第八章 神さまの正体
役場の地下倉庫で見つかった資料は、一晩では読み切れなかった。
真琴と八代は、書類を種類ごとに分けた。透の作文ノート。学校の聞き取り記録。役場内部のメモ。診療所の覚書。警察へ提出されなかった資料。河野雅彦に関する文書。町長指示メモ。
それらを長机の上に並べると、地下倉庫は一時的な捜査本部のようになった。
ただし、ここに警察はいない。
いるのは、外から来た元記者と、町の嘘の上で働いてきた役場職員だけだった。
午前二時を過ぎたころ、鳴瀬灯と久我怜司が到着した。
鳴瀬は診療所にいた藤咲莉子の付き添いを別の職員に引き継ぎ、久我は莉子の容体を確認してから来たという。莉子は眠っている。大きな外傷はない。ただし、精神的な動揺が強く、今夜は目を離せない状態だった。
藤咲莉子の母親も、まだ病院にいる。意識はあるが、娘の失踪と橋での出来事はまだ伝えていない。
篠原美奈は、依然として意識が戻っていない。
八代誠一は、病院で鎮静を受けて眠っている。
そして大月慎吾は、もう戻らない。
真琴は地下倉庫の長机に手をつき、四人を見回した。
「まず確認します。この資料は、まだ外へ出しません」
鳴瀬が頷いた。
「莉子さんにも?」
「今は見せません」
「それがいいと思います」
久我も言った。
「彼女は今、自分の家の罪と自分自身を分けられていない。ここで二十年前の資料を見せれば、自分が罰を受けるべきだと思い込む危険がある」
八代が苦しげに言った。
「でも、藤咲家の人間には伝えなければいけない」
「伝えます。ただし、莉子さんを挟まない形で」
真琴は答えた。
鳴瀬は透の作文ノートを手に取った。慎重にページをめくる。教師の目で読んでいるのが分かった。文字の癖、言葉の選び方、赤ペンのコメント。それらを一つずつ拾っている。
「この作文を、担任は読んでいたんですね」
「赤字があります」
真琴が言うと、鳴瀬は表情を曇らせた。
「考えすぎないこと。家庭のことは家庭で相談しましょう」
鳴瀬はそのコメントを読み上げ、しばらく黙った。
「教師としては、ありふれた言葉です」
「そうなんですか」
「はい。問題を大きくしないための、穏当な言葉。本人が繊細すぎるだけだと処理する言葉。家庭の事情には踏み込まないという、逃げ道にもなる言葉です」
「透さんは、ここで見逃された」
「見逃されたのではなく」
鳴瀬は言い直した。
「読まれた上で、脇に置かれたんです」
地下倉庫の空気が重くなった。
久我は診療所覚書のコピーを見ていた。
「父の字です」
彼は言った。
いつも冷静な声が、少しだけ揺れていた。
「左頬部に皮下出血。右上腕部に把握痕様皮下出血。背部擦過傷。死亡前に生じた可能性。ここまで書いている」
「なぜ、正式な報告に反映されなかったんですか」
鳴瀬が尋ねると、久我は首を横に振った。
「警察の判断に強く逆らえなかったのだと思います。父は町医者でした。警察医ではない。検案に関わっても、最終的な事件性の判断は警察と行政に流される」
「流された、で済む話ではありません」
「済みません」
久我は即答した。
「済まないから、父はこれを残した」
「残したことで救われますか」
鳴瀬の声は厳しかった。
久我は黙った。
「すみません」
鳴瀬はすぐに言った。
「責めたいわけでは」
「責めていい」
久我は静かに返した。
「医師は、責められるべき時に責められなければいけない。診断名の陰に隠れるのは簡単です」
真琴は二人のやり取りを見ていた。
この町では、責任が曖昧にされてきた。
町長。役場。学校。診療所。警察。新聞社。保護者。生徒。
誰か一人が全てをしたわけではない。だからこそ、誰も自分だけの責任ではないと言えた。その結果、責任は空気のように町中へ広がり、最も弱い者の肺に入った。
有坂透。
有坂澄江。
藤咲莉子。
真琴は段ボールの底から、古い布包みを見つけた。
開くと、小さな木札が出てきた。
薄い木片に、墨で名前が書かれている。
有坂透。
その横に、別の文字。
言守様奉納。
「これは?」
真琴が尋ねると、八代が顔を上げた。
「神社の木札だと思います。真噤神社では昔、言葉に関する願掛けを木札に書いて奉納していたと聞いたことがあります」
「言守様」
鳴瀬が呟いた。
「この町の古い神さまですね」
「詳しい由来は?」
真琴が聞くと、八代は棚から別の町史資料を取り出した。
「町史に少しだけ記述があります」
真琴たちは長机を囲み、町史を開いた。
言守様。
それは、もともと悪い噂や不用意な言葉を戒める小さな信仰だった。
江戸時代、真噤町の前身である山村では、山仕事や紙漉きの集落が点在していた。狭い村の中では、噂が人間関係を壊す。根拠のない悪口が婚約を破談にし、商売を潰し、時には争いを生んだ。
そこで村人たちは、神社の隅に小さな祠を建てた。
言葉を慎む神。
人を傷つける噂を封じる神。
言ってはいけないことを罰する神ではなく、言葉を大切に扱うことを思い出させる神だった。
願掛けの方法は単純だった。
誰かに謝りたい言葉。
言えずに飲み込んだ言葉。
言ってしまって後悔した言葉。
それを木札に書き、祠に納める。
神がその言葉を預かり、必要な時まで守ってくれる。
「悪い神ではなかったんですね」
鳴瀬が言った。
「むしろ、言葉を扱うための信仰だった」
久我が町史の別のページをめくった。
「古い時代には、言守講という集まりがあったようです。争いが起きた時、当事者だけでなく第三者を入れ、言葉を整えてから話し合う」
「まるで調停ですね」
真琴が言うと、鳴瀬が頷いた。
「私の授業と近いです。本当のことを一気に言わない。相手を一人にしない。言葉を預ける場所を作る」
「つまり」
真琴は町史を見つめた。
「言守様は、本来、沈黙の神ではなかった」
「ええ」
鳴瀬が言った。
「言葉を殺す神ではなく、言葉を生かすための神だった」
地下倉庫の蛍光灯が小さく鳴った。
真琴の中で、何かがつながり始めた。
言守様は、もともと嘘を与える神ではなかった。
言えない言葉を一時的に預かる神だった。
しかし二十年前、有坂透の死をきっかけに、町はその信仰を歪めた。
言葉を預ける場所を、言葉を埋める墓場に変えた。
八代が別の封筒を開いた。
「これ、神社関係の資料です」
中には、二十年前の日付がある紙が入っていた。町内会と神社総代会の連名文書だった。
――有坂透君事故死に伴う言守様慰霊奉納について。
真琴は文面を読んだ。
そこには、透の死後、町の安寧を願うため、言守様の祠に特別な木札を奉納したことが記されていた。表向きは慰霊。事故で亡くなった少年の魂を鎮め、町に悪い噂が広がらないよう祈願するものだった。
だが、添付されていた手書きメモには、別の意味が滲んでいた。
――町内に不安広がる。生徒間トラブルの噂あり。
――有坂母への影響を考慮。詳細は伏せること。
――言守様に預ける形で、関係者の発言を抑える。
――各家庭へ、口外無用を徹底。
八代が顔を覆った。
「神さままで、隠蔽に使った」
誰も答えなかった。
言守様に預ける。
美しい言葉だった。
だが実際には、言わないことの正当化だった。
町は、透の死について語るべき言葉を、神へ預けたことにした。そして人間は、その預けた言葉を二度と取りに行かなかった。
神は、預かる場所ではなく、捨てる場所にされた。
「木札を見ましょう」
久我が言った。
八代が段ボールの中を探す。木札は一枚だけではなかった。何十枚も出てきた。どれも古びている。薄い木片に、名前や短い言葉が書かれていた。
有坂透。
大月慎吾。
八代誠一。
藤咲智也。
他にも、生徒らしき名前がいくつか。
大人の字で書かれた札もある。
事故だった。
誰も悪くなかった。
子どもの将来を守るため。
有坂さんを死なせないため。
町を守るため。
真琴は一枚の木札を手に取った。
そこには、震える字でこう書かれていた。
――言わなければ、なかったことになる。
誰の字かは分からない。
だが、その一文に、この町の二十年が凝縮されていた。
「これらは、本来神社にあるはずでは?」
鳴瀬が言った。
八代は資料を確認した。
「後年、祠の修繕時に一部を役場が保管したようです。表向きは文化財調査。実際には……」
「見られたくなかった」
真琴が言った。
八代は頷いた。
真琴は透の木札を見た。
名前だけが書かれている。
有坂透。
その横に、小さな字で、誰かが後から書き足していた。
――本当のことを言わずにすみますように。
誰が書いたのか。
透自身か。
母を守ろうとした誰かか。
担任か。
町の大人か。
それとも、透を追い詰めた生徒か。
分からない。
分からないからこそ、恐ろしかった。
その時、地下倉庫の奥から声がした。
「ひどい字でしょう」
四人は一斉に振り返った。
白い狐面の神さまが、棚の間に立っていた。
昨夜と同じ黒い服。けれど、その姿は以前より薄く見えた。蛍光灯の光を受けているはずなのに、輪郭がはっきりしない。
八代が息を呑む。
鳴瀬は身構えた。
久我は眉をひそめ、医師が患者の状態を観察するような目で神さまを見た。
「ずいぶん集まったね」
神さまは言った。
「記者、役場、教師、医者。町の失敗見本市みたいだ」
「あなたは何者ですか」
真琴は尋ねた。
神さまは首を傾けた。
「今さら?」
「今だからです」
「神さまだよ」
「言守様ですか」
「そう呼ぶ人もいる」
「有坂透さんですか」
地下倉庫の空気が張り詰めた。
神さまはすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりと木札の方へ歩いてきた。
その足音はしない。
「透ではないよ」
神さまは言った。
真琴は黙って待った。
「でも、透がいなければ、僕はこうならなかった」
「こう?」
「嘘つきの神さま」
神さまは、自分でそう言って笑った。
その笑いは、どこか悲しかった。
「言守様は、もともとただの入れ物だった。言えなかった言葉を預かる場所。言ってしまった言葉を悔いる場所。誰かを傷つけないために、少しの間だけ置いておく場所」
鳴瀬が静かに言った。
「町史にそうありました」
「そう。先生はちゃんと勉強してるね」
神さまは鳴瀬を見た。
「でも、人間は便利なものをすぐ別の用途に使う。預ける場所を、捨てる場所にした。守る嘘と、逃げる嘘を区別しなくなった。言わない方がいい。知らない方がいい。そういうことにしておこう。みんな、そう言って言葉を置いていった」
「二十年前に?」
真琴が聞く。
「それより前から少しずつ。でも、透の時に決定的になった」
神さまは透の木札を見た。
「有坂透は、言いたかった。母さんに、自分が苦しいことを知ってほしかった。でも、言えなかった。言えば母さんが死ぬと言われたから」
八代の顔が歪んだ。
鳴瀬は目を伏せた。
「透をいじめた子どもたちも、言えなかった。自分たちが何をしたのか。橋の上で何が起きたのか。大人たちも言えなかった。町が壊れるから。観光計画が潰れるから。有坂澄江が死ぬから。子どもの未来がなくなるから」
「あなたは、その言えなかった言葉から生まれた?」
久我が初めて口を開いた。
神さまは医師を見る。
「診断名が欲しい?」
「できれば」
「なら、こうかな」
神さまは少し考えるふりをした。
「言守様という古い信仰に、有坂透の言えなかった言葉と、町中の嘘と沈黙が蓄積して、人格のようなものを持った」
「集団的トラウマの擬人化」
久我が言うと、神さまは笑った。
「そういう言い方もできる」
「怨霊ではないんですね」
鳴瀬が言った。
「怨霊なら楽だった?」
「楽ではありません」
「でも、分かりやすいでしょう。死んだ少年が町を恨んで祟っている。そう言えれば、みんなが安心する。悪いのは祟りだ、って」
神さまは首を横に振った。
「僕は、誰かを罰したいんじゃない」
声が変わった。
少年の声に近づいた。
「母さんを殺したくなかっただけだ」
真琴は、息を止めた。
その一言は、神の言葉ではなかった。
十四歳の少年が、喉の奥に押し込めたまま死んだ言葉だった。
「透さん」
八代が呟いた。
神さまは彼を見た。
「違うよ。僕は透じゃない。でも、透の言葉は僕の中にある。町の嘘も、僕の中にある。大月慎吾の後悔も、八代誠一の沈黙も、藤咲智也の恐怖も、久我先生のお父さんの迷いも、河野雅彦の出せなかった原稿も。全部、僕の中にある」
「だから、あなたは嘘を吐くんですか」
真琴が聞いた。
「うん」
「誰かを生かすために」
「そう」
「本当に?」
神さまは、真琴を見た。
狐面の奥の目は見えない。
「最初はね」
その答えは、真琴が予想していたよりも正直だった。
「最初は、澄江さんを守りたかった。透が一番恐れていたのは、母さんが死ぬことだった。だから僕は、町のみんなに嘘を配った。事故だった。誰も悪くなかった。知らない方がいい。忘れた方がいい」
「そして二十年経った」
「うん」
「澄江さんは生きています」
「そうだよ」
「でも、透さんの最後の言葉は届いていない」
神さまは答えなかった。
「それは、守ったと言えるんですか」
真琴の声は、自然と低くなった。
「澄江さんは生きている。でも、自分の息子が何を抱えていたのか知らない。大月さんは死んだ。誠一さんは壊れた。莉子さんは橋から落ちかけた。嘘で延命した町は、子どもに同じ場所を歩かせている」
「君は厳しいね」
「あなたも知っているはずです」
真琴は一歩近づいた。
「嘘はもう薬ではなくなっている。毒です」
神さまは、長い間黙っていた。
やがて、狐面の下からため息のような声が漏れた。
「薬と毒は、紙一重だよ」
「用量を間違えたんです」
「二十年は長すぎた?」
「はい」
「じゃあ、もっと早く誰かが取りに来てくれればよかったのに」
その言葉は、責めではなかった。
寂しさだった。
言守様は、言葉を預かる神だった。
預けられた言葉は、いつか取りに来られるはずだった。
だが、誰も来なかった。
町は預けたことにして、捨てた。
神は、取りに来られない言葉を抱え続け、嘘つきの神さまになった。
「誰かが来なかったから、あなたは町を嘘で覆った」
真琴は言った。
「そう」
「でも今、来ました」
神さまは真琴を見た。
「誰が?」
「私たちです」
真琴は、八代、鳴瀬、久我を順に見た。
「役場も、学校も、医療も、外の言葉も。遅すぎるかもしれない。でも、取りに来ました」
鳴瀬が頷いた。
「透さんの言葉を、預けたままにはしません」
久我も言った。
「父が残した所見も、診療所の引き出しに戻しません」
八代は震える声で続けた。
「父が隠した資料も、私が地下へ戻しません」
神さまは、四人を見た。
そして、少し笑った。
「それで、母さんに言うの?」
地下倉庫の空気が止まった。
有坂澄江。
透の母。
心臓に持病があり、二十年間、事故だったと信じたいように生きてきた人。
この真実を伝えれば、何が起こるか分からない。
死ぬかもしれない。
壊れるかもしれない。
だが、伝えなければ、透はまた一人のままだ。
「言います」
真琴は答えた。
神さまの声が冷たくなった。
「殺す気?」
「違います」
「真実を聞いたら、母さんは死ぬかもしれない」
「死なせない準備をします」
「どうやって」
「一人で聞かせない。全部を一度に言わない。責める言葉から始めない。体調を確認する。久我先生に同席してもらう。鳴瀬先生にも。八代さんにも。澄江さん自身が止めたいと言えば止める。聞いた後も一人にしない。翌日の予定まで決める」
鳴瀬が真琴を見た。
その目に、少しだけ驚きと安堵があった。
久我が静かに頷いた。
「医学的にも、それが最低条件です。急性ストレス反応に備えます。薬も用意する。ただし、薬だけで受け止められるものではない」
八代が言った。
「私も同席します。役場の人間としてではなく、この町の嘘を知った者として」
神さまは、透の木札へ目を向けた。
「母さんは、知りたがっている?」
「はい」
真琴は言った。
「でも、知りたいことと、聞けることは同じではない」
「分かっているなら、やめれば」
「いいえ」
真琴は首を振った。
「分かっているから、準備します」
神さまは黙った。
地下倉庫の奥から、かすかな風が吹いた。
どこから入った風なのか分からない。段ボールの上の紙が一枚、床へ落ちた。真琴が拾うと、それは古い写真だった。
真噤中学校の集合写真。
前列に教師。後列に生徒たち。
八代が指差した。
「これが兄です」
あどけない顔の少年。
その隣に、大月慎吾らしき少年。
少し離れた場所に、整った顔立ちの少年がいる。
「藤咲智也」
八代が言った。
そして、端の方に、有坂透がいた。
目立たない場所に立っている。だが、カメラをまっすぐ見ている。笑顔ではない。怒っているわけでもない。ただ、何かを言いたげな目だった。
真琴は、その写真を神さまに向けた。
「この中に、あなたはいますか」
神さまは写真を見なかった。
「僕は、その後に生まれた」
「そうですか」
「でも」
神さまは言った。
「もし顔を見たいなら、見せてあげる」
真琴が反応する前に、神さまは狐面に手をかけた。
鳴瀬が息を呑む。
八代は後ずさった。
久我は表情を変えずに見ている。
白い狐面が、ゆっくり外された。
その下にあった顔を見て、真琴は言葉を失った。
それは少年の顔だった。
十四歳くらいの、痩せた顔。
しかし、有坂透そのものではない。写真の透に似ているが、完全には一致しない。目元は大月慎吾の若いころにも似ている。口元は八代誠一にも似ている。頬の線は藤咲智也にも似ている。どこか、河野裕樹にも似ていた。
いや、違う。
それは、言えなかった人間たちの顔を少しずつ集めたような顔だった。
そして、ほんの一瞬、真琴自身の顔にも見えた。
真実を言えなかった者。
真実を言ってしまった者。
書けなかった者。
書いてしまった者。
その全てが混ざった顔。
「これが、僕」
神さまは言った。
「誰でもあって、誰でもない」
真琴は声を出せなかった。
鳴瀬が小さく言った。
「あなたは、町の沈黙そのものなんですね」
「沈黙だけじゃない。嘘も、優しさも、卑怯さも、後悔も、ぜんぶ」
「透さんの願いも?」
真琴が尋ねた。
神さまは、初めて目を伏せた。
「母さんを死なせたくない」
「それだけですか」
「それが一番大きい」
「でも、透さんは作文に書いていました。知ってほしい、と」
真琴は透の作文ノートを開いた。
――知ってほしいだけです。
その一文を読み上げる。
神さまの顔が歪んだ。
「やめて」
少年の声だった。
「透さんは、母親に心配をかけたくなかった。でも、知らないまま笑っている母親を見ると、消えたくなるとも書いていました」
「やめて」
「透さんは、母親を守りたかった。でも、自分の苦しみを知ってほしかった」
「やめろ!」
地下倉庫の蛍光灯が激しく点滅した。
段ボールの中の木札が、がたがたと震える。鳴瀬がノートを押さえ、久我が八代を支えた。
神さまは両手で耳を塞いでいた。
「言ったら、母さんが死ぬ」
「それは、誰かが透さんに言わせた嘘です」
真琴は声を張った。
「透さんの本当の願いは、母さんに死んでほしいでも、何も知らないでほしいでもない。知ってほしかった。だけど、壊れてほしくなかった。その両方です」
神さまは震えていた。
「そんなの、無理だ」
「難しいです」
「無理だ!」
「だから、一人でやらないんです」
真琴は一歩近づいた。
「透さんは一人でした。大月さんも一人でした。美奈さんも一人でした。莉子さんも一人になりかけた。もう、それを繰り返さない」
蛍光灯の点滅が少しずつ収まった。
神さまは、狐面を胸に抱えたまま、真琴を見た。
「本当に、母さん死なない?」
その声に、真琴は簡単には答えられなかった。
死なない、と言いたかった。
だが、その約束は誰にもできない。
久我が前に出た。
「死ぬ可能性はあります」
鳴瀬が久我を見た。
八代も息を呑む。
久我は続けた。
「高齢で、心臓に持病がある。強いショックを受ければ危険です。だから医師として、安易に大丈夫とは言えません」
神さまの顔が絶望に染まった。
「ほら」
「ですが」
久我は静かに言った。
「知らないまま生き続けることも、彼女を少しずつ殺している可能性があります」
神さまは久我を見た。
「医学的に、ですか」
「医学的に、とは言い切れません。でも医師として、そう感じます」
鳴瀬が続けた。
「教師として言えば、言葉を与えられなかった人は、自分の物語を作れません。澄江さんは、息子の死について自分の言葉を持てないまま二十年生きてきました」
八代も言った。
「町の人間として言えば、私たちは澄江さんを守っていたのではありません。澄江さんから、透さんの母親である権利を奪っていたんだと思います」
真琴は最後に言った。
「元記者として言えば、真実を伝えることは暴力になり得ます。でも、真実を渡さないことも暴力です」
神さまは四人を見た。
その顔は、少年のように幼く、老人のように疲れていた。
「みんな、ずるいね」
「はい」
真琴は認めた。
「ずるいです。誰も、絶対に安全だとは言えません。それでも、渡す方を選ぼうとしている」
「それで母さんが死んだら?」
真琴は喉の奥に痛みを感じた。
答えたくない問いだった。
だが、逃げてはいけない。
「その時は、私たちはその結果から逃げません」
「逃げないって、どうするの」
「澄江さんを一人で死なせない。透さんの言葉を、また地下に戻さない。町が何をしたのか、曖昧にしない。誰か一人のせいにして終わらせない」
「そんなの、責任を取ったことにならない」
「そうです」
真琴は言った。
「責任は、簡単に取れるものではありません。取ったことにして終われるものでもない。だから、持ち続けるしかない」
神さまは、長く黙っていた。
やがて、手にしていた狐面を見た。
「僕は、疲れた」
その声は、地下倉庫の紙の匂いに溶けた。
「二十年、嘘を配った。事故だった。誰も悪くなかった。母さんのためだった。町のためだった。子どものためだった。仕方なかった。忘れた方がいい。そう言い続けた」
神さまの手から、狐面が滑り落ちた。
床に当たって、乾いた音を立てた。
「でも、誰も救えてない」
真琴は、その言葉を受け止めた。
「救えていないわけではありません」
神さまが顔を上げる。
「澄江さんは、生きています」
「それは」
「あなたが守った部分もあると思います」
真琴は慎重に言った。
「でも、もう限界です。守り方を変えないといけない」
神さまは泣きそうな顔をした。
涙は出なかった。
神だからか、涙の出し方を忘れたからか、真琴には分からなかった。
「母さんに会いたい」
その声は、とても小さかった。
真琴は頷いた。
「会いましょう」
「僕が?」
「はい」
「見えたら、母さん死ぬかもしれない」
「だから準備します」
「準備、準備って」
神さまは少し笑った。
「人間は、そんなに準備が好きなのに、どうしていつも間に合わないんだろう」
「準備を始めるのが遅いからです」
「今からで、間に合う?」
「分かりません」
真琴は正直に言った。
「でも、始めます」
地下倉庫の時計は、午前三時を指していた。
誰も眠っていない。
町の地上は静まり返っている。家々の中で、人々は何も知らずに眠っている。いや、知らないふりをして眠っている者もいるだろう。
その下で、四人と一柱の神が、二十年前の言葉を囲んでいた。
夜明けまでに、やるべきことは多かった。
澄江に会う準備。
莉子と母親を守る手配。
藤咲勝彦への対応。
八代誠一からの聞き取りの延期。
資料の複写。
久我による医療的準備。
鳴瀬による言葉の順番の整理。
真琴による記録。
真実は、ようやく地上へ出ようとしている。
だが、ただ出せばいいわけではない。
出た瞬間に誰かを殺さないよう、受け止める手を用意しなければならない。
真琴は透の木札を手に取った。
有坂透。
その名前は、軽い木片に書かれているだけなのに、手の中でずしりと重かった。
神さまが言った。
「真琴」
「はい」
「母さんに言う時、最初に何て言うの」
真琴は考えた。
事故ではありませんでした。
いじめられていました。
町が隠しました。
藤咲家が関わっていました。
どれも違う。
それらは事実かもしれないが、最初に渡す言葉ではない。
真琴は透の作文を見た。
最後のページ。
――もしぼくがいなくなったら、だれか母さんに、ぼくは母さんのせいで困っていたんじゃないと伝えてください。
真琴は答えた。
「透さんは、お母さんのせいで苦しんでいたんじゃない。まず、そう伝えます」
神さまは目を閉じた。
そして、ほんの少しだけ頷いた。
「それなら」
かすかな声だった。
「母さん、聞けるかもしれない」
地下倉庫の蛍光灯が、今度は静かに灯った。
長い夜の底で、初めて小さな明かりが安定したように見えた。




