第七章 役場の地下倉庫
夜の真噤町を走ると、町の形が変わって見えた。
昼間は家々の隙間に畑があり、古い商店があり、役場や学校や診療所がそれぞれの役割を持って立っている。だが夜になると、そうした区別は暗闇に沈む。残るのは細い道と、ところどころに浮かぶ窓の灯りだけだ。町は生活の場所ではなく、何かを隠すために作られた迷路のようだった。
真琴は八代の車の助手席で、シートベルトを握りしめていた。
「鳴瀬先生から連絡は?」
「まだです」
八代はハンドルを握る手に力を込めたまま答えた。
「藤咲さんの家には?」
「職員のひとりに確認させています。莉子さんの靴が一足なくなっていたそうです」
「スマホは置いたまま」
「はい」
「財布は?」
「分かりません」
八代の声はかすれていた。
車は商店街を抜け、川へ向かう坂道に入った。真琴は前方を見つめる。ヘッドライトの中に、濡れたようなアスファルトが伸びていた。雨は降っていない。だが夜露のせいか、路面は鈍く光っている。
藤咲莉子。
真琴の脳裏に、玄関の隙間から覗いた少女の顔が浮かんだ。
赤く腫れた目。
警戒した声。
――お母さんに、私のせいじゃないって、言って。
あの言葉は、助けを求める声だった。けれど、真琴たちは十分に応えられなかった。莉子の母は倒れ、学校は転校で処理しようとし、町はまた「そういうこと」にしようとしている。
その上、彼女の姓は藤咲だった。
二十年前、有坂透の死に関わった可能性のある家。
その事実を、莉子は知っているのか。
知らないまま、誰かの罪の上に立たされているのか。
車が橋に近づいた時、真琴のスマートフォンが震えた。
鳴瀬灯からだった。
「三枝さん、橋にいますか」
「今向かっています」
「莉子さんを見つけました」
真琴は息を止めた。
「無事ですか」
「今は。橋の欄干の外側にいます。説得していますが、近づくと危険です」
八代が横で顔色を変えた。
「欄干の外側?」
「鳴瀬先生、絶対に一人で近づかないでください」
「分かっています。でも、莉子さんが、私に近づくなと言っています」
電話の向こうで風の音が強くなる。
その向こうに、かすかな泣き声が聞こえた気がした。
「すぐ着きます」
真琴は電話を切った。
八代はアクセルを踏み込んだ。
橋の手前に車を停めると、すでに鳴瀬の姿が見えた。彼女は橋の中央付近で立ち止まり、欄干の向こうを見ている。久我怜司もいた。診療所から駆けつけたのだろう。白衣ではなく黒いコート姿だったが、手には救急バッグを持っている。
そして、欄干の外側に、藤咲莉子がいた。
橋の外へ出ているわけではない。欄干の外側にある、点検用の細い縁に足を乗せ、両手で鉄の柵を掴んでいる。下には川が流れていた。水量は多くないが、夜の川は深く見える。落ちれば無事では済まない。
真琴は車を降りた瞬間、足がすくみそうになった。
有坂透が落ちた橋。
その同じ場所に、十四歳の少女が立っている。
「莉子さん」
鳴瀬が静かに呼びかけていた。
「先生はここにいます。無理に近づきません」
「来ないで」
莉子の声は震えていた。
「誰も来ないで」
「分かりました。行きません」
鳴瀬は両手を見える位置に下げたまま、ゆっくり話している。
久我は少し離れた位置に立ち、落ちた場合に備えて動線を見ているようだった。八代は顔面蒼白で、何か言おうとして口を閉じた。ここで下手な言葉をかければ、莉子は本当に手を離すかもしれない。
真琴は息を整えた。
彼女は一歩だけ近づいた。
「莉子さん。三枝です」
莉子の顔がこちらを向いた。
暗くて表情はよく見えない。だが、その目だけが街灯に反射していた。
「来ないでって言った」
「行きません。ここにいます」
「嘘」
「嘘じゃありません」
「大人は、みんな嘘をつく」
「そうですね」
真琴は認めた。
鳴瀬が一瞬だけ真琴を見た。否定しないのか、という目だった。だが真琴は続けた。
「大人は嘘をつきます。守るためだと言って嘘をつく。面倒を避けるためにも嘘をつく。自分が悪者にならないためにも嘘をつく」
莉子は黙っていた。
「でも、今ここで私が言えることがあります。あなたが手を離したら、お母さんはもっと苦しみます」
「お母さんは、もう苦しんでる」
「はい」
「私のせいで倒れた」
「違います」
「違わない!」
莉子の叫び声が橋の上に響いた。
川の音が一瞬消えたように感じた。
「私が言わないでって言ったから。先生にも、誰にも。お母さんには言わないでって。お母さんが学校に来たら嫌だった。みんなの前で騒いだら、もっと嫌われると思った。だから黙ってた。そしたら、お母さん、何も知らないまま学校で倒れた」
「莉子さん」
鳴瀬が声をかける。
「あなたが悪いのではありません」
「先生はそう言うよ。先生だから」
「教師としてではなく、鳴瀬灯として言っています」
「同じだよ」
莉子は泣きながら笑った。
「みんな、私を守るみたいな顔をする。でも本当は、私のせいにされたくないだけでしょ。学校も、町も、お母さんも、先生も」
「お母さんは違います」
鳴瀬が言った。
「お母さんはあなたを責めていません」
「聞いたの?」
「病院で会いました」
莉子の手が、欄干を強く掴んだ。
「会ったの?」
「はい」
「何て言ってた?」
鳴瀬は少しだけ間を置いた。
その間に、真琴は緊張した。
嘘をつくのか。
安心させるために。
それとも、真実をそのまま言うのか。
鳴瀬はゆっくり答えた。
「莉子に謝りたい、と言っていました」
莉子の顔が歪んだ。
「なんで」
「気づけなくてごめん、と」
「やめて」
「でも、それはあなたを責める言葉ではありません」
「やめて!」
莉子の足元がずれた。
久我が一歩動いたが、真琴は手で制した。今近づけば危ない。
「莉子さん」
真琴は声を落とした。
「あなたは、今夜、全部を決めに来たんですね」
莉子は答えない。
「自分が悪いのか。学校へ戻るのか。お母さんに何を言うのか。いじめた人たちを許すのか。町に残るのか。全部、今ここで決めようとしている」
「だって」
「決めなくていい」
「みんなが決めるじゃん!」
莉子は叫んだ。
「私は転校ってことにされる。お母さんは病気ってことにされる。いじめはなかったことにされる。私が勝手に学校に来られなくなったってことにされる。だったら、私が決めるしかないじゃん!」
その言葉は、真琴の胸を抉った。
有坂透も、こうだったのかもしれない。
大人が決める。町が決める。学校が決める。母親のためだと言われる。町のためだと言われる。誰も本当のことを言わせてくれない。
だから、最後に自分で決めようとする。
橋の上で。
「莉子さん」
真琴は言った。
「あなたが決めていいことはあります。でも、今夜ここで決めてはいけないこともあります」
「何それ」
「死ぬかどうかです」
鳴瀬が息を呑んだ。
久我の表情も変わった。
だが真琴は続けた。
「それだけは、今夜一人で決めないでください」
莉子は泣きながら首を振った。
「じゃあ誰が決めるの」
「誰も決めません。決めなくていいんです。今日は、橋の内側に戻るかどうかだけでいい」
「戻ったら、また全部始まる」
「はい」
「また学校があって、お母さんがいて、みんながいて」
「はい」
「私は、藤咲の子だって言われる」
その言葉に、全員が動きを止めた。
真琴は莉子を見た。
「知っているんですか」
莉子は、泣き濡れた顔で笑った。
「おじいちゃんが言ってた。うちの家は町を守ってきたんだって。だから、余計なことを言うなって。私が学校で何か言えば、藤咲の名前に傷がつくって」
八代の顔が強張る。
「昨日、知らない人からメッセージが来た」
莉子は続けた。
「藤咲の家は昔、人を殺してるって。お前も同じだって。だから学校に来るなって」
「誰からですか」
「知らない。もう消した」
真琴は唇を噛んだ。
莉子は、いじめの被害者であると同時に、二十年前の加害側の血筋として責められている。本人が何も知らない過去を、現在の子どもたちが刃物に変えている。
真実はまた、別の人間を刺していた。
「莉子さん」
鳴瀬が言った。
「あなたは、あなたです。藤咲家の過去を、あなた一人が背負う必要はありません」
「じゃあ、誰が背負うの」
莉子は欄干越しに鳴瀬を見た。
「おじいちゃん? お母さん? 町? 誰も背負わないじゃん。だから、みんな私に来るんだよ」
その瞬間、真琴は理解した。
埋められた真実は、消えない。
背負うべき人間が背負わないと、より弱い者のところへ落ちる。
有坂透が背負った。
有坂澄江が知らないまま背負った。
大月慎吾が背負いきれず死んだ。
八代誠一が壊れた。
そして今、藤咲莉子が、自分のものではない罪まで背負わされている。
「莉子さん」
真琴は、一歩も近づかずに言った。
「その荷物は、あなたのものではありません」
「でも、私のところに来た」
「はい。来てしまいました」
「だったら、私のものじゃん」
「違います」
「違わない!」
「違います」
真琴は、強く言った。
「あなたのところに落ちてきたからといって、あなたのものになるわけではありません。落とした大人たちがいる。拾わなかった大人たちがいる。隠した大人たちがいる。私は、その人たちに返します」
莉子の目が揺れた。
「返す?」
「はい」
「どうやって」
「一人ではできません。鳴瀬先生、久我先生、八代さん、あなたのお母さん、そして町の人たち。全員で持つ場所を作ります」
「また嘘」
「嘘に聞こえると思います」
「聞こえるよ」
「それでも、今ここであなたを一人にしないことだけはできます」
莉子は泣いていた。
だが、先ほどより呼吸が深くなっている。
久我が真琴に目で合図した。
今だ。
近づくのではない。
戻るための道を作る。
「莉子さん」
久我が初めて声を出した。
「足元を見ないで。こちらを見てください」
莉子が久我を見る。
「ゆっくり、右手を上の欄干に移せますか。無理なら無理でいい。今すぐ戻れとは言いません」
「怖い」
「怖いのは正常です」
久我の声は冷静だった。
「怖くないと言う人より、怖いと言える人の方が安全です」
莉子は小さく泣きながら、右手を少し動かした。
鳴瀬が言う。
「先生はここにいます。失敗しても怒りません。時間をかけましょう」
「お母さんに」
「はい」
「言って」
「何を?」
「私、死にたいわけじゃなかったって」
鳴瀬の目に涙が浮かんだ。
「必ず言います」
「消えたかっただけって」
「言います」
「でも、消えなくていいって、言って」
「必ず」
莉子は、ゆっくりと欄干の内側へ体を戻し始めた。
その瞬間、橋の向こうから足音が聞こえた。
男の声が響いた。
「莉子!」
藤咲勝彦だった。
濃紺のコートを羽織り、息を切らして走ってくる。後ろには町職員らしい男が二人いた。
莉子の体が強張った。
真琴は反射的に叫んだ。
「来ないでください!」
藤咲は足を止めなかった。
「何をしている、莉子! 早く戻りなさい!」
その声は祖父が孫を心配する声であると同時に、家の名を守ろうとする男の声でもあった。
莉子の顔が凍った。
「ほら」
彼女はかすれた声で言った。
「やっぱり、私が悪い」
「違う!」
鳴瀬が叫んだ。
莉子の足が滑った。
真琴の視界が白く弾けた。
その瞬間、久我が走った。
彼は欄干に飛びつくように身を乗り出し、莉子の腕を掴んだ。鳴瀬も駆け寄り、反対の腕を掴む。真琴と八代も同時に動いた。
莉子の体が欄干の外で宙に浮きかける。
川の音が大きくなった。
「引き上げて!」
久我が叫ぶ。
八代が久我の腰を支え、真琴は莉子の袖を掴んだ。布が破れそうになる。鳴瀬が泣きながら莉子の名前を呼んでいる。
「莉子さん、手を離さない!」
「痛い!」
「痛くていい! 生きてる証拠です!」
真琴は叫んだ。
数秒だったのか、数十秒だったのか分からない。
ようやく莉子の体が欄干の内側へ引き戻された。彼女は橋の上に倒れ込み、激しく泣いた。鳴瀬が抱きしめる。久我は膝をつき、すぐに脈と呼吸を確認した。
「大丈夫です。擦り傷だけです」
久我の声に、全員がその場で息を吐いた。
藤咲勝彦は橋の途中で立ち尽くしていた。
真琴は立ち上がり、彼を見た。
「なぜ来たんですか」
「孫が危ないと聞いたからだ」
「あなたの声で、莉子さんは落ちかけました」
「私は心配して」
「本当に?」
藤咲の顔が歪んだ。
「何が言いたい」
「あなたは莉子さんの命を心配したんですか。それとも、藤咲家の名前を心配したんですか」
「無礼だぞ」
「無礼で結構です」
真琴は一歩近づいた。
「二十年前、この橋で何があったんですか」
藤咲の顔色が変わった。
莉子が泣きながら顔を上げた。
「三枝さん」
久我が低く言った。
今ここでそれを問うのは危険だ。
分かっていた。
だが、もう言葉は止まらなかった。
「有坂透さんは、ここで落とされた。現場には藤咲家の人間がいた。河野雅彦はそれを記事にしようとして、潰された。違いますか」
藤咲は沈黙した。
その沈黙が、橋の上に重く落ちる。
莉子が震えた。
鳴瀬が彼女を抱く腕に力を込める。
真琴は、自分がまた刃を振るいかけていることに気づいた。
だが遅かった。
藤咲はゆっくり口を開いた。
「昔のことだ」
その一言で、橋の上の全員が凍った。
昔のこと。
事故だった、ですらない。
知らない、でもない。
昔のこと。
真琴は言った。
「人が死んでいます」
「だから何だ」
藤咲の声は低かった。
「今さら誰が救われる。死んだ子は戻らない。母親は老いた。関わった者も皆、人生を狂わせた。町はようやく静かになった。なぜ、今さら」
「静かになったんじゃない。黙らせてきただけです」
「町を知らない人間が、正義の顔をして語るな」
藤咲の目に怒りが浮かんだ。
「君のような人間が一番危ない。外から来て、正しいことを言い、町を壊して去っていく。残る者の生活など考えない」
その言葉は、真琴の過去を抉った。
河野裕樹。
記事の後に残された家族。
会社を辞めても、真琴は彼らの生活を支えなかった。
「そうかもしれません」
真琴は言った。
藤咲が一瞬、眉を動かす。
「私は過去に、真実を書いて人を死なせました。正しいことを言えば社会がよくなると思っていた。言った後、残された人たちがどう生きるかを見ていなかった」
橋の上が静まり返った。
「だから今度は、見ます」
「何を」
「真実を言った後に残る生活を」
真琴は藤咲を見つめた。
「あなたは二十年前、それを見るのが怖くて隠した。町も隠した。新聞も隠した。医師も、教師も、役場も、みんな少しずつ隠した。その結果、莉子さんが今ここで落ちかけた」
藤咲は莉子を見た。
初めて、彼の顔に迷いが浮かんだ。
莉子は鳴瀬の腕の中で震えている。祖父を見る目には、恐怖と混乱と怒りが混ざっていた。
「おじいちゃん」
莉子がかすれた声で言った。
「藤咲の家は、人を殺したの?」
藤咲は答えなかった。
真琴は口を挟まなかった。
これは莉子の問いだった。
藤咲が受け止めるべき問いだった。
「私は」
藤咲は言いかけた。
その時、橋の欄干の上に白い狐面が現れた。
真琴だけではない。八代も、鳴瀬も、久我も見た。莉子も見た。藤咲も、確かに見た。
嘘つきの神さまは、欄干に立っていた。
月明かりを受け、白い面が闇の中に浮かんでいる。
「言わない方がいいよ」
神さまは静かに言った。
「今言えば、誰かが死ぬ」
藤咲の顔が青ざめた。
「言守様」
彼は震える声で呟いた。
真琴は、初めて藤咲が神さまをそう呼ぶのを聞いた。
神さまは首を傾けた。
「ほらね。みんな、結局僕に戻ってくる。言わない方がいい。知らない方がいい。そういうことにしておこう。僕は便利だ」
「あなたは」
真琴は言った。
「便利に使われてきたんですね」
神さまの動きが止まった。
「町は、あなたのせいにして黙った。言守様がいるから言えない。本当のことを言えば人が死ぬ。そう言って、自分たちの責任をあなたに預けた」
神さまは答えない。
「あなたは守っていたんじゃない。背負わされていたんです」
沈黙。
川の音。
莉子のすすり泣き。
その中で、神さまは小さく笑った。
「賢くなったね」
「あなたを責めているわけではありません」
「責めてもいいよ。神さまは、責められるためにいる」
「違います」
真琴は言った。
「人間が責められるべき時は、人間が責められるべきです」
神さまは、藤咲を見た。
藤咲は言葉を失っていた。
その夜、莉子は久我の診療所へ運ばれた。大きな怪我はなかったが、ショックが強く、しばらく安静が必要だった。鳴瀬が付き添い、莉子の母にも慎重に連絡を取ることになった。
藤咲勝彦は、何も語らなかった。
ただ橋を去る時、真琴に向かって言った。
「君は、町を壊す」
真琴は答えた。
「壊れるべきものなら」
藤咲はそれ以上言わず、暗闇の中へ消えた。
橋に残ったのは、真琴と八代だけだった。
久我は莉子の搬送に同行し、鳴瀬も診療所へ向かった。町職員たちは藤咲に連れられて戻った。
八代は欄干にもたれ、長い間川を見下ろしていた。
「三枝さん」
「はい」
「地下倉庫へ行きましょう」
真琴は八代を見た。
「役場の?」
「はい」
「今から?」
「今でなければ、私はまた迷います」
八代の声には、疲労と決意が混ざっていた。
「父が亡くなる前、言っていました。役場の地下倉庫には、表に出せなかった資料があると。二十年前の有坂透さんの件も、その中にあるかもしれない」
「なぜ今まで見なかったんですか」
「怖かったからです」
八代は率直に言った。
「兄が本当に関わっていたらどうしよう。父が隠蔽に関わっていたらどうしよう。自分の家が、町の嘘の一部だったらどうしよう。そう思うと、開けられなかった」
「今は?」
「莉子さんが落ちかけました」
八代は川を見つめたまま言った。
「もう、子どもに落ちてもらうわけにはいきません」
役場へ戻る車内で、二人はほとんど話さなかった。
夜の役場は、昼間とは別の建物のようだった。窓口の明かりは消え、廊下の非常灯だけが青白く光っている。八代は職員用の入口から入り、警備システムを解除した。
「本来なら、上長の許可が必要です」
「いいんですか」
「よくありません」
八代は苦笑した。
「でも、よくないことを誰もが避けてきた結果が、今です」
地下へ続く階段は、庁舎の奥にあった。
鉄製の扉を開けると、冷たい空気が上がってきた。湿気と埃と古い紙の匂い。階段の蛍光灯は一本切れかけており、じじ、と小さな音を立てている。
地下倉庫は思ったより広かった。
金属棚が何列も並び、段ボール箱が積まれている。保存期間を過ぎた古い文書、廃棄予定の備品、町史編纂資料、選挙関係の記録。棚の一角には鍵付きのロッカーがあった。
八代はポケットから古い鍵束を出した。
「父の遺品です。役場に返すべきでしたが、返せませんでした」
「その中に?」
「地下倉庫のロッカーの鍵があると聞いていました」
鍵は三つ目で合った。
ロッカーの扉が、鈍い音を立てて開いた。
中には、茶色の段ボールが二箱入っていた。
一箱目には、黒いマジックでこう書かれていた。
――平成十八年度 観光振興関連 未整理。
二箱目。
――有坂透事故関連 閲覧注意。
八代の手が止まった。
真琴も、声が出なかった。
事故関連。
閲覧注意。
誰かが確かに、表に出さない形で残していた。
「開けます」
八代は言った。
段ボールのガムテープは古く、簡単に剥がれた。中には、封筒やファイルが詰め込まれていた。
真琴は手袋が欲しいと思ったが、ない。代わりにハンカチで指先を覆い、慎重に一つずつ取り出した。
有坂透事故報告書。
学校からの聞き取り記録。
警察提出前資料。
町長指示メモ。
診療所覚書写し。
河野雅彦取材照会への回答案。
そして、一冊の作文ノート。
表紙には、鉛筆で名前が書かれていた。
真噤中学校二年一組。
有坂透。
八代が息を呑んだ。
真琴はノートを開いた。
中には、国語の作文が何本も書かれていた。文字は、橋で拾った切れ端と同じだった。角張ったひらがな。強い筆圧。消しゴムの跡。
ページの一つに、あの一文があった。
――ぼくの町では、ほんとうのことを言うと、言った人が悪いことになります。
切り取られた跡がある。
橋で見つけた紙は、このノートから切り取られたものだった。
真琴は続きを読んだ。
――だから、みんなほんとうのことを言いません。
――言わない人はやさしい人だと言われます。
――言った人は、空気が読めない人だと言われます。
――でも、言わなかったことで誰かが困っても、それは言わなかった人のせいにはなりません。
――ぼくは、それが少しずるいと思います。
真琴はページをめくる手を止めた。
十四歳の少年は、町の構造を見抜いていた。
大人よりも、はっきりと。
八代は、棚に手をついて立っていた。顔色が悪い。
「続きがあります」
真琴は言った。
八代は頷いた。
真琴は読み進めた。
――母さんは心臓が悪いから、心配をかけてはいけないと言われます。
――でも、ぼくは心配をかけたいわけじゃありません。
――知ってほしいだけです。
――ぼくが困っていることを、母さんが知らないまま笑っていると、ぼくは少しだけ消えたくなります。
――でも、母さんが泣いたら、ぼくはもっと消えたくなると思います。
――だから、どっちがいいのか分かりません。
真琴は、藤咲莉子の声を思い出した。
消えたかっただけ。
同じだ。
二十年前の少年と、今の少女が、同じ言葉の周囲に立っている。
ノートの最後の方に、赤いペンで教師のコメントがあった。
――考えすぎないこと。家庭のことは家庭で相談しましょう。
真琴はその文字を見つめた。
怒りより先に、冷えた感覚が来た。
教師は、透の悲鳴を作文として処理した。
家庭のことは家庭で。
それは一見、穏当な言葉だ。だが、透にとっては「学校は関わらない」という意味だったかもしれない。
八代が別のファイルを開いていた。
「三枝さん」
声が震えている。
「これを」
彼が差し出したのは、学校からの聞き取り記録だった。
生徒名は一部黒塗りされている。しかし、黒塗りが甘い箇所がある。
大月慎吾。
八代誠一。
藤咲智也。
「藤咲智也」
真琴は読み上げた。
「藤咲勝彦議員の息子です。莉子さんの父親」
八代が言った。
真琴は記録に目を落とした。
事故当日、橋付近で有坂透と複数の生徒が口論。
有坂透が何かを訴えた。
藤咲智也が「母親に言えば死ぬぞ」と発言した可能性。
大月慎吾はその場にいたが、暴行への直接関与は不明。
八代誠一は、現場から離れた位置で目撃。
橋の上で揉み合い。
有坂透、欄干付近から転落。
誰が接触したかは供述不一致。
真琴は息を詰めた。
ついに、形が見えた。
大月は死ぬ前、「あの日、橋の上で」と言いかけた。
八代誠一は「俺は言わなかった」と繰り返していた。
藤咲智也。
莉子の父親。
彼が、透に「母親に言えば死ぬぞ」と言った可能性。
その言葉が、透を沈黙へ追い込んだ。
そして、橋の上で何かが起きた。
八代は別の紙を手にしていた。
「町長指示メモです」
真琴は受け取った。
そこには、手書きで短く書かれていた。
――観光計画への影響を最小限に。
――学校内の問題として外部化しない。
――有坂母への説明は慎重に。心臓疾患あり。
――事故処理で統一。
――河野記者への対応注意。
真琴は紙を握りしめそうになり、慌てて力を抜いた。
「これが」
八代の声は掠れていた。
「町が、事故にした証拠ですね」
「そうです」
真琴は言った。
もう、曖昧にはできなかった。
八代はその場に座り込んだ。
「父は、これを知っていた」
「はい」
「兄も、たぶん」
「はい」
「私は、ずっとこの役場で働いていたのに」
八代は両手で顔を覆った。
「この下に、全部あったんですね」
真琴は何も言わなかった。
地下倉庫の冷たい空気が、二人の間に流れている。
この町は、真実を完全には捨てなかった。
捨てられなかった。
作文ノート。
聞き取り記録。
町長メモ。
診療所覚書。
河野雅彦の未掲載原稿。
誰かが残した。
残したことは、勇気だったのか。
それとも、罪悪感を地下に押し込めただけなのか。
真琴には分からなかった。
だが、そこにある以上、もうなかったことにはできない。
その時、地下倉庫の奥で、紙が擦れる音がした。
真琴は顔を上げた。
棚の影に、白い狐面が立っていた。
八代も気づいた。
嘘つきの神さまは、暗い倉庫の中で、古い段ボールに囲まれていた。
「見つけたね」
神さまは言った。
「おめでとう。町の嘘の心臓部だ」
真琴は立ち上がった。
「あなたは、これを知っていたんですね」
「もちろん」
「なぜ教えなかったんですか」
「教えたら、誰かが死ぬから」
「いつもの答えですね」
「いつもの答えが、だいたい正しいからね」
神さまは作文ノートを見た。
「透は、字が下手だった」
その声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
真琴は神さまを見つめた。
「あなたは、透さんなんですか」
神さまは答えなかった。
八代が震える声で言った。
「言守様」
神さまは八代を見た。
「要くん。君のお父さんは、最後までこれを捨てられなかったんだね」
「父は、何をしたんですか」
「知りたい?」
八代は唇を震わせた。
真琴が言った。
「今は、答えなくていい」
八代は真琴を見た。
「でも」
「今ここで、全部聞く必要はありません。あなたが壊れます」
神さまが小さく笑った。
「学んだね」
「黙っていてください」
真琴は神さまに言った。
そして八代の前にしゃがんだ。
「今日は資料を整理しましょう。読む順番を決める。誰に何を伝えるか決める。あなたのお兄さんにも、澄江さんにも、莉子さんにも、いきなり全部は渡さない」
「でも、これは」
「真実です」
「はい」
「だからこそ、運び方を間違えない」
八代は目を伏せた。
「三枝さんは、本当に変わりましたね」
「変わったというより、怖くなっただけです」
「怖い?」
「真実が」
真琴は正直に言った。
「でも、怖いものを怖いまま扱う方が、まだましです」
神さまは、倉庫の奥で静かに立っていた。
何も言わない。
白い狐面が、古い紙の匂いの中に浮いている。
やがて、神さまは言った。
「じゃあ、どうするの」
真琴は作文ノートを見た。
有坂透の字。
知ってほしいだけです。
母さんが知らないまま笑っていると、ぼくは少しだけ消えたくなります。
真琴は答えた。
「まず、消えたかった子どもたちを、これ以上一人にしません」
神さまは黙っていた。
「透さんも、莉子さんも」
「透はもう死んでいる」
「死んでいても、一人にされたままにはしません」
その言葉を口にした瞬間、倉庫の蛍光灯が一度だけ瞬いた。
風もないのに、作文ノートのページがめくれた。
最後のページに、短い一文があった。
――もしぼくがいなくなったら、だれか母さんに、ぼくは母さんのせいで困っていたんじゃないと伝えてください。
真琴は、その一文を見つめた。
喉の奥が詰まった。
有坂透は、最後まで母親を守ろうとしていた。
自分が苦しんでいたことさえ、母親の責任ではないと伝えたかった。
でも、その言葉は届かなかった。
二十年、地下倉庫に眠っていた。
「伝えましょう」
八代が言った。
真琴は彼を見た。
八代の目には涙が浮かんでいた。
「澄江さんに、伝えましょう。ただし、ちゃんと準備して」
「はい」
真琴は頷いた。
神さまは、ゆっくりと後ろへ下がった。
「伝えたら、もう戻れないよ」
「戻る必要はありません」
「町が壊れるかもしれない」
「壊れるのではなく、壊れていたことが見えるだけです」
神さまは、初めて何も言い返さなかった。
地下倉庫の奥の闇に、白い狐面が溶けていく。
消える直前、神さまは小さな声で言った。
「母さん、死なないかな」
その声は、神ではなかった。
十四歳の少年の声だった。
真琴は答えた。
「死なせません」
言ってから、自分がどれほど重いことを口にしたのか分かった。
死なせません。
そんな約束は、本来誰にもできない。
それでも、言わなければならない時がある。
ただし、その約束を一人で背負ってはいけない。
真琴は八代を見た。
「鳴瀬先生と久我先生を呼びましょう。今夜中に」
「はい」
「それから、莉子さんとお母さんの安全確認。藤咲議員が動く前に、学校と診療所で守る」
「分かりました」
「資料は写真を撮って、複数に保存します。ただし公開はしない。まず、関係者に順番を決めて伝える」
「はい」
八代は立ち上がった。
先ほどまで座り込んでいた男とは違う顔をしていた。青ざめてはいる。震えてもいる。だが、逃げる顔ではなかった。
地下倉庫の段ボールの中には、まだ多くの資料が残っていた。
真琴はそれらを一つひとつ取り出した。
有坂透事故報告書。
学校聞き取り記録。
警察未提出資料。
町長指示メモ。
透の作文ノート。
河野雅彦への対応記録。
八代誠一の供述メモ。
大月慎吾の聴取記録。
藤咲智也の保護者面談記録。
町の嘘は、紙の形をしていた。
そして紙は、燃やされずに残っていた。
それが救いなのか、罪なのかは分からない。
ただ、真琴は思った。
書かれた言葉は、人を殺すことがある。
書かれなかった言葉も、人を殺すことがある。
ならば今度こそ、言葉を人を支えるために使わなければならない。
そのために必要なのは、暴く勇気だけではない。
暴いた後に逃げない覚悟だ。
地下倉庫の冷たい床に膝をつきながら、真琴は透の作文ノートをそっと閉じた。
その表紙の名前を指でなぞる。
有坂透。
二十年前に消された名前。
だが今、ようやく誰かがその声を聞こうとしている。
地上では、夜の役場が沈黙している。
その下で、真琴たちは町の墓を開けた。
まだ、誰にも弔われていない言葉の墓を。




