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真実を語ると人が死ぬ街で、嘘つきの神さまを殺すまで  作者: 二条理|アコンプリス


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5/12

第五章 診断名は救いか

 真噤町診療所は、役場から歩いて五分ほどの場所にあった。

 白い二階建ての建物で、入口には小さなスロープがついている。新しくはないが、古びてもいない。壁には蔦が絡まり、玄関脇の花壇にはパンジーが植えられていた。町の他の建物と同じように、静かで、手入れが行き届いている。

 待合室には、朝から数人の患者がいた。

 腰の曲がった老人。母親に連れられた小学生。作業着姿の男。誰も大きな声では話さない。テレビはついているが、音量は低く、天気予報の声がかすかに流れているだけだった。

 壁には、生活習慣病予防のポスターと、インフルエンザワクチンの案内が貼られている。その横に、手書きの紙が一枚あった。

 ――不安なことは、ひとりで抱えず、診察室でお話しください。

 真琴はその文字を見て、しばらく立ち止まった。

 この町でよく見る標語とは違っていた。

 口は災い。噂は命取り。確かめる前に、口にするな。

 そういう閉じる言葉ではない。

 不安なことは、ひとりで抱えず。

 鳴瀬灯の教室に貼られていた言葉に近い。

 それなのに、この診療所の医師は、大月慎吾の死を急性心不全として処理し、篠原美奈や藤咲莉子の母親についても、町の呪いには触れず、医学的な言葉で片づけている。

 真琴は受付に名刺を出した。

「三枝真琴と申します。久我先生にお時間をいただいています」

 受付の女性は、名刺を一瞥し、奥へ消えた。しばらくして戻ってくる。

「診療の合間になりますので、十分ほどでしたら」

「構いません」

 嘘だった。

 十分で足りるはずがない。

 けれど、真琴はそう答えた。ここで粘っても意味はない。医師の時間は、患者のものでもある。

 案内された診察室は、簡素だった。

 机、診察台、椅子、パソコン、血圧計、聴診器。棚には医学書が並び、壁には人体図が貼られている。どこの診療所にもある光景だ。だが、窓際に古い木箱が置かれているのが目についた。箱の上には、白い布がかけられている。

 医師は机の向こうに座っていた。

 久我怜司。

 年齢は四十代半ばくらい。黒髪に少し白いものが混じり、眼鏡の奥の目は鋭い。白衣は清潔で、胸ポケットにはペンが三本並んでいる。感情の起伏を抑えた顔だった。冷たいというより、常に何かを測っているような目をしている。

「三枝さんですね」

「はい」

「八代さんから話は聞いています。町の取材をしていると」

「今は、町の事故と死亡について調べています」

 久我は表情を変えなかった。

「でしょうね」

「驚かないんですね」

「この数日、あなたが動けばそうなるだろうと思っていました」

「止めないんですか」

「止めて止まる方なら、ここには来ていないでしょう」

 久我は机の上のカルテを閉じた。

「ただし、患者の個人情報については話せません」

「承知しています」

「承知している人ほど、後で踏み込みます」

「では、踏み込まないように質問します」

「どうぞ」

 真琴は椅子に座った。

「大月慎吾さんの死因は、急性心不全と聞きました」

「そう聞いたのであれば、それ以上私から申し上げることはありません」

「久我先生が診たんですか」

「搬送前に状態は確認しました」

「喫茶店で倒れた直後、彼は喉を詰まらせたような状態でした」

「あなたは医師ですか」

「違います」

「では、医学的判断はできません」

「できません。だから聞いています」

 久我は、ほんの少しだけ目を細めた。

「急性心不全という言葉は、便利すぎると思いませんか」

 真琴は続けた。

「心臓が止まれば、広い意味では急性心不全です。でも、それはなぜ止まったのかを説明していない。死因というより、死亡時の状態に近い」

「よくご存じですね」

「記者時代に、何度も見ました。説明を終わらせるための診断名として」

「私は説明を終わらせるために診断名を使ったことはありません」

「本当に?」

「ええ」

「では、大月さんはなぜ死んだんですか」

「答えられません」

「個人情報だから?」

「それもあります」

「他には?」

 久我は少し黙った。

 診察室の外から、子どもの咳が聞こえた。受付の女性が小さく声をかけている。日常の音だった。その音が、会話の異様さをかえって際立たせていた。

「三枝さん」

 久我は言った。

「あなたは、死因を正確に知ることが常に遺族の救いになると思いますか」

「常に、とは思いません」

「意外ですね」

「私も、いくつか失敗していますから」

 久我はその言葉に反応した。

「失敗」

「正しいことを書けばいいと思っていた時期がありました」

「今は?」

「分からなくなりました」

「なら、分からないままにしておく選択肢もある」

「それと、知ることを諦めることは違います」

 真琴が言うと、久我はかすかに笑った。

 笑ったと言っても、口元がほんの少し動いただけだった。

「なるほど。八代さんがあなたを呼んだ理由が少し分かりました」

「八代さんは、何を期待しているんでしょうね」

「自分が背負わずに済む終わり方でしょう」

 真琴は眉を動かした。

「厳しいですね」

「彼は善良です。だから危うい。善良な人間ほど、自分が誰かを救いたがっているのか、自分が救われたがっているのか、分からなくなる」

「先生はどうなんですか」

「私は善良ではありません」

「なら、何ですか」

「医師です」

 久我は短く答えた。

 真琴は、その答えを簡単には受け取らなかった。医師であることを盾にしているのか、それとも医師であることしか自分に許していないのか。判断はつかない。

「篠原美奈さんは?」

「意識は戻っていません。市立病院に搬送されています」

「原因は」

「強い精神的ショックと、それに伴う循環器系の異常。持病の有無は病院側で確認中です」

「藤咲莉子さんのお母さんは?」

「命に別状はありません。過換気と失神です」

「八代誠一さんは」

「強い不安発作。外傷はありません」

「大月さんだけが死んだ」

 久我は沈黙した。

「なぜですか」

「人は、それぞれ違います」

「それだけですか」

「医学的には」

「この町では、本当のことを言うと人が死ぬと聞きました」

 久我は、驚かなかった。

 むしろ、ようやく本題に来たという顔をした。

「誰から?」

「白い狐面の人物から」

「なるほど」

「先生も見たことが?」

「あります」

 あまりにも平然と認めたので、真琴の方が驚いた。

「信じているんですか」

「見たものを見ていないとは言いません。ただし、それを医学的な説明に使うことはありません」

「使わないだけで、存在は認めている」

「存在という言葉が適切かは分かりません。集団的な幻覚、町に蓄積したトラウマの象徴、あるいは別の何か。診断名をつけるには材料が足りません」

「神さまに診断名をつけるつもりですか」

「つけられるなら、その方が扱いやすい」

 真琴は思わず笑いそうになった。

 だが、笑えなかった。

 久我は本気だった。

「先生は、この町の異常を知っているんですね」

「知っている、というより、診てきました」

「何人も?」

「ええ」

「真実を告げられて倒れた人を?」

「真実とは限りません。噂、告白、暴言、誤解、思い込み。人を壊すのは事実だけではありません」

 その言葉は、以前の出来事をそのまま説明しているようだった。

 篠原徹の「最初から愛していなかった」という言葉は、事実かどうか分からない。だが美奈には真実として刺さった。

 藤咲莉子の母も、娘がいじめられていた可能性だけで倒れた。確定した事実ではなく、断片的な情報と周囲の沈黙によって崩れた。

「それでも、死亡診断書には何かを書かなければならない」

 久我は言った。

「呪いによる死亡とは書けませんから」

「書いたらどうなりますか」

「医師免許を疑われるでしょう」

「町の人は納得するかもしれません」

「納得は治療ではありません」

 久我は机の上に置いていたペンを指で転がした。

「この町では、多くの人間が納得しやすい言葉を求めます。事故だった。病気だった。仕方なかった。誰も悪くなかった。そういう言葉は、痛みを一時的に鈍らせる」

「嘘は薬、ですか」

 久我の指が止まった。

「誰かに言われましたか」

「狐面の神さまに」

「なるほど。あれが言いそうなことです」

「先生も同じ考えですか」

「近いかもしれません」

「嘘を薬として処方する?」

「場合によっては」

 真琴は久我を見つめた。

「医師がそれを言うのは危険ではありませんか」

「医師だから言うんです」

 久我の声は静かだった。

「正確な診断名が、いつも患者や家族を救うわけではありません」

「では、何を救うんですか」

「時には、医療者側の責任を整理するだけです。時には、法的な処理を進めるだけです。時には、遺族に新しい地獄を与えるだけです」

「言わない方がいい真実もあると?」

「言う時期、言う相手、言う順番、言う場所を誤れば、どんな真実も毒になります」

 真琴は鳴瀬の授業を思い出した。

 本当のことを一気に言わない。

 相手を一人にしない。

 断罪語を使わない。

 事実と感情を分ける。

 久我の言葉は、鳴瀬の授業に似ていた。だが、鳴瀬の言葉には未来があった。久我の言葉には、諦めがある。

「先生は、それを知っていて、なぜ町の沈黙を変えようとしなかったんですか」

 真琴が尋ねると、久我は初めて表情を硬くした。

「変えようとしたことがあります」

「いつですか」

「十五年前」

 久我は椅子にもたれた。

「私がこの町に戻ってきて、まだ数年のころです」

「戻ってきた?」

「私は真噤町の出身です。大学と研修医時代は町外にいました。父の後を継いで、この診療所を引き受けました」

「十五年前、何が」

 久我は窓の外を見た。

 診療所の庭には、小さな桜の木があった。冬に近い今は葉を落とし、細い枝だけが空に伸びている。

「町内の工場で事故がありました。若い男性が亡くなった。公式には、機械の誤作動による不慮の事故です」

「実際は?」

「安全装置が故意に外されていた可能性がありました。納期に間に合わせるためです」

「労災隠し」

「そうです」

 久我は淡々と言った。

「私は遺族に、事故の背景について調査を求めた方がいいと話しました。死因だけでなく、なぜ死んだのかを知る権利があると思った」

「その後は」

「亡くなった男性の父親が、工場長の家へ怒鳴り込みました。工場長の息子は、その場で過呼吸を起こして倒れた。母親は心筋梗塞で入院した。工場は閉鎖され、残っていた従業員も職を失った。遺族は町にいられなくなって出ていきました」

「安全装置の件は」

「結局、証明できなかった」

 久我は真琴を見た。

「私は、間違ったことを言ったとは思っていません。遺族には知る権利があった。調査されるべきだった。でも結果として、救われた人はいませんでした」

「それは、先生のせいでは」

「そう言う人もいました。そう言わない人もいました。私自身は、今でも結論を出せていません」

 真琴は、河野裕樹のことを思い出した。

 記事は正しかった。

 会社の不正はあった。

 公益性もあった。

 だが、彼は死んだ。

 その死を、真琴のせいではないと言う人もいた。取材源保護には限界がある。ネットの特定が悪い。会社の圧力が悪い。本人の精神状態もある。様々な説明があった。

 しかし、真琴の中では、何一つ終わっていなかった。

「先生は、それから診断名を曖昧にするようになったんですか」

「曖昧にしているのではありません。医学的に言える範囲だけを言うようにしました」

「同じことでは?」

「違います」

 久我の声が、初めて少し強くなった。

「私は嘘の診断書を書いているわけではない。大月慎吾の心臓が止まったことは事実です。篠原美奈が強いショック状態にあることも事実です。藤咲さんの母親が過換気を起こしたことも事実です」

「でも、なぜそうなったのかは書かない」

「医学が扱える範囲と、人間が背負っている物語は違います」

「便利な線引きですね」

「便利ではありません」

 久我は真琴をまっすぐ見た。

「毎回、嫌になります」

 その声には、初めて疲労が滲んでいた。

「人が倒れる。私は診る。血圧を測り、脈を見る。酸素を入れる。病院へ送る。診断名を書く。でも、診断名はその人がなぜ壊れたかを説明しない。説明しないのに、町の人間はそれで納得した顔をする。心不全だった。過呼吸だった。不安発作だった。だから仕方ないと」

「先生も、その納得に加担している」

「そうです」

 久我は認めた。

 あまりに早く認めたので、真琴は言葉を失った。

「加担しています。私はこの町の沈黙に、医学の言葉を与えてきました」

「なぜ」

「死なせないためです」

「でも、大月さんは死んだ」

「ええ」

「篠原さんも、藤咲さんのお母さんも倒れた」

「ええ」

「守れていない」

「そうです」

 久我は目を伏せた。

「だから、あなたが来たのでしょう」

 その言葉は、責任を押しつけるものには聞こえなかった。

 むしろ、自分ではもう動けない人間が、最後に外から来た者へ目を向けているようだった。

 真琴はしばらく黙っていた。

 診察室の外で、受付の女性が次の患者を呼ぶ声がした。久我に残された時間は、もうほとんどない。

「有坂透さんのことを聞かせてください」

 真琴は言った。

 久我は、ゆっくり顔を上げた。

「なぜ私に?」

「あなたは町の医師です。二十年前はまだ診療所にいなかったとしても、記録を見ているはずです」

「個人情報です」

「有坂透さんは亡くなっています」

「死者にも守られるべきものはあります」

「では、守られるべきものを傷つけない範囲で」

 久我は、深く息を吐いた。

「透さんの検案をしたのは、私の父です」

「記録は残っていますか」

「あります」

 真琴の心臓が強く打った。

「見せていただけますか」

「本来なら、できません」

「本来なら」

「ええ。本来なら」

 久我は椅子から立ち上がった。

「少し待っていてください」

 彼は診察室を出ていった。

 真琴はひとり残された。

 机の上には、閉じられたカルテと、ペン。窓際の木箱。白い布。その布の下に何があるのか気になったが、触れなかった。

 待っている間、真琴は自分の手を見た。

 この数日で、何人の手を握っただろう。

 美奈の冷たい指。

 藤咲莉子の母親の震える腕。

 橋の上で崩れかけた八代誠一の肩。

 どれも、支えきれなかった。

 それでも、触れないよりはよかったのか。

 分からない。

 自分がしていることが、救いなのか、さらなる傷なのか、分からない。

 久我が戻ってきた。

 手には、古い茶封筒を持っている。

「これは正式なカルテ開示ではありません」

「分かっています」

「あなたがこの内容を不用意に話せば、また誰かが倒れるかもしれない」

「分かっています」

「分かっているという言葉ほど、信用できないものはありません」

「では、どうすれば信用してもらえますか」

 久我は真琴を見た。

「信用はしません」

「ではなぜ見せるんですか」

「私も、終わらせたいからです」

 久我は封筒を机の上に置いた。

 中から出てきたのは、古いコピーだった。原本ではない。紙は黄ばんでおり、文字は手書きだった。

 死亡診断書ではなく、検案に関する覚書のようだった。

 氏名、有坂透。

 年齢、十四歳。

 発見場所、葛淵川下流。

 推定死因、溺死。

 真琴は読み進めた。

 そして、ある記述で指を止めた。

 左頬部に皮下出血。

 右上腕部に把握痕様皮下出血。

 背部に擦過傷。

 死亡前に生じた可能性。

 真琴は顔を上げた。

「これは」

「溺れる前に、暴行を受けた可能性があります」

 久我は静かに言った。

「父は、そう疑っていました」

「では、なぜ事故に?」

「警察が事件性を低いと判断しました」

「この所見があって?」

「当時、父は強く言えなかった」

「なぜ」

「町が、事故で終わらせたがっていたからです」

 久我の声は低かった。

「観光振興計画が進んでいた。中学生のいじめや暴行死となれば、町の印象は悪くなる。学校も、役場も、警察も、大事にしたくなかった」

「澄江さんは知っているんですか」

「知りません」

「誰が知っているんですか」

「当時の町長、校長、担任、警察関係者、父。そして、おそらく何人かの生徒」

「大月慎吾さん」

「可能性はあります」

「八代誠一さん」

「可能性はあります」

 真琴は紙を見つめた。

 溺死。

 左頬部に皮下出血。

 右上腕部に把握痕様皮下出血。

 背部に擦過傷。

 死亡前に生じた可能性。

 たった数行だった。

 だが、その数行は二十年の嘘を切り裂くには十分だった。

「先生のお父様は、なぜこれを残したんですか」

「残すしかなかったのでしょう」

「公表しなかったのに?」

「言えなかった真実を、完全に捨てることもできなかった」

 久我は窓の外を見た。

「父はその後、体調を崩しました。最後まで、有坂透のことを口にしなかった。ただ、亡くなる前にこの封筒を私に渡した」

「何と言って?」

「診断名だけで人を救えると思うな、と」

 真琴は胸の奥が重くなるのを感じた。

 医師である父は、診断名で少年の死を閉じた。

 そして、そのことを息子に悔いていた。

「このコピーを、私に渡してくれますか」

 久我は首を横に振った。

「今はできません」

「なぜ」

「あなたが持てば、走るでしょう」

「走る?」

「澄江さんのところへ。八代さんのところへ。学校へ。誰かに突きつけたくなる。違いますか」

 真琴は否定できなかった。

 もしこの紙を持てば、すぐに動きたくなる。澄江に知らせるべきか。八代に見せるべきか。鳴瀬に相談するべきか。警察へ行くべきか。記事を書くべきか。

 だが、そのどれもが危険だった。

「では、どうするんですか」

「まず、受け止める場所を作る」

「鳴瀬先生のようなことを言うんですね」

「彼女は正しい」

「先生もそう思うなら、なぜ協力しないんですか」

「していないように見えますか」

 久我は、少しだけ皮肉に笑った。

「彼女の授業案には、私も助言しています。ショックを受けた人間の反応、過呼吸や失神の対処、言葉による急性ストレス反応。教師が知っておくべきことは多い」

 真琴は驚いた。

「鳴瀬先生は、それを」

「知っています。私たちは仲が悪いわけではありません。ただ、彼女は未来を見ている。私は倒れた人間を診る。立っている場所が違う」

「そして、どちらも町を変えきれていない」

「その通りです」

 久我はコピーを封筒に戻した。

「三枝さん。あなたが外から来た人間だからこそ、できることがあります」

「何ですか」

「町の誰かを犯人にする前に、町全体が何をしてきたのかを見てください」

「犯人探しでは駄目だと?」

「犯人はいます。透さんを傷つけた人間はいる。隠した人間もいる。責任は曖昧にしてはいけない」

「では」

「でも、いきなり名前を叫べば、また誰かが死ぬ」

 久我の声は苦かった。

「この町は、個人の罪と共同体の嘘が絡まりすぎている。どこか一本を乱暴に引けば、全体が崩れる」

「崩す必要があるのでは?」

「あります。ただし、下敷きになる人間を減らす準備をしてからです」

 その時、診察室の扉が軽くノックされた。

 受付の女性が顔を出した。

「先生、次の患者さんが」

「すぐ行きます」

 久我は封筒を机の引き出しにしまった。

「今日はここまでです」

「また来ます」

「でしょうね」

 真琴は立ち上がった。

「最後にひとつだけ」

「何でしょう」

「狐面の神さまは、先生には何と言いましたか」

 久我は少し考えた。

「私に?」

「はい」

「お医者さんごっこは楽しいか、と」

 真琴は言葉を失った。

 久我は乾いた笑みを浮かべた。

「返事はしませんでした」

「腹が立ちませんでしたか」

「立ちましたよ」

「だから?」

「だから、まだ医師をしています」

 診察室を出ると、待合室の視線が一斉に真琴へ向いた。

 老人、母親、小学生、作業着の男。

 真琴は、彼らが何を思っているのか分からなかった。外から来た女が、久我医師と何を話していたのか。大月慎吾のことか。篠原美奈のことか。藤咲莉子のことか。有坂透のことか。

 この町では、言葉にしない視線もまた、噂の一部だった。

 外へ出ると、昼の光が眩しかった。

 診療所の前の道に、八代が立っていた。

「先生に会ったんですね」

「はい」

「何を聞きましたか」

「すぐには言えません」

 八代は顔を曇らせた。

「私にも?」

「はい」

「なぜ」

「あなたが受け止める準備ができているか、分からないからです」

 八代は傷ついたような顔をした。

 真琴は続けた。

「でも、隠すつもりではありません。順番を考えたいんです」

「順番」

「それを間違えると、人が倒れます」

 八代は何も言わなかった。

 彼は昨日、兄が橋で崩れかけるのを見ている。美奈の件も知っている。藤咲莉子の母親のことも、町にはすでに伝わっているだろう。

 真琴の言葉を軽くは聞けないはずだった。

「兄が」

 八代が言った。

「少しだけ話しました」

「何を」

「透さんに謝りたいと。でも、何を謝るのか聞くと、言葉が出なくなる」

「今は無理に聞かない方がいい」

「三枝さんがそれを言うんですね」

 八代は苦笑した。

「私も少しは学びます」

「久我先生に何を見せられたんですか」

 真琴は答えなかった。

 八代はその沈黙を読んだのだろう。顔を伏せた。

「やはり、事故ではなかったんですね」

「まだ、そう断定して誰かに話せる段階ではありません」

「でも、あなたはそう思っている」

「はい」

 八代は両手で顔を覆った。

 しばらくそのままだった。

 真琴は待った。

 今度は、沈黙を急がせなかった。

「兄は」

 八代は手を下ろし、かすれた声で言った。

「人を殺したんでしょうか」

「分かりません」

「もしそうなら、私はずっと、兄を守っていたことになる」

「まだ決めないでください」

「でも」

「今ここで決めても、誰も救われません」

 それは、鳴瀬や久我から学んだ言葉だった。だが真琴自身の言葉でもあった。

 八代は小さく頷いた。

「私は、どうすればいいですか」

「まず、鳴瀬先生と久我先生を交えて話したい。あなたも。澄江さんには、まだ直接言わない」

「澄江さんは、知りたがっています」

「知りたがっていることと、今この瞬間に全てを受け止められることは違います」

「三枝さん」

「はい」

「あなたは変わりましたね」

 真琴は少し驚いた。

「会って数日で、分かりますか」

「最初のあなたなら、もう澄江さんの家へ走っていた気がします」

「私もそう思います」

「なぜ止まれるんですか」

 真琴は、診療所の壁に貼られていた言葉を思い出した。

 不安なことは、ひとりで抱えず、診察室でお話しください。

「ひとりで持つと、落とすからです」

 真琴は答えた。

 その日の夕方、真琴は緑水荘へ戻った。

 部屋に入ると、机の上に置いていた白い菊が少ししおれていた。湯呑みの水を替える。花は弱々しく首を傾げている。

 その横に、ノートの切れ端を置いた。

 ぼくの町では、ほんとうのことを言うと、言った人が悪いことになります。

 有坂透は、十四歳でそれを書いた。

 そして、川で死んだ。

 溺死。

 左頬部に皮下出血。

 右上腕部に把握痕様皮下出血。

 背部に擦過傷。

 死亡前に生じた可能性。

 真琴はその文言を頭の中で反復した。

 医学的な言葉は冷たい。

 だが、冷たいからこそ残るものがある。

 泣き声は消える。噂は形を変える。記憶は都合よく書き換えられる。だが、診療記録の数行は、二十年経ってもそこにあった。

 久我の父は、何もできなかったのか。

 それとも、あの数行を残したことが、彼にできる唯一の抵抗だったのか。

 真琴には分からなかった。

 パソコンを開く。

 取材メモに、新しい項目を作った。

 ――有坂透の死因について。

 そこまで打って、指が止まった。

 死因。

 診断名。

 事故。

 急性心不全。

 過換気。

 不安発作。

 言葉は、物事を整理する。

 同時に、物事を閉じる。

 閉じられた言葉の奥で、人は泣き続ける。

 真琴は、新しい一行を打った。

 ――診断名は、真実の終点ではない。

 その時、窓の外に気配がした。

 見なくても分かった。

 白い狐面が、庭の梅の木の下に立っていた。

 真琴は窓を開けなかった。

 ただ、ガラス越しに見た。

 神さまは、こちらへ向かって小さく首を傾けた。

 声は聞こえないはずだった。

 だが、なぜか耳元で囁かれたように聞こえた。

「見たんだね」

 真琴は答えなかった。

「溺死、皮下出血、擦過傷。いい言葉だ。人間は、難しいものに名前をつけると安心する」

 真琴は窓を開けた。

「安心なんかしていません」

「でも、少し嬉しかったでしょう。証拠が出たから」

 その言葉に、真琴は胸を突かれた。

 否定できなかった。

 久我からコピーを見せられた瞬間、真琴の中には確かに、真実に近づいたという高揚があった。死んだ少年の痛みを前にして、取材者としての興奮がかすかに蘇った。

 そのことが、たまらなく嫌だった。

「人は、他人の傷を手がかりにして進む時がある」

 神さまは言った。

「記者も、医師も、教師も、役場の人間も。みんな、誰かの傷の周りで仕事をしている」

「だからこそ、慎重であるべきです」

「慎重すぎると、腐る」

「急げば、壊れる」

「難しいね」

 神さまは笑った。

「人間は、こんな難しいものを毎日扱っているのに、自分たちは賢いと思っている」

「あなたはどうなんですか」

「僕?」

「二十年も嘘を処方し続けて、町はよくなりましたか」

 神さまは黙った。

 真琴は続けた。

「大月慎吾は死にました。八代誠一は壊れかけている。有坂澄江は何も知らないまま二十年生きた。篠原美奈も、藤咲莉子の母親も倒れた。あなたの薬は効いていない」

「効いていたから、二十年もった」

「それを生きているとは言いません」

「じゃあ、何と言うの」

「延命です」

 神さまは、少しだけ顔を上げた。

 狐面の奥の目は見えない。だが、言葉が届いたことは分かった。

「延命か」

「はい」

「医者みたいなことを言う」

「久我先生に会いました」

「彼はいい医者だよ」

「皮肉ですか」

「本気だよ。いい医者ほど、よく嘘を吐く」

「最低の褒め言葉ですね」

「最高だよ」

 神さまは、梅の木の枝に触れた。

「真琴。君はこれから、もっと嫌なものを見る。診断名では片づかないもの。事故では片づかないもの。いじめでは片づかないもの。犯人の名前だけでは片づかないもの」

「それでも見ます」

「そして、書く?」

 真琴はすぐには答えなかった。

 神さまは静かに待っていた。

 以前なら、確認してから決めます、と言っただろう。

 今もその答えは間違っていない。

 だが、それだけでは足りない。

「書くかどうかより先に、受け止める場所を作ります」

 真琴は言った。

 神さまは笑わなかった。

「それができなかったら?」

「その時は、また誰かが死ぬ」

「自分で分かっているんだ」

「はい」

「怖くない?」

「怖いです」

「なら逃げればいい」

「逃げたことがあります」

 真琴は、河野裕樹の葬儀に行かなかった日のことを思い出した。

 黒い喪服を出したまま、玄関で動けなくなった。行けば何かが終わると思っていた。だが、行かなかった。結果、何も終わらなかった。

「逃げても、死者は消えませんでした」

 神さまはしばらく黙っていた。

 そして、ぽつりと言った。

「死者は消えないよ。名前を変えても、診断名をつけても、事故にしても」

「あなたがそれを言うんですか」

「僕が一番知っている」

 その声は、初めて少年のように聞こえた。

 真琴が何か言おうとした時、スマートフォンが鳴った。

 八代からだった。

 真琴は窓の外を見た。

 神さまはもういなかった。

 通話に出る。

「三枝さん」

 八代の声は震えていた。

「兄が、少し話しました」

「何を」

「透さんの検案書のことを知っていたようです。父が、当時それを家で話していたと」

「お父様が?」

「うちの父は、役場で事故処理に関わっていました」

 真琴は息を止めた。

「兄は言いました」

 八代の声がかすれる。

「あの日、透さんは橋で落ちたんじゃない。落とされたんだ、と」

 真琴は窓の外を見た。

 庭は暗く、梅の木の影だけが揺れている。

 八代は続けた。

「そして、落としたのは大月慎吾ではない、と」

「誰ですか」

「そこから先は、また話せなくなりました。でも兄は、何度も同じ名前を口にしようとして」

「名前?」

「はい」

 八代は一度、息を呑んだ。

「藤咲、という名前です」

 真琴の頭に、いくつもの線が走った。

 藤咲莉子。

 藤咲莉子の母親。

 そして二十年前の事件。

「莉子さんの家系と、透さんの事件がつながるかもしれません」

 八代が言った。

 真琴は返事をしなかった。

 窓の外で、風が吹いた。

 白い菊の花弁が一枚、湯呑みの水面に落ちた。



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