第四章 あの子は転校した
橋へ向かう道は、夜になると昼間よりも長く感じられた。
街灯はある。だが、山間の町の灯りは都市の灯りとは違う。道を照らすためというより、暗闇の中にここが道であるという印だけを置いているような、心もとない明るさだった。
真琴は坂を下った。
肺に入る空気が冷たい。走るたびに、喉の奥が痛んだ。商店街を抜け、役場の裏を過ぎ、家々の間隔が広がっていく。町の中心から外れるほど、人の気配は薄くなる。窓明かりも減り、代わりに川の音が近づいた。
電話の向こうで八代が言った声が、耳に残っている。
兄が、家からいなくなりました。
有坂透さんが落ちた橋です。
八代誠一。
まだ会ったことのない男。二十年前、有坂透と同級生だった男。大月慎吾と同じ場所にいたかもしれない男。そして今、透の命日を前に、二十年前の橋へ向かっているかもしれない男。
真琴は足を速めた。
途中、背後から車のエンジン音が近づいてきた。白い軽自動車が真琴の横で停まる。運転席には八代要がいた。
「乗ってください」
真琴は助手席に乗り込んだ。
車内には暖房が入っていたが、八代の横顔は青白かった。ハンドルを握る指に力が入りすぎている。
「お兄さんから連絡は」
「ありません。携帯は部屋に置いたままでした」
「橋に向かったと分かる理由は?」
「靴がありませんでした。あと、机の上に昔の写真が出ていたそうです」
「昔の写真?」
「中学校の集合写真です。透さんも、大月さんも、兄も写っている」
八代は前を見たまま言った。
「兄は、あの写真を普段は出しません。見ると不安定になるから」
「それでも今日は出した」
「はい」
「命日が近いから?」
「たぶん」
たぶん。
この町で何度も聞いた言葉。
だが今は、それを責める気にはなれなかった。八代の声には、推測しか言えない者の苦しさがあった。
「お兄さんは、透さんの死について何を言っているんですか」
真琴が尋ねると、八代はしばらく黙った。
「日によって違います」
「先ほど聞きました」
「でも、繰り返す言葉があります」
「何ですか」
八代は、ためらうように息を吐いた。
「俺は言わなかった」
「言わなかった?」
「それだけです。誰に、何を、とは言わない。ただ、俺は言わなかった、俺は言わなかったと」
車は橋に近づいた。
昼間に見た欄干が、ライトに照らされて浮かび上がる。川の音が聞こえた。真琴は思わず身を乗り出した。
橋のたもとに、人影があった。
男がひとり、石碑の前に立っていた。
やせた体。薄い上着。乱れた髪。年齢は四十代半ばだろうが、背中だけを見ると老人のようにも見えた。
八代が急ブレーキを踏む。
「兄さん!」
車が完全に停まる前に、八代は飛び出した。
真琴も後を追った。
男は振り返らなかった。石碑の前にしゃがみ込み、何かを探しているようだった。八代が肩に手をかけると、男は激しく震えた。
「兄さん、帰ろう」
「ない」
男の声は、かすれていた。
「ないんだ」
「何が」
「紙が」
真琴の胸が鳴った。
橋のたもとに置かれていたノートの切れ端。あれのことか。
八代が真琴を見た。
真琴は小さく頷いた。
「私が持っています」
男が、初めてこちらを見た。
八代誠一。
目だけが異様に大きかった。やせた頬に無精髭が伸び、唇は乾いている。彼は真琴を見るなり、顔を歪めた。
「誰だ」
「三枝真琴です」
「東京の」
「はい」
「持っていったのか」
「橋のたもとに置かれていた紙なら、保管しています」
「返せ」
誠一は真琴へ歩み寄ろうとした。八代が止める。
「兄さん」
「返せ!」
誠一の叫び声が、夜の橋に響いた。
真琴は鞄からクリアファイルを取り出した。ノートの切れ端を出すことはせず、透明なファイル越しに見せる。
誠一の顔が変わった。
怒りが消え、子どものような怯えが浮かんだ。
「それは、透のだ」
「有坂透さんの字ですか」
「透のだ」
「なぜ、あなたがそれを?」
誠一は口を開いた。
だが、言葉は出てこなかった。
代わりに喉の奥で、ひゅう、と空気が鳴った。
真琴の背筋が凍った。
大月慎吾が倒れる直前にも、似た音を立てた。
「兄さん、言わなくていい」
八代が強く言った。
「今は言わなくていい。帰ろう」
「でも、言わなかった」
誠一は胸を押さえた。
「俺は、言わなかった。言えばよかった。言えば、透は」
「兄さん」
「違う。言ったら、母さんが死ぬって。先生が言った。大月も言った。町の人も言った。透が言ったら、澄江さんが死ぬって。だから、みんなで」
誠一の息が荒くなった。
真琴は一歩下がった。
このまま続けさせてはいけない。
だが、止めることもできなかった。
言葉はもう、彼の中から溢れ出している。
「八代さん」
真琴は低く言った。
「お兄さんを座らせてください。橋から離して」
「兄さん、こっちへ」
「俺は言わなかっただけだ」
誠一は八代の腕を振りほどこうとした。
「殴ってない。突き落としてない。俺は見てただけだ。見てただけなんだ。だから俺は」
その瞬間、川の方から風が吹き上がった。
欄干の上に、白いものが見えた。
狐面。
嘘つきの神さまが、橋の欄干に腰かけていた。昼間と同じ場所だ。黒い服の裾が、風に揺れている。
真琴は息を呑んだ。
八代も、見えているようだった。顔が強張っている。
誠一だけは気づいていない。いや、気づいていても見ないようにしているのかもしれない。彼は足元の石碑を見つめたまま、震えていた。
「やめさせなよ」
神さまが言った。
「この人、もう割れかけてる」
真琴は睨み返した。
「あなたがそうしているんですか」
「僕は何もしていない」
「そればかりですね」
「事実だから」
神さまは欄干の上で軽く足を揺らした。
「人間は、自分が言ったことだけで壊れるんじゃない。言わなかったことで壊れることもある。彼は二十年、自分が言わなかった言葉に内側から食べられてきた」
誠一が突然、膝をついた。
「兄さん!」
八代が支える。
真琴も近づいた。
誠一は意識を失ってはいなかった。だが、呼吸が浅い。目は見開かれ、何かを見ているようで、何も見ていない。
「救急車を呼びます」
真琴が言うと、八代は頷き、携帯を取り出した。
神さまは、その様子を黙って見ていた。
「大月さんは死んだ。篠原美奈さんは倒れた。八代誠一さんも壊れかけている」
真琴は言った。
「あなたが守っている町は、もう守れていない」
神さまは答えなかった。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。
この町に来てから、何度目のサイレンだろう。
真琴は誠一のそばにしゃがみ、声をかけた。
「八代誠一さん。三枝です。今は何も話さなくていい。ここにいます。弟さんもいます。あなたは一人ではありません」
誠一の目が、わずかに動いた。
「透」
かすかな声だった。
「透が、言うなって」
「今は話さなくていい」
「でも、俺は」
「今は、生きることだけ考えてください」
真琴はその言葉を口にしながら、前夜の美奈に同じことを言ったことを思い出した。
死なないことだけ考えてください。
美奈はまだ意識を取り戻していない。
自分の言葉は届いたのか。
それとも、ただの自己満足だったのか。
救急車が到着し、誠一は搬送された。命に別状はなさそうだと救急隊員は言ったが、八代は付き添って病院へ向かった。
橋のたもとに、真琴だけが残された。
いや、正確にはもうひとりいた。
狐面の神さまは、まだ欄干に座っていた。
「行かないんですか」
真琴が言うと、神さまは首を傾げた。
「どこへ」
「病院でも、町でも、どこでも」
「僕は、ここにいることが多い」
「透さんが落ちた橋だから?」
「落ちた、ね」
神さまはその言い方だけを繰り返した。
「落ちたことは本当なんですよね」
「うん」
「でも、事故ではない」
「それは、まだ言えない」
「誰が死ぬから?」
「誰かが」
真琴は深く息を吐いた。
「あなたは本当に、誰かを守ろうとしているんですか」
「しているよ」
「なら、なぜ大月さんを止めなかったんですか」
「止めたよ。二十年ずっと」
「篠原美奈さんは?」
「町のみんなが止めていた。夫も、友達も、噂を知る人も。彼女を守るという名前で」
「それが彼女を追い詰めた」
「そうだね」
あまりにあっさり認めたので、真琴は言葉に詰まった。
神さまは川を見下ろしている。
「嘘は薬だ。でも、薬だけで生きていると、体は弱る。真実を飲む力がなくなる」
「分かっているなら、なぜ」
「薬をやめたら、死ぬ人もいる」
「減らす方法を考えればいい」
「人間は、そんなに丁寧じゃない」
神さまは真琴を見た。
「君も知っているでしょう。真実を手にした人間は、たいてい早く投げつけたくなる。自分が正しいと分かった瞬間、人は相手を人間ではなく間違いとして見る」
真琴は美奈の夫、篠原徹の顔を思い出した。
俺は、お前なんか最初から愛してなかった。
あれは、真実だったのか。
それとも、相手を間違いとして切り捨てるための言葉だったのか。
「この町には、中学校がありますね」
真琴は言った。
神さまは反応しなかった。
「真噤中学校。透さんが通っていた学校」
「あるよ」
「今も、子どもたちはこの町のルールの中で育っているんですか」
「どこの子どもも、町のルールの中で育つ」
「言葉を恐れるように?」
「言葉を大事にするように」
「それは同じことですか」
「似ているけど、違う」
神さまは欄干から降りた。
「学校へ行くの?」
「行きます」
「やめた方がいい」
「理由は」
「学校には、まだ生きている真実が多い」
「死んだ真実もあるんですか」
「死んだふりをしている真実なら」
神さまはそう言って、闇の中へ歩き出した。
「三枝真琴。子どもの真実は、大人の真実よりよく刺さるよ」
それだけ言い残し、白い狐面は消えた。
翌朝、真琴は八代からの連絡で目を覚ました。
誠一は一命を取り留め、意識もある。ただし、強い不安状態が続いており、しばらく入院することになったという。
篠原美奈は、まだ意識が戻っていなかった。
大月慎吾はすでに死んでいる。
そして、有坂透の命日まであと三日。
真琴は旅館の朝食をほとんど食べず、真噤中学校へ向かった。
学校は町の中心から少し坂を上がった場所にあった。古い鉄筋コンクリートの校舎。校庭の隅には大きな銀杏の木があり、黄色い葉が地面に散っている。生徒数は多くないらしい。校舎は大きすぎるほどで、使われていない教室がいくつもありそうだった。
正門の前に、標語が掲げられていた。
――言葉は、人を守るために使いましょう。
駅や商店街の標語とは少し違う。
口は災い。
噂は命取り。
確かめる前に、口にするな。
それらが言葉を閉じるための標語だとすれば、学校の標語は言葉を使うことを前提にしているように見えた。
校門のそばで、ひとりの女性が真琴を待っていた。
二十代後半くらい。黒髪を低い位置で束ね、紺色のカーディガンを羽織っている。派手さはないが、目がまっすぐだった。教師らしい落ち着きと、どこか研ぎ澄まされた緊張を併せ持っている。
「三枝真琴さんですね」
「はい」
「鳴瀬灯です。国語を担当しています」
鳴瀬は軽く頭を下げた。
「八代さんから連絡を受けました。町の記事の取材ということですが」
「最初はそのつもりでした」
「今は?」
「分かりません」
真琴が正直に答えると、鳴瀬は少しだけ笑った。
「この町で、分かりませんと言える大人は貴重です」
「そうでしょうか」
「たいていの大人は、分かっているふりをします。あるいは、分からないことをなかったことにします」
鳴瀬は校舎の方を見た。
「授業を見ますか」
「よろしいんですか」
「見ていただいた方が早いと思います。この町の子どもたちが、どう言葉を教えられているか」
真琴は鳴瀬に案内され、校舎へ入った。
廊下には古いワックスの匂いがした。掲示板には生徒の作文や絵が貼られている。どれも普通の中学校の風景だった。ただ、ところどころに言葉に関する掲示がある。
――事実と気持ちを分けて書きましょう。
――聞いた話を、見たことのように言わない。
――誰かを責める前に、何が起きたかを確かめる。
――本当のことでも、言う場所と言い方を考える。
真琴は立ち止まった。
「これは、学校全体の方針ですか」
「半分は」
「半分?」
「建前としては、情報モラル教育です。SNSやいじめ防止の一環。でも、本当はこの町のためです」
「本当、という言葉を使うんですね」
鳴瀬は真琴を見た。
「使います。使わないと、子どもたちは大人の嘘だけを覚えますから」
教室では、二年生の国語の授業が始まろうとしていた。
生徒は十数人。机の数に対して、空席がいくつかある。真琴は教室の後ろに立った。生徒たちは一斉に振り返り、すぐに前を向く。外部の人間への好奇心はあるが、騒がない。ここでも子どもたちは、声を出すことに慎重だった。
鳴瀬は黒板に、白いチョークで一文を書いた。
――本当のことを言う時、何に気をつけるべきか。
教室が静かになった。
「今日は、事実を伝える練習をします」
鳴瀬の声は穏やかだった。
「事実を言うことは大切です。でも、事実を言うだけで人を助けられるとは限りません。言い方を間違えると、相手を追い詰めることがあります」
生徒たちは黙って聞いている。
真琴は、喫茶店で大月が倒れた瞬間を思い出した。
「あの人が悪い、と言うのは簡単です。けれど、それは事実でしょうか。それとも感情でしょうか」
鳴瀬は黒板に二つの欄を作った。
事実。
感情。
「例えば、友達が約束の時間に来なかったとします。事実は?」
女子生徒が手を挙げた。
「友達が約束の時間に来なかった」
「そうですね。では、感情は?」
別の男子生徒が言った。
「むかついた」
教室に小さな笑いが起きた。
「それも大事な感情です。でも、『あいつは最低だ』と言うと?」
「人格否定になる」
誰かが答えた。
「そうです。約束に遅れたことと、その人が最低かどうかは別です」
鳴瀬は丁寧に進めていく。
本当のことを一気に言わない。
相手を一人にしない。
断罪語を使わない。
事実と感情を分ける。
聞いた話を広げない。
受け止められない時は保留する。
真琴は後ろで聞きながら、胸の奥に奇妙な感覚を覚えていた。
これは、言葉を恐れさせる教育なのか。
それとも、言葉を使うための教育なのか。
少なくとも鳴瀬の授業は、沈黙を強いるものではなかった。むしろ、子どもたちに言葉の扱い方を具体的に教えている。
刃物を持つな、ではない。
刃物の持ち方を学べ、と言っている。
授業の後半、鳴瀬はプリントを配った。
そこには、短い会話文が書かれていた。
Aさんが最近学校に来ていない。
Bさんが「Aさんは家庭の事情で転校するらしい」と言った。
Cさんが「本当は、いじめられていたから来られないんだ」と言った。
あなたがその場にいたら、どうするか。
教室の空気が変わった。
生徒たちが一斉にプリントへ目を落とす。笑いが消え、誰も隣と話さなくなった。
真琴は、その反応を見て直感した。
これは架空の例ではない。
鳴瀬は教室を見回した。
「答えにくい人は、無理に発表しなくていいです。紙に書くだけでも構いません」
ひとりの男子生徒が、小さく手を挙げた。
「先生」
「はい」
「それって、莉子のことですか」
教室が凍った。
鳴瀬はすぐに否定しなかった。
それが、真琴には印象的だった。
多くの教師なら、「特定の人の話ではありません」と言うだろう。生徒の名前を出すなと叱るかもしれない。だが鳴瀬は少し間を置いてから、静かに答えた。
「藤咲さんのことを思い浮かべた人もいると思います」
生徒たちの何人かが息を呑んだ。
「だからこそ、今日はこの練習をします。藤咲さんについて、先生はここで詳しいことを話しません。それは、本人がいない場所で、本人のことを勝手に決めることになるからです」
「でも」
男子生徒は言った。
「みんな知ってます」
「何を?」
「莉子が、いじめられてたこと」
女子生徒が小さく「やめなよ」と言った。
男子生徒は顔を赤くした。
「でも、本当じゃん」
その言葉が教室に落ちた瞬間、真琴は背筋を正した。
本当じゃん。
それは、危険な言葉だった。
鳴瀬は動じなかった。
「本当かどうかを、誰が、どこまで確認しましたか」
男子生徒は口ごもった。
「聞いた」
「誰から?」
「友達」
「その友達は、どこで知りましたか」
「分かんないけど」
「では、今の段階で言える事実は何ですか」
男子生徒は黙った。
鳴瀬は責めなかった。
「藤咲さんが学校に来ていない。それは事実です。いじめられていたという話がある。それも、話があるという意味では事実です。でも、誰が何をしたかを、本人のいない場所で断定することはできません」
「じゃあ、黙ってろってことですか」
「違います」
鳴瀬はきっぱり言った。
「黙ることと、丁寧に扱うことは違います」
その言葉に、真琴は胸を突かれた。
黙ることと、丁寧に扱うことは違う。
この町の大人たちは、その二つを混同してきたのかもしれない。
「もし、藤咲さんが困っていると思うなら、本人に許可なく噂を広げるのではなく、先生に相談してください。本人の味方になりたいなら、本人が戻ってこられない場所を作らないでください」
教室は静まり返っていた。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
生徒たちはゆっくりと立ち上がり、礼をした。真琴は廊下へ出た。しばらくして、鳴瀬も教室から出てきた。
「すみません。驚かれたでしょう」
「いえ」
真琴は廊下の窓から校庭を見た。
「藤咲莉子さんという生徒が、不登校なんですね」
「はい」
「家庭の事情で転校予定、と聞いていますか」
鳴瀬の表情がわずかに変わった。
「誰から?」
「まだ誰からも。ただ、そういう説明があるのではないかと思いました」
「鋭いですね」
「この町の言い換えに慣れてきました」
鳴瀬は苦く笑った。
「表向きは、家庭の事情による転校予定です。実際には、まだ転校していません。家からもあまり出られていない」
「いじめが原因ですか」
「その可能性があります」
「可能性」
「本人が、はっきりとは言っていません」
「親御さんは?」
「母親は、詳しいことを知りません」
真琴は鳴瀬を見た。
「なぜですか」
「本人が言わないでほしいと言っているからです」
「母親に?」
「はい」
「理由は」
「母に知られたら、自分がもっと惨めになる。母が学校に怒鳴り込んだら、自分はもうこの町で生きていけない。そう言いました」
真琴は、美奈の顔を思い出した。
私だけが知らなかった。
知らされないことは人を壊す。
だが、知らせることもまた、人を壊す。
「学校側はどう対応しているんですか」
「校長は、家庭の問題として処理したがっています。町の教育委員会も、大きな問題にはしたくない」
「隠蔽ですね」
「そう言いたくなる気持ちは分かります」
「違うんですか」
「違わない部分もあります。ただ、本人が望んでいない真実の扱いを、大人が正義感だけで決めることも危険です」
鳴瀬は、廊下の掲示板に貼られた生徒の作文を見た。
「暴く順番を間違えると、被害者がもう一度殺されます」
その言葉は、重かった。
真琴は黙った。
鳴瀬は彼女の沈黙を見て、少し声を和らげた。
「責めているわけではありません」
「責められて当然です」
「何かあったんですか」
真琴は答えなかった。
廊下の向こうで、生徒たちの足音が聞こえる。笑い声もある。学校は、町の中で唯一、まだ声が生きている場所のように見えた。だが、その声の下にも、何かが隠れている。
「藤咲莉子さんに会えますか」
「本人の許可があれば」
「お母さんには?」
「会うべきではありません。少なくとも、今は」
「理由は」
「お母さんは、莉子さんが学校に疲れているだけだと思っています。いじめという言葉をいきなり聞けば、耐えられないかもしれない」
「この町では、本当にみんな同じ構造なんですね」
真琴は呟いた。
「母親を守るために、子どもが黙る」
鳴瀬の表情が変わった。
「有坂透さんのことですね」
「知っているんですか」
「この町で教師をしていれば、知らないふりはできません」
「鳴瀬先生は、当時は」
「生まれていません。でも、町には残っています。言葉ではなく、空気として」
鳴瀬は廊下の先を見た。
「だから私は、子どもたちに沈黙ではなく、扱い方を教えたいんです。大人たちは、言わないことで守ろうとして失敗した。なら、子どもたちには、言うための準備を教えるしかない」
真琴は、その言葉に希望のようなものを感じかけた。
その時だった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。
さきほど授業で発言した男子生徒だった。顔色が悪い。
「先生」
「どうしました」
「やばい。三組のやつが、莉子のこと、書き込んだ」
鳴瀬の顔が硬くなった。
「どこに」
「裏アカ。スクショ回ってる」
男子生徒はスマートフォンを差し出した。
鳴瀬は画面を見た。
真琴も横から覗いた。
そこには、短い投稿が表示されていた。
――藤咲莉子が学校来ないの、被害者ぶってるだけだろ。あいつ、自分から嫌われることしてたくせに。
別の投稿。
――いじめとか言ってるけど、あれは自業自得。親に言えないのは、自分にも原因あるから。
さらに別のスクリーンショット。
――莉子の母親、何も知らないらしい。笑える。
真琴の中で、冷たいものが広がった。
鳴瀬はすぐに言った。
「このスクショをこれ以上回さないで。見た人には、保存せず削除するよう伝えてください。先生が対応します」
「でも、もう結構回ってる」
「分かりました。あなたは今、誰かを責めに行かない。できますか」
男子生徒は唇を噛んだ。
「でも、ひどいだろ」
「ひどいです。でも、怒りをそのまま投げると、莉子さんの場所がもっとなくなります」
男子生徒は泣きそうな顔で頷いた。
鳴瀬は彼を教室へ戻し、真琴に向き直った。
「嫌な予感がします」
「莉子さんのお母さんは、この投稿を?」
「まだ見ていないはずです。でも、町は狭い。誰かが見せるかもしれない」
「止めましょう」
「はい」
鳴瀬は職員室へ向かった。真琴も続く。
職員室では、すでに数人の教師がざわついていた。校長らしい年配の男が、「まず確認を」と繰り返している。別の教師は、加害生徒を呼ぶべきだと言う。誰かが教育委員会へ連絡すると言い、誰かが保護者対応を心配している。
その混乱の中で、最悪の知らせが入った。
藤咲莉子の母親が、学校に向かっている。
しかも、誰かがスクリーンショットを送ったらしい。
鳴瀬の顔色が変わった。
「誰が」
校長が言った。
「まだ分からない。だが、お母さんから電話があった。莉子がいじめられていたとはどういうことだと」
「まずいです」
鳴瀬は即座に言った。
「校長先生、正面玄関ではなく相談室へ。職員を集めないでください。母親を一人で立たせない。誰かを責める話から始めないで」
「鳴瀬先生、落ち着きなさい」
「落ち着いています。だから言っています」
その声は、教室での穏やかさとは違った。
鋭く、迷いがない。
真琴はその横顔を見て、この教師が日頃からこういう事態を想定していたのだと悟った。
だが、事態は彼女の想定よりも早く進んだ。
職員室の窓の外で、車のブレーキ音がした。続いて、女性の怒鳴り声。
「出てきなさい!」
鳴瀬が走った。
真琴も続いた。
玄関前に、四十代くらいの女性が立っていた。髪は乱れ、手にはスマートフォンを握りしめている。藤咲莉子の母親だと、すぐに分かった。
その周囲に、生徒たちが集まり始めていた。
駄目だ。
真琴は直感した。
人が集まり、視線が集まり、怒りが広がる。この町で最も危険な形だ。
「藤咲さん」
鳴瀬が声をかけた。
「中へ入りましょう。ここではなく、静かな場所で」
「静かな場所?」
莉子の母は声を震わせた。
「うちの子がいじめられていたのに、静かにしろって言うんですか」
「そうではありません」
「先生たちは知ってたんですか」
「まず、莉子さんの状態を」
「知ってたんですか!」
鳴瀬は答えなかった。
それが、母親には肯定に見えたのだろう。
「ふざけないで!」
彼女はスマートフォンを掲げた。
「こんなこと書かれて、うちの子が悪いみたいに言われて、学校は何をしてたんですか!」
生徒たちのざわめきが広がる。
真琴は周囲を見た。誰かがスマートフォンを向けている。撮影しているのかもしれない。ここで誰かが名前を出せば、一気に広がる。
「撮らないで」
真琴は近くの生徒に言った。
「スマホを下ろして」
生徒は驚いたように手を下げた。
だが、別の場所で声が上がった。
「莉子が来なくなったのは、お前らがいじめたからだろ!」
さきほどの男子生徒だった。
彼は校舎の入口付近にいた三人の女子生徒を指さしていた。三人のうち一人が、顔を真っ赤にする。
「は? うちらだけのせいにしないでよ」
「裏アカ書いたのお前だろ!」
「知らないし!」
「嘘つけ!」
鳴瀬が叫んだ。
「やめなさい!」
だが遅かった。
莉子の母親が、その言葉を聞いてしまった。
いじめた。
裏アカ。
嘘つけ。
それらの言葉が、玄関前の空気にばら撒かれた。
母親の顔から血の気が引いていく。
「莉子は」
彼女は小さく言った。
「いじめられてたの?」
誰も答えない。
その沈黙が、答えになった。
母親は鳴瀬を見た。
「先生、知ってたの?」
「藤咲さん、中へ」
「知ってたの?」
「今ここで話すと、莉子さんが」
「知ってたんですね」
母親の体が揺れた。
真琴は駆け出した。
美奈の時と同じだった。
人の顔から表情が抜け落ちる瞬間。足元から力が消える瞬間。真実が届いたのではなく、世界の床が抜けた瞬間。
真琴は母親の腕を掴んだ。
「座りましょう」
母親は真琴を見ていない。
「私、何も知らなかった」
「今は、座りましょう」
「莉子、毎朝、笑ってたのに」
「藤咲さん」
「私に心配かけないように、笑ってたの?」
その言葉の直後、母親の体が崩れた。
真琴と鳴瀬が支えたが、完全には支えきれなかった。母親は玄関前の床に膝をつき、そのまま横に倒れた。
「救急車!」
鳴瀬が叫んだ。
職員が走る。
生徒たちは固まっていた。
誰かが泣き出した。
指さされた女子生徒の一人が「私じゃない」と繰り返している。男子生徒は呆然と立ち尽くしている。校長は顔面蒼白で、何かを指示しようとして言葉にならない。
真琴は倒れた母親のそばにしゃがんだ。
呼吸はある。だが意識はない。脈は速い。
「藤咲さん、聞こえますか。今、救急車を呼んでいます。ひとりではありません」
また、同じ言葉を言っている。
真琴はそう思った。
ひとりではありません。
だが、この人はたった今、自分がひとりだったことを知って倒れたのだ。
娘が苦しんでいたことを知らなかった。
学校が何かを知っていたかもしれない。
子どもたちが噂していた。
自分だけが、母親なのに知らなかった。
その孤独が、彼女を地面に引き倒した。
救急隊員が到着するまで、鳴瀬は生徒たちを校舎の中へ戻し、撮影された可能性のある動画を削除させ、教師たちに指示を出した。声は震えていたが、動きは正確だった。
真琴はその様子を見ながら、自分がまた間に合わなかったことを噛みしめていた。
やがて母親は担架で運ばれていった。
玄関前には、騒ぎの後の静けさが残った。
鳴瀬は壁に手をつき、深く息を吐いた。
「重体ではないと思います」
彼女は自分に言い聞かせるように言った。
「でも、倒れた」
真琴が言うと、鳴瀬は目を閉じた。
「はい」
「これは、町の呪いですか」
鳴瀬はすぐには答えなかった。
「呪いという言葉を使えば、少し楽になります」
「楽?」
「誰かの責任ではなくなるからです」
真琴は黙った。
鳴瀬は玄関前の床を見つめている。
「でも、今のは呪いだけではありません。私たち大人が、莉子さんの言葉を預かったまま、母親にどう渡すか決められなかった。子どもたちには怒りの扱い方を教えきれなかった。誰かがスクリーンショットを送った。誰かが叫んだ。それぞれの小さな判断が、あの人を倒した」
「真実の内容だけではなく、伝わり方」
「そうです」
鳴瀬は真琴を見た。
「この町で人を殺すのは、真実ではありません。真実を、誰かを孤立させる形で届けることです」
その言葉は、真琴の中で確かに形を持った。
大月慎吾は、酔ってひとりで叫んだ。
篠原美奈は、夫の言葉を逃げ場のない場所で浴びた。
藤咲莉子の母は、校門前で、群衆の視線の中で、娘の孤独を知った。
同じだ。
すべて同じ構造だ。
真実は、刃物である前に、落下だった。
受け止める人間がいない場所で渡された時、人はその重さごと地面に叩きつけられる。
放課後、真琴は鳴瀬と相談室にいた。
小さな部屋だった。丸いテーブルと、柔らかい椅子が四脚。壁には、季節外れの紫陽花の絵が貼られている。生徒が描いたものだろう。
鳴瀬は、藤咲莉子の母親が病院で手当てを受け、命に別状はないことを確認した。ただし、強いショック状態で、当面は安静が必要だという。
「美奈さんも、莉子さんのお母さんも、生きています」
真琴は言った。
「大月さんは死んだ」
「はい」
「違いは何でしょう」
鳴瀬は考え込んだ。
「完全には分かりません。でも、そばに誰かがいたことは大きいと思います」
「そばに?」
「美奈さんの時は、三枝さんが手を握っていた。莉子さんのお母さんの時も、あなたと私が支えた。大月さんは、誰も支えられなかった」
真琴は喫茶店の床を思い出した。
大月が倒れた時、町の人間は動かなかった。
あれは驚かなかったのではない。
もしかすると、動いてはいけないと体に染みついていたのかもしれない。真実を口にした人間を支えれば、自分もその真実を抱えることになる。だから誰も、最初の一歩を踏み出せなかった。
「鳴瀬先生」
「はい」
「あなたは、神さまを見たことがありますか」
鳴瀬は驚かなかった。
そのことが、答えだった。
「あります」
「白い狐面の?」
「はい」
「いつから」
「教師になって、この町に戻ってからです」
「戻って?」
「私は真噤町の出身です。高校から町外に出て、大学で国語教育を学びました。その後、戻ってきました」
「なぜ」
鳴瀬は窓の外を見た。
「言えなかったことがあったからです」
「有坂透さんのことですか」
「私は透さんを直接知りません。でも、私の叔母が当時、真噤中学校にいました。透さんの一つ上の学年です。叔母はずっと、あの事件を恐れていました。事故だと言いながら、事故ではない顔をしていた」
「叔母さんは今も?」
「町外にいます。もう戻ってきません」
「何か知っているんですね」
「たぶん」
「話してくれますか」
「無理だと思います。叔母は、真噤町の名前を聞くだけで体調を崩します」
また、言えなかった人間。
町の外へ出ても、町の沈黙は体の中に残る。
「神さまは、あなたに何を言いましたか」
真琴が尋ねると、鳴瀬は少し笑った。
「先生ごっこをしても無駄だ、と」
「それは」
「この町では、どれだけ言葉の使い方を教えても、大人が全部台無しにする。子どもは大人を見て学ぶ。そう言われました」
「腹が立ちますね」
「はい。だから続けています」
鳴瀬は真琴を見た。
「怒りは、使い方を間違えなければ燃料になります」
その時、相談室の扉がノックされた。
教頭が顔を出した。
「鳴瀬先生、少し」
廊下に出た鳴瀬の声は聞こえなかったが、教頭の焦った声は断片的に漏れてきた。
教育委員会。
保護者対応。
報道。
転校。
真琴はその最後の言葉に反応した。
転校。
しばらくして鳴瀬が戻ってきた。表情は硬い。
「学校は、藤咲莉子さんを正式に転校予定として扱う方向で話を進めるようです」
「いじめの件は?」
「調査すると言っています。でも、表向きは家庭の事情による転校です」
「また、そういうことにするんですね」
「はい」
鳴瀬の声には怒りがあった。
「でも今回は、そうさせません」
「どうしますか」
「まず莉子さん本人に会います。彼女が何を望むのかを聞く。学校に戻るのか、転校するのか、調査を望むのか、母親にどこまで伝えていいのか」
「本人が、何も言えなかったら?」
「言えないことも、意思です」
鳴瀬は静かに言った。
「ただし、言えないまま周囲が全部決めるのは違います」
真琴は頷いた。
その時、真琴のスマートフォンが震えた。
非通知。
昨夜と同じだった。
鳴瀬がそれに気づき、表情を変える。
「出ない方が」
「出ます」
真琴は通話ボタンを押した。
「三枝です」
しばらく無音。
その後、加工したような低い声。
「学校に関わるな」
「あなたは誰ですか」
「子どもを守りたいなら、何も聞くな」
「守るという言葉で黙らせるのは、もう聞き飽きました」
電話の向こうで、わずかに息を呑む気配がした。
「有坂透も、そうやって死んだ」
真琴は立ち上がった。
「あなたは、二十年前のことを知っているんですね」
「藤咲莉子を追うな。あの子の母親も死ぬぞ」
「死なせないために動いています」
「お前が来てから、何人倒れたと思っている」
言葉が突き刺さった。
大月慎吾。
篠原美奈。
八代誠一。
藤咲莉子の母。
「お前は真実を運んでいるんじゃない。死を運んでいる」
電話は切れた。
真琴はしばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。
鳴瀬が近づく。
「大丈夫ですか」
「大丈夫ではありません」
真琴は正直に言った。
「でも、止まりません」
「怖くないんですか」
「怖いです」
「なら」
「怖いから、止まれません」
鳴瀬は黙った。
「止まったら、全部が私のせいだったことになります。動いても、誰かを傷つけるかもしれない。でも止まったら、傷ついた人をそのまま置いていくことになる」
自分でも、理屈として正しいのか分からなかった。
だが、今の真琴にはそれしか言えなかった。
鳴瀬はしばらく真琴を見つめ、それから小さく頷いた。
「藤咲莉子さんの家へ行きます。同行しますか」
「はい」
学校を出るころには、夕方になっていた。
校庭の銀杏の葉が、風で舞っている。校門の標語が夕陽に照らされていた。
言葉は、人を守るために使いましょう。
真琴はその文字を見上げた。
守る。
この町で最も危険で、最も必要な言葉だった。
藤咲莉子の家は、学校から歩いて十分ほどの住宅地にあった。鳴瀬が事前に電話を入れたが、莉子本人は出なかった。母親は病院にいる。家には莉子ひとりの可能性があるという。
家の前に着くと、カーテンは閉まっていた。
鳴瀬がインターホンを押す。
返事はない。
もう一度押す。
しばらくして、玄関の向こうから小さな物音がした。
「藤咲さん。鳴瀬です。開けなくてもいいから、声だけ聞かせて」
沈黙。
「お母さんは病院にいます。命に別状はありません。今は休んでいます」
玄関の向こうで、息を呑む気配がした。
鳴瀬は続けた。
「あなたのせいではありません」
しばらくして、扉の向こうから細い声がした。
「嘘」
「嘘じゃありません」
「私が言わなかったから」
「違います」
「私が、言わないでって言ったから、お母さんが何も知らなくて。それで」
声が震えた。
「お母さん、倒れたんでしょう」
鳴瀬は扉に手を置いた。
「今、あなたが一人で全部背負う必要はありません」
「みんな言うんです」
「何を」
「莉子が学校来ないのは自業自得だって。私が悪いって。お母さんに言えないのも、私が悪いからだって」
「それを書いた人たちが間違っています」
「でも」
扉の向こうで、莉子は泣いていた。
「私も、そう思う」
真琴は胸が苦しくなった。
子どもは、大人より残酷な言葉を信じやすい。
自分が悪いのだと。
自分が弱いからだと。
自分が言えなかったから、誰かが倒れたのだと。
鳴瀬はゆっくりと言った。
「藤咲さん。今日は、何も説明しなくていいです。ただ、先生は明日も来ます。あなたが話したくなったら聞きます。話したくなければ、話さなくていい。でも、ひとつだけ約束してください」
「何」
「今夜、一人で決めないで」
扉の向こうは静かだった。
「転校するか、学校に戻るか、誰を許すか、誰を責めるか、お母さんに何を言うか。全部、今夜一人で決めないで」
長い沈黙の後、内側から鍵の開く音がした。
扉が少しだけ開いた。
隙間から、少女の顔が見えた。痩せた頬。赤く腫れた目。髪は乱れている。十四歳くらいだろう。
有坂透も、死んだ時このくらいの年齢だった。
真琴はそう思い、すぐにその連想を追い払った。
目の前にいるのは、藤咲莉子だ。
透の代わりではない。
過去の象徴でもない。
今、まだ生きている子どもだ。
莉子は鳴瀬を見て、それから真琴を見た。
「この人、誰」
「三枝さん。町のことを調べている人です」
「記者?」
真琴は少し迷い、答えた。
「元記者です」
莉子の目に警戒が浮かんだ。
「書くの?」
「あなたの許可なく、あなたのことは書きません」
「大人は、そういうこと言う」
「そうですね」
真琴は認めた。
「大人はよく、守ると言って勝手に決めます。私も、そういうことをしてきました」
莉子は黙った。
「だから今日は、何も聞きません」
「じゃあ、何しに来たの」
「あなたが今夜、一人で全部を決めないように」
莉子の目から、涙が落ちた。
鳴瀬がそっと言った。
「明日、また来てもいい?」
莉子は小さく頷いた。
「お母さんに」
「うん」
「私のせいじゃないって、言って」
鳴瀬は力強く頷いた。
「必ず言います」
扉は静かに閉まった。
外に残された真琴と鳴瀬は、しばらく何も言わなかった。
夕闇が住宅地に下りている。
遠くで、防災無線のチャイムが鳴った。昨日も聞いた音だ。昼間は平和に聞こえたが、夕方のそれは、町全体に蓋をする音のようだった。
「少しだけ」
鳴瀬が言った。
「間に合ったかもしれません」
「はい」
真琴は頷いた。
その時、道の向こうに白いものが見えた。
狐面。
電柱の陰に、嘘つきの神さまが立っていた。
鳴瀬も気づいた。二人は同時に足を止めた。
神さまは、拍手もせず、笑いもしなかった。
ただ、静かに言った。
「上手だったね」
真琴は答えなかった。
「でも、ひとり助けたくらいじゃ、町は変わらない」
「ひとり助けられなければ、町なんて変えられません」
鳴瀬が言った。
神さまは彼女を見た。
「先生は強いね」
「強くありません」
「じゃあ、どうして戻ってきたの」
鳴瀬は答えなかった。
神さまは次に真琴を見た。
「三枝真琴。分かってきた?」
「何が」
「この町の真実は、死んだ人間の中だけにあるわけじゃない。まだ生きている人間の中にもある。生きている真実は、死んだ真実より厄介だよ」
「だから扱い方を学ぶんです」
「学ぶ前に、みんな怪我をする」
「それでも」
真琴は言った。
「黙らせ続けるよりはいい」
神さまは、少しだけ首を傾けた。
「本当に?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
大月慎吾は死んだ。
美奈は意識が戻らない。
誠一は入院した。
莉子の母も倒れた。
真琴がこの町に来てから、確かに人は壊れている。
それでも。
「本当に、そうするしかないんです」
真琴は言った。
神さまは笑わなかった。
ただ、かすかに寂しそうな声で言った。
「そう言って、昔も誰かが壊した」
白い狐面は夕闇に溶けた。
残された真琴は、その言葉の意味を考え続けた。
昔も誰かが壊した。
それは二十年前の町のことか。
有坂透のことか。
それとも、河野雅彦のことか。
あるいは、真琴自身の過去のことか。
答えは出なかった。
ただ、ひとつだけ分かっていた。
真実を語ることと、沈黙を破ることは同じではない。
沈黙を破った後、そこに落ちてくるものを誰が支えるのか。
その問いから逃げている限り、この町ではまた誰かが倒れる。
鳴瀬が歩き出した。
「学校に戻ります。今夜中に、保護者対応と生徒への説明を組み直さないと」
「私も行きます」
「三枝さんは休んだ方が」
「休めません」
鳴瀬は少しだけ笑った。
「でしょうね」
二人は並んで歩いた。
町の家々には灯りがともり始めている。どの家にも、それぞれの沈黙がある。言われなかった言葉。聞かされなかった言葉。聞いてしまった言葉。取り消せない言葉。
真琴は思った。
この町に必要なのは、真実を暴くことだけではない。
真実が落ちてきた時、それを一人にしない仕組みだ。
それを作れなければ、嘘つきの神さまは消えない。
そして、真琴自身もまた、過去に書いた記事の前から一歩も進めない。
校門に戻ると、標語が闇の中で白く浮かんでいた。
言葉は、人を守るために使いましょう。
真琴はその文字を、今度は少し違う気持ちで見た。
言葉は人を殺す。
だが、言葉でしか支えられないものもある。
その両方を認めなければ、この町の夜は明けない。




