第五章 診断名は救いか
真噤町診療所は、役場から歩いて五分ほどの場所にあった。
白い二階建ての建物で、入口には小さなスロープがついている。新しくはないが、古びてもいない。壁には蔦が絡まり、玄関脇の花壇にはパンジーが植えられていた。町の他の建物と同じように、静かで、手入れが行き届いている。
待合室には、朝から数人の患者がいた。
腰の曲がった老人。母親に連れられた小学生。作業着姿の男。誰も大きな声では話さない。テレビはついているが、音量は低く、天気予報の声がかすかに流れているだけだった。
壁には、生活習慣病予防のポスターと、インフルエンザワクチンの案内が貼られている。その横に、手書きの紙が一枚あった。
――不安なことは、ひとりで抱えず、診察室でお話しください。
真琴はその文字を見て、しばらく立ち止まった。
この町でよく見る標語とは違っていた。
口は災い。噂は命取り。確かめる前に、口にするな。
そういう閉じる言葉ではない。
不安なことは、ひとりで抱えず。
鳴瀬灯の教室に貼られていた言葉に近い。
それなのに、この診療所の医師は、大月慎吾の死を急性心不全として処理し、篠原美奈や藤咲莉子の母親についても、町の呪いには触れず、医学的な言葉で片づけている。
真琴は受付に名刺を出した。
「三枝真琴と申します。久我先生にお時間をいただいています」
受付の女性は、名刺を一瞥し、奥へ消えた。しばらくして戻ってくる。
「診療の合間になりますので、十分ほどでしたら」
「構いません」
嘘だった。
十分で足りるはずがない。
けれど、真琴はそう答えた。ここで粘っても意味はない。医師の時間は、患者のものでもある。
案内された診察室は、簡素だった。
机、診察台、椅子、パソコン、血圧計、聴診器。棚には医学書が並び、壁には人体図が貼られている。どこの診療所にもある光景だ。だが、窓際に古い木箱が置かれているのが目についた。箱の上には、白い布がかけられている。
医師は机の向こうに座っていた。
久我怜司。
年齢は四十代半ばくらい。黒髪に少し白いものが混じり、眼鏡の奥の目は鋭い。白衣は清潔で、胸ポケットにはペンが三本並んでいる。感情の起伏を抑えた顔だった。冷たいというより、常に何かを測っているような目をしている。
「三枝さんですね」
「はい」
「八代さんから話は聞いています。町の取材をしていると」
「今は、町の事故と死亡について調べています」
久我は表情を変えなかった。
「でしょうね」
「驚かないんですね」
「この数日、あなたが動けばそうなるだろうと思っていました」
「止めないんですか」
「止めて止まる方なら、ここには来ていないでしょう」
久我は机の上のカルテを閉じた。
「ただし、患者の個人情報については話せません」
「承知しています」
「承知している人ほど、後で踏み込みます」
「では、踏み込まないように質問します」
「どうぞ」
真琴は椅子に座った。
「大月慎吾さんの死因は、急性心不全と聞きました」
「そう聞いたのであれば、それ以上私から申し上げることはありません」
「久我先生が診たんですか」
「搬送前に状態は確認しました」
「喫茶店で倒れた直後、彼は喉を詰まらせたような状態でした」
「あなたは医師ですか」
「違います」
「では、医学的判断はできません」
「できません。だから聞いています」
久我は、ほんの少しだけ目を細めた。
「急性心不全という言葉は、便利すぎると思いませんか」
真琴は続けた。
「心臓が止まれば、広い意味では急性心不全です。でも、それはなぜ止まったのかを説明していない。死因というより、死亡時の状態に近い」
「よくご存じですね」
「記者時代に、何度も見ました。説明を終わらせるための診断名として」
「私は説明を終わらせるために診断名を使ったことはありません」
「本当に?」
「ええ」
「では、大月さんはなぜ死んだんですか」
「答えられません」
「個人情報だから?」
「それもあります」
「他には?」
久我は少し黙った。
診察室の外から、子どもの咳が聞こえた。受付の女性が小さく声をかけている。日常の音だった。その音が、会話の異様さをかえって際立たせていた。
「三枝さん」
久我は言った。
「あなたは、死因を正確に知ることが常に遺族の救いになると思いますか」
「常に、とは思いません」
「意外ですね」
「私も、いくつか失敗していますから」
久我はその言葉に反応した。
「失敗」
「正しいことを書けばいいと思っていた時期がありました」
「今は?」
「分からなくなりました」
「なら、分からないままにしておく選択肢もある」
「それと、知ることを諦めることは違います」
真琴が言うと、久我はかすかに笑った。
笑ったと言っても、口元がほんの少し動いただけだった。
「なるほど。八代さんがあなたを呼んだ理由が少し分かりました」
「八代さんは、何を期待しているんでしょうね」
「自分が背負わずに済む終わり方でしょう」
真琴は眉を動かした。
「厳しいですね」
「彼は善良です。だから危うい。善良な人間ほど、自分が誰かを救いたがっているのか、自分が救われたがっているのか、分からなくなる」
「先生はどうなんですか」
「私は善良ではありません」
「なら、何ですか」
「医師です」
久我は短く答えた。
真琴は、その答えを簡単には受け取らなかった。医師であることを盾にしているのか、それとも医師であることしか自分に許していないのか。判断はつかない。
「篠原美奈さんは?」
「意識は戻っていません。市立病院に搬送されています」
「原因は」
「強い精神的ショックと、それに伴う循環器系の異常。持病の有無は病院側で確認中です」
「藤咲莉子さんのお母さんは?」
「命に別状はありません。過換気と失神です」
「八代誠一さんは」
「強い不安発作。外傷はありません」
「大月さんだけが死んだ」
久我は沈黙した。
「なぜですか」
「人は、それぞれ違います」
「それだけですか」
「医学的には」
「この町では、本当のことを言うと人が死ぬと聞きました」
久我は、驚かなかった。
むしろ、ようやく本題に来たという顔をした。
「誰から?」
「白い狐面の人物から」
「なるほど」
「先生も見たことが?」
「あります」
あまりにも平然と認めたので、真琴の方が驚いた。
「信じているんですか」
「見たものを見ていないとは言いません。ただし、それを医学的な説明に使うことはありません」
「使わないだけで、存在は認めている」
「存在という言葉が適切かは分かりません。集団的な幻覚、町に蓄積したトラウマの象徴、あるいは別の何か。診断名をつけるには材料が足りません」
「神さまに診断名をつけるつもりですか」
「つけられるなら、その方が扱いやすい」
真琴は思わず笑いそうになった。
だが、笑えなかった。
久我は本気だった。
「先生は、この町の異常を知っているんですね」
「知っている、というより、診てきました」
「何人も?」
「ええ」
「真実を告げられて倒れた人を?」
「真実とは限りません。噂、告白、暴言、誤解、思い込み。人を壊すのは事実だけではありません」
その言葉は、以前の出来事をそのまま説明しているようだった。
篠原徹の「最初から愛していなかった」という言葉は、事実かどうか分からない。だが美奈には真実として刺さった。
藤咲莉子の母も、娘がいじめられていた可能性だけで倒れた。確定した事実ではなく、断片的な情報と周囲の沈黙によって崩れた。
「それでも、死亡診断書には何かを書かなければならない」
久我は言った。
「呪いによる死亡とは書けませんから」
「書いたらどうなりますか」
「医師免許を疑われるでしょう」
「町の人は納得するかもしれません」
「納得は治療ではありません」
久我は机の上に置いていたペンを指で転がした。
「この町では、多くの人間が納得しやすい言葉を求めます。事故だった。病気だった。仕方なかった。誰も悪くなかった。そういう言葉は、痛みを一時的に鈍らせる」
「嘘は薬、ですか」
久我の指が止まった。
「誰かに言われましたか」
「狐面の神さまに」
「なるほど。あれが言いそうなことです」
「先生も同じ考えですか」
「近いかもしれません」
「嘘を薬として処方する?」
「場合によっては」
真琴は久我を見つめた。
「医師がそれを言うのは危険ではありませんか」
「医師だから言うんです」
久我の声は静かだった。
「正確な診断名が、いつも患者や家族を救うわけではありません」
「では、何を救うんですか」
「時には、医療者側の責任を整理するだけです。時には、法的な処理を進めるだけです。時には、遺族に新しい地獄を与えるだけです」
「言わない方がいい真実もあると?」
「言う時期、言う相手、言う順番、言う場所を誤れば、どんな真実も毒になります」
真琴は鳴瀬の授業を思い出した。
本当のことを一気に言わない。
相手を一人にしない。
断罪語を使わない。
事実と感情を分ける。
久我の言葉は、鳴瀬の授業に似ていた。だが、鳴瀬の言葉には未来があった。久我の言葉には、諦めがある。
「先生は、それを知っていて、なぜ町の沈黙を変えようとしなかったんですか」
真琴が尋ねると、久我は初めて表情を硬くした。
「変えようとしたことがあります」
「いつですか」
「十五年前」
久我は椅子にもたれた。
「私がこの町に戻ってきて、まだ数年のころです」
「戻ってきた?」
「私は真噤町の出身です。大学と研修医時代は町外にいました。父の後を継いで、この診療所を引き受けました」
「十五年前、何が」
久我は窓の外を見た。
診療所の庭には、小さな桜の木があった。冬に近い今は葉を落とし、細い枝だけが空に伸びている。
「町内の工場で事故がありました。若い男性が亡くなった。公式には、機械の誤作動による不慮の事故です」
「実際は?」
「安全装置が故意に外されていた可能性がありました。納期に間に合わせるためです」
「労災隠し」
「そうです」
久我は淡々と言った。
「私は遺族に、事故の背景について調査を求めた方がいいと話しました。死因だけでなく、なぜ死んだのかを知る権利があると思った」
「その後は」
「亡くなった男性の父親が、工場長の家へ怒鳴り込みました。工場長の息子は、その場で過呼吸を起こして倒れた。母親は心筋梗塞で入院した。工場は閉鎖され、残っていた従業員も職を失った。遺族は町にいられなくなって出ていきました」
「安全装置の件は」
「結局、証明できなかった」
久我は真琴を見た。
「私は、間違ったことを言ったとは思っていません。遺族には知る権利があった。調査されるべきだった。でも結果として、救われた人はいませんでした」
「それは、先生のせいでは」
「そう言う人もいました。そう言わない人もいました。私自身は、今でも結論を出せていません」
真琴は、河野裕樹のことを思い出した。
記事は正しかった。
会社の不正はあった。
公益性もあった。
だが、彼は死んだ。
その死を、真琴のせいではないと言う人もいた。取材源保護には限界がある。ネットの特定が悪い。会社の圧力が悪い。本人の精神状態もある。様々な説明があった。
しかし、真琴の中では、何一つ終わっていなかった。
「先生は、それから診断名を曖昧にするようになったんですか」
「曖昧にしているのではありません。医学的に言える範囲だけを言うようにしました」
「同じことでは?」
「違います」
久我の声が、初めて少し強くなった。
「私は嘘の診断書を書いているわけではない。大月慎吾の心臓が止まったことは事実です。篠原美奈が強いショック状態にあることも事実です。藤咲さんの母親が過換気を起こしたことも事実です」
「でも、なぜそうなったのかは書かない」
「医学が扱える範囲と、人間が背負っている物語は違います」
「便利な線引きですね」
「便利ではありません」
久我は真琴をまっすぐ見た。
「毎回、嫌になります」
その声には、初めて疲労が滲んでいた。
「人が倒れる。私は診る。血圧を測り、脈を見る。酸素を入れる。病院へ送る。診断名を書く。でも、診断名はその人がなぜ壊れたかを説明しない。説明しないのに、町の人間はそれで納得した顔をする。心不全だった。過呼吸だった。不安発作だった。だから仕方ないと」
「先生も、その納得に加担している」
「そうです」
久我は認めた。
あまりに早く認めたので、真琴は言葉を失った。
「加担しています。私はこの町の沈黙に、医学の言葉を与えてきました」
「なぜ」
「死なせないためです」
「でも、大月さんは死んだ」
「ええ」
「篠原さんも、藤咲さんのお母さんも倒れた」
「ええ」
「守れていない」
「そうです」
久我は目を伏せた。
「だから、あなたが来たのでしょう」
その言葉は、責任を押しつけるものには聞こえなかった。
むしろ、自分ではもう動けない人間が、最後に外から来た者へ目を向けているようだった。
真琴はしばらく黙っていた。
診察室の外で、受付の女性が次の患者を呼ぶ声がした。久我に残された時間は、もうほとんどない。
「有坂透さんのことを聞かせてください」
真琴は言った。
久我は、ゆっくり顔を上げた。
「なぜ私に?」
「あなたは町の医師です。二十年前はまだ診療所にいなかったとしても、記録を見ているはずです」
「個人情報です」
「有坂透さんは亡くなっています」
「死者にも守られるべきものはあります」
「では、守られるべきものを傷つけない範囲で」
久我は、深く息を吐いた。
「透さんの検案をしたのは、私の父です」
「記録は残っていますか」
「あります」
真琴の心臓が強く打った。
「見せていただけますか」
「本来なら、できません」
「本来なら」
「ええ。本来なら」
久我は椅子から立ち上がった。
「少し待っていてください」
彼は診察室を出ていった。
真琴はひとり残された。
机の上には、閉じられたカルテと、ペン。窓際の木箱。白い布。その布の下に何があるのか気になったが、触れなかった。
待っている間、真琴は自分の手を見た。
この数日で、何人の手を握っただろう。
美奈の冷たい指。
藤咲莉子の母親の震える腕。
橋の上で崩れかけた八代誠一の肩。
どれも、支えきれなかった。
それでも、触れないよりはよかったのか。
分からない。
自分がしていることが、救いなのか、さらなる傷なのか、分からない。
久我が戻ってきた。
手には、古い茶封筒を持っている。
「これは正式なカルテ開示ではありません」
「分かっています」
「あなたがこの内容を不用意に話せば、また誰かが倒れるかもしれない」
「分かっています」
「分かっているという言葉ほど、信用できないものはありません」
「では、どうすれば信用してもらえますか」
久我は真琴を見た。
「信用はしません」
「ではなぜ見せるんですか」
「私も、終わらせたいからです」
久我は封筒を机の上に置いた。
中から出てきたのは、古いコピーだった。原本ではない。紙は黄ばんでおり、文字は手書きだった。
死亡診断書ではなく、検案に関する覚書のようだった。
氏名、有坂透。
年齢、十四歳。
発見場所、葛淵川下流。
推定死因、溺死。
真琴は読み進めた。
そして、ある記述で指を止めた。
左頬部に皮下出血。
右上腕部に把握痕様皮下出血。
背部に擦過傷。
死亡前に生じた可能性。
真琴は顔を上げた。
「これは」
「溺れる前に、暴行を受けた可能性があります」
久我は静かに言った。
「父は、そう疑っていました」
「では、なぜ事故に?」
「警察が事件性を低いと判断しました」
「この所見があって?」
「当時、父は強く言えなかった」
「なぜ」
「町が、事故で終わらせたがっていたからです」
久我の声は低かった。
「観光振興計画が進んでいた。中学生のいじめや暴行死となれば、町の印象は悪くなる。学校も、役場も、警察も、大事にしたくなかった」
「澄江さんは知っているんですか」
「知りません」
「誰が知っているんですか」
「当時の町長、校長、担任、警察関係者、父。そして、おそらく何人かの生徒」
「大月慎吾さん」
「可能性はあります」
「八代誠一さん」
「可能性はあります」
真琴は紙を見つめた。
溺死。
左頬部に皮下出血。
右上腕部に把握痕様皮下出血。
背部に擦過傷。
死亡前に生じた可能性。
たった数行だった。
だが、その数行は二十年の嘘を切り裂くには十分だった。
「先生のお父様は、なぜこれを残したんですか」
「残すしかなかったのでしょう」
「公表しなかったのに?」
「言えなかった真実を、完全に捨てることもできなかった」
久我は窓の外を見た。
「父はその後、体調を崩しました。最後まで、有坂透のことを口にしなかった。ただ、亡くなる前にこの封筒を私に渡した」
「何と言って?」
「診断名だけで人を救えると思うな、と」
真琴は胸の奥が重くなるのを感じた。
医師である父は、診断名で少年の死を閉じた。
そして、そのことを息子に悔いていた。
「このコピーを、私に渡してくれますか」
久我は首を横に振った。
「今はできません」
「なぜ」
「あなたが持てば、走るでしょう」
「走る?」
「澄江さんのところへ。八代さんのところへ。学校へ。誰かに突きつけたくなる。違いますか」
真琴は否定できなかった。
もしこの紙を持てば、すぐに動きたくなる。澄江に知らせるべきか。八代に見せるべきか。鳴瀬に相談するべきか。警察へ行くべきか。記事を書くべきか。
だが、そのどれもが危険だった。
「では、どうするんですか」
「まず、受け止める場所を作る」
「鳴瀬先生のようなことを言うんですね」
「彼女は正しい」
「先生もそう思うなら、なぜ協力しないんですか」
「していないように見えますか」
久我は、少しだけ皮肉に笑った。
「彼女の授業案には、私も助言しています。ショックを受けた人間の反応、過呼吸や失神の対処、言葉による急性ストレス反応。教師が知っておくべきことは多い」
真琴は驚いた。
「鳴瀬先生は、それを」
「知っています。私たちは仲が悪いわけではありません。ただ、彼女は未来を見ている。私は倒れた人間を診る。立っている場所が違う」
「そして、どちらも町を変えきれていない」
「その通りです」
久我はコピーを封筒に戻した。
「三枝さん。あなたが外から来た人間だからこそ、できることがあります」
「何ですか」
「町の誰かを犯人にする前に、町全体が何をしてきたのかを見てください」
「犯人探しでは駄目だと?」
「犯人はいます。透さんを傷つけた人間はいる。隠した人間もいる。責任は曖昧にしてはいけない」
「では」
「でも、いきなり名前を叫べば、また誰かが死ぬ」
久我の声は苦かった。
「この町は、個人の罪と共同体の嘘が絡まりすぎている。どこか一本を乱暴に引けば、全体が崩れる」
「崩す必要があるのでは?」
「あります。ただし、下敷きになる人間を減らす準備をしてからです」
その時、診察室の扉が軽くノックされた。
受付の女性が顔を出した。
「先生、次の患者さんが」
「すぐ行きます」
久我は封筒を机の引き出しにしまった。
「今日はここまでです」
「また来ます」
「でしょうね」
真琴は立ち上がった。
「最後にひとつだけ」
「何でしょう」
「狐面の神さまは、先生には何と言いましたか」
久我は少し考えた。
「私に?」
「はい」
「お医者さんごっこは楽しいか、と」
真琴は言葉を失った。
久我は乾いた笑みを浮かべた。
「返事はしませんでした」
「腹が立ちませんでしたか」
「立ちましたよ」
「だから?」
「だから、まだ医師をしています」
診察室を出ると、待合室の視線が一斉に真琴へ向いた。
老人、母親、小学生、作業着の男。
真琴は、彼らが何を思っているのか分からなかった。外から来た女が、久我医師と何を話していたのか。大月慎吾のことか。篠原美奈のことか。藤咲莉子のことか。有坂透のことか。
この町では、言葉にしない視線もまた、噂の一部だった。
外へ出ると、昼の光が眩しかった。
診療所の前の道に、八代が立っていた。
「先生に会ったんですね」
「はい」
「何を聞きましたか」
「すぐには言えません」
八代は顔を曇らせた。
「私にも?」
「はい」
「なぜ」
「あなたが受け止める準備ができているか、分からないからです」
八代は傷ついたような顔をした。
真琴は続けた。
「でも、隠すつもりではありません。順番を考えたいんです」
「順番」
「それを間違えると、人が倒れます」
八代は何も言わなかった。
彼は昨日、兄が橋で崩れかけるのを見ている。美奈の件も知っている。藤咲莉子の母親のことも、町にはすでに伝わっているだろう。
真琴の言葉を軽くは聞けないはずだった。
「兄が」
八代が言った。
「少しだけ話しました」
「何を」
「透さんに謝りたいと。でも、何を謝るのか聞くと、言葉が出なくなる」
「今は無理に聞かない方がいい」
「三枝さんがそれを言うんですね」
八代は苦笑した。
「私も少しは学びます」
「久我先生に何を見せられたんですか」
真琴は答えなかった。
八代はその沈黙を読んだのだろう。顔を伏せた。
「やはり、事故ではなかったんですね」
「まだ、そう断定して誰かに話せる段階ではありません」
「でも、あなたはそう思っている」
「はい」
八代は両手で顔を覆った。
しばらくそのままだった。
真琴は待った。
今度は、沈黙を急がせなかった。
「兄は」
八代は手を下ろし、かすれた声で言った。
「人を殺したんでしょうか」
「分かりません」
「もしそうなら、私はずっと、兄を守っていたことになる」
「まだ決めないでください」
「でも」
「今ここで決めても、誰も救われません」
それは、鳴瀬や久我から学んだ言葉だった。だが真琴自身の言葉でもあった。
八代は小さく頷いた。
「私は、どうすればいいですか」
「まず、鳴瀬先生と久我先生を交えて話したい。あなたも。澄江さんには、まだ直接言わない」
「澄江さんは、知りたがっています」
「知りたがっていることと、今この瞬間に全てを受け止められることは違います」
「三枝さん」
「はい」
「あなたは変わりましたね」
真琴は少し驚いた。
「会って数日で、分かりますか」
「最初のあなたなら、もう澄江さんの家へ走っていた気がします」
「私もそう思います」
「なぜ止まれるんですか」
真琴は、診療所の壁に貼られていた言葉を思い出した。
不安なことは、ひとりで抱えず、診察室でお話しください。
「ひとりで持つと、落とすからです」
真琴は答えた。
その日の夕方、真琴は緑水荘へ戻った。
部屋に入ると、机の上に置いていた白い菊が少ししおれていた。湯呑みの水を替える。花は弱々しく首を傾げている。
その横に、ノートの切れ端を置いた。
ぼくの町では、ほんとうのことを言うと、言った人が悪いことになります。
有坂透は、十四歳でそれを書いた。
そして、川で死んだ。
溺死。
左頬部に皮下出血。
右上腕部に把握痕様皮下出血。
背部に擦過傷。
死亡前に生じた可能性。
真琴はその文言を頭の中で反復した。
医学的な言葉は冷たい。
だが、冷たいからこそ残るものがある。
泣き声は消える。噂は形を変える。記憶は都合よく書き換えられる。だが、診療記録の数行は、二十年経ってもそこにあった。
久我の父は、何もできなかったのか。
それとも、あの数行を残したことが、彼にできる唯一の抵抗だったのか。
真琴には分からなかった。
パソコンを開く。
取材メモに、新しい項目を作った。
――有坂透の死因について。
そこまで打って、指が止まった。
死因。
診断名。
事故。
急性心不全。
過換気。
不安発作。
言葉は、物事を整理する。
同時に、物事を閉じる。
閉じられた言葉の奥で、人は泣き続ける。
真琴は、新しい一行を打った。
――診断名は、真実の終点ではない。
その時、窓の外に気配がした。
見なくても分かった。
白い狐面が、庭の梅の木の下に立っていた。
真琴は窓を開けなかった。
ただ、ガラス越しに見た。
神さまは、こちらへ向かって小さく首を傾けた。
声は聞こえないはずだった。
だが、なぜか耳元で囁かれたように聞こえた。
「見たんだね」
真琴は答えなかった。
「溺死、皮下出血、擦過傷。いい言葉だ。人間は、難しいものに名前をつけると安心する」
真琴は窓を開けた。
「安心なんかしていません」
「でも、少し嬉しかったでしょう。証拠が出たから」
その言葉に、真琴は胸を突かれた。
否定できなかった。
久我からコピーを見せられた瞬間、真琴の中には確かに、真実に近づいたという高揚があった。死んだ少年の痛みを前にして、取材者としての興奮がかすかに蘇った。
そのことが、たまらなく嫌だった。
「人は、他人の傷を手がかりにして進む時がある」
神さまは言った。
「記者も、医師も、教師も、役場の人間も。みんな、誰かの傷の周りで仕事をしている」
「だからこそ、慎重であるべきです」
「慎重すぎると、腐る」
「急げば、壊れる」
「難しいね」
神さまは笑った。
「人間は、こんな難しいものを毎日扱っているのに、自分たちは賢いと思っている」
「あなたはどうなんですか」
「僕?」
「二十年も嘘を処方し続けて、町はよくなりましたか」
神さまは黙った。
真琴は続けた。
「大月慎吾は死にました。八代誠一は壊れかけている。有坂澄江は何も知らないまま二十年生きた。篠原美奈も、藤咲莉子の母親も倒れた。あなたの薬は効いていない」
「効いていたから、二十年もった」
「それを生きているとは言いません」
「じゃあ、何と言うの」
「延命です」
神さまは、少しだけ顔を上げた。
狐面の奥の目は見えない。だが、言葉が届いたことは分かった。
「延命か」
「はい」
「医者みたいなことを言う」
「久我先生に会いました」
「彼はいい医者だよ」
「皮肉ですか」
「本気だよ。いい医者ほど、よく嘘を吐く」
「最低の褒め言葉ですね」
「最高だよ」
神さまは、梅の木の枝に触れた。
「真琴。君はこれから、もっと嫌なものを見る。診断名では片づかないもの。事故では片づかないもの。いじめでは片づかないもの。犯人の名前だけでは片づかないもの」
「それでも見ます」
「そして、書く?」
真琴はすぐには答えなかった。
神さまは静かに待っていた。
以前なら、確認してから決めます、と言っただろう。
今もその答えは間違っていない。
だが、それだけでは足りない。
「書くかどうかより先に、受け止める場所を作ります」
真琴は言った。
神さまは笑わなかった。
「それができなかったら?」
「その時は、また誰かが死ぬ」
「自分で分かっているんだ」
「はい」
「怖くない?」
「怖いです」
「なら逃げればいい」
「逃げたことがあります」
真琴は、河野裕樹の葬儀に行かなかった日のことを思い出した。
黒い喪服を出したまま、玄関で動けなくなった。行けば何かが終わると思っていた。だが、行かなかった。結果、何も終わらなかった。
「逃げても、死者は消えませんでした」
神さまはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「死者は消えないよ。名前を変えても、診断名をつけても、事故にしても」
「あなたがそれを言うんですか」
「僕が一番知っている」
その声は、初めて少年のように聞こえた。
真琴が何か言おうとした時、スマートフォンが鳴った。
八代からだった。
真琴は窓の外を見た。
神さまはもういなかった。
通話に出る。
「三枝さん」
八代の声は震えていた。
「兄が、少し話しました」
「何を」
「透さんの検案書のことを知っていたようです。父が、当時それを家で話していたと」
「お父様が?」
「うちの父は、役場で事故処理に関わっていました」
真琴は息を止めた。
「兄は言いました」
八代の声がかすれる。
「あの日、透さんは橋で落ちたんじゃない。落とされたんだ、と」
真琴は窓の外を見た。
庭は暗く、梅の木の影だけが揺れている。
八代は続けた。
「そして、落としたのは大月慎吾ではない、と」
「誰ですか」
「そこから先は、また話せなくなりました。でも兄は、何度も同じ名前を口にしようとして」
「名前?」
「はい」
八代は一度、息を呑んだ。
「藤咲、という名前です」
真琴の頭に、いくつもの線が走った。
藤咲莉子。
藤咲莉子の母親。
そして二十年前の事件。
「莉子さんの家系と、透さんの事件がつながるかもしれません」
八代が言った。
真琴は返事をしなかった。
窓の外で、風が吹いた。
白い菊の花弁が一枚、湯呑みの水面に落ちた。




