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真実を語ると人が死ぬ街で、嘘つきの神さまを殺すまで  作者: 二条理|アコンプリス


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7/12

第七章 役場の地下倉庫

 夜の真噤町を走ると、町の形が変わって見えた。

 昼間は家々の隙間に畑があり、古い商店があり、役場や学校や診療所がそれぞれの役割を持って立っている。だが夜になると、そうした区別は暗闇に沈む。残るのは細い道と、ところどころに浮かぶ窓の灯りだけだ。町は生活の場所ではなく、何かを隠すために作られた迷路のようだった。

 真琴は八代の車の助手席で、シートベルトを握りしめていた。

「鳴瀬先生から連絡は?」

「まだです」

 八代はハンドルを握る手に力を込めたまま答えた。

「藤咲さんの家には?」

「職員のひとりに確認させています。莉子さんの靴が一足なくなっていたそうです」

「スマホは置いたまま」

「はい」

「財布は?」

「分かりません」

 八代の声はかすれていた。

 車は商店街を抜け、川へ向かう坂道に入った。真琴は前方を見つめる。ヘッドライトの中に、濡れたようなアスファルトが伸びていた。雨は降っていない。だが夜露のせいか、路面は鈍く光っている。

 藤咲莉子。

 真琴の脳裏に、玄関の隙間から覗いた少女の顔が浮かんだ。

 赤く腫れた目。

 警戒した声。

 ――お母さんに、私のせいじゃないって、言って。

 あの言葉は、助けを求める声だった。けれど、真琴たちは十分に応えられなかった。莉子の母は倒れ、学校は転校で処理しようとし、町はまた「そういうこと」にしようとしている。

 その上、彼女の姓は藤咲だった。

 二十年前、有坂透の死に関わった可能性のある家。

 その事実を、莉子は知っているのか。

 知らないまま、誰かの罪の上に立たされているのか。

 車が橋に近づいた時、真琴のスマートフォンが震えた。

 鳴瀬灯からだった。

「三枝さん、橋にいますか」

「今向かっています」

「莉子さんを見つけました」

 真琴は息を止めた。

「無事ですか」

「今は。橋の欄干の外側にいます。説得していますが、近づくと危険です」

 八代が横で顔色を変えた。

「欄干の外側?」

「鳴瀬先生、絶対に一人で近づかないでください」

「分かっています。でも、莉子さんが、私に近づくなと言っています」

 電話の向こうで風の音が強くなる。

 その向こうに、かすかな泣き声が聞こえた気がした。

「すぐ着きます」

 真琴は電話を切った。

 八代はアクセルを踏み込んだ。

 橋の手前に車を停めると、すでに鳴瀬の姿が見えた。彼女は橋の中央付近で立ち止まり、欄干の向こうを見ている。久我怜司もいた。診療所から駆けつけたのだろう。白衣ではなく黒いコート姿だったが、手には救急バッグを持っている。

 そして、欄干の外側に、藤咲莉子がいた。

 橋の外へ出ているわけではない。欄干の外側にある、点検用の細い縁に足を乗せ、両手で鉄の柵を掴んでいる。下には川が流れていた。水量は多くないが、夜の川は深く見える。落ちれば無事では済まない。

 真琴は車を降りた瞬間、足がすくみそうになった。

 有坂透が落ちた橋。

 その同じ場所に、十四歳の少女が立っている。

「莉子さん」

 鳴瀬が静かに呼びかけていた。

「先生はここにいます。無理に近づきません」

「来ないで」

 莉子の声は震えていた。

「誰も来ないで」

「分かりました。行きません」

 鳴瀬は両手を見える位置に下げたまま、ゆっくり話している。

 久我は少し離れた位置に立ち、落ちた場合に備えて動線を見ているようだった。八代は顔面蒼白で、何か言おうとして口を閉じた。ここで下手な言葉をかければ、莉子は本当に手を離すかもしれない。

 真琴は息を整えた。

 彼女は一歩だけ近づいた。

「莉子さん。三枝です」

 莉子の顔がこちらを向いた。

 暗くて表情はよく見えない。だが、その目だけが街灯に反射していた。

「来ないでって言った」

「行きません。ここにいます」

「嘘」

「嘘じゃありません」

「大人は、みんな嘘をつく」

「そうですね」

 真琴は認めた。

 鳴瀬が一瞬だけ真琴を見た。否定しないのか、という目だった。だが真琴は続けた。

「大人は嘘をつきます。守るためだと言って嘘をつく。面倒を避けるためにも嘘をつく。自分が悪者にならないためにも嘘をつく」

 莉子は黙っていた。

「でも、今ここで私が言えることがあります。あなたが手を離したら、お母さんはもっと苦しみます」

「お母さんは、もう苦しんでる」

「はい」

「私のせいで倒れた」

「違います」

「違わない!」

 莉子の叫び声が橋の上に響いた。

 川の音が一瞬消えたように感じた。

「私が言わないでって言ったから。先生にも、誰にも。お母さんには言わないでって。お母さんが学校に来たら嫌だった。みんなの前で騒いだら、もっと嫌われると思った。だから黙ってた。そしたら、お母さん、何も知らないまま学校で倒れた」

「莉子さん」

 鳴瀬が声をかける。

「あなたが悪いのではありません」

「先生はそう言うよ。先生だから」

「教師としてではなく、鳴瀬灯として言っています」

「同じだよ」

 莉子は泣きながら笑った。

「みんな、私を守るみたいな顔をする。でも本当は、私のせいにされたくないだけでしょ。学校も、町も、お母さんも、先生も」

「お母さんは違います」

 鳴瀬が言った。

「お母さんはあなたを責めていません」

「聞いたの?」

「病院で会いました」

 莉子の手が、欄干を強く掴んだ。

「会ったの?」

「はい」

「何て言ってた?」

 鳴瀬は少しだけ間を置いた。

 その間に、真琴は緊張した。

 嘘をつくのか。

 安心させるために。

 それとも、真実をそのまま言うのか。

 鳴瀬はゆっくり答えた。

「莉子に謝りたい、と言っていました」

 莉子の顔が歪んだ。

「なんで」

「気づけなくてごめん、と」

「やめて」

「でも、それはあなたを責める言葉ではありません」

「やめて!」

 莉子の足元がずれた。

 久我が一歩動いたが、真琴は手で制した。今近づけば危ない。

「莉子さん」

 真琴は声を落とした。

「あなたは、今夜、全部を決めに来たんですね」

 莉子は答えない。

「自分が悪いのか。学校へ戻るのか。お母さんに何を言うのか。いじめた人たちを許すのか。町に残るのか。全部、今ここで決めようとしている」

「だって」

「決めなくていい」

「みんなが決めるじゃん!」

 莉子は叫んだ。

「私は転校ってことにされる。お母さんは病気ってことにされる。いじめはなかったことにされる。私が勝手に学校に来られなくなったってことにされる。だったら、私が決めるしかないじゃん!」

 その言葉は、真琴の胸を抉った。

 有坂透も、こうだったのかもしれない。

 大人が決める。町が決める。学校が決める。母親のためだと言われる。町のためだと言われる。誰も本当のことを言わせてくれない。

 だから、最後に自分で決めようとする。

 橋の上で。

「莉子さん」

 真琴は言った。

「あなたが決めていいことはあります。でも、今夜ここで決めてはいけないこともあります」

「何それ」

「死ぬかどうかです」

 鳴瀬が息を呑んだ。

 久我の表情も変わった。

 だが真琴は続けた。

「それだけは、今夜一人で決めないでください」

 莉子は泣きながら首を振った。

「じゃあ誰が決めるの」

「誰も決めません。決めなくていいんです。今日は、橋の内側に戻るかどうかだけでいい」

「戻ったら、また全部始まる」

「はい」

「また学校があって、お母さんがいて、みんながいて」

「はい」

「私は、藤咲の子だって言われる」

 その言葉に、全員が動きを止めた。

 真琴は莉子を見た。

「知っているんですか」

 莉子は、泣き濡れた顔で笑った。

「おじいちゃんが言ってた。うちの家は町を守ってきたんだって。だから、余計なことを言うなって。私が学校で何か言えば、藤咲の名前に傷がつくって」

 八代の顔が強張る。

「昨日、知らない人からメッセージが来た」

 莉子は続けた。

「藤咲の家は昔、人を殺してるって。お前も同じだって。だから学校に来るなって」

「誰からですか」

「知らない。もう消した」

 真琴は唇を噛んだ。

 莉子は、いじめの被害者であると同時に、二十年前の加害側の血筋として責められている。本人が何も知らない過去を、現在の子どもたちが刃物に変えている。

 真実はまた、別の人間を刺していた。

「莉子さん」

 鳴瀬が言った。

「あなたは、あなたです。藤咲家の過去を、あなた一人が背負う必要はありません」

「じゃあ、誰が背負うの」

 莉子は欄干越しに鳴瀬を見た。

「おじいちゃん? お母さん? 町? 誰も背負わないじゃん。だから、みんな私に来るんだよ」

 その瞬間、真琴は理解した。

 埋められた真実は、消えない。

 背負うべき人間が背負わないと、より弱い者のところへ落ちる。

 有坂透が背負った。

 有坂澄江が知らないまま背負った。

 大月慎吾が背負いきれず死んだ。

 八代誠一が壊れた。

 そして今、藤咲莉子が、自分のものではない罪まで背負わされている。

「莉子さん」

 真琴は、一歩も近づかずに言った。

「その荷物は、あなたのものではありません」

「でも、私のところに来た」

「はい。来てしまいました」

「だったら、私のものじゃん」

「違います」

「違わない!」

「違います」

 真琴は、強く言った。

「あなたのところに落ちてきたからといって、あなたのものになるわけではありません。落とした大人たちがいる。拾わなかった大人たちがいる。隠した大人たちがいる。私は、その人たちに返します」

 莉子の目が揺れた。

「返す?」

「はい」

「どうやって」

「一人ではできません。鳴瀬先生、久我先生、八代さん、あなたのお母さん、そして町の人たち。全員で持つ場所を作ります」

「また嘘」

「嘘に聞こえると思います」

「聞こえるよ」

「それでも、今ここであなたを一人にしないことだけはできます」

 莉子は泣いていた。

 だが、先ほどより呼吸が深くなっている。

 久我が真琴に目で合図した。

 今だ。

 近づくのではない。

 戻るための道を作る。

「莉子さん」

 久我が初めて声を出した。

「足元を見ないで。こちらを見てください」

 莉子が久我を見る。

「ゆっくり、右手を上の欄干に移せますか。無理なら無理でいい。今すぐ戻れとは言いません」

「怖い」

「怖いのは正常です」

 久我の声は冷静だった。

「怖くないと言う人より、怖いと言える人の方が安全です」

 莉子は小さく泣きながら、右手を少し動かした。

 鳴瀬が言う。

「先生はここにいます。失敗しても怒りません。時間をかけましょう」

「お母さんに」

「はい」

「言って」

「何を?」

「私、死にたいわけじゃなかったって」

 鳴瀬の目に涙が浮かんだ。

「必ず言います」

「消えたかっただけって」

「言います」

「でも、消えなくていいって、言って」

「必ず」

 莉子は、ゆっくりと欄干の内側へ体を戻し始めた。

 その瞬間、橋の向こうから足音が聞こえた。

 男の声が響いた。

「莉子!」

 藤咲勝彦だった。

 濃紺のコートを羽織り、息を切らして走ってくる。後ろには町職員らしい男が二人いた。

 莉子の体が強張った。

 真琴は反射的に叫んだ。

「来ないでください!」

 藤咲は足を止めなかった。

「何をしている、莉子! 早く戻りなさい!」

 その声は祖父が孫を心配する声であると同時に、家の名を守ろうとする男の声でもあった。

 莉子の顔が凍った。

「ほら」

 彼女はかすれた声で言った。

「やっぱり、私が悪い」

「違う!」

 鳴瀬が叫んだ。

 莉子の足が滑った。

 真琴の視界が白く弾けた。

 その瞬間、久我が走った。

 彼は欄干に飛びつくように身を乗り出し、莉子の腕を掴んだ。鳴瀬も駆け寄り、反対の腕を掴む。真琴と八代も同時に動いた。

 莉子の体が欄干の外で宙に浮きかける。

 川の音が大きくなった。

「引き上げて!」

 久我が叫ぶ。

 八代が久我の腰を支え、真琴は莉子の袖を掴んだ。布が破れそうになる。鳴瀬が泣きながら莉子の名前を呼んでいる。

「莉子さん、手を離さない!」

「痛い!」

「痛くていい! 生きてる証拠です!」

 真琴は叫んだ。

 数秒だったのか、数十秒だったのか分からない。

 ようやく莉子の体が欄干の内側へ引き戻された。彼女は橋の上に倒れ込み、激しく泣いた。鳴瀬が抱きしめる。久我は膝をつき、すぐに脈と呼吸を確認した。

「大丈夫です。擦り傷だけです」

 久我の声に、全員がその場で息を吐いた。

 藤咲勝彦は橋の途中で立ち尽くしていた。

 真琴は立ち上がり、彼を見た。

「なぜ来たんですか」

「孫が危ないと聞いたからだ」

「あなたの声で、莉子さんは落ちかけました」

「私は心配して」

「本当に?」

 藤咲の顔が歪んだ。

「何が言いたい」

「あなたは莉子さんの命を心配したんですか。それとも、藤咲家の名前を心配したんですか」

「無礼だぞ」

「無礼で結構です」

 真琴は一歩近づいた。

「二十年前、この橋で何があったんですか」

 藤咲の顔色が変わった。

 莉子が泣きながら顔を上げた。

「三枝さん」

 久我が低く言った。

 今ここでそれを問うのは危険だ。

 分かっていた。

 だが、もう言葉は止まらなかった。

「有坂透さんは、ここで落とされた。現場には藤咲家の人間がいた。河野雅彦はそれを記事にしようとして、潰された。違いますか」

 藤咲は沈黙した。

 その沈黙が、橋の上に重く落ちる。

 莉子が震えた。

 鳴瀬が彼女を抱く腕に力を込める。

 真琴は、自分がまた刃を振るいかけていることに気づいた。

 だが遅かった。

 藤咲はゆっくり口を開いた。

「昔のことだ」

 その一言で、橋の上の全員が凍った。

 昔のこと。

 事故だった、ですらない。

 知らない、でもない。

 昔のこと。

 真琴は言った。

「人が死んでいます」

「だから何だ」

 藤咲の声は低かった。

「今さら誰が救われる。死んだ子は戻らない。母親は老いた。関わった者も皆、人生を狂わせた。町はようやく静かになった。なぜ、今さら」

「静かになったんじゃない。黙らせてきただけです」

「町を知らない人間が、正義の顔をして語るな」

 藤咲の目に怒りが浮かんだ。

「君のような人間が一番危ない。外から来て、正しいことを言い、町を壊して去っていく。残る者の生活など考えない」

 その言葉は、真琴の過去を抉った。

 河野裕樹。

 記事の後に残された家族。

 会社を辞めても、真琴は彼らの生活を支えなかった。

「そうかもしれません」

 真琴は言った。

 藤咲が一瞬、眉を動かす。

「私は過去に、真実を書いて人を死なせました。正しいことを言えば社会がよくなると思っていた。言った後、残された人たちがどう生きるかを見ていなかった」

 橋の上が静まり返った。

「だから今度は、見ます」

「何を」

「真実を言った後に残る生活を」

 真琴は藤咲を見つめた。

「あなたは二十年前、それを見るのが怖くて隠した。町も隠した。新聞も隠した。医師も、教師も、役場も、みんな少しずつ隠した。その結果、莉子さんが今ここで落ちかけた」

 藤咲は莉子を見た。

 初めて、彼の顔に迷いが浮かんだ。

 莉子は鳴瀬の腕の中で震えている。祖父を見る目には、恐怖と混乱と怒りが混ざっていた。

「おじいちゃん」

 莉子がかすれた声で言った。

「藤咲の家は、人を殺したの?」

 藤咲は答えなかった。

 真琴は口を挟まなかった。

 これは莉子の問いだった。

 藤咲が受け止めるべき問いだった。

「私は」

 藤咲は言いかけた。

 その時、橋の欄干の上に白い狐面が現れた。

 真琴だけではない。八代も、鳴瀬も、久我も見た。莉子も見た。藤咲も、確かに見た。

 嘘つきの神さまは、欄干に立っていた。

 月明かりを受け、白い面が闇の中に浮かんでいる。

「言わない方がいいよ」

 神さまは静かに言った。

「今言えば、誰かが死ぬ」

 藤咲の顔が青ざめた。

「言守様」

 彼は震える声で呟いた。

 真琴は、初めて藤咲が神さまをそう呼ぶのを聞いた。

 神さまは首を傾けた。

「ほらね。みんな、結局僕に戻ってくる。言わない方がいい。知らない方がいい。そういうことにしておこう。僕は便利だ」

「あなたは」

 真琴は言った。

「便利に使われてきたんですね」

 神さまの動きが止まった。

「町は、あなたのせいにして黙った。言守様がいるから言えない。本当のことを言えば人が死ぬ。そう言って、自分たちの責任をあなたに預けた」

 神さまは答えない。

「あなたは守っていたんじゃない。背負わされていたんです」

 沈黙。

 川の音。

 莉子のすすり泣き。

 その中で、神さまは小さく笑った。

「賢くなったね」

「あなたを責めているわけではありません」

「責めてもいいよ。神さまは、責められるためにいる」

「違います」

 真琴は言った。

「人間が責められるべき時は、人間が責められるべきです」

 神さまは、藤咲を見た。

 藤咲は言葉を失っていた。

 その夜、莉子は久我の診療所へ運ばれた。大きな怪我はなかったが、ショックが強く、しばらく安静が必要だった。鳴瀬が付き添い、莉子の母にも慎重に連絡を取ることになった。

 藤咲勝彦は、何も語らなかった。

 ただ橋を去る時、真琴に向かって言った。

「君は、町を壊す」

 真琴は答えた。

「壊れるべきものなら」

 藤咲はそれ以上言わず、暗闇の中へ消えた。

 橋に残ったのは、真琴と八代だけだった。

 久我は莉子の搬送に同行し、鳴瀬も診療所へ向かった。町職員たちは藤咲に連れられて戻った。

 八代は欄干にもたれ、長い間川を見下ろしていた。

「三枝さん」

「はい」

「地下倉庫へ行きましょう」

 真琴は八代を見た。

「役場の?」

「はい」

「今から?」

「今でなければ、私はまた迷います」

 八代の声には、疲労と決意が混ざっていた。

「父が亡くなる前、言っていました。役場の地下倉庫には、表に出せなかった資料があると。二十年前の有坂透さんの件も、その中にあるかもしれない」

「なぜ今まで見なかったんですか」

「怖かったからです」

 八代は率直に言った。

「兄が本当に関わっていたらどうしよう。父が隠蔽に関わっていたらどうしよう。自分の家が、町の嘘の一部だったらどうしよう。そう思うと、開けられなかった」

「今は?」

「莉子さんが落ちかけました」

 八代は川を見つめたまま言った。

「もう、子どもに落ちてもらうわけにはいきません」

 役場へ戻る車内で、二人はほとんど話さなかった。

 夜の役場は、昼間とは別の建物のようだった。窓口の明かりは消え、廊下の非常灯だけが青白く光っている。八代は職員用の入口から入り、警備システムを解除した。

「本来なら、上長の許可が必要です」

「いいんですか」

「よくありません」

 八代は苦笑した。

「でも、よくないことを誰もが避けてきた結果が、今です」

 地下へ続く階段は、庁舎の奥にあった。

 鉄製の扉を開けると、冷たい空気が上がってきた。湿気と埃と古い紙の匂い。階段の蛍光灯は一本切れかけており、じじ、と小さな音を立てている。

 地下倉庫は思ったより広かった。

 金属棚が何列も並び、段ボール箱が積まれている。保存期間を過ぎた古い文書、廃棄予定の備品、町史編纂資料、選挙関係の記録。棚の一角には鍵付きのロッカーがあった。

 八代はポケットから古い鍵束を出した。

「父の遺品です。役場に返すべきでしたが、返せませんでした」

「その中に?」

「地下倉庫のロッカーの鍵があると聞いていました」

 鍵は三つ目で合った。

 ロッカーの扉が、鈍い音を立てて開いた。

 中には、茶色の段ボールが二箱入っていた。

 一箱目には、黒いマジックでこう書かれていた。

 ――平成十八年度 観光振興関連 未整理。

 二箱目。

 ――有坂透事故関連 閲覧注意。

 八代の手が止まった。

 真琴も、声が出なかった。

 事故関連。

 閲覧注意。

 誰かが確かに、表に出さない形で残していた。

「開けます」

 八代は言った。

 段ボールのガムテープは古く、簡単に剥がれた。中には、封筒やファイルが詰め込まれていた。

 真琴は手袋が欲しいと思ったが、ない。代わりにハンカチで指先を覆い、慎重に一つずつ取り出した。

 有坂透事故報告書。

 学校からの聞き取り記録。

 警察提出前資料。

 町長指示メモ。

 診療所覚書写し。

 河野雅彦取材照会への回答案。

 そして、一冊の作文ノート。

 表紙には、鉛筆で名前が書かれていた。

 真噤中学校二年一組。

 有坂透。

 八代が息を呑んだ。

 真琴はノートを開いた。

 中には、国語の作文が何本も書かれていた。文字は、橋で拾った切れ端と同じだった。角張ったひらがな。強い筆圧。消しゴムの跡。

 ページの一つに、あの一文があった。

 ――ぼくの町では、ほんとうのことを言うと、言った人が悪いことになります。

 切り取られた跡がある。

 橋で見つけた紙は、このノートから切り取られたものだった。

 真琴は続きを読んだ。

 ――だから、みんなほんとうのことを言いません。

 ――言わない人はやさしい人だと言われます。

 ――言った人は、空気が読めない人だと言われます。

 ――でも、言わなかったことで誰かが困っても、それは言わなかった人のせいにはなりません。

 ――ぼくは、それが少しずるいと思います。

 真琴はページをめくる手を止めた。

 十四歳の少年は、町の構造を見抜いていた。

 大人よりも、はっきりと。

 八代は、棚に手をついて立っていた。顔色が悪い。

「続きがあります」

 真琴は言った。

 八代は頷いた。

 真琴は読み進めた。

 ――母さんは心臓が悪いから、心配をかけてはいけないと言われます。

 ――でも、ぼくは心配をかけたいわけじゃありません。

 ――知ってほしいだけです。

 ――ぼくが困っていることを、母さんが知らないまま笑っていると、ぼくは少しだけ消えたくなります。

 ――でも、母さんが泣いたら、ぼくはもっと消えたくなると思います。

 ――だから、どっちがいいのか分かりません。

 真琴は、藤咲莉子の声を思い出した。

 消えたかっただけ。

 同じだ。

 二十年前の少年と、今の少女が、同じ言葉の周囲に立っている。

 ノートの最後の方に、赤いペンで教師のコメントがあった。

 ――考えすぎないこと。家庭のことは家庭で相談しましょう。

 真琴はその文字を見つめた。

 怒りより先に、冷えた感覚が来た。

 教師は、透の悲鳴を作文として処理した。

 家庭のことは家庭で。

 それは一見、穏当な言葉だ。だが、透にとっては「学校は関わらない」という意味だったかもしれない。

 八代が別のファイルを開いていた。

「三枝さん」

 声が震えている。

「これを」

 彼が差し出したのは、学校からの聞き取り記録だった。

 生徒名は一部黒塗りされている。しかし、黒塗りが甘い箇所がある。

 大月慎吾。

 八代誠一。

 藤咲智也。

「藤咲智也」

 真琴は読み上げた。

「藤咲勝彦議員の息子です。莉子さんの父親」

 八代が言った。

 真琴は記録に目を落とした。

 事故当日、橋付近で有坂透と複数の生徒が口論。

 有坂透が何かを訴えた。

 藤咲智也が「母親に言えば死ぬぞ」と発言した可能性。

 大月慎吾はその場にいたが、暴行への直接関与は不明。

 八代誠一は、現場から離れた位置で目撃。

 橋の上で揉み合い。

 有坂透、欄干付近から転落。

 誰が接触したかは供述不一致。

 真琴は息を詰めた。

 ついに、形が見えた。

 大月は死ぬ前、「あの日、橋の上で」と言いかけた。

 八代誠一は「俺は言わなかった」と繰り返していた。

 藤咲智也。

 莉子の父親。

 彼が、透に「母親に言えば死ぬぞ」と言った可能性。

 その言葉が、透を沈黙へ追い込んだ。

 そして、橋の上で何かが起きた。

 八代は別の紙を手にしていた。

「町長指示メモです」

 真琴は受け取った。

 そこには、手書きで短く書かれていた。

 ――観光計画への影響を最小限に。

 ――学校内の問題として外部化しない。

――有坂母への説明は慎重に。心臓疾患あり。

 ――事故処理で統一。

 ――河野記者への対応注意。

 真琴は紙を握りしめそうになり、慌てて力を抜いた。

「これが」

 八代の声は掠れていた。

「町が、事故にした証拠ですね」

「そうです」

 真琴は言った。

 もう、曖昧にはできなかった。

 八代はその場に座り込んだ。

「父は、これを知っていた」

「はい」

「兄も、たぶん」

「はい」

「私は、ずっとこの役場で働いていたのに」

 八代は両手で顔を覆った。

「この下に、全部あったんですね」

 真琴は何も言わなかった。

 地下倉庫の冷たい空気が、二人の間に流れている。

 この町は、真実を完全には捨てなかった。

 捨てられなかった。

 作文ノート。

 聞き取り記録。

 町長メモ。

 診療所覚書。

 河野雅彦の未掲載原稿。

 誰かが残した。

 残したことは、勇気だったのか。

 それとも、罪悪感を地下に押し込めただけなのか。

 真琴には分からなかった。

 だが、そこにある以上、もうなかったことにはできない。

 その時、地下倉庫の奥で、紙が擦れる音がした。

 真琴は顔を上げた。

 棚の影に、白い狐面が立っていた。

 八代も気づいた。

 嘘つきの神さまは、暗い倉庫の中で、古い段ボールに囲まれていた。

「見つけたね」

 神さまは言った。

「おめでとう。町の嘘の心臓部だ」

 真琴は立ち上がった。

「あなたは、これを知っていたんですね」

「もちろん」

「なぜ教えなかったんですか」

「教えたら、誰かが死ぬから」

「いつもの答えですね」

「いつもの答えが、だいたい正しいからね」

 神さまは作文ノートを見た。

「透は、字が下手だった」

 その声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

 真琴は神さまを見つめた。

「あなたは、透さんなんですか」

 神さまは答えなかった。

 八代が震える声で言った。

「言守様」

 神さまは八代を見た。

「要くん。君のお父さんは、最後までこれを捨てられなかったんだね」

「父は、何をしたんですか」

「知りたい?」

 八代は唇を震わせた。

 真琴が言った。

「今は、答えなくていい」

 八代は真琴を見た。

「でも」

「今ここで、全部聞く必要はありません。あなたが壊れます」

 神さまが小さく笑った。

「学んだね」

「黙っていてください」

 真琴は神さまに言った。

 そして八代の前にしゃがんだ。

「今日は資料を整理しましょう。読む順番を決める。誰に何を伝えるか決める。あなたのお兄さんにも、澄江さんにも、莉子さんにも、いきなり全部は渡さない」

「でも、これは」

「真実です」

「はい」

「だからこそ、運び方を間違えない」

 八代は目を伏せた。

「三枝さんは、本当に変わりましたね」

「変わったというより、怖くなっただけです」

「怖い?」

「真実が」

 真琴は正直に言った。

「でも、怖いものを怖いまま扱う方が、まだましです」

 神さまは、倉庫の奥で静かに立っていた。

 何も言わない。

 白い狐面が、古い紙の匂いの中に浮いている。

 やがて、神さまは言った。

「じゃあ、どうするの」

 真琴は作文ノートを見た。

 有坂透の字。

 知ってほしいだけです。

 母さんが知らないまま笑っていると、ぼくは少しだけ消えたくなります。

 真琴は答えた。

「まず、消えたかった子どもたちを、これ以上一人にしません」

 神さまは黙っていた。

「透さんも、莉子さんも」

「透はもう死んでいる」

「死んでいても、一人にされたままにはしません」

 その言葉を口にした瞬間、倉庫の蛍光灯が一度だけ瞬いた。

 風もないのに、作文ノートのページがめくれた。

 最後のページに、短い一文があった。

 ――もしぼくがいなくなったら、だれか母さんに、ぼくは母さんのせいで困っていたんじゃないと伝えてください。

 真琴は、その一文を見つめた。

 喉の奥が詰まった。

 有坂透は、最後まで母親を守ろうとしていた。

 自分が苦しんでいたことさえ、母親の責任ではないと伝えたかった。

 でも、その言葉は届かなかった。

 二十年、地下倉庫に眠っていた。

「伝えましょう」

 八代が言った。

 真琴は彼を見た。

 八代の目には涙が浮かんでいた。

「澄江さんに、伝えましょう。ただし、ちゃんと準備して」

「はい」

 真琴は頷いた。

 神さまは、ゆっくりと後ろへ下がった。

「伝えたら、もう戻れないよ」

「戻る必要はありません」

「町が壊れるかもしれない」

「壊れるのではなく、壊れていたことが見えるだけです」

 神さまは、初めて何も言い返さなかった。

 地下倉庫の奥の闇に、白い狐面が溶けていく。

 消える直前、神さまは小さな声で言った。

「母さん、死なないかな」

 その声は、神ではなかった。

 十四歳の少年の声だった。

 真琴は答えた。

「死なせません」

 言ってから、自分がどれほど重いことを口にしたのか分かった。

 死なせません。

 そんな約束は、本来誰にもできない。

 それでも、言わなければならない時がある。

 ただし、その約束を一人で背負ってはいけない。

 真琴は八代を見た。

「鳴瀬先生と久我先生を呼びましょう。今夜中に」

「はい」

「それから、莉子さんとお母さんの安全確認。藤咲議員が動く前に、学校と診療所で守る」

「分かりました」

「資料は写真を撮って、複数に保存します。ただし公開はしない。まず、関係者に順番を決めて伝える」

「はい」

 八代は立ち上がった。

 先ほどまで座り込んでいた男とは違う顔をしていた。青ざめてはいる。震えてもいる。だが、逃げる顔ではなかった。

 地下倉庫の段ボールの中には、まだ多くの資料が残っていた。

 真琴はそれらを一つひとつ取り出した。

 有坂透事故報告書。

 学校聞き取り記録。

 警察未提出資料。

 町長指示メモ。

 透の作文ノート。

 河野雅彦への対応記録。

 八代誠一の供述メモ。

 大月慎吾の聴取記録。

 藤咲智也の保護者面談記録。

 町の嘘は、紙の形をしていた。

 そして紙は、燃やされずに残っていた。

 それが救いなのか、罪なのかは分からない。

 ただ、真琴は思った。

 書かれた言葉は、人を殺すことがある。

 書かれなかった言葉も、人を殺すことがある。

 ならば今度こそ、言葉を人を支えるために使わなければならない。

 そのために必要なのは、暴く勇気だけではない。

 暴いた後に逃げない覚悟だ。

 地下倉庫の冷たい床に膝をつきながら、真琴は透の作文ノートをそっと閉じた。

 その表紙の名前を指でなぞる。

 有坂透。

 二十年前に消された名前。

 だが今、ようやく誰かがその声を聞こうとしている。

 地上では、夜の役場が沈黙している。

 その下で、真琴たちは町の墓を開けた。

 まだ、誰にも弔われていない言葉の墓を。



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