは」

 真琴は言った。

「真実で震えている町の方が、まだ生きています」

 神さまは、少しだけ笑った。

「ひどい町医者みたいなことを言うね」

「影響を受けました」

「先生にも、医者にも、役場にも」

「はい」

「僕にも?」

 真琴は神さまを見た。

「あなたにも」

 神さまは黙った。

 夜風が吹き、校庭の砂がかすかに動いた。

「真琴」

「はい」

「次は僕の番だね」

 真琴は息を止めた。

「どういう意味ですか」

「町は、人間が受け止め始めた。澄江さんも死ななかった。言葉を預ける箱もできた。なら、嘘つきの神さまは、そろそろいらなくなる」

「消えるつもりですか」

「消えたいわけじゃない」

 神さまは校舎を見た。

「でも、嘘を配る神さまのまま残れば、また誰かが使う。黙らせるために。隠すために。守るふりをするために」

 真琴は何も言えなかった。

「だから、殺してもらわないと」

 神さまは静かに言った。

「嘘つきの神さまを」

 その声は穏やかだった。

 だが、真琴は胸の奥が冷えていくのを感じた。

「殺す、というのは」

「僕を消すことじゃない。僕に背負わせてきたものを、人間が持ち直すこと」

 神さまは真琴を見た。

「できる?」

 真琴は答えなかった。

 できる、と軽く言えば、それはまた嘘になる。

 できない、と言えば、ここまで来た意味がなくなる。

 だから真琴は、今言える最も正確な言葉を選んだ。

「やります」

 神さまは、満足そうでも、悲しそうでもない顔をした。

「じゃあ、明日」

「明日?」

「真噤神社へ来て。透の木札を持って」

 白い狐面の姿が、夜に溶け始める。

「そこに、僕の最後の嘘がある」

 真琴が問い返す前に、神さまは消えた。

 校庭には、風だけが残った。

 真琴はしばらく、誰もいない校門の前に立っていた。

 町は、ようやく真実を語り始めた。

 だが、嘘つきの神さまはまだいる。

 人間が背負うべきものを、二十年抱え続けた神。

 その神を殺すとは、どういうことなのか。

 真琴にはまだ分からない。

 ただ、明日、真噤神社へ行くことだけは決まっていた。

 透の木札を持って。

 町が捨てた言葉を、今度は地上へ戻すために。



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