第六章 真実を売った記者
藤咲という名前は、電話を切った後も真琴の耳に残り続けた。
白い菊の花弁が、湯呑みの水面に浮いている。部屋の照明を受けて、薄い影を揺らしていた。真琴はしばらくそれを見つめていたが、やがて手を伸ばし、花弁を指でつまみ上げた。水を吸った花弁は、思ったより重かった。
藤咲。
藤咲莉子。
学校で裏アカウントの中傷に晒され、母親が校門前で倒れた少女。
その姓が、二十年前に有坂透を橋から落とした人間の名として、八代誠一の口から出かけた。
偶然というには、もう遅すぎる。
この町では、名前もまた沈黙の下に埋まっている。誰かが同じ姓を名乗っているだけで、過去が起き上がってくる。子どもは、親や祖父母の言わなかったことの上に立っている。何も知らないまま、踏んではならない場所を踏む。
真琴は机に向かい、パソコンを開いた。
取材メモのファイルには、この数日で増えた名前が並んでいる。
有坂透。
有坂澄江。
大月慎吾。
八代誠一。
八代要。
篠原美奈。
篠原徹。
藤崎千佳。
藤咲莉子。
久我怜司。
鳴瀬灯。
そして、河野雅彦。
真琴は最後の名前で指を止めた。
二十年前、有坂透の死亡記事を書いた地方紙記者。短い記事だった。中学生が川で死亡。橋付近で転落か。事件性は低い。そこに書かれていた署名。河野雅彦。
その姓は、真琴にとって別の死者を呼び起こす。
河野裕樹。
かつて真琴に内部資料を渡し、その後、自死した告発者。
真琴は椅子の背にもたれ、目を閉じた。
記憶は、いつも最初に音から戻ってくる。
新聞社の資料室の空調音。深夜の編集局に響くキーボードの音。自動販売機の紙コップにコーヒーが落ちる音。電話口で、河野裕樹が何度も息を吸い直していた音。
――本当に、会社は変わりますか。
彼はそう聞いた。
その時の真琴は、迷わず答えた。
――変えなければいけません。
今思えば、何と傲慢な答えだったのだろう。
変えなければいけない。
その主語は誰だったのか。社会か。会社か。記者か。告発者か。それとも、記事を読んだ顔のない大衆か。
変わるまでの時間を、彼が生き延びられるかどうか、真琴は考えていなかった。
記事が出れば、事実は公になる。不正は裁かれる。関係者は責任を問われる。世論が動く。会社は謝罪する。監督官庁が入る。制度が変わるかもしれない。
それは、正しい流れだった。
ただ、その流れの中に一人の人間が立っていることを、真琴は見落とした。
河野裕樹は、勇敢な告発者ではなかった。
少なくとも、彼自身はそう思っていなかった。
彼は怯えていた。何度も迷い、何度もやめたいと言った。真琴はそのたびに、「あなたの身元は守ります」「匿名で報じます」「公益性があります」と説明した。嘘ではない。実際、記事では彼の名前を出さなかった。年齢も部署もぼかした。資料の出どころが特定されないよう、複数の関係者にあたった。
だが、会社の内部にいる者には分かった。
誰が資料を持ち出せたのか。
誰があの会議に出ていたのか。
誰が、あの数字に疑問を持っていたのか。
真琴が紙面で伏せた事実を、ネットの人間たちは拾い集めた。匿名掲示板、まとめサイト、SNS。正義を娯楽にする者たちは、驚くほど速かった。
河野裕樹の名前は、記事公開から三日後に出た。
その翌日、彼の妹の勤務先が晒された。
母親の古いブログも見つかった。
父親の写真まで拡散された。
河野裕樹は、それから一週間後に死んだ。
真琴は、彼の葬儀に行かなかった。
行けなかった、という言い方は甘い。
行かなかったのだ。
真琴は目を開けた。
パソコンの画面が白く光っている。カーソルが、河野雅彦の名前の後ろで点滅していた。
河野雅彦。
河野裕樹の叔父。
真琴はクラウドに保存していた古い資料を開いた。
退職する時、会社の規定に触れない範囲のメモだけを個人の記録として残した。取材メモではなく、自分のための覚書。後悔の置き場のようなものだった。
河野裕樹。三十二歳。東都メディカルシステムズ、品質管理部。独身。父は元地方公務員。母はパート勤務。妹は看護師。叔父、河野雅彦。元地方紙記者。現在所在不明。
当時、叔父の欄を深く追わなかった。
裕樹本人がほとんど話したがらなかったからだ。叔父は昔、新聞記者だった。だが何かあって辞めたらしい。家族の中では、その話題は避けられていた。真琴はそこに踏み込まなかった。会社の不正とは直接関係がないと判断したからだ。
だが今、河野雅彦は真噤町の二十年前の事故記事に名前を残している。
真琴は、思わず笑った。
笑い声は出なかった。ただ、口元が歪んだ。
自分は何も見ていなかった。
河野裕樹を守ると言いながら、彼の背景にある傷を見ていなかった。叔父がかつて書かなかった記事。言えなかった真実。家族の中に残った沈黙。そのすべてを、真琴は取材対象外として切り捨てた。
記者は、必要な事実を選ぶ。
それは仕事だ。
だが、選ばれなかった事実も消えるわけではない。
夜が更けても、真琴は眠れなかった。
翌朝、八代から連絡があった。
誠一の状態は落ち着いている。だが「藤咲」という名前については、それ以上話せていない。本人はその名前を口にしようとするたびに呼吸が乱れ、医師からも無理に聞くなと言われたという。
久我らしい判断だった。
真琴は八代に、河野雅彦について調べたいと伝えた。
八代はしばらく黙り、それから言った。
「町の古い資料に、少しだけ残っているかもしれません。役場の広報誌や、当時の記者クラブの名簿などです」
「見られますか」
「案内します。ただ、役場の資料室は今、町長経験者や古い職員の資料も入っています。外部の方に見せられないものもあります」
「分かっています」
「分かっている、ですか」
八代は苦笑した。
「この町に来てから、その言葉が少し怖くなりました」
「私もです」
二人は役場で落ち合った。
真噤町役場は、昭和の終わりに建てられたような三階建ての建物だった。外壁はくすんだ灰色で、玄関には町の花である椿の鉢植えが並んでいる。中に入ると、窓口の職員たちが一斉に真琴を見た。
外の人間。
今の真琴は、そう見られている。
だが、完全な外の人間ではなくなりつつあることも、自分で分かっていた。町の死者と倒れた人々に触れ、狐面の神さまを見て、嘘の重さを知った。外から来た者が、町の内側に足を取られている。
資料室は二階の奥にあった。
金属製の棚が並び、古いファイルと段ボールが詰め込まれている。埃の匂いがした。八代は窓を少し開け、蛍光灯をつけた。
「河野雅彦さんは、当時、県央日報の記者だったようです。真噤町を含む山間部担当で、役場にもよく出入りしていたと聞いています」
「聞いている?」
「私は当時小学生ですから」
「知っている人は?」
「退職した元総務課長が詳しいかもしれません。ただ、今は施設に入っています。認知症も進んでいて、聞き取りは難しいと思います」
「資料で追うしかないですね」
真琴は棚のファイルを開いた。
広報まかみ。
町議会だより。
観光振興計画。
地域安全協議会議事録。
真噤中学校創立百周年記念誌。
紙の束をめくるたびに、過去の町が立ち上がってくる。祭りで笑う子どもたち。観光計画に期待を寄せる商店主。新しい橋の開通式。防災訓練。地域の美談。どれも明るく整えられている。
どの町にもある、見せたい顔。
真琴は、その顔の下を探した。
河野雅彦の名前は、平成十年代初頭の広報誌に何度か出てきた。町の観光振興に関する座談会。地方紙記者としてコメントしている。
――外から人を呼ぶには、町の物語をきちんと伝えることが大切です。
若いころの写真も載っていた。四十代前半くらいだろう。眼鏡をかけ、少し痩せた顔の男。真面目そうだが、目元に疲れがある。
真琴はその写真を見て、河野裕樹を思い出した。
似ていた。
血縁だから当然かもしれない。だが、単なる顔立ちではない。何かを言いかけて飲み込んでいるような目が似ていた。
「この人が、透さんの記事を書いた」
八代が呟いた。
「ええ」
「なぜ、事故と書いたんでしょう」
「警察発表に従ったのかもしれません」
「それだけでしょうか」
八代の声には、責めではなく不安があった。
真琴は答えなかった。
記者は警察発表をそのまま記事にすることがある。特に地方の小さな死亡事故なら、独自取材をする余裕がない場合もある。だが、河野雅彦は真噤町をよく知る担当記者だった。透の死の直後に、町の観光計画が進んでいたことも知っていたはずだ。久我の父が疑いを持っていたなら、その噂が記者の耳に届かなかったとは考えにくい。
知っていて、書かなかった。
その可能性がある。
真琴は次のファイルを開いた。
観光振興計画関連資料。
そこには、町長の挨拶文、事業計画、予算案、住民説明会の記録が綴じられていた。二十年前、真噤町は渓谷と古社を中心に観光客を呼び込もうとしていた。都市部の旅行会社と提携し、メディア露出も計画されていた。
その中に、県央日報への広告出稿計画があった。
真琴は指を止めた。
「八代さん」
「はい」
「当時、町は県央日報に広告を出しています」
「観光特集ですか」
「そうです。かなり大きい。全面広告もある」
「それが何か?」
八代は本気で分かっていないようだった。
「地方紙にとって、自治体の広告は重要です。観光特集、移住促進、地域振興。町と新聞社は近い関係になる」
「つまり」
「河野雅彦は、町を批判しにくい立場にいた可能性があります」
八代はファイルを見つめた。
「真実を書かなかったのは、町のため?」
「町のため。新聞社のため。自分の仕事のため。澄江さんを守るため。子どもたちの将来のため。理由はいくつも作れます」
「理由があれば、許されますか」
「許されません」
真琴は即答した。
その強さに、自分で驚いた。
河野雅彦を責めているのか。
それとも、かつての自分を責めているのか。
分からなかった。
真琴はさらに資料をめくった。
やがて、一枚のコピーに行き当たった。
町長宛ての文書。差出人は、県央日報真噤支局、河野雅彦。
日付は、有坂透の事故記事が出る三日前だった。
内容は、観光特集記事に関する確認依頼だった。特集の見出し案、取材先、写真提供についてのやり取り。何の変哲もないビジネス文書だ。
だが、余白に手書きのメモがあった。
――中学校の件、確認要。橋。生徒間トラブル?
真琴は息を止めた。
「これ」
八代が覗き込む。
「河野雅彦は、透さんが死ぬ前から中学校の問題を追っていた?」
「少なくとも、何かを知っていた可能性があります」
有坂透が死ぬ三日前。
中学校の件。
橋。
生徒間トラブル。
これが透のことなら、河野雅彦は事故が起きる前から兆候を掴んでいたことになる。
真琴はコピーを写真に撮った。
「この文書、複写できますか」
「確認します。ただ、持ち出しは難しいかもしれません」
「写真だけでも」
「上に確認します」
八代がそう言った時、資料室の扉が開いた。
立っていたのは、初老の男だった。髪をきっちり撫でつけ、濃紺のスーツを着ている。役場の職員ではない。だが、この場所にいることを誰も咎めない種類の人間だと、真琴はすぐに分かった。
八代が顔を強張らせる。
「藤咲議員」
男は八代を見た後、真琴に視線を移した。
「東京から来たライターさんですか」
藤咲。
その姓に、真琴の神経が反応した。
「三枝真琴です」
「町議の藤咲勝彦です」
男は名乗った。
藤咲勝彦。
六十代前半。落ち着いた物腰だが、目には油断がない。長く町の政治に関わってきた人間の目だった。
「資料室で何を?」
藤咲は穏やかに尋ねた。
八代が先に答えようとしたが、真琴は遮った。
「町の観光振興について調べています」
「それはありがたい。外の方に町の良さを知っていただけるのは、喜ばしいことです」
「二十年前の観光計画にも興味があります」
「古い話ですね」
「当時、中学校の件というメモが残っています。橋、生徒間トラブルとも」
八代が小さく息を呑んだ。
藤咲の表情は変わらなかった。
「古い資料には、いろいろな書き込みがあります。誰が何を書いたかも分からない」
「この文書の差出人は河野雅彦です」
「新聞記者でしたね。懐かしい名前です」
「ご存じですか」
「町を担当していた記者ですから」
「有坂透さんの記事を書いた人でもあります」
その瞬間、藤咲の目の奥がわずかに動いた。
わずかだが、真琴には分かった。
「三枝さん」
藤咲は柔らかい声で言った。
「町の過去を掘り返すことは、必ずしも町のためになりません」
「町のためとは、誰のためですか」
「住民のためです」
「住民の中には、有坂澄江さんも含まれますか」
「もちろんです」
「では、彼女が息子の死について知らないまま二十年生きていることも、住民のためですか」
八代が「三枝さん」と小さく言った。
藤咲は笑みを消さなかった。
「有坂さんは、長い時間をかけて息子さんの死を受け入れてこられました。今さら外の方が不用意に触れれば、どれほど傷つくか」
「傷つけたくないなら、なぜ二十年前に説明しなかったんですか」
「説明?」
「事故ではなかった可能性を」
資料室の空気が冷たくなった。
藤咲は一歩、真琴に近づいた。
「三枝さん。あなたは、何を根拠にそんなことを?」
「今は言えません」
「根拠もなく、そんなことを口にするのは危険です」
「危険だからこそ、根拠を探しています」
「この町では」
藤咲の声が、わずかに低くなった。
「言葉は慎重に扱うべきです」
「その言葉を、この数日で何度も聞きました」
「なら、理解された方がいい」
「理解し始めています。言葉を慎重に扱うことと、真実を隠すことは違うと」
藤咲の目から、わずかに笑みが消えた。
その時、資料室の窓の外で、何か白いものが動いた。
真琴は視線だけを向けた。
向かいの建物の屋上に、白い狐面が見えた気がした。
一瞬だった。
次に見た時には、もういなかった。
「八代さん」
藤咲は真琴から目を離さずに言った。
「外部の方に資料を見せる場合は、上長の許可を取るように」
「はい」
「特に、個人名の含まれる古い資料は慎重に」
「承知しています」
「三枝さん」
藤咲は改めて真琴に向き直った。
「町のためになる記事を期待しています」
「私が書くものが、町のためになるかどうかは分かりません」
「では、何のために書くのですか」
真琴は答えられなかった。
藤咲は、その沈黙に満足したように軽く会釈し、資料室を出ていった。
扉が閉まる。
八代が大きく息を吐いた。
「危険です」
「そうですね」
「あの人は、町議会で長く力を持っている人です。父親も昔、町長をしていました。観光振興計画の中心にいた家です」
「藤咲莉子さんとは?」
「孫です」
真琴は目を閉じた。
やはり、つながった。
藤咲莉子の家系は、二十年前に町の観光計画を進めた側にいる。もし有坂透の死に藤咲家の誰かが関わっていたなら、町が事故で処理した理由はさらに明確になる。
町を守る。
観光を守る。
有力者の家を守る。
澄江を守る。
子どもの将来を守る。
いくつもの守るが重なって、ひとりの少年の死が埋められた。
「河野雅彦は、藤咲家と町の圧力で記事を書けなかった」
真琴は呟いた。
「そう考えていますか」
「可能性です」
「もしそうなら」
八代は言葉を切った。
「もしそうなら、兄は」
「まだ決めないでください」
真琴は言った。
「あなたのお兄さんが見ていたものと、藤咲家がしたことと、町が隠したことは、分けて考える必要があります」
「分けられますか」
「分けなければ、全員が一つの罪に潰されます」
八代は黙った。
資料室を出る前、真琴は河野雅彦の写真をもう一度見た。
彼は何を知っていたのか。
何を書けなかったのか。
そして、書かなかった真実は、どのように甥の人生へ影を落としたのか。
役場を出た後、真琴は町の外れにある小さな公園へ向かった。
そこなら、人目を避けて電話ができる。古い取材先へ連絡するためだった。
相手は、かつて同じ新聞社にいた先輩記者の笹井だった。真琴より十歳ほど上で、退職後もフリーのジャーナリストとして活動している。真琴が会社を辞めた後、数少ない連絡先の一人だった。
電話は三回目のコールでつながった。
「珍しいな、三枝」
笹井の声は、以前とほとんど変わらなかった。少しかすれた、煙草焼けした声。
「お久しぶりです」
「元気か、と聞くのも変だな。元気なら俺に電話なんかしてこない」
「調べたいことがあります」
「だろうな」
真琴は、河野雅彦の名前を出した。
電話の向こうで、笹井の空気が変わった。
「どこでその名前を?」
「真噤町という町に来ています。二十年前、中学生の死亡事故の記事を書いていました」
「真噤町……」
笹井は低く呟いた。
「知っているんですか」
「河野裕樹の件で、少し調べた」
真琴の手に力が入った。
「なぜ私に言わなかったんですか」
「言える状態じゃなかっただろ、お前」
その一言で、真琴は黙った。
河野裕樹の死後、真琴は会社を辞め、誰ともまともに話せなかった。笹井から何度か連絡があったが、ほとんど返さなかった。言えなかったのではない。自分が聞く耳を持っていなかったのだ。
「河野雅彦は、裕樹の叔父だ」
「それは知っています」
「昔は優秀な地方記者だったらしい。役所にも警察にも学校にも食い込んでいた。だが、ある中学生の死亡事故を境に辞めた」
「有坂透」
「たぶん、それだ」
真琴はベンチに座った。
「河野雅彦は何をしたんですか」
「何もしなかった」
笹井は言った。
「少なくとも、表向きは」
「何もしなかった?」
「事故として処理された記事を書いた。続報はなし。ただ、その後に新聞社を辞めている。理由は体調不良とされているが、内部では揉めたらしい」
「何に?」
「その事故を追うべきだと主張したが、上が止めたという話がある」
「なぜ止めたんですか」
「自治体広告。観光振興。地元有力者との関係。よくある話だ」
よくある話。
その言葉が重かった。
ひとりの少年の死が、よくある話の中に入れられる。
「河野雅彦は、その後どうなりましたか」
「一時期、告発系のフリー記事を書こうとしていたらしい。でも、ほとんど世に出ていない。家族とも距離を置いた。裕樹が不正告発にこだわったのは、叔父の影響があったのかもしれない」
「裕樹さんが?」
「お前、聞いていなかったのか」
「叔父が元記者だという程度しか」
「裕樹は、叔父が書けなかった真実にずっと引っかかっていたらしい。会社の不正を見つけた時、自分は黙らないと周囲に言っていたそうだ」
真琴は言葉を失った。
河野裕樹は、ただ会社の不正に憤ったわけではなかった。
叔父が書けなかった真実。
家族の中に残った沈黙。
それを埋めるように、彼は告発したのかもしれない。
そして真琴は、その告発を記事にした。
彼の中にどれほどの過去が積もっていたのかも知らずに。
「笹井さん」
「何だ」
「私は、彼の何を見ていたんでしょうね」
電話の向こうで、笹井が黙った。
「三枝」
「はい」
「記者は全部見られない」
「それは免罪符ですか」
「違う。事実だ」
「事実なら、なおさら嫌です」
「嫌でも事実だ。全部見られないから、見えるものを丁寧に扱うしかない。お前はあの時、それをできなかった」
真琴は目を閉じた。
慰めではなかった。
だが、今の彼女には、その方がありがたかった。
「はい」
「でも、お前だけが殺したわけじゃない」
「その言葉は、もう何度も聞きました」
「なら別の言い方をする。お前は関わった。関わった責任はある。でも全部を背負うな。全部背負った気になるのも、傲慢だ」
真琴は、ベンチの背にもたれた。
全部背負った気になるのも、傲慢。
その言葉は痛かった。
自分はずっと、河野裕樹の死を背負っているつもりだった。罪の意識に押し潰されることで、責任を取っている気になっていたのかもしれない。だがそれは、彼の人生も、彼の家族も、彼を追い詰めた会社も、ネットの群衆も、すべてを自分の物語に取り込む行為でもあった。
「河野雅彦の所在は分かりますか」
真琴は尋ねた。
「最後に聞いたのは、県北の療養施設にいるという話だ。ただ、かなり前だ。今もいるかは分からない」
「施設名は」
「調べて送る。ただし、会えるとは限らないぞ」
「分かっています」
「三枝」
「はい」
「今度は、急ぐな」
真琴は苦笑した。
「みんなに言われます」
「なら、よほど危なっかしいんだろ」
「そうですね」
「真実は、出せば終わりじゃない。出した後に何が起きるかまで見ろ」
その言葉は、真琴の胸に深く沈んだ。
電話を切った後、しばらく公園のベンチに座っていた。
遊具は古く、誰も遊んでいない。滑り台の下に落ち葉が溜まっている。町の子どもたちは、どこで遊ぶのだろう。あるいは、遊ぶ声もこの町では慎まれるのだろうか。
ふと、ブランコの方に白いものが見えた。
狐面の神さまが、ブランコに座っていた。
真琴は驚かなかった。
もう、その存在に慣れ始めている自分が嫌だった。
「盗み聞きですか」
「神さまは、だいたい聞いているものだよ」
「便利ですね」
「便利なら、もっと幸せそうな顔をしている」
神さまはブランコを小さく揺らした。錆びた鎖が、きい、と鳴る。
「河野雅彦のことを調べたんだ」
「あなたは知っていたんですね」
「知っているよ」
「彼は、なぜ書かなかったんですか」
「書こうとした」
「でも書かなかった」
「うん」
「町が止めた?」
「町も、新聞社も、自分も」
神さまは足元の落ち葉を見た。
「真実を書かない理由は、ひとつじゃない。お金。立場。家族。恐怖。優しさ。言い訳。全部混ざる。混ざったものは、きれいに裁けない」
「裁かれなかったから、有坂透さんは事故にされた」
「そうだね」
「河野裕樹さんは、その書かれなかった真実の影響を受けた」
「かもしれない」
「そして、私の記事で死んだ」
「そうだね」
即答だった。
真琴は神さまを睨んだ。
「少しは言い方を選んだらどうですか」
「君は選んでほしいの?」
「……いいえ」
「じゃあ、言う。河野裕樹は、君の記事で死んだ」
胸に刃が入った。
「でも、君だけで死んだわけじゃない」
神さまは続けた。
「会社の不正。叔父の沈黙。家族の期待。ネットの暴力。君の記事。彼自身の正義。全部で死んだ」
「慰めですか」
「診断」
「医者みたいなことを」
「今日、医者と話したからね」
神さまはブランコから降りた。
「ねえ、真琴。君は真実を書いた人。河野雅彦は真実を書かなかった人。どちらが罪深いと思う?」
真琴は答えなかった。
「書いたら人が死んだ。書かなかったら人が死んだ。面白いね」
「面白くありません」
「人間は、どちらを選んでも後悔する。だから神さまが嘘をあげる。後悔しなくて済むように」
「それは救いではありません」
「じゃあ何?」
「麻酔です」
「久我先生の影響を受けてる」
「麻酔は手術のために使うものです。逃げるために使い続けたら、体が腐る」
神さまは黙った。
真琴は立ち上がった。
「私は、河野雅彦に会います」
「会ってどうするの」
「聞きます。彼が何を書こうとして、何を書かなかったのか」
「年寄りをいじめるの?」
「違います」
「本人はもう壊れているかもしれないよ」
「それでも、彼の言葉を本人のものとして聞きたい」
「君は本当に聞ける?」
神さまは真琴を見上げた。
「自分の過去を責めるための材料としてじゃなく、彼を彼として聞ける?」
真琴は言葉を失った。
白い狐面の奥から、視線だけがこちらを貫いているようだった。
「君は、何でも自分の罪につなげたがる。大月慎吾の死も、篠原美奈のことも、藤咲莉子の母親も、河野裕樹も。そうすれば、分かりやすいから」
「分かりやすい?」
「悪いのは私です、って言うのは楽なんだよ。自分を罰していれば、他の複雑なものを見なくて済む」
真琴は拳を握った。
「あなたに何が分かるんですか」
「分かるよ」
神さまの声が、急に低くなった。
「僕も、全部自分のせいだと思っていたから」
その言葉に、真琴は動けなくなった。
神さまはすぐに、いつもの調子へ戻った。
「河野雅彦に会うなら、ひとりで行かない方がいい」
「なぜ」
「書かなかった人の言葉は、書いた人の言葉より重いことがある」
それだけ言って、神さまは消えた。
夕方、真琴のスマートフォンに笹井からメッセージが届いた。
河野雅彦が入所している可能性のある施設名と住所。県北の山沿い。真噤町から車で二時間半ほどの場所だった。
同時に、添付ファイルが一つあった。
件名。
――河野雅彦未掲載原稿らしきもの。
真琴は息を止めた。
添付ファイルを開く。
画質の悪いスキャン画像だった。手書きではなく、ワープロで打たれた原稿。日付は、有坂透の死から十日後。
見出し案。
――真噤町中学生死亡事故 いじめの可能性 学校・町は否定
真琴の心臓が強く打った。
本文には、透が死亡前に複数の同級生から暴力を受けていた疑い、担任に相談していた可能性、橋付近で複数の生徒が目撃されていたという住民証言、久我診療所の医師が遺体の打撲に疑問を持っていたことが書かれていた。
そして文末近くに、名前があった。
――関係者によれば、現場付近にいた生徒の中には、当時町長の孫にあたる藤咲某の姿もあったという。
藤咲。
真琴は画面を凝視した。
某、とぼかされている。だが、これが事実なら、藤咲家の人物は現場にいた。
河野雅彦は、書こうとしていた。
未掲載の原稿を書いていた。
だが世に出なかった。
真琴は、続きを読んだ。
最後の一文で、指が止まった。
――町の発展のために一人の死を事故として処理するなら、この町は観光地になる前に、言葉の墓場になる。
言葉の墓場。
真琴は画面を見つめたまま、長く動けなかった。
河野雅彦は、書かなかったのではない。
書いた。
だが、出せなかった。
出せなかった原稿は、どこへ行くのか。
机の引き出しへ。
誰かのパソコンの奥へ。
家族の沈黙へ。
甥の正義へ。
そして二十年後、真琴の画面へ。
真琴はファイルを保存した。
その時、ドアが激しく叩かれた。
「三枝さん!」
八代の声だった。
真琴は急いで扉を開けた。
八代は息を切らしていた。顔面蒼白だった。
「どうしました」
「莉子さんが」
真琴の胸が凍った。
「藤咲莉子さんが、いなくなりました」
「いつから」
「夕方、鳴瀬先生が家に行ったら、部屋にいなかったそうです。スマホも置いたままです」
「行き先は」
八代は唇を震わせた。
「橋かもしれません」
また橋。
真琴は鞄を掴んだ。
その瞬間、パソコンの画面に映る未掲載原稿の最後の一文が目に入った。
言葉の墓場。
真琴は思った。
この町は、言葉を埋めてきた。
けれど、埋められた言葉は死なない。
子どもたちの足元で腐り、いつか別の子どもを引きずり込む。
有坂透の死は、終わっていなかった。
藤咲莉子の失踪は、その証拠だった。
「鳴瀬先生は?」
「もう探しています。久我先生にも連絡しました」
「藤咲家には」
「まだです」
「なぜ」
「議員に伝えれば、町が騒ぎになります」
真琴は八代を見た。
八代はすぐに、自分の言葉の意味に気づいたようだった。
町が騒ぎになる。
そのために、また誰かの行方不明を伏せるのか。
「すみません」
八代は青ざめた顔で言った。
「今のは」
「行きましょう」
真琴は遮った。
「誰かを責めるのは後です。まず、莉子さんを見つけます」
二人は旅館を飛び出した。
外はもう暗かった。
山から吹き下ろす風の中に、川の匂いが混じっている。
真琴は走りながら、河野雅彦の未掲載原稿の一文を思い出していた。
言葉の墓場。
もしこの町が本当にそうなら、自分は今、墓を掘り返している。
だが、墓の下には死者だけではなく、まだ生きている子どもが埋まりかけている。
ならば掘るしかない。
たとえ、手が血まみれになっても。




